集会メッセージ

新しいものばかりです。
古いものは「深谷こころの学校」をご覧下さい。
   キリストを心いっぱいに味わう
 先ほどお読みした詩は賀川豊彦の「涙の二等分」という詩です。神戸の新川の貧民屈に住み着いた賀川豊彦は殺人事件があって血のりがついた家で暮らしていました。腸チフスで死にかけた子供を警察から引き取ってきた賀川は、ミルクを与えなくてはならずに夜昼なくケアをして、しかし結果的には四十五度の熱と栄養不良で梅干のようになって脱水症状で死んでいく幼子を抱えて歌った詩です。途中女性に対して、また被差別の方々に対して差別語が出てくることは時代的に差し引いて聞いていただきたいのですが、賀川の悪戦苦闘がよく描写された詩であると思います。
 
 子供はどういう子であったか、といいますと「貰い子殺し」がつかまった後に残された子供でした。賀川は「貧民心理の研究(大正四年)」という本の中で貰い子殺しについて書いています。それによれば日本における貧民に特徴的な犯罪であり、貰い子専門の口入屋があって、不倫の子や私生児など事情があって望まれないで生まれてきた子供を15円から二十円を受け取って引き取り、放置して虐待死させてしまうのだそうです。15人殺したという記事もあって、一度それが身につくと苦もなく金銭が手に入るので常習化するのだそうです。そういう貰い子が明治四十四年の調査では日本橋と難波だけで三百八十四名おり、半分以上はその年のうちに殺される。つまり、一般家庭の養育困難の子供を安全に殺す方法として確立していたのでした。賀川はこのような貰い子殺しによる虐待死の葬式を依頼されることが年に数件あったようです。つまり貰い子殺したちは殺した子供の葬式代がないために賀川にキリスト教の葬儀を依頼するのです。死体は干からびてそれこそ梅干のようであったといいます。それについて小説「死線を越えて」の中でこんな所感を述べています。「(虐待死した子供を見て)栄一は全く憂鬱になった。そして急に貧民屈とその恐ろしい罪悪がいやになった。彼は絶望的に悲鳴をあげて神を呪いたいと思った。神は愛ではない。暗黒と絶望と死と貧乏の創造主だと罵りたかった。」そのような貰い子殺しの家は娘や自分の妻に売春させて食いつないでもいました。本当にどうしようもない人間としての崩壊の中に生活していたわけでした。
 
さて、クリスマスに「貰い子殺し」の話をしたのは、人間の中にキリストが赤ん坊として生まれてくるというリスクについて考えてみたかったからです。ヨハネ福音書は言葉、つまり神は人となって肉体を取ってこの世に生まれられたと語ります。このことを「受肉」といいますが、これは単に一人の人なって生まれたということではないのです。それは神が「人間の本性」を取ったということ、イエス・キリストの誕生を通して人間性そのものをとったということなのです。すべての人間の持っている肉体的精神的限界、痛み、社会的状況、発達の道筋、日常生活そのような一般的な人間の特徴のすべてを引き受けられたということです。貰い子殺しで死んでゆく子供たちは無防備な姿で生まれる赤ん坊のリスクを凝縮したような存在です。人間の罪によって―多くは一般社会の未婚妊娠、不倫等による妊娠で、現在であれば中絶されてしまうような子供が―生まれ、欲得によって売買され、虐待死させられる。人間の世界に無防備で生まれてきた赤ん坊は弱い、抵抗することが出来ない存在です。病気に対しても飢餓に対しても気候の変化に対しても弱い存在です。また他者に全面的に依存し、自分を他者の善意に委ねなくては生きていくことが全く不可能です。他者にむき出しの自分の体を曝し、便や尿を曝し、全てを委ねなくては生きられない。赤ん坊として生まれるとはそのように無防備な限界に閉じ込められた存在になり切ることであり、人となること、受肉することの初めの極地を表しています。
 
そのことを考える時に二つのことを教えられます。一つは人間性というものを、またその限界というものを神は極みまで引き受けきられる方なのだ、ということです。赤ん坊であるキリストは乳を飲んだでしょうし、オムツを尿や便で汚したでしょう。そのような乳を吸うこと、便でオムツを汚すことさえも、神はつまらないこと、汚れたことであるとは思われなかったのです。ルカに宿屋には泊まる場所がなかったとありますが、そのような社会的な疎外状況も神は引き受けられた。神は特別な場所を用意して王宮に生まれることだって出来たはずです。しかし、そうはなさらなかった。貧しい人間の生活を引き受けられた。軽蔑されなかったのです。価値のあることと考えられたのです。
 
神は人間となって生き、人間として悩み、人間として苦しむことを決して軽蔑されなかった。とても大切にされたのです。そのスタートライン、一つの極地がこのクリスマスであったといえるのです。そしてそれは生涯を貫き、やがてはもう一つの極地である、もっとも苦しい人間的な限界そのものを自分のものとする十字架の死に行き着きます。復活された時でさえ、神は十字架で受けた手足の傷を残しておられました。肉体を引き受けておられたのです。
クリスマスのメッセージはすべての人に対してこう語りかけます。「あなたがたは受け入れられている。神はあなたがたをさげすむようなことをせず、あなたがたすべての限界だらけの人間としてのあり方をそのまま受け入れたのだ」と。
 
鬱々として眠れない夜や怒りや恐怖で眠れない夜を過ごすことがある人にはあるかもしれません。キリストも十字架につけられる前の夜に恐怖と葛藤の中で眠れない一夜を過ごしたことはご存知の方は多いかもしれません。眠れない夜を過ごす時、私たちは誰でも言うことができるのです。「この眠れない辛い夜を神は知っておられる。何故なら彼はそれを自ら通られたのた゛から。」眠れない闇のしじまに、眠れなかった経験を持つ神がいる。眠れなかった経験を通して私たちと共にいる。それが神が肉体をとられたということの深い意味なのです。
 
さまざまな能力や体力の限界にかかる時にも私たちはこう言うことができます。「このような限界があることは恥ずかしいことではないのだ」「疲れること、出来ないことは厭うべきことではないのだ」私たちの人間的な限界は神によってご自分のものとされているからです。もしも誰かが「自分の全本質は絶望だ。救いようがない。私は永遠に失われた者だ」と嘆くとしてもクリスマスのメッセージはこう叫び続けるのです。「あなたの本性、本質のすべては受け入れられている。私、イエスがそれを担うのである。私はそれを受け入れることによってあなたの救い主となったのである」
 
 次に私たちが教えられることは、神はとことん人間を信じておられた、ということです。イエスの場合にも、もしマリアが乳をあげなかったら死んでしまうし、おむつを替えてくれなかったら便まみれになってしまう。もしヨセフが暴力的な父親だったら、彼は生きていくことが出来なかった。また、生まれる世の中はどんな世の中でしたでしょうか。おそらく、今と同じように力による支配がまかり通り、正義はどこかに翳んでしまい、ローマ的な成功哲学による価値観が人間の心を支配する世の中であったでしょう。今の世の中より、賀川の貧民屈の人間たちより昔の方が少しでもましだったとは到底思えません。神の目から見て、信じるに値する世の中であったとは思えないし、今よりもひん曲がっていなかったとは到底思えないのです。そういう世の中に無力な者として生まれてくる。そのことには大変なリスクがあった筈です。そのリスクを冒して、信じるに値しない人間たち、その人間たちの作り上げたひん曲がった世の中であることを知りつつ、他者に全面的に依存するしかない存在として敢えてそこに身を投げられたのです。そこで信頼の眼差しをまず、投げられたのです。信じられない人間たちをまず、信じきられたのです。
 
私たちは日常人間に失望、あるいは絶望することが多くあります。あるいは社会に絶望をいたるところで感じさせられます。私たちはそこで人間に対して社会に対して心を閉ざしてしまおうとする衝動に駆られます。しかし、待って下さい。神は信じられない人間たち、信じられない私たちであるにもかかわらず、信頼する眼差しを投げられるのです。そこから何かを創り出そうとされるのです。そして私たちを同じ眼差しを持つよう、導かれるのです。私たちはこの信頼の眼差しにどのように応えていくのでしょうか。
 
さて、このクリスマスは集会の常連の人たちが皆洗礼を受けてクリスチャンになってはじめてのクリスマスです。私には大変な感慨深いものがあります。こんな日を与えられるとは夢にも思っていませんでした。クリスチャンとして歩みとはヨハネ1章16節のようにキリストの満ちあふれる豊かさの中から恵みの上に更に恵みを受ける、キリストを心いっぱいに味わう旅です。自分の限界にかかる時に、社会や隣人に失望する時にこそ、キリストの恵みは深く、より深く、体験されて来ます。キリストとの愛の絆は強く深くされていきます。クリスマスにあたり、キリストの内側に置かれて本当に心いっぱいにキリストを味わってください。
 
更新日時:
2006/12/26
   クリスマスメッセージ 05
今日洗礼を受けたH君がちょっと前まで盛んに言っていた言葉に「何でキリスト教なんだ。他にも宗教はある。どうしてそれなのにキリストだけが神なのか分からない。」という言葉があります。今日から彼もこのような問いかけに自分の答えを常に用意しなくてはならない立場に逆転してしまいました。すでに洗礼を受けた人たちは何故キリストが自分の神なのか、借り物でない自分の答えをきちんと考えて生きて欲しいのですが、この問いに私が答えるとすれば「自ら人となって生まれ、生き、そして死ぬほどに、人間に深い関心を示された神は他にいないから。」であると今は答えるでしょう。
 
 ヨハネ福音書の一章にあるように、「言葉」これはロゴスという言葉であり、キリストご自身をさすのですが、は天地創造のときから神と共にあり、神ご自身でした。キリストが全てを創った。キリストによって創られなかったものは何一つなかった。そのキリストは「肉となって私たちの間に宿られた」つまり人となって肉体を取ってこの世に生まれられた。このことを「受肉」といいますが、これは単に一人の人なって生まれたということではなかったのです。それは神が「人間の本性」を取ったということ、イエス・キリストの誕生を通して人間性そのものをとったということなのです。すべての人間の持っている肉体的精神的限界、痛み、社会的状況、発達の道筋、日常生活そのような一般的な人間の特徴のすべてを引き受けられたということなのです。
 
 赤ん坊であるキリストは乳を飲んだでしょうし、オムツを尿や便で汚したでしょう。そのような乳を吸うこと、便でオムツを汚すことさえも、神はつまらないこと、汚れたことであるとは思われなかったのです。ルカに宿屋には泊まる場所がなかったとありますが、そのような社会的な疎外状況も神は引き受けられた。神は特別な場所を用意して王宮に生まれることだって出来たはずです。しかし、そうはなさらなかった。貧しい人間の生活を引き受けられた。軽蔑されなかったのです。価値のあることと考えられたのです。
 
 神は人間となって生き、人間として悩み、人間として苦しむことを決して軽蔑されなかった。とても大切にされたのです。そのスタートラインがこのクリスマスであったといえるのです。そしてそれは生涯を貫き、やがてはもっとも苦しい人間的な限界そのものを自分のものとする十字架の死に行き着きます。復活された時でさえ、神は十字架で受けた手足の傷を残しておられました。肉体を引き受けておられたのです。
 
  クリスマスのメッセージはすべての人に対してこう語りかけます。「あなたがたは受け入れられている。神はあなたがたをさげすむようなことをせず、あなたがたすべての限界だらけの人間としてのあり方をそのまま受け入れたのだ」と。
 
鬱々として眠れない夜や怒りや恐怖で眠れない夜を過ごすことがある人にはあるかもしれません。私もつい先日、私にしては珍しいのですが、心が痛んで焼け付くような夜を一晩過ごしました。キリストが十字架につけられる前の夜に恐怖と葛藤の中で眠れない夜を過ごしたことはご存知の方は多いかもしれません。聖書には書かれていませんけれども、どのくらい残酷な死に向かう中で彼はそのような夜を過ごされたことでしょう。心が辛く苦しくて眠れない夜を過ごされたことでしょう。眠れない夜を過ごす時、私たちは誰でも言うことができるのです。「この眠れない辛い夜を神は知っておられる。何故なら彼はそれを自ら通られたのた゛から。」眠れない闇のしじまに、眠れなかった経験を持つ神がいる。眠れなかった経験を通して私たちと共にいる。それが神が私たちと共にいるということの深い意味なのです。
 
 孤独であることは辛いことです。特に誰かの中にいつもいながら、表面的には楽しく過ごすことが出来たとしても、理解されないことは辛いことです。しかし、イエスの生涯はいつもそうだった。子供の頃から家族には理解されなかったであろうし、伝道を始めることも理解されなかったであろう。弟子たちにも理解されなかったという記事が沢山聖書には出てきます。そして最後まで理解されずにあるいは復活しても理解されずにいる。だから孤独であること、理解されないことの苦しみの場にキリストは今も立っておられます。
 
 愛した人たちに裏切られる痛みを背負うのはやるせないことです。その人のために祈った時間、その人と共に歩いた時間、過ごした場所、空間のすべてが牙を剥いて襲い掛かってくるように感じます。その人の空間が大きければ大きいほど心の痛みも強く、想いが深ければ深いほど、心の受けるダメージも強いのです。何故、という問いに苦しみます。どうして自分は裏切られなくてはならなかったのか?と。自分の苦しみを相手に思い知らせたいという気持ちに支配されそうにもなります。しかし一方、赦そうという自分もいて、その間でバトルが繰り広げられて心はうめき声をあげてのたうちまわります。しかし、神はその中にも立っておられます。それは彼自身が深い思いを抱いて育て、守り続けてきた愛する者たちに裏切られ見棄てられて十字架にかかられたからです。愛するペテロに知らないと言われ、愛してきたユダにはキスをされて裏切られました。愛し、癒し、共に過ごしてきた民衆たちは彼を十字架につけた人々にもなったのです。
 
 アメリカ人のジャーナリスト、フィリップ・ヤンシーの書いた「痛むキリスト者と共に」という本の中に一人の中途障害を負った女性ジョニーが出てきます。この人は十代のある日、浅いところに飛び込んでしまって全身麻痺してしまったのです。両足は全く動かず、片手がわずかに動く程度です。手以外に感覚がないので、ひどい床ずれになって手術しても麻酔の必要がなかったそうです。手術後はじめて自分の姿を鏡で見たときに、化け物のような自分の姿に絶望して殺してくれ、死ぬのを手伝ってくれ、と友人に頼みさえしました。そして自分の障害を受け入れていくのに約三年かかりました。その間の彼女は平均的なアメリカ人という意味でクリスチャンではありましたが、すっかり絶望していて、もう自分には何もないし、人生には何も残されていない。恋も結婚もだめであると感じていました。神に心を向けることは出来ませんでした。おまけに麻痺患者特有の激しい背中の痛みがあったのです。
 
  しかし、あるとき、親友が彼女に言った言葉が彼女の人生を全く変えました。親友はこういったのです。「ジョニー、イエス様はあなたがどう感じているかご存知だと思うわ。こんなふうなのはあなただけじゃないのよ。そうよ、イエス様も麻痺患者だったのよ。」ジョニーは親友をにらみました。「何ですって。一体何が言いたいの。」「本当なのよ。覚えているでしょう。イエス様が十字架で釘つけにされたことを。イエス様の背中はうち傷で皮がむけていて、位置を変えるか、重さのかかり方を変えたいと思われたに違いないわ。でも出来なかった。釘付けにされて体が動かせなかったからよ。」神が自分と同じ痛みを感覚として実体験している、ということがジョニーの慰めになりました。この日から神は彼女にとって限りなく近い存在になったのです。
 
 賛美歌の532番の二番に「主の受けぬ試みも、主の知らぬ悲しみも現世にあらじかし、いずこにもみあと見ゆ」という歌詞があります。意味は「キリストの経験しなかった試練、経験しなかった悲しみは存在するはずがない。どこにでもキリストの歩かれた道がある」という意味です。今のストーリーの中で言えば「イエス様は不眠症患者だったよ」「イエス様はバーンアウトだった」と無限に言うことができるのです。
 
  自ら人となって生き死ぬほどに人間に深い関心を示され続ける神は、私たちと共に生きて死ぬことによって何を成し遂げられようとなさったのでしょうか。 賛美歌の532の歌詞を読むと、光が肉をまとったということの更に奥深い真理が読みとることができます。神がすべてを知っていてくださる。このことだけでも私たちにとっては深い慰めです。私たちは神に信頼し、交わりを持ち、愛のうちに神に結ばれます。そして「幸ならぬ禍もなし」つまり、「幸福でない不幸はない」というように変えられます。先ほどのジョニーもそうでした。彼女は障害を癒されませんでしたが、その時から神の愛を証する人となりました。公演活動などで引っ張りだこにさえなったのです。自分の痛みが神に知られ担われているということが、自分の人生の意味を全く変え、障害を賜物として受け取るようにされていったのです。
 
 つい先日神学校の先生が話していました。「自分の父親は盲人で盲人伝道をした牧師だった。父親はよく言っていた。自分は盲人にならなかったらこんなに素晴らしい神様に出会えなかった。もし人生がもう一度あってももう一度盲人になってもいい。重い言葉でした。それを聞いて育って僕も牧師になりました。」光が肉をまとうということは私たちの肉も、限界だらけの私たちの存在自体が光へと変えられて行くことでもあるのです。光へ向かって純化されていくことができるということでもあるのです。
 
  もしも誰かが「自分の全本質は絶望だ。救いようがない。私は永遠に失われた者だ」と嘆くとしてもクリスマスのメッセージはこう叫び続けるのです。「あなたの本性、本質のすべては受け入れられている。私、イエスがそれを担うのである。私はそれを受け入れることによってあなたの救い主となったのである」
 
更新日時:
2006/12/26

PAST INDEX FUTURE

戻る


Last updated: 2007/9/21