集会メッセージ

新しいものばかりです。
古いものは「深谷こころの学校」をご覧下さい。
   格闘技としての信仰 8.20  深谷
創世記32:23-33フィリピ4:6-7ヨハネ16:23-24
 
  信仰というものについて、私はこれから皆さんたちとこれからしばらく、今までと少し違った側面から見て行きたいと考えています。今までの信仰を「信頼の信仰」というならば今度は信頼に基づいた「求める信仰」とでも言うべきものなのかもしれません。
 
キリスト教の信仰はとてもダイナミックなものであり、それは神との信頼関係とその形成過程であり、「あらゆる人間関係で体験されることと同じことが神との間で経験される」といってもいいでしょう。あなたはまず自分を本当に心から愛してくれる人、あなた自身も愛して信頼しようとしている人との関係を思い浮かべて下さい。その人と交わりを深め信頼関係を深めていくために何を経験したらその人との信頼関係が増されるでしょうか。
 
 ただ楽な状況で耳障りのいいことをお互いに言っているだけでは信頼関係は深まりません。神様に感謝することは大切なことです。賛美するのもそうです。しかし、それだけでは信頼関係は深まりません。適当な距離を取って、納得できない、信頼できないのに委ねる任せると多くのクリスチャンは言います。それを賞賛します。信頼とは放任や諦めではないのにそれと間違えます。その人とのあるべき関係性を定義に表して繰り返し読んだら出来るでしょうか。信頼すべきであると書かれていてそのとおり納得すれば出来るのでしょうか。
 
 逆にたとえばその人と大変な状況で苦労すると信頼関係は深まります。大変な状況で共同で状況に取り組めばきづなが出来上がります。納得出来ない時にはしっかり目を見てホンネを言ってぶち当たると、信頼関係は深まります。交渉したり、その末にこちらが折れたりすることでがっちりした信頼関係が出来上がります。しかし、そういうダイナミックな信頼関係に進めるクリスチャンはそれほど多くはありません。
 
 旧約聖書の預言者や神の人たちには多くのダイナミックな信仰の持ち主がいます。私はそういう点で旧約聖書の中の人たちの信仰が好きです。彼らはそう簡単に神の前で折れないのです。ヨブ記のヨブはそういう人の筆頭格でしょう。自分が理不尽にも与えられた苦しみについて、納得できないと言い続けて、最後には神ご自身を答として受け取ります。納得できないと言い続けた彼の信仰は評価されています。
 
今日お読みした創世記のヤコブもそうした人の一人です。ヤコブはイスラエル人の父祖であるアブラハムの孫にあたります。この人は本当にずるく、性格の悪い、いけすかないところのある人物です。ヤコブという名前は「アーカブ」という言葉との語呂合わせだそうで、「足をひっぱる」生まれたときに兄のかかとをつかんでいたので、という名前になっていました。日本語と同じように「足をひっぱる」は騙すという意味があるようです。その名前の通りに彼はお兄さんのエサウを騙して、長男としての権利をうばってしまいました。そして兄に殺されるのを恐れて旅立ち、その後苦労を重ねるのです。
 
「ヤボクの渡し」という場所での神との組討ち、つまり祈りによる格闘の記事が今日の記事です。彼は一人夜明けまで何者か、と格闘する。真正面からの命がけの組討ち、死闘です。ヤコブは自分がエサウに殺されるかもしれないという死の恐怖を神に訴え続け、存在を賭けて祝福を求めて闘ったのでしょう。
 
その人はヤコブに勝てないと見て、ももの関節を外す。それでもヤコブはつかんで離さない。祝福して下さるまで離しません、と主張する。勝って相手である神から祝福をもぎとろうとする。
 
ここで彼は自分の意志を押し通しただけなのでしょうか。そうではありません。相手はヤコブの名前を聞くがこれは自分の本質を曝すことです。神の前に立ち組討する時、人は自分の本質を裸に曝されるしかありません。それが神のまえに立つ人間の本分なのです。彼は自分を曝して裸にされて神と組討をする。そして「イスラエル」という名を与えられる。名前を変えさせられるということは人間として全く新しく変えられる、ということです。人間は同じであることは出来ません。この名前は「神は争う」という意味ですが、「神と闘う」という意味で理解されています。彼は本質を変えられ、神と共なる新しい人間として力を得て進んでいったのです。もう騙すもの、ヤコブではなくなったのでした。
 
また、神と顔を合わせた人間は死ぬと考えられていましたが、彼は祈闘して神と顔を合わせてがっぷり四つに組んでも死ぬことはなかったのです。祈りとは神とガップリ四つに組んでいくことが許される道、どんなに組討してもよい許された、祝福された道なのです。
 
ここで学んで欲しいことはまず、神とがっぷり四つに組む祈り、格闘技としての祈り、ということの重要性です。神と死闘するということ、これは神に喜ばれることなのだ、ということです。人は神に向かって自分の意志をぶつけることが許されている存在なのです。遠くに離れて納得していないでください。これをお願いします。あれをお願いします。自分を賭けて死闘するのです。一晩祈ってみてください。二晩祈ってみてください。本当に大切なことなのなら、そうすることが出来るはずです。何食か断食して祈ってもいいです。
 
ここで棄てて欲しいのは何かを求めるのはご利益信仰ではないか、という思いです。日本人のクリスチャンは誰も彼もそういいます。しかし、そうではない。洗礼を受けて私たちは神のものになった。全身全霊神のものだ。神と愛の交わりに入った。特別な関係に入った。心から愛する方に信頼関係をもとにして大事なことをお願いするのはご利益信仰とはいいません。死ぬのも生きるのもイエス様のため、本当に信頼している。だから、本気で願い求める。それはご利益信仰ではありません。
 
次に神とガップリ四つに組むということは自分が素っ裸にされ、自分の人間性の限界を見せ付けられ、赤裸々な姿で神の前に立たせられるということです。神との組討はそのプロセス自体が私に新しい名前を与える、つまり私を新しく作り変えます。悔い改めを必ずさせられます。ヤコブも自分がエサウにしてきたことを悔い改めさせられたかもしれません。自分の無力さを申し述べることもさせられます。しかし、そのようなプロセスの中で神と共に歩むことはどういうことなのか、の阿吽の呼吸が分かってきます。本当に無力で自分の力が足りない、と訴えたところに神の手が入ってくるのを体験するからです。神と共に生きる新しい私のアイデンティティーが生まれ、自分の弱さを抱えることが出来るようにもなってくるのです。あなたが変えられたいと願うなら、ガップリ組んでみなくてはなりません。
 
更にガップリ四つに組んで知ることが出来るのは、神ご自身がどのような方であるのか、ということです。神を見たとヤコブはいいますが、見たといいうるほどに、神をリアルに体験して知ることが祈りを通じて人間には許されている。そういう知り方をすることが本当に人間には許されているし、求められても居るのです。神はあなたに自分を知ってほしいと願ってくださっているのです。
 
祈り求めて与えられるとき、その時には自分の中から限りない喜びがあふれだしていくことを体験させられます。それは自分の内的な問題であった筈のことが三次元の現実に飛び出してくる喜びです。自分が聖書を通じて神との内的な事柄として体験していたことが、現実である。単に心の問題ではない。すごいことです。本当に神はおられる。神はおられるのだ。それがどれほど小さなことでも、ものすごいインパクトを持っています。
 
一つ小さな証をしましょう。妹は四十二になりますか、十五年前位に結婚しました。結婚式は母校の関東学院教会でしました。結婚式の当日超大型の台風が接近していて、暴風雨でした。天気予報は直撃を告げていてよこなぐりの雨で傘がさせない、といっていました。朝から暴風雨でしたが私にはささやかな一つの願いがあったのです。妹が教会の階段を下りてくる時に、日差しの中をライスシャワーの中を浴びさせて祝福してやりたいということでした。前の晩から真剣に祈りました。支度をしていても祈りました。結婚式中も祈っていましたが、結婚式を終えて彼女たちが出てくる前に外に出てみると、陽がさしているのに気づきました。嬉しくてチャペルの外を感謝しながら何回も回りました。陽がさしていたのは十分ほどで、すぐに横殴りの雨に戻りました。不思議なことでしたが、その時に感じたのは天の父が本当に私の神、天の友でいてくださる、ということでした。祈りもとめて与えられるのは求めたことだけではない、神ご自身なのです。それが祈りの喜びということなのです。
 
祈りの経験を積まないでクリスチャンとして成長することは出来ません。大きなこともそれから手をつけたのでは出来ません。本当に小さなことでも真剣に祈り求めて見て下さい。それはあなたを変えることが出来ます。神の実在があなたを変えます。小さな祈りの経験を積みはじめてください。
 
 
更新日時:
2006/08/21
   「イエスの弟子になること」7.23
イザヤ書45章20節〜25節 コリント書第二、13章5節〜13節 マタイ福音書10章34節〜40節、11章28節〜30節
 
 私たちが本当にキリストの弟子となるためには、信仰生活の中で「イエス・キリストを主とする」ということをしっかりと考えなければなりません。人は皆、生き方の中心に何かを置いているものですが、その中心にあるものによって毎日の生活が変わってきます。私たちクリスチャンにとって明確なのは、私たちの命の中心にあるものは、「主イエス」だけであるということです。皆さんは、すでに洗礼によって主イエス・キリストのものとなった人たち、さらに主イエス・キリストのものとなろうと決意した人たちです。一度救い主イエスと出会った人は、自分の中の人間性が変えられます。
 
神様との出会いによる自分の変化については、すでに洗礼を受けてクリスチャンとなった兄弟たちの証しから教えられます。彼らの証しの中には、洗礼を受けてクリスチャンとなった今、これからの自分は神に対して七転八倒しながら神の器になりたい、神の意志によってすべてが動かされ、神を軸とした態度を持っていきたい、神の愛を主軸とした人とのつながりを願っていきたいという切実な告白がありました。自分の存在そのものを神様の器として献げたい、神の愛と意志が自分の人生の軸となるように生きていきたいという願いは、証しをする者たちの人格の奥深いところに主イエスの手が力強く入っていることの証拠となります。ここに、神様によって代価を払って買いとられ、造り変えられたクリスチャンの生きた証しがあります。
 
 私たちは一度主イエスに救われたのならば、いつでも、どこでも、どんな時でも、主なるイエス・キリストに従っていかなければなりません。なぜなら、聖書は、神の前に立たされている人は、神の国とその義とを第一に求めなければならないと教えているからです。ヨハネ福音書15章5節でイエスが教えている大切なことは何でしょうか。それは、私たちがイエスから離れず、イエスの中に、イエスのもとにとどまっているということです。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」。私たちは、ヨハネが語っているように、主イエスから離れては何もすることができないのです。しかし主イエスの中にいるなら、多くの実を結ぶことができます。使徒パウロは、エフェソ書3章20節、21節で次のように祈っています。「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が世々にわたって永久にありますように。アーメン。」パウロは、神は私たちの内に働く力によって、私たちの願うところや思うところの全てを越えて豊かに働かれるお方であることをよく知っていました。また、イザヤ書40章11節では、神は神の民に対して、羊飼いのようにその羊を飼い、御腕に子羊を引き寄せてふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導くように世話することの約束が述べられています。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」。
 
私たちの中には、私たちを心の底から力強く愛してくださる主イエスが生きておられるのです。しかし、私たちは信仰生活を送る中で、自分自身が主イエスに近づけさせられるにつれて、主イエスに対する恐れを抱くようになることがあります。たとえば、自分のこれまでの世界の中で神様のおられる場所が大きくなってくる時、今の自分の環境を変えられることを嫌だと感じることがあります。自分の将来や生活の見通しが外側からも内側からも変えられることは、誰であれ最大の脅威でしょう。なぜなら、自分の計画や自己実現がつぶされそうになることは、抱いている希望が窒息することだからです。でも、皆さんが主イエスとの関係でそのような苦しさを覚えるのならば、主イエスはそれだけ皆さんの中に入り込んでおられるという証拠なのです。それは、洗礼を受けるまではまったくなかった苦しみや悩みであるはずです。葛藤のある場所に、皆さんを救う主イエスの場所があると言っていいでしょう。もし自分の中に、自分と対立するイエスという神がおられるならば、その神はその魂に対して徹底的に向き合うことを望んでおられます。もし自分が、その神が出される命令に対して敏感になっていたり過敏になっているとしたら、その魂は、神の命令に敏感に対応させられることが示されている、ということです。主イエスという神は、信じる私たちに対して、苦しみを与えながらジワジワと近づいてこられるかのようです。
 
  マタイ福音書10章34節〜40節を読みますと、主イエスがこの世の人々のもとに来た意義が書かれてあります。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者はそれを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。10章34節以下では、34節〜35節で主イエスがこの世に来たこと−「わたしが来た」ことの説明が三回も繰り返され、イエスのこの世の存在意義が集中的に述べられています。イエスに従う者たちは、イエスと共に生きるためにふりかかる運命があることが書かれています。「剣」は一方で迫害者が信仰者に向ける剣であり、他方、信仰者の持つ信仰の力を象徴します。続けて37節〜38節では、「ふさわしくない」が三回繰り返されて、イエスに従う弟子の覚悟が促されています。
 
 イエスは、一匹の羊の命は九十九匹の羊に勝ると教え、愛の尊さを教えにこの世に来られました。
しかしその教えは受け入れられず、最後にイエスは処刑されてしまいます。この歴史的な事実は、福音が現実には対立と痛みを引き起こすことを示していて、イエスに従う道は単純な平和の道ではないことを教えているのです。もちろん最終的にはイエスによる平和は与えられるのですが、その前に通るべき厳しい苦難の過程があり、犠牲も払わねばならないのです。それが、38節の「自分の十字架を担え」というイエスの私たちに対する命令なのです。しかし、自分の十字架を担う道は、厳しく傷つく道であるけれども、この世の絶望とはまったく異なるものです。主イエスは次のように私たちに約束してくださいます。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」くびきというのは、二頭の家畜を並べて歩ませるために家畜の首に掛ける鉄の道具なのですが、主イエスと共に掛けられる鉄の道具は軽いのだと言います。11章29節、30節のイエスの言葉は、放縦な生活を廃棄して、イエスと並ぶ同行者として「わたしのくびき」につながることを求めています。それは彼の弟子となって従うことであり、それがイエスの言う「休み」なのです。
 
  主イエスの道に従う道は、首に鉄がつながれる厳しい道であるかもしれません。しかし、首にかけられるそのくびきは、実に善いものであって、私たちに本当の「休み」を与えるものであるとイエスは語っておられるのです。かつて、キリストを信じる前の私たちは、どのような状態にあったでしょうか。エフェソ書2章1節以下では、以前は、私たちは過ちと罪のために死んでいたのでした。しかし、神は憐れみ深く、わたしたちをこの上なく愛してくださり、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かしてくださったのでした。また、聖書が伝える罪と死に打ち勝つ勝利とは何だったでしょうか。第一コリント書15章56節〜57節で、主イエス・キリストによって、わたしたちは罪と死に勝利することができると言われます。イエス・キリストにある勝利は、ヤコブ書4章7節では、神に服従することと、悪魔に反抗することです。また第一ヨハネ書5章5節によると、イエスに対する信仰のゆえにイエスは私たちに、わたしたちが世に打ち勝つようにしてくださいます。
 私たちが以前の悪い状態から新しく生まれ変わることができたのも、罪と死に対して勝利できたのも、すべて「主イエス・キリストによる」ものなのです。私たちは、もし今の自分に主イエスがおられなければ、主イエスを受け入れる以前よりももっとひどい状況に置かれていたことが容易に予想できます。主イエスの命令を真剣に受け入れ、主イエスの命ずる通りに自分が生きることで初めて、現在の自分に生きる力と希望があるのです。私たちの命と私たちの全存在は、神様のもとにのみ立っているということなのです。だからこそ、箴言28章13節は、私たちは罪を告白し、その罪を捨てるほうがよいと勧めているのです。罪を告白して捨てるならば、神から憐れみを受けるからです。第一ヨハネ書1章9節では、私たちが神の赦しを得て罪と不義から清めていただくために、自分の罪を神の前で言い表さなければならないと言われます。私たちが神に罪を言い表すとき、神は私たちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださるからです。
 
 
 神様は、イザヤ書45章の預言の言葉において、「正しい神、救いを与える神は、わたしのほかにはない。地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない(22節、23節)」と、神の民に向かって語りかけておられます。使徒パウロは、神からの呼びかけを真剣に考えてコリントの教会の人々に熱心に語りました。コリント書第二13章「(5節)信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」。ダビデが記した詩篇18編1節〜3節では、ダビデは主を「わが力」と呼びました。「彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。主はわが巖(いわお)、わが砦(とりで)、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾(たて)、わが救いの角(つの)、わがやぐら。ほめたたえられる方。この主を呼び求めると、私は、敵から救われる」(詩篇18編1節〜3節)。
 
  主を呼び求めると、私たちは救われるのです。かつて私たちは、主を呼び求めたから救われたのでした。
この救いは同時に、この世においてはくびきともなります。しかしこのくびきによって、私たちは生きるこ
とができるのです。マタイ福音書の中で、イエスは弟子たちに対して、「わたしはあなたがたを遣わす。そ
れは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ(10章16節)。」「人々を恐れてはならない。覆われている
もので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである(同26節)」と
語られます。神による真理とは、この世においては重いものです。でも、私たちはこの重い真理によっての
み魂が救われた者たちです。この重い真理を背負って生き抜くだけの人生が、主イエスが本当に求めておら
れる弟子の姿なのであります。
 
 
更新日時:
2006/08/21

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Last updated: 2007/9/21