集会メッセージ

新しいものばかりです。
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   信じなければ ヨハネ20:19-29
 今日の聖書の箇所は復活のキリストが弟子たちの前に現れたのち、それに乗り遅れたトマスのところにキリストが現れるという物語です。トマスはディディモ、双生児と呼ばれていたとあります。そこには双生児は疑い深い、という考え方があったといわれています。トマスはキリストを見た、という他の弟子たちに非常に実証的な、科学的な要求をします。キリストが十字架の上で受けた釘の跡や裂かれた脇に手を入れて見なければ信じない、というのです。これは現代人なら言いそうなことですか、古代のユダヤ人にもこのような人はいたのでした。
 
 さて、また安息日が巡ってきて、弟子たちは集まっていました。先週聖霊を受けなさい、といわれていたはずなのに、まだ家の中に居て鍵をかけていたのです。弟子たちはまだ変わっていなかった、あるいはまだ変わりきっては居なかったことが分かります。じっとユ恐れて息を潜めていたのでしょう。ここでイエスが言われる「あなたがたに平安があるように」という言葉に注目してください。これはアラム語で「シャローム」であろうと言われますが、19節、21節でもこの言葉が使われており、三度繰り返しこの付近で言われています。この言葉はこの場面では鍵になる言葉です。
前の場面で弟子たちはイエスの復活をマリアから聞いていたと思います。しかし、それで喜んでは居なかった。怯えて閉じこもっていた。何故でしょうか。自分たちがイエスを裏切り、見棄てて見殺しにしたという事実があるからです。イエスが現れれば、自分たちの裏切りの罪が指摘され、呪われ、祟られても仕方がないからです。イエスに合わせる顔もないし、怖い。しかし、イエスは現れ、自分たちの罪におののく弟子たちに「シャローム」といわれた。シャロームとは神が共に居てくださることであり、そこから与えられる平安のことです。イエスを見棄てた、とりかえしのつかない罪を犯した弟子たちに向かって「それでも神が共に居て下さるよ」というメッセージが伝えられている。私はあなたたちを赦しているよ、あなたたちを愛しているよ、共に居るよというメッセージなのです。弟子たちはここでイエスの予想もしなかった赦しに出会うことになりました。
 
 その場面が再現されています。全くトマスの要求を呑んだ形で指を此処に当てて、わき腹に手を入れなさい。あなたの実証的な合理的な要求を満足させなさい。そして信じないものにならないで、信じるものになりなさい、というのです。
 
 ここでトマスの内面に起きたことはどんなことでしょうか。まずトマスも自分がイエスを裏切ったという後ろめたさを持っていたとおもいます。イエスが怖かったろうと思います。それらの傷は自分がイエスに負わせた傷であると思っていたろうと思います。そのような痛みを持った人間が痛めた相手に触れる時、どんな思いがするのでしょうか。
 
 私は昔大学四年のときに、金鉄千という在日韓国人の作家に飲み会で出会ったことがあります。彼は在日であるが故の苦労をなめてきた人でした。彼の父親は彼の目の前で戦争中に憲兵に殴り殺されました。彼は差別と貧苦の中で肺結核にかかり、小説を書き始めるのです。飲み会の席で彼は文学を語った後、私に言いました。自分の脇を触ってみなさい、と。彼の脇にはあるはずの肋骨がなかった。肺結核でぼろぼろになって肋骨を切除していたのです。私はこの瞬間この聖書の場所を思い出した。それは日本人が彼に与えた傷だった。それは彼の苦しみを雄弁に物語っていた。彼が痛まなくてはならなかった過去を伝えてきた。私は魂がつぶれそうに感じました。
 
 トマスもそのときにイエスの味わったくるしみをリアルに感じて胸がつぶれそうになったとおもいます。そしてそれが自分の裏切りの故であるということと結びついたと思います。つまり実証的科学的な問いから、実存的な問題へ転換がなされたのです。しかしイエスは金鉄千のように痛みだけを伝えようとしてそこにこられたのではなかった。それにもかかわらず、私はあなたを愛し赦している。あなたが私を信頼してくれることを望んでいるというほとばしるようなメッセージがそこにあるのです。トマスは一瞬にしてそれを受け取らされたのでしょう。
 
トマスはそれに対して「私の主、私の神よ」という信仰告白をしています。新約聖書ではイエスに対して神と直接告白している箇所は十箇所しかありません。本当に自分の罪を赦されたもの、愛され赦しを味わったものが、そうしか言えないで出てきた告白のように思えます。トマスはこの後の人生でこの告白に賭けて生きるようにさせられます。トマスはインドに渡り、そこで伝道し、首を切られて殉教したといわれています。
 
 「信じないものではなく、信じるものになりなさい」あなたはこのキリストの問いかけにどう答えるでしょうか。それは信仰への招きであり、そして同時にいつでも主体的な決意を促す言葉であり続けます。信仰の入り口で逡巡するとき、この言葉はあなたを招く言葉になります。信じて生きることをはじめてみなさい。疑って自分の世界の中で、疑いの眼差しを投げて不安や思い煩いにゆすぶられて生きるのではなく、私の愛を信じて私に任せて生きる生き方に歩みだしてみなさいと呼びかけます。また、聖書の中に出てくる病人たちのように、切実に私に信頼を投げてみなさいと呼びかけます。本当にワンタッチ、長血の女のように信頼を投げてみなさい。単純な信頼でいいから投げなさい、私はそれを受け取って行くから、と招かれます。トマスはここでイエスを神として歩みだすことを決意しました。そして歩みだした後もいつも、信じること、賭けることを求められます。どんなに状況がひどくても、何も暗闇で光が見えなくても、イエスを神と信じて賭けること、信じぬくこと、信頼しぬくことに向けて呼びかけられます。
 
 イエスを信じること、それは本当に豊かな世界です。信頼から信頼へ導かれてゆく世界です。小さな信頼からより大きな信頼へ導かれていく道のりです。その道のりへあなたも招かれています。信じない自分だけの世界からでて、神と共にある人生に向けて招かれているのです。しかし、信じなくては、小さい信頼でもよいので投げなければ、その歩みは決して始まりません。
 
更新日時:
2007/07/09
   「何をしているのか分からない」ルカ23:32−56、 イザヤ53章、ローマ五章
受難の季節は先ほどのリタージーでもそうであったように、十字架のキリストを深く思う時であります。十字架のキリストに思いを馳せる時に私はこの季節三つのポイントがあるように思います。一つは自分と人間の罪を深く思うこと、二つ目はキリストの苦しみを深く追体験しようとすること、そして自分がすでに贖われてあるという恵みを深く味わうことです。この三つは相互に関連しています。自分の罪が分からなければキリストの苦しみとの関係は見えてきません。そして恵みも分からないということになります。
 
 罪とは本当に簡単に言ってしまえば、神の前であるべき姿からのズレです。罪が分からない、ということは自分があるべき姿から全くずれていないと感じているということであり、全く理想の姿を保っているということになります。自分が理想の姿を保っていると感じているとすれば、それはその人の思い描く人間のあるべき姿が極めて低いということであり、神の求める人間のあるべき姿について聖書を学びなおす必要がある、ということにもなります。
今日の聖書の箇所でイエスは十字架につける人々に対して何をしているのかわからないのです、というとりなしの祈りをしておられます。何をしているのか分からない人々は彼を十字架にかけ、そして自分自身を救えと彼を罵りました。そして自分が罪を犯していることが明白な強盗でさえも、自分を救ってみよ、と彼を罵りました。彼もまた、明白な罪状があってもなお、何をしているのか分からなかったのです。人間と言うのは自分のしていることが分からないのだ、神の目から見た時にそこに言い逃れが出来ないのだと言うことが今日のメッセージです。
 
人間の根本にはどうしようもない、深いズレが孕まれていることを私は社会や他者を通して感じることが多くなってきました。先日ある人が私を訪ねて来ました。その人は結婚の相談に来たのです。彼の結婚を考えている人の親はクリスチャンである彼に早く自分の家に来て同棲するように勧めるのだそうです。自分の親に聞いても親も同棲したら、というのだそうです。辛うじて彼女の教会の七十代の牧師だけが、彼の同棲や結婚に反対していました。
 
まず根本的なズレはまず親の代から存在していることが分かります。結婚が確定でないのに、同棲を勧めてしまう、双方の両親が居ます。自分たちもそうであったのかもしれません。同棲という言葉がブームになった世代でした。性関係、それにともなう責任というものを引き受けることにルーズなわけです。数字で考えることにしますが、日本では圧倒的に先進国中では多い、半数の人が避妊をしない性交渉を持ちます。先進国では大半は75%程度避妊をしていますから、大変なことになります。それゆえ計算外の子供と望まれて出産された子供とは今半々なのです。日本の全妊娠数に対する22%五分の一強は殺されてしまうという数字が出ており、日本全体の中絶される子供の数は年間32万人以上です。アメリカでは百万人を超えています。アウシュビッツで殺された数は多く見積もって110万人位といわれていますから、毎年、日本とアメリカだけで、バースコントロールの一環としてホロコースト以上の殺人が行われているわけです。同棲を容認するということは、少なくとも無責任な妊娠とバースコントロールとしての中絶への道を開くことになります。とりわけ十代のお付き合いは妊娠すれば三分の二の子供が中絶されます。つまり性に対して厳しくない風潮というものを私たちは当然のように感じていますが、その影でこの社会では殺されてポリバケツに棄てられる命というものを三十二万人も生み出している社会なのです。生きて生まれてくる幸運に与ったものたちだけが好きなように性を謳歌し、好きなように子供を殺している社会ということになります。それに異を唱えないで自分も同じようにするのではその結果事態を是認しているということにしかなりません。
ここできちんと見て欲しいことはこの社会で当然とされていることには、大きなズレが既に孕まれているということです。そしてそれに反対せず同意を与えることによってしっかり自分も罪の片棒を担いでいるということです。
 
1994年にフィリピン航空で爆破事故が起き日本人男性一人がなくなりました。それは実は日本の当局によって秘められ続けて来ましたが、つい先日BBCの報道番組で暴露されていたのですが、アルカイダのイラク人テロリストによるものでした。テロリストはニトログリセリンを機内に持ち込み、通常は燃料タンクの上になっている席の下の救命胴衣に仕掛けました。彼はセブ島で飛行機を降り、そこから乗ってきた日本人乗客が犠牲になりました。幸いなことにその飛行機は燃料タンクがそこにないタイプだったので、引火せず、沖縄に不時着して済みました。ひとり亡くなった方は助けようとして引き上げてみたら下半身がなかったそうです。
 
犯人は国際指名手配されてイラクで逮捕されました。調べてみたらアメリカの同時多発テロの一味だったそうで、その爆破事件も同時多発テロの一環だったのでした。彼は貿易センターの駐車場に爆発物を仕掛けた張本人であつたのです。それは日本が既にテロに巻き込まれているということのしるしでした。日本の政府はおそらく日本が既にテロに巻き込まれていることを知りながらもアメリカに追随し自衛隊のイラク派遣を決めたのに違いありません。この件は知らされないうちに起きていたことですが、このような重要なことは知らされていても多くは深く考えず見過ごしてしまいます。あるいはよく新聞報道等に気を配っていれば分かることもあります。最近の教育委員会の権限強化の案もそうです。本当に日本に罪を重ねさせることを深く考えず、見過ごし、是認してしまうのです。教育を与えられながら深く考えようとしないこと、そのために後代に影響を与える大変なことを見過ごしてしまうことを私は社会的な罪であると考えます。戦争は一朝一夕に起きるわけではありません。私ひとりから始まる日本人の体質が罪を孕み、罪を倍加させてあるとき戦争になり、テロの被害になるのです。学歴があってもきちんとそこを見られないとしたら、学歴も教育も無意味であることにならないでしょうか。
 
私たちはズレの中に生まれ、ズレの中に生き、ズレに気づかず、ズレをどうすることも出来ないで死んでいく存在である、といわざるを得ません。
 
そのような人類のズレ、そしてその中で絡みとられてどうしようもなくなっている自分のズレ、そのような悲惨なあり方に気づかず、尚も悲惨に落ち込んでいく私たちのために、キリストは苦しまれたのです。私たちはまことに「何をしているのか分からない」のです。
 
 そして神に対して言うのです。「神がいるのなら、私たちを救え。」「十字架にかかって無力なだけの神は神ではない。」私たちは私たちの一人一人が創り出し、責任のある、歪んだ社会と世界の中に、自分たちの排泄物にまみれて暮しているような存在です。どんなに私が良識的な人間であるとしても、社会的な次元での罪、社会を神に背かせ、その片棒を担いでいることから自由ではないのです。どんなに神の前で神と共に生きていると思っている瞬間でさえも、私は自分の罪から逃れることはできない。キリストを罵り、キリストの十字架の手に釘を打ち込んでいる存在であるのです。キリストの苦しみを追体験するということはそれゆえ、自分の罪を追体験するということに他なりません。
 
 しかし、同時に恵みが、限りない恵みがあります。私たちはこのようなズレをないもののように見做して貰って生きることが赦されています。ですから私たちは生きることが出来ます。私たちはキリストに贖われて完全にキリストのものとされているからです。キリストは私たちの髪の毛一本までもご自分のものとして下さいました。ですから、私たちは排泄物まみれのまま、彼の前に出て洗ってもらうことが出来ます。私たちは彼のものとして彼のための時間を、彼と共に、彼のために生きることが赦されているのです。朽ちる歪んだ社会のために出来ることは多くはないのかもしれません。しかし、そこに彼と共に立ち、改めて赦された者として、そこに取り組んでいくことが出来るのです。イエスの痛みの深さは私の罪の深さであり、そして同時に神の愛の深さ、恵みの深さなのです。
 
 
更新日時:
2007/07/09

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Last updated: 2007/9/21