創世記18:16−33、ルカ18:1−8、Tヨハネ5:13−15
先日鬼怒川オリーブの里に泊まってきました。一般の宿泊棟の他に露天風呂と更に祈りのキャビンが新設されていました。小さい本当に閉鎖空間です。それぞれのキャビンには旧約新約の祈りの人の名前が書かれていまして、ハンナの小屋、ヤコブの小屋のようになっていました。その中でひときわ大きいのが、ヨブの小屋でおそらくは誰か介助者と泊まれるか、バリアフリーになっているようでした。
何度か申し上げていますが、旧約聖書の預言者や神の人たちには多くのダイナミックな信仰の持ち主がいます。私はそういう点で旧約聖書の中の人たちの信仰が好きです。彼らはそう簡単に神の前で折れないのです。
先ほどのヨブ記のヨブはそういう人の筆頭格でしょう。自分が理不尽にも与えられた苦しみについて、納得できないと言い続けて、最後には神ご自身を答として受け取ります。納得できないと言い続けた彼の信仰は評価されます。
既に読みましたが創世記のヤコブもそうした人の一人でした。ヤコブはイスラエル人の父祖であるアブラハムの孫にあたります。「ヤボクの渡し」という場所での神との組討ち、つまり祈りによる格闘の記事で、彼は一人夜明けまで何者か、と格闘する。真正面からの命がけの組討ち、死闘を繰り広げる。神はヤコブに勝てないと見て、ももの関節を外す。それでもヤコブはつかんで離さない。祝福して下さるまで離しません、と主張する。勝って相手である神から祝福をもぎとろうとする。神はそうしたヤコブを祝福して下さるのです。
さて、今日はアブラハム自身の信仰です。アブラハムはイサク誕生の予告を受け取った後、罪に満ちた町ソドムを滅ぼそうとする神の言葉を聞きます。彼は五十人正しい者が居たら滅ぼさないで下さいと懇願します。神の意思を変えようとするのです。五十人より四十五人、四十人、三十人、二十人、十人と彼は数字を引き下げて交渉し、神の決定を変えて行きます。十人で数は終わっていますが、一人まで引き下げられても同じだったかもしれません。
彼の懇願の仕方にも注目したいと思います。神ご自身の正しさに訴えるという方法をまずはじめはとっています。お怒りにならずにという言い方もしています。神は怒るかもしれないという懸念か゛人間の側にはあるのです。それに対して神は決して怒らずに喜んで決定を変え続けていきます。むしろそのような「とりなし」の交渉をよしとされているのです。
さて、新約聖書にも神の意思を変える人々の話が出てきますし、そのような祈りをイエスは良しとして賞賛しています。十一章の主の祈りを教えられた後で、夜中にパンを貸して欲しいといって訪れる友人の話を語られます。頼まれた方は面倒だと思っても執拗に頼めば与えてくれると語られています。つまり、面倒だという頼まれた側の基本的な感情、そして自分の生活のリズムを崩しても頼みを聞き入れてくださる、ということが語られているのです。
今日の聖書の箇所では不正な裁判官の譬えを通して同じことが語られています。人を人とも思わない裁判官がいて、対照的にひとりのやもめ、つまり男性の保護の元にない非常に社会的立場の弱い人がいた。彼女の人権は侵害されていた−もしかすると亡くなった夫や父親の財産を侵害されようとしているようなことであったのかもしれません。自分を守って相手を裁いて欲しい、正義を執行して欲しいというのですが、しばらくの間は取り合わない。彼女は負けることなく訴え続ける。すると人間観、神観という動かしようのないものは別にして、うるさくて仕方ないから、という消極的な理由で彼は動く。自分の重い腰を上げるわけです。
ましてや、選ばれた民に対する神の態度はこのようではない。いつまでも放って置かれることはない。神は人を人とも思わない方ではないからです。
受難の季節に入ってきましたから、ゲッセマネの話をしますが、最も古いマルコ福音書を見るときに、イエスの有名なゲッセマネの祈りは「この杯を私から取り除けて下さい。」と祈っています。イエスには自分が十字架にかかって果たすべき使命と言うものが十分理解できていたと思います。自分の生涯にわたっておそらく、なすべきことは動かしがたく示され、確実になっていったのだろうと思います。それが動かない神の計画のうちにあることも分かっていました。後半がそれを物語っています。しかし、前半では祈りによって神の心を変えることができるというスタンスを崩していないのです。それに対して時代の下ったルカ福音書では御心でしたらと従順なイエスを強調しています。
旧約の信仰、そしてイエスの信仰というものを受け継ぐのならば、私たちはどのように祈ればいいのでしょうか。私たちは祈る時に安らかな慰めを与えられます。聖霊を体験する時に愛に包まれます。新約の後の時代の人間としてそのような恵みを与えられています。祈りの中で私たちは自分が神に向かって自分が開かれる体験をします。信頼と自分のすべてをささげたい、という献身の思いが与えられます。このような思いはイエスが父なる神に対して持っておられたような信頼、神の子とされたしるしなのだと思います。それを基盤にして、私たちは執り成しの祈り、神の心を動かす祈りに向かって招かれている、ということがいえるでしょう。
神の心は決まってしまって動かない運命ではありません。それは祈りによってほだされて変わる可能性のある、あるいは私たちと共に状況を創りだして行くことを喜び、敢えてそのような余地を残してあるものであるということです。
誰かや何かが変わりそうもないということ、絶望的に見えることを私たちは始終経験します。歴史的にもキリスト教会は経験してきました。例えばローマ帝国の国教となったキリスト教は純粋さを失ってしまった。これではいけないと思って祈り求めた人々と共に神は修道院運動を起こされる。その後長く修道院運動としてカトリック内のリバイバルはなされていきます。教会の腐敗がこれ以上どうにも我慢できないと思われた時に、ルターというひとりの修道士を通して宗教改革がなされる。その繰り返しで二千年この方、教会は存続して来たのです。例えば教会の腐敗は上の二つの時代とどまるところを知らなかったことでしょう。このまま教会は駄目になってしまうことが神の御心であるかのように、一見見えていたことでしょう。神は何もしてくださらないと誰もが思っていたでしょう。しかし教会が駄目になることが神の御心であろうはずがないのです。現実がどうあろうと、それは違う。そこに気がついて誰がが祈り続け、とりなし続け、改革がなされていったのです。そう考えると神の御心は夜警のように目覚めた誰かに宿り、祈りを通じて協働し、現実を変えていく性格を持っていると言えましょう。
先ほど読んだアブラハムの記事に戻りますが、どうして彼は執り成し手になったのでしょうか。それはソドムの人たちに対する憐れみの心があったから、であります。憐れみの心が与えられていたから、であります。言い換えればどうしようもないソドムを愛する心が与えられていたからであります。神の愛の心を分有していたからであります。執り成し手になることが出来るのは、その資格は、神がどうしようもないと思い、見棄ててしまったということさえ知りつつ、その対象を愛して滅びることは御心でないと祈り続ける心を与えられているということなのです。そのような心が与えられているということが召命であり、その人間が召命を与えられているという証拠なのでしょう。
誰かのことを憂いて、愛して、どうあっても祈り続けざるを得ないという心が与えられているのなら、それが召命であるといえましょう。日本のキリスト教会の現状を憂いてそれを敏感に感じさせられ、祈らされているのならば、それが執り成し手としての召命といえましょう。あらゆるものについて、状況において、その対象を愛し、憂い、祈らざるを得なくさせられること、それが神の子として神の愛を分け与えられて、その状況において火種となるための召し出しといえるでしょう。
あなたが憂いざるを得ないことは何ですか。そこがあなたの召命の場所です。あなたがそこで神と格闘し、共に創りだしていくことために召されている場所です。そこでイエスと共に祈り、闘って参りましょう。
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