集会メッセージ

新しいものばかりです。
古いものは「深谷こころの学校」をご覧下さい。
   まことの刈りいれを望んで
詩編126編 ヨハネ7:1-39 ピリピ1:3-11
 
農耕生活を営む文化には、多くの場合収穫を感謝し来年の豊作を願う祭りがあります。キリスト教においても収穫を感謝する日があり、“収穫感謝祭”と呼んでいます。収穫感謝祭は、地域や宗派によって日にちが違い、スイスの改革派教会では9月に行われ、イギリスの聖公会では8月1日に行われています。アメリカではピューリタン(清教徒)の伝統に従い、1864年にリンカーン大統領が11月第4木曜を国の祝日として定めました。日本の多くの教会は、このアメリカの風習を受け継いでいます。 収穫を感謝する祭りは、かなり古くから行われています。聖書の舞台であるイスラエルにおいても、麦の収穫祭として“七週祭(ペンテコステ)”と、ぶどうやオリーブの収穫を祝う“仮庵(かりいお)祭”を厳格に守ってきました。仮庵祭は、ぶどうやオリーブなどの感謝の供え物を捧げたり、雨乞いの祈りを捧げたりするのですが、イスラエルの民がエジプトを脱出し、荒れ野で天幕で住んだことを記念して仮小屋を建てて祭りの間そこを仮住まいとして暮すのです。祭りは七日または八日続きました。
 
収穫感謝ということでメッセージを考えていたのですが、しかし、農業的な収穫感謝というもので終わってしまうのならば何かを捉え切れていない、と感じ始めたところから今日のテキストが選ばれました。私たちにとって収穫とは何だろう?ということを考えて見たいと思うのです。
 
ヨハネによる福音書の七章八章には仮庵祭の様子が描かれています。イエスは七章のはじめに見られるように不信仰な兄弟たちからエルサレムで堂々と自分を顕わすように言われます。余談ですがヨハネ福音書では一貫して兄弟たちは不信仰な存在として書かれて名誉回復しません。これはヨハネ福音書がエルサレムのヤコブを中心とした主流派の教会とは批判的で一線を画していたためだと思います。それに対してイエスは一度は申し出を退けておきながら、出かけられました。これは二章のカナの婚宴の記事で母の提案を退けながら、水をぶどう酒に変える奇跡をされたのと共通しています。言われてではなく、自分自身の意思で主体的に能動的に行動するイエス、これがヨハネの福音書の描くイエスの特徴と言えます。
 
ご自分の意志で昇って行かれたイエスに対し、イエスを付け狙うユダヤ人たちは探索活動をしている。それに対してイエスは公然と堂々と、神殿の境内で教え始められる。祭司長とファリサイ人という普段は敵同士の人々さえ、結託してイエスを逮捕しようとする。そういう騒然とした状況の中をイエスは毅然として歩まれるのであります。
 
祭りの最も盛大に祝われる最終日、おそらく人手があり、ハイライトを迎える中で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(37節)と人々に言われました。それも危険を賭して、目立つように立ち上がって大声で言われたのです。どうしてイエスはそのような招きを行われたのでしょうか。仮庵祭は「水と光の祭り」であると言われます。カナンにイスラエル人が定着した後は出エジプト記17章に出てくる荒野で与えられた生ける水に結合して雨乞いの祭りになりました。そしてここでは祭りの期間中シロアムの池に行って水を汲み、神殿に運んで祭壇に注ぐ行事が行われていました。また光にかかわる祭儀もあったようです。これが余談ですが八章の「世の光」のテーマとかかわってきます。
 
イスラエルの人々は収穫を感謝しながら、故事に基づいて神の水を神殿で乞い求めている。しかし、神である私はここにこうして、あなたたちに生きた水を与えようとして来ている。昔の古い契約ではなく、今この私のところへ来て飲みなさい。ここに神のじれったい、凄まじい愛の求めを見るのです。私がここに来ている。この私のところへ来て私の与えるものを受け取りなさい。
 
イエスの与えるものは何か。それは飲めば渇いてしまうただの水ではない。私たちがイエスに結びつく。イエスの愛を受け入れ、イエスに徹底的に信頼する時に、イエスから命の水が流れ出すのと同じように私たちの体の中から命の水である、聖霊が流れ出すようになる。ごんごん湧いてきて回りに流れていって潤すようになる。したたるようになる。
 
そのような命の水の川の体験は象徴的なものとして薄めてしまう人も居ますが、私はそうではないと思います。クリスチャンであれば少しでもその体験があるとは思いますが、どうもそれが徹底していない、不足している、というところからそれは象徴に過ぎないという人が多いと思います。そしてそこで多くのクリスチャンとは、命の水とはこんなものだ、と座り込んでしまうわけです。
 
 しかし、歴史上にはそこで座り込んでしまわなかった人たちが大勢居ます。先日ふらっと出かけてきた救世軍の山室軍平もその一人です。救世軍の人たちはウエスレーの流れから、力を与えられる聖霊体験を何より大切にしてきました。軍平も伝道を始めた。しかし、力がない。これでは伝道は出来ない。そこで富岡の別荘に篭もって断食して祈る。その末に聖霊の力を与えられて、伝道と社会事業に尽力し大きな働きをしたのは周知の通りです。
 
 伝道をしようと志せば、すぐに自分の壁に当たります。実践に本気に取り組めばやはり同じように壁に当たります。愛することの出来ない壁、自分の力ではどうにも手を動かすことの出来ない壁、自分で祈っても「自分が」祈っている限りは限界が訪れます。しかし、渇いている人、渇きを覚えている人はそこを突破していこうとします。魂が渇いてたまらないのですから、こんなものだ、とは言えないのです。
 
私が魂の深い渇きと危機に襲われたのは現場を退職する頃でした。自分が能動的に神の力を借りて愛そう、愛したいというのがその頃の私のモードでした。私はヒューマニストであり、理想家だった。神は私を助けてくれる存在だったのです。しかし、私は自分に現場で絶望しました。愛の一振りすら出てこない自分に出会わされたのです。その時に私の体験した神の恵みについては語ってきたと思います。私の求めに応えて神が触れて下さったのです。私は本当に神の愛と優しさに触れました。世界がその時から違って見えてしまった。その時も聖霊体験だったと思います。その時から私は水を飲んだものがより一層水を求めるように神に突っ込んでいきました。一年位して、もっと力が欲しい、もっとと求めていると今度は異言を伴った聖霊体験が与えられました。中高生を教えている時も求めを繰り返していきました。その度に与えられていきましたが、一番四十歳の危機に陥った後で本当に真剣に求めて按手礼を受けた後で、すごいことになりました。
 
 
振り返って見て思うのですが、人間は時々に次々と渇きを与えられます。渇きを覚えるのは信仰を持たない人だけではありません。渇きのあるのは水をキリストにぐっと近づいて飲むべきサインです。按手礼の後私は何年間も本当に聖霊の愛と満たしがあふれ出る体験をしました。渇かないのです。しかし、最近また、渇きを感じるようになりました。満たしはあります。しかし、より力が必要だと感じるのです。
 
イエスの味わって欲しい収穫とは、ご自身と直結することによる本当に聖霊に満たされた生き方、そしてそれが回りに波及していかざるを得ないあり方でありました。私は私自身の固有の「きよめ」の段階を生き、そして与えられた実りが皆さんでした。私は本当に皆さんのことでパウロのように感謝を感じます。
 
皆さんもどうか、渇きを大切にしていってください。まことの刈り入れは渇きから生まれます。渇きを与えられた神は皆さんの渇きを癒す道を必ず備えておられます。どうか、恵みに座り込まずに信仰生活を送ってください。
 
更新日時:
2006/12/26
   神のわざとしての伝道 
イザヤ55章マルコ4:26-32 使徒言行録10章
 
今日は角度を変えて伝道ということについて、みなさんと考えて見たいと思います。伝道というのはなぜ、しなければならないのか。今でもそういうクリスチャンはいますが、伝道は押し付けであるとか、自分だけが真理を持っているという思い上がりであるとかいう議論がなされたりします。
 
 果たしてそのようなものなのか。みなさんの実感の中でそのようなものではない、と感じ始めている方がいらっしゃると思います。それは自分が体験して嬉しかったから、他の人にも体験して欲しい。そんな動機から始まるものだということです。自分の体験を語りたい、語らずにはおられない。自分の中に入ってきた神の愛が素晴らしくて仕方がないから自分だけで終わらせるのはもったいない。誰かにも味わって欲しい。あるいは自分がつかんだ生き方の芯、これだというものを他の人にも持って欲しい。そんな素朴なことなのだと思うのです。自分が食べておいしかったものを勧めることがあると思います。その時にはそれは相手の好みもありましょうし、予算もある。そういう都合はありましょうから絶対に食べなさいとはいえないが、食べてみて、行って見て、といって勧めます。
 
 このような喜び、伝えずにはおかれない喜びを、福音がもたらすのは何故なのでしょうか。私はここのところあなたたちの受洗にかかわってみて、感動していたことがあります。本当に福音は人間の中に蒔かれたら、それ自体が芽を出し、育ち、人間を変えていく力があるということです。さきほどのマルコにあるように種というのは蒔いている時には硬い小さい何物かに過ぎません。昔教会学校の先生がからし種を持ってきてくれたことがあります。マツバボタンの種ほどの小さい種なのです。それを人が土に蒔く。土に蒔くことは確かに労働です。しかし、蒔いてしまえば土はひとりでに実を結ばせる。私たちは確かに労働しましたが、思いもよらない形で福音はみなさんの心に芽吹いた。思いもよらない形で成長もする。福音の種自体がそのようにプログラムされているからです。人の心に入り、喜びをもたらし、そこで芽吹き、根付き、成長する。そのように神がプログラムして下さったものだから、です。皆さんの喜びがあるのはそれが神の福音の種自体を創られた営みの中に皆さんがすつぽりと覆われて、置かれているからなのです。
 
 
 旧約聖書のイザヤ書55章を見ますとそのことがもっと明確に書かれています。私たちはただで御言葉を貰う。金を払うこともなく、です。そこで私たちの魂は喜びを感じる。豊かさを楽しむ。命を得ることが出来る。5節以下はユダヤ人にとっての異邦人伝道の預言と読むことが出来ますが、私たちにとっての他者への伝道とも読むことが可能でしょう。八節以下、神の人間を救いたいという願いはまことに強く、人間には計り知れない。神は不誠実なパートナーである人間に対して、どこまでも誠実であろうとされる方です。一度伝道の命令を出されたなら、それは虚しくは神の元に帰らない。何も果たさずに費えてしまうことはない。伝道者である種まきに種を与え、芽を出して収穫を得てそれを喜ぶ人たちがいる。必ず使命が果たされるようにしてくださる。12節以下はそれに対する私たちの喜びが約束されているのです。
 
 また、神が人間を救われる方法も人間の予測を強く超えている。私たちはお話したかもしれませんが、聖霊体験で受洗する人が出てくるとはこの教会で予想していなかったのです。しかし、その予想は覆された。そのようなことは始終初代教会でも起きてきたことでした。今日読んだ使徒言行録のコルネリウスの話です。彼はローマの軍人で百人の部下を持つ人でした。しかし、彼は「神を畏れる人」でした。この独特の表現は単純に異教の神々に敬虔な人、というのではありませんで、外国人でユダヤ教に改宗出来ない−割礼の問題があるので−がユダヤ教シンパだった人ということです。そのような人々が数多く地中海世界に居て、キリスト教を受け入れた最初の異邦人となっていったことが知られていますが、彼もそのような人でした。
 
 その当時教会はユダヤ人にしか伝道していなかった−のですし、ユダヤ教の中にとどまっていて、自分たちはユダヤ教徒であると自認していたのです。そのような使徒たちの一人ペテロに幻が現れて、律法の食物規定違反の肉−レビ記11章にある−を食べなさい、というのです。そこでペテロが反抗すると、神が清めたものを清くないなどといってはならない、という声がします。コルネリウスから使いが来て伝道をすると、今度は異邦人にも聖霊が与えられてしまった。ペテロにしてみればそれはありえないこと、ペテロをはじめ、ユダヤ人教会にとっては予定外、予想外のことでした。そこで洗礼を授けないわけにはいかない。異邦人のクリスチャンの誕生です。この後ユダヤ人教会の方はエルサレム陥落と共に衰退してしまって、異邦人教会が大きくなるのは歴史的事実ですが、それを知る由もペテロにはなかったはずです。しかし、この事件による路線変更がなかったなら、キリスト教会自体が歴史の中に消えていったのかもしれません。
 
 このようにして自分たちの計画を変えさせられる。自分たちが主体的に考え計画し、予想していた効果、成果というものを超えた神の思いが自分たちの中に介入し、呈示され、それと共に動いていくようにさせられる。私たちが何かをしようとするときに、分析し、計画し一定の効果を予測します。ペテロたちにとってはユダヤ人への伝道のみが計画のうちであったでしょう。そして一分派としての自分たちがやっていくことしか予測できていなかったに違いありません。そのために祈りもしたでしょう。しかし、ある日突然事件が起きたときに宗教民族ユダヤ教を乗り越える方向に動き出させられる。聖書の神の介入は人間の外側から突然やってきます。人間の想定外の形で、また方向に向けるよう介入される。私たちの伝道の営みもそのようなことを覚悟しなくてはならないわけですし、それが喜びでもあります。神が自分の予想を超えて働かれる時、本当に喜びと生きておられる神への畏れが与えられます。
 
  伝道は神ご自身のイニシアチブを取られる業です。私たちは種まきの労苦が多いときにそれが見えなくなりがちです。自分たちはただ無駄に骨をおっているのではないのだろうかという思いに支配されそうになります。しかし福音の種を用意されたのは神ご自身です。そのために十字架において一番犠牲を払われたのも神ご自身です。そのような神の熱心が支えているのが伝道の業なのです。神の命じられたことは虚しく神の御許に帰る事はない。その御言葉に全幅の信頼をおいてまいりましょう。
 
更新日時:
2006/12/26

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Last updated: 2007/9/21