最初に簡単にこの箇所を解説しますと、「石の板」と「人の心の板」とは石の板は出エジプト24:12のモーセが神から与えられた律法の書かれた石の板のことです。人の心の板とはそれに対して先ほど読みましたエゼキエル36:26のように人間の心に直接ということであります。「文字」と「霊」も同様で文字とは律法のこと、霊とは聖霊のことです。「新しい契約」とはキリストに基づいて立てられた契約のことです。文字とは守る力を人に与えず、違反の機会を捉えて罪に陥れようとする律法のことであり、それにひきかえ、聖霊は救いを人間にもたらすことによって人を生かす、神から与えられた内的な力のことをいいます。
また、律法を与えられた時にモーセの顔を見つめ得ないほどであった、というのは出エジプトの34:29-35で神と語っていた間にモーセが顔が知らないうちに光っていた、というのです。周囲の人たちは恐れて近寄れなかった。主から聞いたことを語る間は光らせておいたが、その後は覆いをかけて暮らした。(P152)このように律法と言う、人間に力を与えず、罪に定めるものでさえ、栄光をまとっていたのだから、聖霊に仕えて人に内的な力を与える務めはなおさら、一層、栄光をまとっているはずだ、というのです。律法を大切にしているユダヤ人たちにはしかし、それは覆いが掛かっていて理解できない。聖霊によって、キリストに捉えられることによってその覆いが除かれるのです。聖霊によって私たちは主の栄光を隠して暮らすのではなく、主の栄光を映し出して輝かせながら生きることが許されている。
さて、「変わり者のゆうかりすと」が変わり者であれるのは、「聖霊の体験」が核にあります。普通の聖霊派の教会では「何をしてはいけない」というのがあります。「何をしたら聖霊を受けられない」生活面でも聖書の読み方でもあります。枠をある程度厳密に造ってこその聖霊体験なのです。何をしてもいい、すべての事が許されているというのでは決してありませんが、「ゆうかりすと」の変わり方は「主の霊のおられるところに自由がある」と言う言葉に根拠があります。私たちはあまり、どうしなさい、こうしなさい、というところでうるさくしない。また、これが一番の特徴ですが、知的なところで自由なのです。私も柴田君も聖霊体験してから好きなように学問してきたのですし、それで信仰が壊れなかった体験を持っているからなのです。私の個人的な体験ではいちいち聖書に反するのでは、とかこんな本を読んだら信仰がなくなる、という心配がそれ以降全くなくなったのです。それまでは結構ありました。
聖霊体験と私たちが呼ぶものでも、あるいは一般的にいう祈りの体験でもそうかもしれませんが、祈ること、神と人格関係を持つことは喜びをもたらします。祈りの中でキリストの温かさ、聖霊の喜び、神との心のふれあいを感じることは、母親や誰かに愛された体験と同様に「愛される体験」です。例えばじんとしみる「愛される体験」をした人はその体験を客観的に眺めることをしたとしても、その体験の意味や価値までを否定することはできません。客観的に眺めたとしても、相対化してしまうことは出来ない。その体験はその人を変え、その人を生かし、その人を形成する。血や肉となる。その人はそこに立って、自由に他の物事を見ていく。同様に自分が真理であるキリストにつながっている。彼に愛されている。そこに立って自由に物事を見ていくことになるのです。
この自由というものからしかし、縁取りがおのずと生まれます。ドストエフスキーが「悪霊」の中で言いますが、『人間には赤ん坊の頭を割ることも、少女を陵辱することも許されている。しかし、本当に自由であることを知っている人間はそういうことをしない。』前の文章と後の文章の間にキリストが立っている、と言われます。本当に自分がキリストに愛されている。聖霊に捉えられている。そういうことを自覚した時に、もうおのずと出来ないことがある。神の意志に反することは望むことが出来ない。赤ん坊の頭を割ることや少女を陵辱することとはそのような行動の極端な例であると思います。これが外発的な律法ではなく、心に書き付けられた律法ということなのです。何をしなさい、してはいけない、という言葉を人間は守れなかった。しかし、心に聖霊を与えることによって、人は愛された体験から自然に神の意志に反することは望めなくなる。更に神の意志を求めるように動かされるようになるし、変えられていくのです。
これが聖霊による内的な力、であり心の板に聖霊によって書き付けられた新しい律法です。そのような内的な力は私たちを変え続けます。私たちは誰でも栄光から栄光へと、聖霊の働きによって「キリスト化」していく。これを「聖化」と呼びます。
有史以来、多くのクリスチャンたちが存在しました。その人たちの中には完全にキリストのようになったわけではありませんが、聖化されるということをどんなことだか知ることが出来る人たちが多く居ます。その中には聖人と呼ばれた人たちもプロテスタントの人たちもいます。
私と恩師が感銘を受けたひとりの聖人が居ます。それは山崎勉の一人芝居にも取り上げられている「ダミヤン神父」です。ワイキキの中心にカトリック教会があり、そこに彼の記念館があるので、是非行って見て下さい。この人はベルギー人のなかなかいけ面の青年神父でした。モロカイ島というハワイの島に彼は宣教師として派遣されました。モロカイ島は当時ハンセン病者たちが流刑になる、見棄てられた島でした。島の人たちは絶望し、自暴自棄であり、退廃した生活を送っていました。体ばかりでなく魂も病んでいました。
そのなかで神の愛を彼は伝えようとした。しかし健康な彼の話を誰も聞いてはくれなかった。ダミヤン神父はそこで、自分もハンセン病にしてください、と神に願うのです。彼らと同じになって福音を伝えたい。苦しみを共有してその中で神の愛を伝えたい。そのような真剣な祈りをした夜明け、自分の手がハンセン病にかかっているのを発見した彼は歓喜して神に感謝するのです。これはお芝居ですから、彼の実話ではなく、彼の生き方を通じて創りだされた物語であるのかもしれません。しかし、彼が自分の与えられた病を通して、それを用いられて神の愛を語る伝道者としてつくりあげられていったのは、間違えのないことでしょう。
ダミヤン神父はそれから確か十五年足らずで、体中がぼろぼろに崩れて別人のようになって死にました。たしか四十五くらいだったと思います。彼の死の床の写真がありました。神父が洗礼を授けた人たちは十五年足らずで千人以上になりました。洗礼の名簿がありました。
そのようなものを見て、ダミアン神父のメガネ-丸いめがねを見たときに私は一つのことを感じました。確かに神父はきよめられた、キリスト化された人だった。しかし、この人もこの汚いメガネを使う日常を過ごしていた。トータルで見たときにキリスト化として捉えられるようなものも、その人の中では毎日の生活における、失敗やそれを用いられる聖霊の働きによる変革の繰り返しだったのだな、と。
みなさんも変えられます。失敗もしますが、苦しい目にも会いますが、それも用いられてキリスト化させてもらえます。でもそのことはなかなか、自分にも人にも見えることではない。自分が変えられたのは分かりますが、キリスト化されたかどうかは分からない。でも、毎日の歩みの中でそれは聖霊によって、心に与えられた神の愛によってそれは確実に起きていること、起きていくことを聖書は約束してくださっているのです。
(深谷)
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