神と出会う人生、これを知ったら人間は生まれ変わることができる。何がどう変わるかというと、まず最初に自分が変わる。これまでは自分の不足や欠陥について、誰もが苦しんできたし、思い詰めて悩んできた。しかし、神を信じることから、それらが変えられていくということを信じてもらいたい。逆に変わらない自分の問題もある。言っていることが矛盾するかもしれないが、神と出会っても実際に変わらない痛みや苦しみもある。これは実際に私自身に当てはまる問題でもあるので、神との出会いの魅力について大きな声で言う資格は私にはないかもしれない。だからこそ、私も苦しむ人と同じように苦しんできたし、今も苦しんでいる。 しかし信仰とは不思議なもので、変わらない自分の苦難があるにもかかわらず、神の力と働きによって変わっていくもの、大きな力で本当に変えられていくものがある。
それは何か。それは、自分が本当に生きていくことのできる道と出会えるということだ。その喜びは、自分以外の相手を育てる喜びに満たされる道を歩くということである。
聖書では、たとえば新約聖書ペトロの手紙Tの1章23節から25節で次のように語られている。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって、新たに生まれたのです。こう言われているからです。『人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない』」。 私たちが普段知っている植物の種というのは、大切に愛情込めて育ててやると、やがて芽を出し茎が伸びて葉を茂らす。そして花が咲く。自然の力はすごいと思う。静かだが、少しずつ生命が生れていく感動を覚える。心を込めて大切に育てる時、喜びと感動が沸くものである。神の救いはこのようにして譬えられる。
でも実は、私ほど育てるのが下手な人間はいないと実感している。もう昔の話になるが、小学校四年生の時、理科の授業の夏休みの宿題で、植物の種を家で育てるという宿題があった。当然のことながら、一夏の間毎朝早く起きて鉢に水を与えなければならず、怠け者で三年寝太郎の異名を持つ私には最初から不可能な宿題なのであった。水をあげるのをさぼりまくったものだから当然のこと、芽が出るわけもなく土がカラカラに乾燥してひび割れを起こし、理科の夏休みの宿題は大失敗に終わった。しかも運の悪いことに、担任教師のアイデアで休み明けの理科の授業で、クラス全員の家を回ってチェックを入れることになった。同級生全員が家に押しかけるわけで、もう言い逃れのしようがない。私の家に順番が回った時、教師も同級生全員、私の無残な宿題を目の辺りにして絶句していた。私は「土が固かったから」、と水を与えなかったことを無視していい加減な言い訳をしたものである。
二十数年が経った後で反省しても遅いのだが、神様は私の人生をよく見ておられることに近頃気付いた。それは、神様は、私自身が相手の命をしっかりと育てられるような人間になることを長い間願ってこられた、ということである。相手ではなくして自分がいかに大きくなり、強くなり、上昇できるかに力を入れている間は、当然相手をまともに見れてはいない。せいぜい、他者に対する駄目押しか批判力の形成くらいが、他者に対する目線として身に付くくらいである。私もその中の一人であったと言えるだろう。だからこそ、自分の弱さと醜さに狂うばかりに苦しんできた。躓いてきたのだと思う。それは、自分の存在や人生は、自分が蒔いた種で出来あがるものだという価値感によるものである。だから人生には努力や工夫が必要であり、またそれらの挫折によって「朽ちる」道を歩いていく。努力の欠けた人生は問題であろうが、それに依存するばかりによって自分と相手の在り方すらも意識できなくなるのは、人生の大きなマイナスと言えるだろう。
もしこのことに薄っすらとでも感じられてきたら、朽ちない種で蒔かれた成長の道に足を踏み入れたらどうだろうか。朽ちない種で蒔かれた生命は、あなたを新しく生まれさせると聖書は証ししている。決して消えない神の救いによって生きる道ならば、あなたが誰かに蒔く種も、決して消えることのない芽を生み出すにちがいないのである。蒔いても水をやっても育たないと心が折れているから、そんな失敗と失望の体験が多いから、蒔く種も蒔けないし、水撒きも手が震えるのではないか。種が本当に蒔かれて芽が出る道は、目には見えない道である。それは、神の言葉から来る「力」なのである。
朽ちない種は、イエス・キリストのことである。皆さんは、イエス・キリストを人生の主として受け入れなければ、本当の命の道を生きることはできない。2章の4節で、「この主のもとに来なさい。主は人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた尊い、生きた石なのです。」と告白されている。人間は、自分で自分の人生を幸せにすることはできない。決して自分の力では生きることができない。イエス・キリストによって聖霊を与えられ、愛情たっぷりに育てられなければ生きることはできない。聖書には、「生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」(2章1節)とあるので、思う存分にイエス・キリストから聖霊の乳を飲んで求めてよいのである。イエス・キリストから流れる聖霊を受ければ、それをいただいた人からは、相手を本当に生かす愛情が自然に流れ出るようになるのだから。神様は、誰かを育てたい、愛したいと願う人を求めておられる。なぜなら、神様御自身が人間を育てたい、愛したいといつも行動しておられる神なので、同じ思いを持つ者を求めるのは当然なのである。
私は今、多くの人を神様の愛の中で育てたいと願うようになっている。かつての自分個人の宗教的成長に対する喜びよりも、一人でも多くの魂が聖霊の乳で育てられるようになることに、無上の幸せを覚えている。ようやく私の願いと計画が、神様の願いと計画へと変えられてきたのだろうと思う。わたしの求めるコミュニケーションは、イエス・キリストの聖霊の中で養い合う関係なのである。そこには底抜けの希望と喜びと感動があることを知ってほしいと願う。人間は神といっしょに生きることがなければ、空しい人生を空しくない人生へと変えることはできない。神と共に生きようと自分のすべてを変える時、自分は神によって育てられていて、相手を本当に育てることが可能となるのである。その力が聖霊からもらえるのである。
イエス・キリストは人間を育てる神である。そして人間は、イエス・キリストが与える聖霊を受けて、必ず新しく生まれ変わる。神の持つ種の力は、人間よりも強くて偉大な力を持っている。神の偉大な力に近づく時、人間は本当に人生が楽しくなる。心の苦しみ、病は必ず神のものとなり、癒される。生きることができるようになる。
|