今日お読みしたヨハネ福音書はラザロの復活という有名な箇所の一部です。ラザロは重い皮膚病に罹っていた人で、マルタとマリアという姉妹の弟でした。この三兄弟を主イエスはこよなく愛しておられました。この人たちの住むベタニヤの村で過ごすことはイエスにとって大変な慰めだったのです。かいがいしく働くマルタ、あまり動かず主イエスの話に聞き入ってしまうマリア、性格の違う一人一人を主イエスは愛しておられました。
そのラザロが危篤に陥った。姉妹は使いを出して主イエスを呼びにやりました。しかし、不思議なことに主イエスはすぐにはベタニヤに出かけない。二日間尚も滞在した、とあります。ラザロが死んだことを予見した後、はじめて主イエスは動かれる。主イエスは死を「眠り」と形容なさってラザロを「起こす」と言われるのです。
弟子たちはそれが理解できないのでトンチンカンな答を繰り返しています。まず「ラザロは眠っているだけ」と文字通りに理解する。そして危険なユダヤに戻るので、トマスは「彼のところに行こう」という主の言葉を自殺行為的な危険に身を曝してユダヤ人たちに殺されること、と理解するのです。
ストーリーだけを追ってみることにしますが、出迎えに出たマルタとの今日の箇所のやり取りの後、墓に赴き、死後四日も経ったラザロを主イエスは蘇らせるのです。手足も顔もミイラのように包帯に包まれた彼は墓から出てきました。
今日扱う箇所に戻ってみましょう。マルタは恨みがましい言葉を述べているように見えますが、後半では主が祈るならば神によって聞き届けられるという信頼を投げています。主はそこでその信頼に答えてラザロの復活を宣言する。「あなたの兄弟は蘇るよ。」そこでマルタは終末の蘇りの信仰を語ります。ユダヤ教徒や原始キリスト教徒は最後の日のラッパの音と共に、全ての者が眠りから覚めて最後の審判を受け、第二の死を死ぬものと、以遠の神の国に入れられるものと分けられることを信じていました。これは当時にしては前提とされていた死についての考え方の表明であり、それ以上ではなかったのです。
しかし、それがここでイエスのおっしゃりたいことではなかった。違うのです。それ以上のことなのです。未来において起こることではない。歴史の彼方でのことではない。今、ここで起こること、今ここでの話なのです。「私は復活であり、命である」イエスを信じるものは今ここで永遠の命そのものであるイエスにしっかりとつながれる。命の水の源であるイエスから水の補給を絶えず受けることが出来るようになる。砂漠の中に流れる水のほとりに植えられた樹です。いくらでも水の補給が受けられる。キリストにつながれる前には私たちは人生の日照りが来ると死にそうになってしまった。あるいは死んでしまった。からからになってしまった。ぼろぼろになってしまった。しかしキリストにつながれるならばその状態から私たちは蘇ることができる。流れのほとりの樹として私たちは蘇ることができる、新たに生き始めることが出来るのです。
「私を信じるものは死んでも活きる。生きていて私を信じるものはだれも決して死ぬことはない。」キリストにつながれた者はたとい肉体が死を迎えても、死ぬことはない。死ぬことは出来ない。それはイエスの命が私たちのうちに流れ続けるからです。また、キリストにつながれて彼の命に与るものは魂の死を見ることはない。つまり生死を越えたキリストの命が私たちの中に流れ続ける。生死を超越したキリストの命が今ここから流れ始めるとキリストは宣言なさるのです。
長崎の旅から昨夜遅く戻りました。主に大村と平戸・生月周辺の殉教の地と潜伏キリシタンの子孫が建てた教会、および隠れキリシタンの里を巡る旅でした。いろいろなことを深く考え、いろいろな気づきを与えられました。
振り返ってみれば大学生の頃から何度かこういう「巡礼」をしています。大学の頃には私は「自分はこれから後、キリスト教の信仰に自分の人生を賭けきることが出来るか」という問いを突き詰めて見ようとしていました。自分を苦しいほどに追い詰めていました。
この度は殉教者たちに自分を完全に重ねて、それを生きて来た自分というものを見つめ直してみようということだったのです。大村の放虎原、平戸の焼罪という殉教地は火刑の行われた場所でした。私ははじめ、彼らの味わった苦しみに自分がこの六年間味わわなければならなった苦しみを重ねました。彼らは例外なくその火の中でラウダーテを歌いました。神をたたえました。
私は精神的な苦痛の中で、神の愛をみなさんに語らなければなりませんでした。それは人間としての限界を超えたことでした。人の悪意を愛の花束に変えて皆さんに手渡すこと、それは火で焼かれながら賛美を歌った彼らに等しい行為でした。その中で大きな聖霊の働きがあり、与えられたのが皆さんたちです。
そこまで振り返った後、気づいたことがありました。私は自分が「殉教」を死の問題として考えたことがなかったということです。来世の問題、死のあとの復活の問題として考え、そこに自分を置こうとしては一度たりとも来なかった、ということです。私は常に殉教者たちに生の姿を見てきました。彼らに与えられた死は生の一つの形に過ぎない。そしてその根底にあるものは主イエスと分かちがたく結びついた生のあり様であったのです。
この私が主イエスの命につながれ、この私の中にイエスの命が溢れる。イエスの愛が、命がどくどくとながれる。それはどのような状況も超えていく力を持っている。主イエスが私を愛したもう。それを私はがっちりと受け取る。受け取り続ける。そして主イエスを心を込めて愛する。そこにイエスの命がどくどく、音を立てて流れる。状況が悪くても、その命は流れて止まない。だから殉教者がそうであったのと同じく、神への高らかな賛美になって吹き上がることが出来る。悪意を花束に変えて手渡すことも出来る。そうして私の中で復活の主の命は勝利して来られたし、これからもなさってくださるのです。皆さんが永遠の命の源につなか゛れたようにこれからも主は私を通して他の人々に命を与えて下さることでしょう。聖霊の働きは私たちにとどまり、力づけ、助けて下さることでしょう。
主イエスは今も私たちに問いかけておられます。「このことを信じるか」マルタのようにどうぞ皆さんも答えてください。「あなたこそ、主であると私は信じております。」それによって与えられる主イエスの豊かな命は「本当の命」です。生をも死をも、幸不幸をも超えていくことの出来る、生き生きとした命、なのです。
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