今回参加して、自分自身の考えが少し変わりました。それは理論的なことではありません。自分の実践に基づいた理論はしっかりと持ち続けたいと思います。ただ、それを固定化しちゃいけないなということです。
人の授業を見るときに、授業者の意図というものをどれだけくみ取れるか、そしてその意図を尊重した上で、自分の理論に当てはめて考えていく。授業を参観するときには、そんな態度が必要だと感じました。
今年度は、たくさんの授業を見る機会に恵まれています。はっきり言って、ダメな授業が多いです。「いったい何考えてんだ?」と感じると、すべてを否定してしまいがちですが、そこからは何も生まれてきません。
そんなふうに考えたのも、人とのよい出会いがあったからでしょうか。和歌山の人って、とってもあったかくてやさしいんですね。子どもをとっても大事にしている。しかも、ゆったりしていてせかせかしていない。
「ほな、研究会をはじめます〜」「ここは、こんなふうにしいや〜」
という言葉の印象もあるのかもしれませんが…。
和歌山駅で、ちょっとヤンキーっぽい夫婦が3歳ぐらいの子をメチャクチャしかっている場面に出会いました。頭をガツンガツンたたきながら何やら言っているのですが、全然とげとげしい感じがないのです。こちらの言葉で「うるせぇな、死んじまえ」なんて親が子どもに言ったら、聞くに耐えないほどいやな感じがしますよね。それが、「だまりィ〜、死んでまえ」だと、不思議にやわらかい。
体育に関係ないことばかり書いてきました。最後ぐらい少しは体育の研究のことに触れておきましょう。
研究委員長(筑波大学 佐伯聰夫先生)から、新学習指導要領についての基本的な考え方が示されました。簡単に言うと…
- 「健康」VS「体育」の戦いが展開されている。
- これまで圧倒的優位に立っていた体育が、健康におびやかされはじめている。
- その結果、運動の手段的性格が再び強調され、道徳的な内容が重視されている。
- 健康のために運動する、人間関係をつくるために運動する、マナー、教え合い、協力、など
- こうした改革の流れは、保健体育審議会の答申に基づいている。つまり、委員の考えに左右されている。
- 指導要領の性格上、それは完成された理論ではない。それを基礎として、自分たちの解決のしかたを実践を通して模索していく必要がある。
「考えることをやめるな」「常に熱く語り合え」と言っているように思いました。
私は、以前から
集団スポーツは、人間関係の学習だ!
と言ってきました。最近、この人間関係が取り沙汰されることが多くなりました。しかし、体育の人が言う人間関係って、結局は「その運動ができるようになるため」だけのものとしてしか考えないんですね。だから、現象面ばっかり重視して、「順番に一言づつアドバイスさせる」なんてことをさせる。だから、人間関係が運動する以前の問題になってしまう。
集団スポーツの特性に触れるためには、人間関係は避けて通れない。そのスポーツをやっていく中で人間関係をつくれなければ楽しめないものなのだ。これは、決して手段的だ、道徳的だと批判されるようなものではないのです。