死を巡る性の神話(完全版)

「死」への疑い

 人はなぜ死ぬのか。
 自殺を問うているのではない。なぜ人には「死」が訪れるのか、なぜ人は「死」を免れ得ぬのか、と問うているのである。
 これはバカげた問いだろうか。
 もしバカげていると感じた人がいたら、どうか「死」の存在を合理的に説明してほしい。
 たとえば「死」の存在証明として、祖父は怪我で死んだ、祖母は病んで死んだ、と具体例を大量に積み重ねたとする。しかしそれは死因のリストを作っただけであって、この作業だけでは全ての人間に訪れる「死」の概念へと至ることは出来ない。なぜなら、過去の人間に訪れた厄災をどれだけの数リストアップしたとしても、その作業だけでは、今そこで生きている個人にも将来間違いなく訪れるであろう「死」の存在を証明したことにはならないからだ。つまり言い換えれば、もしも厄災すべてを除去できるなら人間は死なずにすむのではないか、と、そういう疑いを、リストアップ作業は完全に消すことは出来ないのである。
「それでも死はある。生まれてきたからには、人間は必ず死ぬ」
 と、確信を持って言えるのは、神話だけである。
 そして「神」の許されぬ近代にあっては、「死」の存在を語りうるのは「性」の神話のみである。すなわち「性」は「死」の代償である、と。そのことを、以下、論じてみようと思う。

『日本書紀』による人間の死
「死」を巡る「性」の神話の考察は、やはり本物の神話によって始めるべきだろう。
『日本書紀』の「神代 下 第九段 一書の二」に収められた話によれば、人間の死は、高天原から降りてきたニニギノミコトが美しいコノハナノサクヤビメ(木花開耶姫)とのみ交わり、醜いイハナガヒメ(磐長姫)を拒絶したことに起因する。もしこの時ニニギノミコトがイハ(岩)ナガヒメと交わってさえいれば、ニニギノミコトの子孫の命(あるいは人間の命)は岩のように永遠となり、サクラの花のような短いものにはならなかっただろう――。
 少々乱暴に要約してみたが、このような、人間の「死」の起源を石の拒絶と植物の受容として説明する説話はインドネシアにもあり、それによれば、神は石とバナナを与えてくれたのにバナナのみを選んだため、人間はそのバナナのようにもろく朽ちるようになったのだという。フレーザーによるこの「バナナ物語」を、松村武雄がその大著『日本神話の研究』でコノハナノサクヤビメの話に結びつけて以来、これら二つの話が強いつながりを持つことはほぼ常識となっている。
 しかし「食物」と「性交渉」の相手とでは、同じ選択の問題とは言え、発想のレベルが違いすぎるのではないか。もちろん松村武雄は周到にも、フレーザーの話を紹介した十数ページあとで「ケルン氏」による同じインドネシアの「石乙女」と「バナナ乙女」の伝承を紹介し、これもまた配偶者の選択であるとして、日本とインドネシアの二つの説話の差異を解消してしまう。こうなればもはやコノハナノサクヤビメの話がバナナの話に連なることに異論を唱えるのは難しい。
 ただしここで確認しておかなければならないのは、たとえ「バナナ乙女」を例示したとしても、それによって消えるのはインドネシアと日本の地理的な差異だけであるということだ。ここでは「食物」譚と「性交渉」譚の、いわば純粋な発想としての差異は依然として残っており、しかもこの差異は、「死」を巡る「性」の神話という視点からはかなり重要なのである。
 そこで、まず、「食物」譚と「性交渉」譚との差異を、ある架空の祖型からの距離だとしてみよう。
 印象としては「食物」譚の方が祖型に近いように感じられる。「食物」譚は筋が単純で登場人物も少なく道具立ても具体的であるのに、「性交渉」譚は配偶者選択と妊娠出産あるいは遺伝についての知識が前提とされねばならず、おまけに「石」と「バナナ」あるいは「花」もすべて名による比喩であり、理解するにはかなり高度な知的操作が要求される。したがって「食物」譚こそが祖型に近く、その発展した説話として「性交渉」譚がある、と、このような論理の筋道に無理はない。
 しかしこんどは素朴に考えてみよう。つまり神話を字義通り受け取ってみよう。もし神のくれるがまま、バナナと同じように「石」を食べていたとしたら。その時点で人間は死んでいたのではないか。すなわち人間が今ここに生きてあるのは、神の意志を無視して「石」を捨てたからではないのか。微妙なところだが、今のこの世では食べれば死ぬような物であるにもかかわらず、過去のある時点では食物の同等物として神によって差し出されたことのある、永遠を象徴する「石」という観念は、石のような女という比喩と比べてそれほど単純な精神の産物ではない。しかも、「食物」譚では、始祖個人が「石」を捨てたこと(原因)と、その子孫の寿命が有限になったこと(結果)とは直接には繋がらず、そこを繋ぐためにはある特殊な概念が必要となる。
 もし原因と結果の素直な結びつきを問題にするなら、子孫全ての生命が有限になってしまった原因として始祖個人の「性交渉」の過誤を持ち出す説明の方が素朴であるとしなければなるまい。なにしろ太古から子は親に似るものであり、親の「花」のような儚さを子孫が受け継いだとする説明には何の形而上的な概念も必要としない。
 このようにして素朴な読みで読み比べるとき、一見シンプルに見えながら、それでも、その因果を繋ぐ部分で特殊な形而上的な概念を要求してくる分、「食物」譚は、「性交渉」譚よりも、その世界観において複雑であるとしなければならないだろう。

「性」と「神」の等価性
 そしてここでいう因果を繋ぐ特殊な概念とは、もちろん「神」である。「食物」譚は形而上的で超越的な「神」の概念抜きには成り立たず、「性交渉」譚が形而下の素材だけで自立しているのとは全く異なる。もし「石乙女」や「イハナガヒメ」が女神だったとしても、この神たちはアニミズム的で汎神論的な「神々」であって、超越的な「神」との性質の違いは明らかである。この点からも、「食物」譚は、「神」という特殊な概念を得たのちに「性交渉」譚から派生したと考えるのが自然である――。
 実際には、このような思弁のみで祖型からの距離など測れるわけもなく、これは机上の計算であるに過ぎないが、ただ、この計算によって、「食物」譚と「性交渉」譚の差異、そして「死」を巡る神話における「神」と「性」の論理的な等価性は示しえたと思う。すなわち「性交渉」譚で因果を繋ぐのは「性」であるのに対し、「食物」譚では「神」がその役割を負っている。言い換えれば、「性」が因果を繋げば「神」は必要なく、逆に超越的な「神」の組み込まれた語りではこんどは「性」が排除の対象となる。つまり「性」と「神」は神話の中で等価な説明原理となっているため、相互に排除的に働くのである。
 と言っても「性」そのものに人格はあり得ないから、たいていは「神」が「性」を一方的に排除するのであって、そのあたりの性格は『聖書』に明瞭に現れている。旧約では人間が知恵の木の実を食べて「性」を知ったのは「神」の不在中であり、しかも「男」が「土」に還ることになったのはそのことがばれて「神」の怒りをかったからだという。ここでは、不在でもありうるという「神」の性格によって、「死」を巡る「性交渉」譚から「食物」譚への移行の筋道が示されてもいるだろう。また、新約のキリストはセックス抜きの「神」の子として生まれたが故に磔にされても蘇る。というより、キリストが「死」を免れているのは「性」を経由せぬ「神」の子だからである。『聖書』によるこの二つの説話からも、「死」を巡る言説での「神」と「性」の等価性、そして「神」による「性」の排除は十分に示され得るだろうと思われる。涜神が「性」の言葉によって行われるのも、この排除の帰結であろう。

「性」による「死」の起源
 それではなぜ、「死」は、「神」あるいは「性」の神話によって語られるのか。
 それは、冒頭でも示したように、「死」そのものが合理的思考の産物ではなく、神話的思考の発動によって得た概念であるからだ。
「そんなことはない。何をどうしたって、最終的に人間の死は遺伝子によって定められている。死は神話としてではなく、科学的にも実在する」
 と、現代的な思惟は反論するかもしれない。しかしここでいう「死」も、これは、「遺伝子」という名の「神」を持ち出して神話的思考を発動させ、その結果として得られたものではないのか。「神」が定めた、という言い方を、「遺伝子」によって定められている、と言い替えただけなのではないのか。もし科学の場に「神」はありえぬ、というのなら、先ほどの等価性と排除の原理に従って、これを「性」に置き換えてもいい。なにしろ「遺伝子」の受け継ぎを保障するのは「性」なのである。
 実際のところ、現代の生物学は「死」の起源を「性」の神話で語りつつある。確かに「性」を持たぬ原核生物(細菌など)は細胞の寿命を定めるプログラムを欠き、その「死」は常に厄災によってもたらされる。厄災を避け得た原核生物の個体は何億年も生き延びてきたし、これからも生き延びるだろう。その一方で「性」を得た真核生物は個的な寿命を定めるプログラムを「遺伝子」の中に持たされており、その個体はあらゆる厄災を逃れても必ず死ぬ。というより、真核生物の個体は「遺伝子」の乗り物に過ぎず、「遺伝子」から見たその価値は「性交渉」によって「遺伝子」をシャフルすることのみにある。つまりこのシャフルと次世代への「遺伝子」の受け渡しが済めば個体は用無しとなって「死」のプログラムが発動するというわけで、ここでは「遺伝子」の永続性を保障する「性交渉」こそが個体にとっての「死」の始まりとされている。
 これは現在での、「死」を巡る最も良くできた「性交渉」譚であろう。だがいくら良くできてはいても、それが神話であることは隠しようがない。なぜなら、まず、これは一回きりの歴史的事象についての仮説であり、バナナ物語やコノハナノサクヤビメの話と同じく検証は不可能である。しかも、これもまた合理的思考によって十分に解体可能である。現に合理的思考は「死」のプログラムをも厄災リストの一項目として扱い、すなわち、「遺伝子」の中の「死」のプログラム部分を取り除くことで同時に「死」をも除去できるのではないかと考え、実際に細胞レベルでは「死」の除去に成功しつつあるではないか。こうして、きっと「死」のプログラムさえも単なる厄災の一つとして扱うことで、合理的思考は遺伝子による「死」の神話を解体し、人間の「死」の存在をも合理的に否定してしまうことだろう。
 つまり、繰り返しになるが、人間の「死」の概念は合理的な思考によっては得られないと言うことだ。言い換えるなら、人間の「死」を巡る言説は、すべて神話である。

「神」亡き後の「性」神話
 近代に入り、少なくとも「科学」の世界では、説明原理としての「神」は死んだ。
 しかし「神」を殺しても、依然として人間もやはり死すべき存在である。
 なぜ人間がここにこうしてあり、そして死ぬのか? この問いに対する、しかも「神」に依らぬ近代的な説明が求められた。こうして「神」によって排除されていた説明原理・「性」が、新しい神話の中心概念として復活してきたわけである。
 そして現代的「性」神話の極北を成すのが先ほどの生物学による「死」の起源譚に他ならないが、ここでは、この神話の祖型を二例、合理的思考の側と、神話的思考の側、それぞれの対極を紹介しておこう。もちろん、そのどちらも「科学」の用語で語られている。
 まずダーウィン進化論。実はダーウィンも「神」を排除するのに「性」を説明原理として用いている。たとえばどれほど知力体力に優れ現代社会に適応した男でも全くモテなければ子孫を残すことは出来ないではないか。もちろん無限の時間の与えられた自然界であれば繁殖力での少々の差は生存力の差でカバーできるから、「自然選択」概念に「性」の要素は含まれない。しかしそれでも個的な形質を次世代に繋ぐ「性」の性質そのものをダーウィン進化論から排除することは絶対に出来ない。しかもダーウィンは『種の起源』とは別の著書で、個の生存力と無関係に見える性的二型性(性差)の進化を説明するのに「性選択(性淘汰)」概念をも提出しており、ここでは「性」が進化の中心概念となっている。ダーウィン進化論とは、徹頭徹尾合理的思考に貫かれた壮大で緻密な「性交渉」譚というべきだろう。
 その対極にあるのがフロイトの「死の欲動」である。生物はすべて無へ向かう本能「死の欲動」を持っており、それは「生の欲動」によって辛うじて押さえ込まれているにすぎない、と、フロイトはその著書『快楽原則の彼岸』でサディズムやマゾヒズムを概観しつつ論じた。このような、「石」と「花」を思わす「生の欲動」と「死の欲動」の対概念は神話的思考の産物として秀逸であり、「神」の排除による「性」の神話復活の端緒として実にふさわしいものであった。そしてフロイト以後、「死の欲動」はタナトスに、「生の欲動」はエロスにと、それぞれ微妙な読み替えがなされて現代思想に流れ込み、「性」の神話群により神話らしい相貌を与えることになった。そして現代生物学でいう「死」のプログラムが、フロイトのいう「死の欲動」の進化論的な語り直しであることは言うまでもないだろう。

人間にとっての「性」そして「死」
 考えてみれば、人間にとって「性」にまさる神秘や奇跡はあり得ない。あえて匹敵するものをあげるなら、それは造物主たる「神」の存在だけである。つまり逆に言えば、超越的な「神」よりほかに、原初的な「性」(生殖)信仰に取って代わるものはなかったのだ。そして「神」が死ねば? 等価性と排除の原理に従って「性」が復活するほかないではないか。結局のところ、近代における科学的な「性」言説は、まさに「神」の死によって噴出してきた「性」神話だといわざるをえない。
 だが、今、「性」を語りつつある人々に、自分が神話を語っているという自覚があるだろうか。たとえば、無邪気に、「遺伝子操作は神の領域を侵す」などと言ったとき、その人は「遺伝子」と「神」の等式がなぜ成立するのか、きちんと考えたことがあるだろうか。また、なぜ、性教育と宗教が軋轢を起こすのか、政治的裁断ではない説明ができるだろうか。
「性」神話が復活した現代ほど、合理的思考と神話的思考の協働による「性」の探求が必要とされている時代はない。ところが、皆、「性」を巡る科学的用語法に幻惑され、自ら神話的思考を棄てたつもりで、実際には合理的思考さえも眠り込ませ、古代の人々が神話に載せて伝えようとした「性」と「死」の密接な繋がりを見失いつつあるのではないか。
 たとえばいくつかの問題、なぜ、ある種の極端な「性」犯罪者は、目的のためには被害者どころか自らの「死」をもいとわないのか、あるいは、たとえ犯罪まで行かずとも、サディズムやマゾヒズムなどのように「死」への接近を儀礼化したような「性」がなぜ常態としてありうるのか。これらの「性」現象への合理的な説明は絶対に不可能なのであり、だからフロイトは神話的思考を発動させ、「死の欲動」を持ち出すしかなかったのだ。そしてその探求態度は間違ってはいなかった。たとえば現代生物学による「死」の起源説も、これは神話的思考と合理的思考の協働の成果であり、たぶん、正鵠を射ている。

まとめ
 我々の祖先、といってもそれがニニギノミコトなのかインドネシアの誰かなのか、あるいは原核生物であることをやめて真核生物になった一群なのか、それはわからないが、とにかくその祖先は「性」という「花」を選び、同時に「死」を得た。逆に言えば「性」は「死」の代償なのであり、だからこそ「花」のように美しくなければならなかったのだ。
「性」と「死」の絡み合いは、もっと神話的に、しかも合理的に、探求されるべきである。

参考文献
『日本書紀(一)』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注(岩波文庫 1994)
フレーザー『宗教民俗学 』比屋根安定訳編(誠信書房 1965)
松村武雄『日本神話の研究 第三巻』(培風館 1955)
大林太良『日本神話の起源』(角川選書 1973)
前田護郎責任編集『聖書』(中公バックス 世界の名著13 1978)
田沼靖一『死の起源 遺伝子からの問いかけ』(朝日選書 2001)
フロイト『自我論集』竹田青嗣編 中山元訳(ちくま学芸文庫 1996)
ダーウィン『人間の進化と性淘汰 T、U』長谷川眞理子訳(文一総合出版 1999)
エリアーデ『オカルティズム・魔術・文化流行』楠正弘, 池上良正訳(未來社 1978)


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