集会メッセージ

新しいものばかりです。
古いものは「深谷こころの学校」をご覧下さい。
   信仰による冒険に踏み出す 
イザヤ50:10 マタイ14:22-33 使徒2:43-47
 
 今日中心的に取り上げてみたいのはマタイの記事です。湖の上に船に乗って弟子たちがいて嵐に合う、という話は他にももう一つずつ、各福音書にあります。その場合にはイエスが眠っておられて弟子たちが悲鳴をあげる、という情景になっています。この記事では祈るためにイエスは弟子たちを先に行かせて、後から追いかけていくという設定です。何スタディオンか既に離れていたというのですから、はっきりしませんが最低でも500メートルから一キロ位は岸から離れていたのでしょう。逆風のために行き悩んでいました。
弟子たちはその前の「五千人に食べ物を与える」記事において奇跡的に食事を与えられ、大勢の人にもてはやされた住み慣れたガリラヤを離れ、「向こう岸」であるおそらくは異教の地に「強いて」追いやるように船出をさせます。彼らが望んで先に行こうとしたのではありませんが、イエスは彼らを先に行かせる、先に行くように導くのです。
 
彼らは漁師でありましたから、漕ぎ出した時には長年の経験で十分船を操作出来ていたでしょう。しかし、夜の闇の中で、逆風と波に襲われ、進むことも戻ることも出来ない状態に陥りました。彼らの経験やスキルはなかったわけではなかったが、それも役に立たなくて、状況は不安そのものでありました。そこにイエスが水の上を歩くと言う奇跡的な、思いもよらない方法で彼らに近づかれ、彼らを助け出される。幽霊だといったときには弟子たちは死の恐怖を感じていたことでしょう。しかしそこで「イエスは来られる」私だ、怖れることはないと声をかけてくださるのです。
 
これはどの話もそうですが、湖の上の船とは福音書の書かれた共同体の例えです。マタイにもマルコにもヨハネ、ルカ共同体でも、迫害に追われて未知の地域に進まなくてはならない、また人が違えば伝道のやり方も変わりますから、未知の伝道の仕方というものに挑戦しなくてはならない、そういうことに直面させられたということを示しています。状況の中である意味では仕方なく選択させられて、共同体は未開の地に、あるいは方法に、踏み出していった。そこでは何とかかんとか、自分たちの今まで習得してきたノウハウでやっていくことが神から期待されています。そればかりではない、それではなかなかうまく行かないことさえ、予定されています。そこへ敢えてイエスは共同体を押し出していくのです。叫び、求め、祈っているとイエスが来られる。助けに来てくださる。
 
マタイだけはそのような情景に加えて、リーダー格のペテロの物語を付加しています。ペテロは自分も水の上を歩くことに挑んだのです。それはすごい挑戦だった筈です。今まで状況を怖れてわめいていたのに、自分もイエスのようにそれを超えた奇跡の力が欲しいとイエスに願ったのです。イエスに願いさえすればそれが可能であると、彼は信じたのでした。彼は果たして歩くことが出来た。少しですが歩けたのです。信仰の冒険が結実したのです。しかし、彼は困難な状況に気を取られた。イエスへの信頼よりも、波や風の方が怖くなった。そこで沈みかけた。そこでまた、「彼は叫ぶ、主よ助けてください。」またイエスに助けられる。そして船の中の人々、つまり共同体の人々はイエスの力を本当に知り、改めて彼に出会い、本当にイエスが神の子であるということを知ることが出来た。
 
私たちはこの物語から、「信仰の冒険」ということを学びたいのです。前半の物語では、未知ではあるが出来そうなこと、ノウハウの蓄積で何とか出来そうなことに押し出され、挑戦したが駄目だった弟子たちの物語です。後半は不可能なことに信仰の冒険によって挑戦して出来たのに、状況と自分の力を見たが故に、駄目になってしまう弟子の物語です。まず第一に神の導かれるところは、自分たちの経験や蓄積があっても、それでは通用しない領域であるということです。何とかかんとかやってみるように押し出される。しかし、押し出されたところではそれは通用しない。自分たちの見通し、見立てというものは全く廃絶される。そのことを私たちは覚悟しなければなりません。そこで助けを求めて与えられることを期待しなくてはならない。私たちは追い詰められ、改めて神によって強くされること、神によって支えられることを覚悟しなくてはなりません。
 
二番目に信仰を奮い起こして一段登った、自分の力を超えたことにチャレンジするように導かれる。見立てや常識を超えて、願い求めることを許される。助けていただけたことが私たちを力づけ、そのように導かれる。それをイエスは受けてくださる。「来なさい」と言ってくださる。私たちは信仰によって歩む時にそのような新しい領域に進むことが許されるのです。
 
三番目に、自分や状況を見たときに、それに気を取られることで、その企ては失敗する。自分たちにはそれは出来ないのではないか、分不相応なことを願い求めたのではないのだろうか、と自分を正確に見積もろうとした時に失敗する。自分を正確に見ることは信仰による冒険をする際には脇にのけておかなくてはならないことがあります。自分たちの状況の見立てというものを私たちはどうしても最優先させて考える癖があります。状況が悪いという見立て、やっても無駄だという見立て。例えば彼らに伝道しても効果はこれくらいのものだろうという見立て。しかし見立ての中でのみ営みを続けることには、本当に神の場所はないのであります。見立ての内側だけで生きるのなら、極論すれば信仰はいらないですし、それは信仰でさえもないのです。
 
もちろんここで私は本当にその適性の欠けた人に、総理大臣をやれというような無体な信仰の冒険を言っているわけではありません。状況の中で力づけられ導かれたなら、その導きを捉えて受けていくということです。
 
私は自分の置かれている場での伝道について、あるいはもっと広く日本での伝道について、一方で自分の見立てを正確にするように導かれながらも、それを同時に棄てることに向けての招きを感じます。見立ての中で絶望しながらも、神を信じきるように招きを感じます。先日もとある卒業生が不意に訪れ、自分の内面の空虚さについて吐露していきました。何かへの求めがある。それを彼は神だとは思っていないかもしれない。キリスト教に抵抗感を持っているに違いない。しかし、私には彼を神がここへ遣わしたことを感じました。何度彼のために祈ってもストレートに聖霊が入ってくる。思いがけないときに神の介入がある。それが伝道の業なのです。使徒言行録の二章47節を思い出させられました。
 
 
自分ではなくてただ、神への信仰に歩む。ただ、信頼に歩むことがここでも必要になります。ここで問題になるのは、どれくらい、このようなポジティブな冒険をする際にも、イザヤ書にあったように暗い道を歩いていた時に光を得なくても、神を仰いで居られたような経験があるかということ、イエスへの愛と信頼が育てられていたか、ということが問われてきます。
 
例えば病気の人が来て、癒しの祈りをして下さいといわれたときに、私は出来ないとは言わないことです。誰かケアが必要な人が来た時に受け入れられないとは言わないことです。伝道の対象となる人が来た時に、自分には証が出来ないとは言わないことです。私たちは願い求め、水の上を歩みだすように冒険を期待されています。それが出来るのは実はあなたが、神から相手にされずにただ暗闇に一人取り残されたように見える、それでも神を愛し慕い求めた時を持ったり、逆に孤独で神と二人きりになったときをどれだけ持ったか、そこで育まれてきた信頼関係、きずなに左右されます。そのような時にこそ、大切なものが作られているのです。
 
最後に失敗さえも、用いられるということです。ある程度の失敗は神は織り込み済みだ、とうことでしょう。失敗は神が介入してくださる契機になって、私たちは達成しきらなかったとしても、イエス御自身をよりはっきり知ることになる。私たちにとってイエスが誰なのか知ることが許される。何よりも大切なことは成功それ自体よりも、イエスを得ること、自分の救い主としてより深く知ることなのです。
 
信仰による冒険はイエスをより深く知る方法、道です。全てのプロセスにおいて、神がイニシアチブを取ってくださいます。そのような信仰の冒険に向かって歩みだしたいものです。
 
更新日時:
2007/03/08
   神の心を変えるほどの祈り
創世記18:16−33、ルカ18:1−8、Tヨハネ5:13−15
 
  先日鬼怒川オリーブの里に泊まってきました。一般の宿泊棟の他に露天風呂と更に祈りのキャビンが新設されていました。小さい本当に閉鎖空間です。それぞれのキャビンには旧約新約の祈りの人の名前が書かれていまして、ハンナの小屋、ヤコブの小屋のようになっていました。その中でひときわ大きいのが、ヨブの小屋でおそらくは誰か介助者と泊まれるか、バリアフリーになっているようでした。
 
 何度か申し上げていますが、旧約聖書の預言者や神の人たちには多くのダイナミックな信仰の持ち主がいます。私はそういう点で旧約聖書の中の人たちの信仰が好きです。彼らはそう簡単に神の前で折れないのです。
先ほどのヨブ記のヨブはそういう人の筆頭格でしょう。自分が理不尽にも与えられた苦しみについて、納得できないと言い続けて、最後には神ご自身を答として受け取ります。納得できないと言い続けた彼の信仰は評価されます。
 
 既に読みましたが創世記のヤコブもそうした人の一人でした。ヤコブはイスラエル人の父祖であるアブラハムの孫にあたります。「ヤボクの渡し」という場所での神との組討ち、つまり祈りによる格闘の記事で、彼は一人夜明けまで何者か、と格闘する。真正面からの命がけの組討ち、死闘を繰り広げる。神はヤコブに勝てないと見て、ももの関節を外す。それでもヤコブはつかんで離さない。祝福して下さるまで離しません、と主張する。勝って相手である神から祝福をもぎとろうとする。神はそうしたヤコブを祝福して下さるのです。
 
さて、今日はアブラハム自身の信仰です。アブラハムはイサク誕生の予告を受け取った後、罪に満ちた町ソドムを滅ぼそうとする神の言葉を聞きます。彼は五十人正しい者が居たら滅ぼさないで下さいと懇願します。神の意思を変えようとするのです。五十人より四十五人、四十人、三十人、二十人、十人と彼は数字を引き下げて交渉し、神の決定を変えて行きます。十人で数は終わっていますが、一人まで引き下げられても同じだったかもしれません。
 
彼の懇願の仕方にも注目したいと思います。神ご自身の正しさに訴えるという方法をまずはじめはとっています。お怒りにならずにという言い方もしています。神は怒るかもしれないという懸念か゛人間の側にはあるのです。それに対して神は決して怒らずに喜んで決定を変え続けていきます。むしろそのような「とりなし」の交渉をよしとされているのです。
 
 さて、新約聖書にも神の意思を変える人々の話が出てきますし、そのような祈りをイエスは良しとして賞賛しています。十一章の主の祈りを教えられた後で、夜中にパンを貸して欲しいといって訪れる友人の話を語られます。頼まれた方は面倒だと思っても執拗に頼めば与えてくれると語られています。つまり、面倒だという頼まれた側の基本的な感情、そして自分の生活のリズムを崩しても頼みを聞き入れてくださる、ということが語られているのです。
 
 今日の聖書の箇所では不正な裁判官の譬えを通して同じことが語られています。人を人とも思わない裁判官がいて、対照的にひとりのやもめ、つまり男性の保護の元にない非常に社会的立場の弱い人がいた。彼女の人権は侵害されていた−もしかすると亡くなった夫や父親の財産を侵害されようとしているようなことであったのかもしれません。自分を守って相手を裁いて欲しい、正義を執行して欲しいというのですが、しばらくの間は取り合わない。彼女は負けることなく訴え続ける。すると人間観、神観という動かしようのないものは別にして、うるさくて仕方ないから、という消極的な理由で彼は動く。自分の重い腰を上げるわけです。
 
ましてや、選ばれた民に対する神の態度はこのようではない。いつまでも放って置かれることはない。神は人を人とも思わない方ではないからです。
 
 受難の季節に入ってきましたから、ゲッセマネの話をしますが、最も古いマルコ福音書を見るときに、イエスの有名なゲッセマネの祈りは「この杯を私から取り除けて下さい。」と祈っています。イエスには自分が十字架にかかって果たすべき使命と言うものが十分理解できていたと思います。自分の生涯にわたっておそらく、なすべきことは動かしがたく示され、確実になっていったのだろうと思います。それが動かない神の計画のうちにあることも分かっていました。後半がそれを物語っています。しかし、前半では祈りによって神の心を変えることができるというスタンスを崩していないのです。それに対して時代の下ったルカ福音書では御心でしたらと従順なイエスを強調しています。
 
旧約の信仰、そしてイエスの信仰というものを受け継ぐのならば、私たちはどのように祈ればいいのでしょうか。私たちは祈る時に安らかな慰めを与えられます。聖霊を体験する時に愛に包まれます。新約の後の時代の人間としてそのような恵みを与えられています。祈りの中で私たちは自分が神に向かって自分が開かれる体験をします。信頼と自分のすべてをささげたい、という献身の思いが与えられます。このような思いはイエスが父なる神に対して持っておられたような信頼、神の子とされたしるしなのだと思います。それを基盤にして、私たちは執り成しの祈り、神の心を動かす祈りに向かって招かれている、ということがいえるでしょう。
 
神の心は決まってしまって動かない運命ではありません。それは祈りによってほだされて変わる可能性のある、あるいは私たちと共に状況を創りだして行くことを喜び、敢えてそのような余地を残してあるものであるということです。
 
誰かや何かが変わりそうもないということ、絶望的に見えることを私たちは始終経験します。歴史的にもキリスト教会は経験してきました。例えばローマ帝国の国教となったキリスト教は純粋さを失ってしまった。これではいけないと思って祈り求めた人々と共に神は修道院運動を起こされる。その後長く修道院運動としてカトリック内のリバイバルはなされていきます。教会の腐敗がこれ以上どうにも我慢できないと思われた時に、ルターというひとりの修道士を通して宗教改革がなされる。その繰り返しで二千年この方、教会は存続して来たのです。例えば教会の腐敗は上の二つの時代とどまるところを知らなかったことでしょう。このまま教会は駄目になってしまうことが神の御心であるかのように、一見見えていたことでしょう。神は何もしてくださらないと誰もが思っていたでしょう。しかし教会が駄目になることが神の御心であろうはずがないのです。現実がどうあろうと、それは違う。そこに気がついて誰がが祈り続け、とりなし続け、改革がなされていったのです。そう考えると神の御心は夜警のように目覚めた誰かに宿り、祈りを通じて協働し、現実を変えていく性格を持っていると言えましょう。
 
  先ほど読んだアブラハムの記事に戻りますが、どうして彼は執り成し手になったのでしょうか。それはソドムの人たちに対する憐れみの心があったから、であります。憐れみの心が与えられていたから、であります。言い換えればどうしようもないソドムを愛する心が与えられていたからであります。神の愛の心を分有していたからであります。執り成し手になることが出来るのは、その資格は、神がどうしようもないと思い、見棄ててしまったということさえ知りつつ、その対象を愛して滅びることは御心でないと祈り続ける心を与えられているということなのです。そのような心が与えられているということが召命であり、その人間が召命を与えられているという証拠なのでしょう。
 
誰かのことを憂いて、愛して、どうあっても祈り続けざるを得ないという心が与えられているのなら、それが召命であるといえましょう。日本のキリスト教会の現状を憂いてそれを敏感に感じさせられ、祈らされているのならば、それが執り成し手としての召命といえましょう。あらゆるものについて、状況において、その対象を愛し、憂い、祈らざるを得なくさせられること、それが神の子として神の愛を分け与えられて、その状況において火種となるための召し出しといえるでしょう。
 
あなたが憂いざるを得ないことは何ですか。そこがあなたの召命の場所です。あなたがそこで神と格闘し、共に創りだしていくことために召されている場所です。そこでイエスと共に祈り、闘って参りましょう。
 
更新日時:
2007/03/08

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Last updated: 2007/9/21