集会メッセージ

新しいものばかりです。
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   イエス昇天の「深み」に
木曜日は主イエスが復活なさった後昇天された記念の日でした。それは使徒言行録に詳しく記されています。来週はペンテコステで聖霊の降臨を記念する日ですが、その日を約束なさった後、天に昇られるのです。ペンテコステについてここで言われていることは、約束された聖霊の到来を待ち望むこと、そして聖霊が臨んだことによって力を受けて証人となること、です。
 
 私はこの一週間、リバイバル新聞の記事を書くために、私たちの共同体のここ二年程の歩みを振り返っていました。聖霊の働きがとても顕著でした。たとい個人的に体験することがなくても、共同体の中に聖霊がとどまっておられるのが手に取るように分かる内容でした。聖霊は私たちの上に愛の霊としてやってこられました。行き詰まりの時に、うずくまっている時に、必要な人に圧倒的な愛を持って臨まれました。聖霊はしかし、そのような愛の霊であるだけではありません。聖霊は力の霊なのです。私たちは力を帯びて立ち上がらせられる。証人とされる。それがここで約束されていることです。今は愛に支えられてようやっと息をついている。しかし私たちはそれだけでは終わらないと約束されているのです。
 
 さて、聖霊がリアルに体験される共同体に属するということは、他の聖書の約束もリアルになっていく、ということを意味します。聖霊の働きを体験することの醍醐味は実にそこにあります。イエスの昇天もリアルなものとして実感されていく。ただ理性的に象徴として理解するのではなく、本当に復活したイエスが天に昇って神の右の座についておられるという信仰を持つことが許されるのです。
 
 それではイエスが生きておられるということ、今は天の神の右の座についておられるということはどのような意味を持つのでしょうか。それは私たちにとって二つの意味を持つと思われます。それはヘブライ人への手紙に書かれているようにまず、かつて私たちと同じように人間として地上を歩まれたイエスは私たちの弱さを完全に知っておられる、ということです。そして次にこのイエスによって私たちは大胆に神に近づくことが許されるということです。メルキゼデクのような大祭司とイエスは呼ばれていますが、メルキゼデクは創世記14:17に出てきます。詳細不明の大祭司です。
 
 歴史の中を歩まれたイエスはどのような方だったでしょうか。18世紀頃からそんな探求が学問としても始まりました。いろいろな人が歴史のイエスを掘り起こしてみて、いろいろなことを言うのですが、イスラエルの中でも極貧地域であるガリラヤで、極貧で世の中から排除された人々と共に生活されたというのは確実のようです。世の中から排除された人たちの中には自分のせいでない理由でそのような境遇に陥ったものの、絶望や自暴自棄というものが渦巻いていたことでしょう。イエスはそのような人々を知っておられました。またご自分でも生活の中で味わう様々の苦しさを体験しておられたと思います。イエスの階層は最下層ではないものの、下層の生活階層でした。
 
 そして何よりイエスは十字架に向かう道のりの中で、この世で味わう究極の孤独と肉体的精神的苦痛、絶望を味わいつくされました。それ故にイエスは私たちの苦痛や絶望、孤独を知って下さり、思いやってくださるというのです。
 
 耳の病気の中で、あるいはその前後に味わった苦しみの中で、私にとってはこのことが本当に慰めでした。自分の苦しみはどのような瞬間でもイエスが知っていてくださる。それはあなたにとっても同様です。今あなたはどんな苦しみを味わっているでしょうか。どんな壁にぶつかっているでしょうか。それが自分の弱さに属するものでも、罪に属するものでも同じです。それがどんなものであるとしてもイエスはそれをご存知なのです。私たちはそれをイエスの内に見ることが許されるのです。
 
 試練にあわれた時、イエスは血のように汗を滴らせて苦しまれました。決して平静でおられたわけではありません。十字架に向かう道のりでイエスは無様に転ばれました。けっしてきれいに進まれたわけではありません。十字架にかけられた時、イエスは血まみれの肉の塊のようでした。きれいな死を迎えたわけではありません。人間の経験する心理過程、人間の経験する生理的状況、人間の経験する死への精神的肉体的過程をイエスはすべて味わわれたのです。私たちは安心することが出来ます。自分が年老いて肉体の自由を失うときにでも、それを受け入れつつ進まなくてはならないときにでも、精神的な問題で人の目から見れば恥ずかしいような七転八倒をするときにでも、死を前にしてジタバタしてもそれでいいのです。それはイエスもそれを味わってくださり、ご自分のものとしてくださり、思いやってくださり、私と一緒に背負ってくださるからです。
 
 イエスがご自分のものとして受け入れて下さる、ということはそれだけで終わることではありません。私たちはそのままで、大胆に神に近づくことが許されます。私は弱いものだから神様は受け入れてくださらないだろう、と思う必要はありません。 だから神は受け入れてくださらない、という怖れから自由になることができます。私たちはこのまま、あるがまま、身を低くしてイエスの前に進み出て、神の恵みの座に近づき、恵みをいただくことが出来るのです。
 
 イエスの昇天は、輝きに満ちています。しかしそれは、かげりのない輝きではなく、かげりを通り越して尚も輝く輝き、なのです。人間の弱さや罪、この私の弱さや罪をその身に完全に担い、その故にこの私を受け入れ、輝きとして下さる栄光なのです。
 
 どんな問題でもイエスの前に、問題としてもって行くようにして下さい。イエスはあなたの問題を知っていて下さり、ご自分のものとして下さる。そしてその問題をご自分の光で栄光に打ち変えてくださるのです。
 
更新日時:
2007/07/09
   本当の生命に生きる ヨハネ11:17−27 詩編1篇 ペトロ1:3−9
 今日お読みしたヨハネ福音書はラザロの復活という有名な箇所の一部です。ラザロは重い皮膚病に罹っていた人で、マルタとマリアという姉妹の弟でした。この三兄弟を主イエスはこよなく愛しておられました。この人たちの住むベタニヤの村で過ごすことはイエスにとって大変な慰めだったのです。かいがいしく働くマルタ、あまり動かず主イエスの話に聞き入ってしまうマリア、性格の違う一人一人を主イエスは愛しておられました。
 
 そのラザロが危篤に陥った。姉妹は使いを出して主イエスを呼びにやりました。しかし、不思議なことに主イエスはすぐにはベタニヤに出かけない。二日間尚も滞在した、とあります。ラザロが死んだことを予見した後、はじめて主イエスは動かれる。主イエスは死を「眠り」と形容なさってラザロを「起こす」と言われるのです。
 
 弟子たちはそれが理解できないのでトンチンカンな答を繰り返しています。まず「ラザロは眠っているだけ」と文字通りに理解する。そして危険なユダヤに戻るので、トマスは「彼のところに行こう」という主の言葉を自殺行為的な危険に身を曝してユダヤ人たちに殺されること、と理解するのです。
 
ストーリーだけを追ってみることにしますが、出迎えに出たマルタとの今日の箇所のやり取りの後、墓に赴き、死後四日も経ったラザロを主イエスは蘇らせるのです。手足も顔もミイラのように包帯に包まれた彼は墓から出てきました。
 
今日扱う箇所に戻ってみましょう。マルタは恨みがましい言葉を述べているように見えますが、後半では主が祈るならば神によって聞き届けられるという信頼を投げています。主はそこでその信頼に答えてラザロの復活を宣言する。「あなたの兄弟は蘇るよ。」そこでマルタは終末の蘇りの信仰を語ります。ユダヤ教徒や原始キリスト教徒は最後の日のラッパの音と共に、全ての者が眠りから覚めて最後の審判を受け、第二の死を死ぬものと、以遠の神の国に入れられるものと分けられることを信じていました。これは当時にしては前提とされていた死についての考え方の表明であり、それ以上ではなかったのです。
 
しかし、それがここでイエスのおっしゃりたいことではなかった。違うのです。それ以上のことなのです。未来において起こることではない。歴史の彼方でのことではない。今、ここで起こること、今ここでの話なのです。「私は復活であり、命である」イエスを信じるものは今ここで永遠の命そのものであるイエスにしっかりとつながれる。命の水の源であるイエスから水の補給を絶えず受けることが出来るようになる。砂漠の中に流れる水のほとりに植えられた樹です。いくらでも水の補給が受けられる。キリストにつながれる前には私たちは人生の日照りが来ると死にそうになってしまった。あるいは死んでしまった。からからになってしまった。ぼろぼろになってしまった。しかしキリストにつながれるならばその状態から私たちは蘇ることができる。流れのほとりの樹として私たちは蘇ることができる、新たに生き始めることが出来るのです。
 
「私を信じるものは死んでも活きる。生きていて私を信じるものはだれも決して死ぬことはない。」キリストにつながれた者はたとい肉体が死を迎えても、死ぬことはない。死ぬことは出来ない。それはイエスの命が私たちのうちに流れ続けるからです。また、キリストにつながれて彼の命に与るものは魂の死を見ることはない。つまり生死を越えたキリストの命が私たちの中に流れ続ける。生死を超越したキリストの命が今ここから流れ始めるとキリストは宣言なさるのです。
 
長崎の旅から昨夜遅く戻りました。主に大村と平戸・生月周辺の殉教の地と潜伏キリシタンの子孫が建てた教会、および隠れキリシタンの里を巡る旅でした。いろいろなことを深く考え、いろいろな気づきを与えられました。
 
振り返ってみれば大学生の頃から何度かこういう「巡礼」をしています。大学の頃には私は「自分はこれから後、キリスト教の信仰に自分の人生を賭けきることが出来るか」という問いを突き詰めて見ようとしていました。自分を苦しいほどに追い詰めていました。
この度は殉教者たちに自分を完全に重ねて、それを生きて来た自分というものを見つめ直してみようということだったのです。大村の放虎原、平戸の焼罪という殉教地は火刑の行われた場所でした。私ははじめ、彼らの味わった苦しみに自分がこの六年間味わわなければならなった苦しみを重ねました。彼らは例外なくその火の中でラウダーテを歌いました。神をたたえました。
 
 私は精神的な苦痛の中で、神の愛をみなさんに語らなければなりませんでした。それは人間としての限界を超えたことでした。人の悪意を愛の花束に変えて皆さんに手渡すこと、それは火で焼かれながら賛美を歌った彼らに等しい行為でした。その中で大きな聖霊の働きがあり、与えられたのが皆さんたちです。
 
そこまで振り返った後、気づいたことがありました。私は自分が「殉教」を死の問題として考えたことがなかったということです。来世の問題、死のあとの復活の問題として考え、そこに自分を置こうとしては一度たりとも来なかった、ということです。私は常に殉教者たちに生の姿を見てきました。彼らに与えられた死は生の一つの形に過ぎない。そしてその根底にあるものは主イエスと分かちがたく結びついた生のあり様であったのです。
 
この私が主イエスの命につながれ、この私の中にイエスの命が溢れる。イエスの愛が、命がどくどくとながれる。それはどのような状況も超えていく力を持っている。主イエスが私を愛したもう。それを私はがっちりと受け取る。受け取り続ける。そして主イエスを心を込めて愛する。そこにイエスの命がどくどく、音を立てて流れる。状況が悪くても、その命は流れて止まない。だから殉教者がそうであったのと同じく、神への高らかな賛美になって吹き上がることが出来る。悪意を花束に変えて手渡すことも出来る。そうして私の中で復活の主の命は勝利して来られたし、これからもなさってくださるのです。皆さんが永遠の命の源につなか゛れたようにこれからも主は私を通して他の人々に命を与えて下さることでしょう。聖霊の働きは私たちにとどまり、力づけ、助けて下さることでしょう。
 
主イエスは今も私たちに問いかけておられます。「このことを信じるか」マルタのようにどうぞ皆さんも答えてください。「あなたこそ、主であると私は信じております。」それによって与えられる主イエスの豊かな命は「本当の命」です。生をも死をも、幸不幸をも超えていくことの出来る、生き生きとした命、なのです。
 
更新日時:
2007/07/09

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Last updated: 2007/9/21