集会メッセージ

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   燃え盛る炉の中にまで  ダニエル3:1-30
 旧約聖書の有名な物語から学んでみよう、というのが最近私の一つの狙いでメッセージをしています。ダニエル書の舞台はイスラエル人たちが前六世紀にバビロンに囚われていた時のストーリーとして語られていますが、実際には紀元前二世紀位、ユダヤ人たちがシリアのセレコウス朝の統治下にあって、イスラエルのヘレニズム化政策を進め、神殿の財産没収をしたりという、ひどい信仰の弾圧と蹂躙を受けていた頃に信仰を励ます目的で書かれたと言われています。
 
 ダニエルという人はバビロンの宮廷に連れて行かれた王族の一人として描かれています。そして王の見た夢を解き明かし、獅子の口から救い出され、終わりの日の幻を与えられる旧約聖書の中でも特異な人物として描かれています。ダニエル書はヨハネ黙示録に影響を与えています。
 
 さて、三章の主人公はダニエルではなく、シャドラク、メシャク、アベドネゴというユダヤ人です。彼らはダニエルと一緒に捕虜となった王族と貴族の中から選ばれた宮廷に使えるのに相応しい容姿端麗で知恵の優れた少年たちでした。彼らは名前をハナンヤ、ミシャエル、アザルヤから変えられてさえいたのです。
 
 おそらく王は姿の良い貴族の師弟を拉致し、バビロニアの最高水準の教育を受けさせ、名前も変えさせて徹底した同化を狙っていたのだと思われます。戦争中、日本は台湾や韓国で創氏改名政策を取りました。韓国等は数千年族譜という系図で自分の祖先が分かっていることが普通ですから、日本名に改めさせられる、ということはどのような屈辱であったか、測り知ることが出来ません。また日本の教育を受けさせ、徹底した皇民化政策をとっていましたから、洋の東西を問わず為政者のすることの同質性に驚かされます。具体的にこのダニエル記の書かれた頃はそのようなヘレニズム化された教育を授けるギムナジオンとフェビアという教育機関が創設されていました。
 
その中で彼らは自分たちの信仰を失うことなく、また、異教社会の風俗習慣に流されることはありませんでした。宮廷の肉類と酒で宗教的にも道徳的にも退廃することを拒みました。実際に書かれた時代にはユダヤ人は自分たちの律法の食物規定を守ることを禁止されるような厳しい状態にありましたから、書かれた時代の状況を如実に映していると思われます。
 
そのような中でバビロンの王は一つの巨大な偶像を作り、礼拝することを統治下の人々に強制します。像の高さは60アンマといいますから、30メートル近い像です。奈良の大仏は15メートル、鎌倉は12メートルしかありませんから、如何に大きなものを作らせたのか理解できると思います。実際に書かれた頃にはエルサレム神殿にゼウス像を造るという暴挙があったようですから、この話もそれを映しているものと思われます。行政官になっていた三人は金の像を拝まなかった、つまりユダヤ教の信仰を守っていた故に訴えられ、王の前に引き出されました。
 
金の像を拝まないなら、燃える炉の中に投げ入れるといい渡されたわけです。三人は決然とした態度で王に答えます。答えの内容はまずは神は忠実である自分たちを救ってくださるという信仰とそうでなくとも、自分たちは神に忠誠を尽くす、という告白でした。
王は血相変えて怒り、炉をいつもの七倍熱く燃やすようにいい、投げ込んだ兵士たちでさえ、焼け死んだと書かれています。三人は縛られたまま、炉の中へ落ちていきました。
これで通常はおしまい、であると思われるでしょう。状況は絶望的です。ところが、です。王が炉の中を覗き込んでみると、四人の人が火の中を何の害も受けずに自由に歩き回っているのです。どのように自由になったのでしょう。そして放り込まれたのは三人であったはずです。ところが、四人が歩き回り、四人目は神の子のような姿をしている、というのです。
 
神の子とはダニエル書後半では「人の子のような姿の者」として10章16節に出てきます。終末のメシアの姿として表現されています。ダニエルにはその存在は「愛されている者よ」と何度も恐れるダニエルに語りかけています。
 
この物語は私たちに伝えてくれます。炉とは様々な試練を指します。特に信仰に立って生きようとするときにふりかかる試練を指すでしょう。私たちは試練がないとは決して約束されていません。神は三人を試練に合わせないように計らうことも出来たはずです。燃える炉の中に放り込まれることがないよう、守ってくださることが出来たはずです。しかし、そうはなさいませんでした。多くのキリシタンの血が流された場所に私は行きます。そこで考えることは同じことです。神は彼らを殺されないように手を出したりしませんでした。ペトロの手紙を読んでも同じことを教えられます。苦しみを免れなかったのが、使徒たちであったでしょう。しかし初代教会の人たちは試練を通して本物の信仰を与えられました。ダニエル書の三人の人たちもこの試練を通して本物の信仰を与えられたと思います。
 
そしてそのような試みに会っている時に、神はどこにおられるのでしょうか?燃え盛る炉の中で三人にはもしかすると、神は見えなかったかもしれません。燃え盛る炉の中、つまり彼らは試練の中に自分たち三人だけで置かれているように感じていたかもしれません。しかし、火は燃えていたが彼らを害することは出来なかったのです。火は鎮火されたわけではなかった。燃え盛っていたのです。しかし、彼らを害することはできなかったのです。神の助けはこのように与えられるのだと思います。まず燃え盛る炉の中に、試練の中にこの私と同じように歩いてくださっているのです。火は鎮火されないこともあるかもしれません。しかし、私はそしてあなたは、火が燃えつかずに自由な人として火の中を歩くことが許されるのです。そしてその結果は神の栄光が現われるようにされるのです。
 
みなさんは今自分の人生の試練に直面させられているかもしれません。しかし私たちは希望を持つことができます。神は私たちを愛して共に試練の中に立ってくださっています。燃え盛る炉の中にまで、十字架の主は来られます。どこにも行かれません。そして火は私たちに燃えつかず、自由に神と共に火の中を歩き、私たちを損なうことなく、信仰の実りをもたらすものになるのです。
 
更新日時:
2007/09/21
   イサクを献げる 創世記22章 マタイ10:32-39
 今日の話は「試練」の話です。アブラハムは神から最愛の一人息子イサクを焼き尽くすささげもの、として奉げるように命じられるのです。
 
 イサクはアブラハムにとって最愛の息子でしたが、それは人間的な意味であると同時に、神によって与えられた「契約の子」でした。
 
人間的な意味では彼は唯一正妻の子供でした。しかも年をとって与えられた子でした。
創世記17章で神はアブラハムとの間に契約を立てられます。「あなたをますます増やす」「諸国民の父とする」と言われたのです。彼はその時99歳、妻は90歳になろうとしていました。アブラハムは神から約束を与えられて、信じませんでした。笑って心のうちに言ったのです。「百歳になろうとする自分に子供が生まれる筈はない」そして奴隷の産んだイシマエルを祝福してくださるように言います。18章で繰り返し、約束がなされ、今度は妻が笑って主に咎められます。
このようにして神からの一方的なあわれみによって、人間である二人が常識的に考えて及びもつかない形で与えられた子供、そして一神からの永遠の祝福のしるしである子供がイサクなのでした。
 
それなのにこの箇所ではその大切な、信仰的にも契約の子イサクを生贄としてささげなさい、というのです。とても常識的には残酷なことです。アブラハムにはことの意味が分からなかったに違いありません。神が約束して一方的に下さったもの、そして自分にとって命よりも大切な存在をどうしてささげよ、というのか。神の自分への祝福の約束はどうなるのか。老いたアブラハムにとってイサクは希望の全てであったといっても過言ではないでしょう。アブラハムの心の葛藤については何一つ聖書は語っていません。沈黙の故に尚深い葛藤を感じるのは私だけでしょうか。イサクも不審に思いながら父親について行ったと思われます。息詰まるような緊張がそこにあります。
 
アブラハムがイサクに手をかけようとしたその時、主の使いが手を下すなと声をかけ、備えられた雄羊を与えられます。
 
ここで考えさせられるのはまず私たちにとってイサクは誰で、何か?ということです。
 
私たちそれぞれについて大切なもの、大切な人があることと思います。人生の中で与えられ、大切なものと感じているものがあるでしょう。また私たちには祈って神から与えられたもの、使命、召命、目的があることでしょう。神と共に生きる中で神から示され、与えられて大切にしてきたものがあると思います。それが私たちにとってイサクです。
神から与えられたものであるから、といって私たちは大切にします。それに望みをおきます。それはそれで正しいことです。しかし、私たちはすぐにそのもの、に執着してしまい、そこに囚われ、そこに一喜一憂することになります。神様ご自身よりも、そのことに囚われ、偶像化してしまうのです。
あなたにとってイサクは誰でしょうか。自分の家族でしょうか。自分の仕事でしょうか。伝道の召命でしょうか。神に祈って与えられた健康でも、家族でも、仕事でもイサクになります。自分に人生の苦しみを通して示され与えられた使命、どう考えてもそこにしか御心がないように思われる使命であっても、主イエスご自身にまさって大切にするならば、愛するならば、そこに専心するならば、それはイサクになります。
 
私自身にとっては卒業生への伝道、思いというものがイサクであったように思えます。私が二十九歳の時に示され、徐々に示されていった召し出し、それが消え果るように思えた時、私は失望しきってしまいました。第二回の賛美集会の前の出来事です。何の故に神を賛美するのか、私には理由が見つかりませんでした。自分の神からの召命が見えなくなったとき、私はどうやって神をたたえていいのか、分かりませんでした。私にとって召命は望みだったのです。神との関係性を規定してきたことを大切にする。しかし、神ご自身の愛より、素晴らしさより、関係性を規定していることを大切にすることは私のイサクでした。
 
ささげるとはどういうことでしょうか。アブラハムの場合にはそれは文字通り手をかけて殺し、全焼の生贄として祭壇に奉げるということでした。しかし、ささげることは必ずしも現代的にはそのようなことではありません。
 
まず、奉げるとは神の前に置く、ということです。次に奉げるとは神に委ねることです。またさらに自分の手、つまり執着を断って手を離して、明け渡すことです。私は常々、これらの日常的なニュアンスの違いについて考えてきました。
 
献金、献身という言葉で神の前に置くことを私たちはします。例えば献金をします。しかし私たちはささげられるものだけを奉げ、奉げられないものは自分たちのもとにとっておきます。本当は洗礼の時、私たちは自分をささげたはずです。しかし、殆どの人は奉げていません。奉げたはずなのに、自分のものとして自分自身を取っておこうとします。ある人は全く自分のもののままです。神学校に行くことを献身、といいますが、それも同様軽いものです。奉げるという言葉の軽さに私は悲しみを感じます。
委ねる」も同様に軽くなってしまっている言葉です。本当は委ねたら、どのようにされても文句を一切言わない、権利放棄が委ねるという言葉です。しかし、委ねるには一方で身を寄せるよりかかる、頼る意味があります。どうしてもこちらの方が強くなってしまい、日本人のクリスチャンが使う場合には自分では負い切れないから、依存するという意味に使ってしまいます。
 
「明け渡す」無条件全面降伏、という言葉です。城を明け渡せば捕虜は殺されても、奴隷にされても文句は言えないし、城を壊されても、どのように使われても文句は一切言えないのです。一切の権利を放棄し、手を離して神の前に置くというニュアンスが一番伝わってきます。
 
本当はどの言葉、「献げる」も「委ねる」も「明け渡す」も同じことを表します。神を信頼し、一切の権利を放棄し、自分の手を離して神のみまえに置ききることです。アブラハムのしたことはそのようなことでした。自分のイサクを手を離して置ききること、自分の神との関係性よりも神御自身を信頼すること、それがアブラハムのテストであったように思われます。
 
 神様の私たちに対する愛は深いものです。それは味わいきれないものです。しかし、主が私たちを求められる思いはとても強いので、私たちが偶像化した何か、それに囚われ、不自由になることをお許しになりません。それが祈りの末に与えられた子供でも、妻でも、そこに囚われれば本当に神様と交わりを深めていくのに障害になるからです。また本当の意味でお互いに愛することは出来ないのです。
 
女性の多くが家族を偶像化します。そして男性の多くが仕事を偶像化します。そして失ったときに全てを失ってしまいます。
 
私は自分の召し出しを偶像化していなかったと思います。しかし、偶像化しかけていたかもしれません。私は何も理由を見いだせなくても、神ご自身を神ご自身の故に賛美したいとおもいました。それが私の使命を置く、ということでした。明け渡すということでした。そしてそれをどうにかこうにかしたときに、アブラハムのような神の備えがあり、祝福を与えられたのです。
 
イサクをささげるのは辛いことです。本当に身を切られることです。信仰の揺すぶられることです。しかし、神ご自身もそれをご存知です。それはアブラハムと同じように独り子をささげて下さったからです。その神の愛を全面的に信頼していかれるように、手を離してささげていかれるように願い求めて参りましょう。
 
更新日時:
2007/07/09

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Last updated: 2007/9/21