(1)
私は昭和21年6月4日生まれ。
誕生日を聞かれて「かろうじて戦後の虫歯予防デーよ」と答える時と、「終戦の申し子よ」と答えるときがある。
昭和20年8月15日の終戦の日。職業軍人だった父は生きていく目的を失い、皇居の前で「死のう!」と思ったそうだ。もし、その年の3月に結婚した母の顔が脳裏をかすめなっかたら本当に死んでいたのではないかと思う。
その日、母の元へ父が帰ったから、十月十日後の私の誕生があった。だから私は終戦の申し子・・・と言うわけ。
その父が東京で終戦を迎えられたのも偶然がいいように働いたおかげと言える。小さな隊を引き連れて満州に渡っていた父に、日本に帰ってくるようにと言う指令が届いたのはもう戦争が終盤にかかっていたころ。
自分の隊を残し単身帰京した父を待っていたのは、朝霞の兵学校の教官と言う役職と上官が決めてくれた母との結婚だった。見合いどころか顔も見ないままの結婚式。でも戦時下の困窮した中で結婚式もし、花嫁姿の写真を残せたのも軍人だったおかげだろうか?
父が満州に残してきた隊がサイパンに渡り玉砕したと知ったときのショックは想像をはるかに超えるものだったらしい。
私が大学を卒業した年。父の「サイパンにお地蔵さんを建立したい。」と言う願いをかなえるために、工事をする石屋さんの案内役・通訳(?)として一週間サイパンに滞在できたのも、父が日本に帰ってきて母と家庭を持ったから。
人間なんてそんなちょっとした偶然が重なって誕生し、人生を送るものだと漠然とした人生観を持っていた私に、「違う!私の命は与えられている」と強烈に感じさせる事件がおきたのは大学二年生の終った春休み。
(3)
スキー学校の先生たちがスノーボートで助けに来てくれたころは私の体はほぼ雪の中にすっぽりと埋まっていたらしい。
日大の診療所までおりるときは頭を下にして寝かされ搬送されるので、ゆれる度に足が痛んだ。
おニューのストレッチパンツをはさみがざくざくと切り裂いてゆく。「二本とも折れている。すぐに手術しなくちゃ。」「ご両親が車で迎えに来るそうです。あちらの病院で手術の準備をして待っているそうです。」
とりあえず須坂の市民病院で応急処置を受け、スキー学校の先生のお宅で一泊させてもらうことになった。
両親が来るまでの一晩、傷がうずき眠れなかった。私を助けてくれた人が最後でリフトが止まった話を聞かされ、初めて自分が死と隣りあわせだったことに気付いた。背中を冷たい汗水が流れるのを感じた。
結局、私の倒れている位置と状況を告げただけで名前も名乗らず去っていった人のことは今も何もわからない。
人生の節目節目で思い出し、何か探す手がかりを・・・と思いつつ、日常の雑用に追われ思い出しては消え、消えては思い出すという状況。
あれは誰だったのかしら? 人ではなく、神様だッたんだろうか?
その後の39年の、小説よりも奇なりの波乱万丈の人生を思うと「この時から私の人生は『与えられた生』になったのではないか」と思う。
今、まるでこわいもの無しのように言われながら日々を送っているのもこの経験があったからではないだろうか?
私の小学校、幼稚園時代を知る人は今の私を到底想像できないという。幼稚園のころは、いつも仲のいい友人の後ろに隠れるようにくっついて歩いていたし、小学1年生の担任につけられたニックネームは「お人形さん」。まず手を挙げて自分から発表することはない。誰かが手を貸さなければいつまでもその場でじっとしている。
小学校2年生の通信簿(そのころはこう記されていた)には「しっかりと頭の上まで手を挙げましょう。蚊のなくような声ではみんなに聞こえません。もっと大きな声でしゃべりましょう」
教育熱心だった両親のおかげで6年生の時には同じ6年生を受け持っている先生に家庭教師をしてもらい、憧れだった私立中学にも入学できた。
まるでお嬢さま(?)のような少女時代をすごせたから、自分から主張しなくてもほしいものが与えられたし、人見知り、赤面症に悩まされていたのであまり人前に出たいとも思っていなかった。
そんな少女時代を知っている人が今の私を見たら驚くのは当たり前。19歳の時に死の一歩手前から、生を与えられ私の人生が再出発したのだから。
(4)
私はいい母親でもいい妻でもない。ましてやいい主婦でもなかった。いつも自分が中心でなければ満足できない性格らしい。ただ家族を放りだしてまで何かをしたいと言うほどの強い信念の持ち主でもなかったので、その時その時を一生懸命生きてきただけのように思う。
与えられた課題に懸命に努力するという姿勢は終始一貫している。これが災いして(?)今、政治の道を歩んでいる。一触即発、夫婦の危機は今でもないわけではない。事実、我が家では離婚届の用紙を挟んで話し合いしたことが2〜3度ある。夫の選挙運動を熱心にすればするほどはまり込んで行き、どっぷりと漬かってしまう。気がついたときには周辺まで巻き込んでいる始末。
世間で言う母親や妻の役割を十分に果たさなかった分、家族からは主婦としては、あまり頼りにされていない。息子2人はとても仲がよくお互いに助け合っている。其れもそのはずで、親不在の孤児のような感覚で育っているから・・・
料理が得意で良妻賢母に見えた(?)から結婚したのに、選挙にかかわりだしてからの15年余りは手抜き料理ばかり食べさせられて、不満の持って行きようのない夫。お茶ひとつも入れられなかった夫が、今ではそうめんを湯がいたりお餅をレンジで「チーン!」できようになった。
一時はやめていたゴルフに熱中して度々午前様になるが、新婚当時のようにやきもきするでもなく、フェリーの時刻にあわせて深夜車で迎えに行く。
愛情でもなければ義務でもない、ただなんとなく私の仕事だと思っているから。
私が視察で外泊したり、仕事で飲んで遅くなったりすることをとても嫌がっていたが、最近は、玄関先でじっと座って待っていたり、外から開けられない扉の鍵を施錠してしまったりということはなくなった。さすがにもう女房につく虫などいないと思ってているのだろう。
喜んでいいのか悲しんでいいのか?
気持ちはまだまだ青春のつもりが、確かにおなかの脂肪と共に貫禄のついたこの体では仕方ないだろう。
(5)
思えば、わたしの人生が変わったのはあの雪の日からか?
当然、スキー部の合宿が始まる前に県立病院へ直行。山さんに会えないまま、春休みまるまると数週間をベッドの上で過ごした。「お見舞いに行くよ!」という言葉に一縷の望みをかけて待ったが結局、暮れなずむ春の夕方、屋上で「今日も来なかった・・」と涙をこらえながらため息をつく日々の連続。
松葉杖をついてでも会いに行けば、私の人生は今とはまったく違ったものになっていただろうに!
就職準備に忙しい彼の気持ちを惹きつけるまでも行かないままに淡い恋の終わりが近づいてきた。
そういえば私はいつも勝手に恋に恋していたみたい。彼と食事をしたり、お茶を飲みながらまともに目を見て会話をせず、「どこを見てるのかわからない、」と言われたり、風邪を押して京都を案内してくれている彼に妙に遠慮して「もう帰ろうかしら?」「疲れているんでしょ?」と繰り返したり。少しずつピントがずれていた。
東京に就職した彼が「京都に帰ってきたから」と、久しぶりの誘いの電話をくれたのは、骨折してから半年近くたった初夏のある日。
何処へ行きたいのか聞いてくれるでもなく、なんとなく車で洛北を行ったりきたり。『どうして連絡をくれたのか?』 真剣に彼の心と向き合っていれば分かったはずなのに。悔やんでも後の祭り。
円通寺を出たころには日がとっぷりと暮れていた。付き合い始めて1年近い月日がたっている。決して早すぎることのないファーストキスの瞬間。心待ちしていたはずのその時になって、あろうことかすごく激しく抵抗してしまった。どうして・・・・・?
われに返ったときはもう遅かった。「かわいくないね。もっと素直になったら? 送っていくよ。」
京都から西宮までの車の中でずっと沈黙が続く、唇の周辺だけがドキンドキンと脈打っている。
今でもその感触を思い出すことができる。体で覚えている感触というものがいくつかあるが、ファーストキス(と言えるかどうか?)の後のあのなんともいえない感触もその内の一つ。結局のところは、恋に恋していただけで、その人にすべてを任せることはできなかった私の恋は、その切ない感触だけを残してジ・エンド。
今でもその時の痺れた感覚を懐かしく思い出すことはあるけれど、ただそれだけ。その君がこの地球のどこかでこのおなじ空気を吸っていることなどトンと忘れて毎日忙しく飛び回っていた。そう!1年前までは!
山さんを思い出させる彼が突如目の前に現れた。何の前触れもなく。記憶がドンドンさかのぼって行く。私が与生を貰ったあの日迄。
(6)
淡い恋心が消えてから、私はキャリアウーマンの道を志した。栄養士として一生働きたいと思った。職場の環境はばっちり整っているし、国家公務員としての道は保障されている。そのころの女性の給与としてはまずまずの収入があったし、大学病院の中で好きなだけ勉強しながら管理栄養士の資格も取った。
小児科の担当だった私は、当時ネフローゼで何年も入院している子供やサリドマイド禍の犠牲になって誕生した子供たちを多く見ていたので、結婚して子供を産むと言うことに消極的になっていたのかも知れない。
とにかく仕事が面白かった。現場には50人からの調理専門の人がいるので実際に料理をすることはほとんどなかったが、「小娘が・・」と馬鹿にされたくなかったので自分で書いた献立表は実際自分で作って見たりして自信のあるものを出した。無塩の食事やおやつなど特に気を使う子供の分は調理場に行って一緒に調理もした。また勉強と称して、調理長や先輩たちとしょっちゅう食べ歩きをしたし、医局や医師の開くパーティーなどの料理を任されることがしばしば。
研修医や新任の先生などに一目も二目も置かれ、ちょっと怖がられていたけれど、料理人としての腕もなかなかだった主任栄養士の手ほどきで、みんな口も目も手もこえていたように記憶している。
大学病院に勤めて2年が過ぎ、仕事がますます面白くなりだしたころ、教会の牧師さんから一人の男性を紹介された。正式に言うと、私と同じ教会の信者で高校のお習字の先生をしている人の甥が花嫁募集中で、教会へ家族と一緒に礼拝に来ていたのが、その男性である。
私の両親は熱心な仏教信者で、小さいころお坊さんが家に泊まりに着ていたのを覚えている。
私を近所の女子大に入学させたのは、小児喘息で体が弱かった私の将来を案じたから。中学校から大学まで10年間ストレートにいけるということだけに気がいっていて、ミッションスクールだと言うことには頓着しなかったらしい。
多感な思春期をキリスト教に触れた私が、親の説得も聞かず洗礼を受けたのは高校二年生のクリスマス。
もし結婚するなら宗教が同じ人がいいと思っていた私の前に現れたのが今の夫。とにかくお付き合いだけでもと言うことになった。
教会の牧師先生の顔を立てるつもりで2度、3度と会っているうちに彼の優しい性格に惹かれるようになった。
夫の父が兵庫県内の町村会長という役職につき、公務で時々神戸の事務所を訪れていたのも大きく影響したのだろう。「お昼一緒にどうですか?」と運転手がわざわざ誘いに来てくれるものを断れるはずがない。そのうち夫の両親と一緒に新居探しをするようになってはもう逃げられない。ぎりぎりまで勤めながら結婚の準備をした。
(7)
スキーで骨折した足の傷はまだ生々しく残っているのに、私の心の中から山さんの影が薄れていっていることすら気づかないくらい、どたばたと結婚生活が始まった。
誕生日と言える日が二回あるように、私には結婚記念日が三回あるといっても良い。第1の記念日は、もちろん世間で言う結婚記念日なるもの。神戸のキリスト教の教会でのウエディングとオリエンタルホテルでの披露宴。ウエスト52センチのウエディングドレス(細かった私の証拠として、今も大事にとってある)に身を包み、近所の人に見送られて教会へ。5メートルのヴェールを引きずり、従姉の子供たちに先導されてヴァージンロードを歩いた日。場所を換えての披露宴も盛大に開催されたが、あのころ花嫁は料理に口をつけてはいけなかった。次々と片付けられていくお料理を恨めしそうに眺めながら、何も口にすることなく、優雅に笑顔を振りまいているうちにお開きとなる。
翌日からの新婚旅行のためと、わずらわしいことから逃れて二人だけになりたいと言う夫の希望で、厚塗りの化粧もろくに落とさないで新幹線に飛び乗り東京へ。私もそのころはしとやかだったのだろう、おなかがすいていると言えず、ホテルで空腹に耐えた思い出が強烈に残っている。
体力を使い果てて後のハネムーンの始まりは、失敗の連続だった。羽田にあわてて行ったためにホテルのたんすのハンガーにコートをかけたままの出発となる。
25日間の新婚旅行中ずっと旧姓で呼ばれるのはいやだと言う私の願いを聞き入れてくれて両親に内緒で入籍した日、挙式の6週間ばかり前の2月9日だった。灘のおじさん(例のお習字の先生)を説き伏せ婚姻届に捺印してもらった帰りはすごく寒い日だったのを覚えている。これが第2の記念日。
時々勃発した軽い喧嘩を除けば「ミセス大谷」ですこぶる快調なハネムーンをすごせた。(世界一周ツアーに参加してどこに文句があるの?といわれればそれまで。)
3回目の記念日は、現在では当たり前かも知れないようなこと。いいえ、もしかしたら「そんなことが記念日になるなんて・・・」と笑われるかも知れない。今これを読んでいるあなたはどうかしら?
(8)
そう! ロストヴァージンの日が私の三つ目の結婚記念日。昨今の世情から言えば、これが記念日に入るなんて、「なんて古めかしい!」と思われるでしょうね?
京都に学生時代の家を置いたままにしている彼とのデートはやはり京都が多かったが、お手伝いのおばさんがいたので、二人きりになるチャンスはほとんどなかった。その上彼の妹がピッタリくっついて離れない。やれ「トランプをしよう!」とか「ボーリングに行こう!」とひっきりなしに誘う。
業を煮やした彼が食事に出かけた京都ホテルで部屋を取った。後はご想像どおり。
結婚式の半年前の9月26日の出来事だった。秋の夜長というにはまだ早い頃。
京都から西宮への車中、少し汗ばむ額にハンカチを当てながら、「山さんが送ってくれた時は真冬で寒かった。」なんて、霧のようなぼんやりとした記憶が脳裏をかすめたのを覚えている。
人生なんて偶然の重なりだろうけれど、ジンジンする唇の感触以外何も記憶に残っていない同じ道筋を、同じように車で送られながら辿っていたもう1つの偶然。夫の京都の家は下賀茂神社の一筋北(京都風に言えば一筋上がったところ)そして山さんの家はその又一筋上がったところ。
山さんを思い出させるきっかけとなった善さんは雪深い新潟の田舎から出てきて下宿していたが、洛北高校から京大へ受かった山さんは下賀茂の自宅から通学していた。
よちよち歩きの長男を散歩させながら、わざわざ回り道をして山さんの家の前を2〜3度通ったこともあったが、それも数年のうちには心の片隅にも残らなくなっていた。
波乱万丈の結婚生活の開始を暗示するような事件が起こったのは、婚約式の打ち合わせをすることになっていた11月のある日。西宮の教会で待っていた私たちの耳に届いたのは、天王山トンネル内での玉突き事故のニュース。両親と彼と3人でこちらへ向かっているときに事故に遭遇。3人とも京都に逆戻り。即入院ということになってしまった。12月に町長選挙を控えている彼の父まで1週間の入院を余儀なくされた。
生来の努力家(?)が頭をもたげ、神戸の職場から京都の病院まで一家が全員退院するまでの2週間、毎日通った。最終電車で西宮駅へ着くと母が迎えに来てくれている。病院も一日も休むことなく続けたことが余計に両親の気にいることとなったようだ。これが直接の原因ではないだろうが、義父は落選した。結婚前の事件だから、私は義父の政治の現役時代を知らないが、その影を引いていることは間違いない。
(9)
いつ閉じても悔いがないくらい、充実した?波乱万丈の人生を歩んできた私
が、清水の舞台から飛び降りるくらいの決断で取り組んだことが2つある。
60歳を直前に何を血迷ったのか、「カラオケ」に挑戦! 何もそんなに大げさに言わなくても・・・と思われるあなた、世の中には想像できないことが一杯あるのです。
人前で歌うなんてとんでもない。音楽の時間のつらかったこと。みんなで歌うときは口パクでOKだけど、一人ずつ歌う試験で声を出さないわけには行かないでしょ? ところが私は見事に声を出さずに先生のピアノが終わるまでたっていられたんです。高校卒業までやりぬきました。世の中には私のような音痴がいてもいいじゃないの!と開き直って!
生まれ持った性格がなかなか変えられないように音感、リズム感もそうやすやすと変わることはないと信じていました。
新聞や雑誌の広告で「生まれつきの音痴は居ません! 今日からあなたも歌えます」なんて書いてあっても本当にしていません。
議員になって6年間何十回とカラオケに行きましたが、いつも手拍子係。こちらのほうはネンキが入っているので結構調子よくあわせることができる。
「上手下手は関係ない、歌うと言うことが大事。下手は下手なりに努力しているところを見せれば、信頼関係を密にすることができる。」
この一言で「やってみせようじゃないの!」という気になった。というかこの言葉を放った彼にまんまと乗せられてしまった。 急げ!誰にも知られないで習えるところはないか・・・と周りを見渡したが誰も居ない。「カラオケなんてはた迷惑なだけよ。歌えないからといって人間性までとやかく言われる筋合いのものじゃない。」といきまいていた手前、誰にでも「教えてください。」とはいえない。折りも折り、ガーデンクラブの会長の金婚式を芸術祭形式でしようと言うことになり、メンバーのお嬢さんで『めぐみちゃん』と言うセミプロ級の歌手と準備を一緒にすることになった。なんという幸運!打ち合わせをしながら彼女のレッスンを受けることになったのだ。
(10)
最初にあたしの歌==めぐみちゃんいわく、歌とは思えなかった==を聞いた彼女の驚きは尋常じゃなかった。
とりあえずキーボードを取り出し、ひとつずつ音を合わせることから始めてくれた。自分の母親より年上のおばちゃんに根気よくレッスンしてくれる。
1時間以上も繰り返し繰り返し歌わされていると声がかすれて出なくなる。
目標を忘年会と設定していたのであと2週間しかない。彼女の方が躍起になって私を追いまくる。
ようやく覚えたのが天童よしみの「春が来た」 忘年会でのお披露目。お世辞にもうまいとは言えないが、とにかく私の歌声をはじめて聴いたというだけでみんな拍手喝采。
今、伊藤ゆかりの「恋のしずく」に挑戦中。あなたにいつか聞かせてあげたい!?
こうなったらだんだん欲が出てきて、この歌をしんみりと歌ってみたいな〜なんて思う歌まで出て来る始末。「これはカラオケでみんなの前で歌うにはちょっと暗いよ。」といわれれば言われるほど歌ってみたくなり、車で遠出するときなどは、エンドレステープをかけっぱなし。
私が歌を歌うなんて! 人生はどこでどうなるかわからない。そう!摩訶不思議なことがおきた。
善さんが「夜の神戸を案内してあげる。」と、恵ちゃんと私を誘ってくれた。
がんがんかかるカラオケの合間合間に話題が私の骨折のことになった時、「僕の院生の時ぐらいかなぁ、ヒュッテに泊まったお客さんが良く似た話をしていたよ。『派手なヤッケとパンツだったから目立ったけれど、あんなに吹雪の中じゃー、ちょっと見つけにくいとこだった。多分骨折していたと思う。』なんてね。」
「えぇっ! それって私のことじゃない?」心臓から目が飛び出しそうだった。
「どこの人か分かる?」
「ヒュッテも建て替えたから名簿はもう残ってないだろうし、それにその頃でもだいぶ歳だったように思ったけど?・・・」
私に生をくれた人が見つかるかも知れない! と一瞬思った。
(11)
善さんの記憶が正しければ、多分京大の先輩だっただろうということだった。その日、インターハイを目前に合宿していたスキー部の後輩が、吹雪の中で捻挫して、試合に出られなくなって大騒ぎしたからよく覚えているという。
食事の後の団欒は、吹雪のことでもちきりになって、派手な女学生?のこともひとしきり話題になったという。
その時、山さんがどんな反応をしたか?聞きたい心をグッと抑えた。でも
そんなに話題になっている女子学生を、「私」だとは思わなかったのだろうか?
よくよく縁の無い人だったのかしら?
「大学に残って助教授になってる吉田が来てるんだけど、時間ある?」久しぶりに善さんの職場を訪ねると、かすかに見覚えのある人が居た。「上田がインターハイに出られなくなった時のことはよく覚えているよ。」「その時、女子大生を助けた話が出てたんでしょ?」「うん、先輩の川原さんがそんな話してたよ。」「川原さんて今どうしてらっしゃるかわかる?」「同窓会名簿見たらわかると思うよ。」「お願い!わかったら教えて。」
数日後、吉田君(当時そう呼んでいた)から電話がかかってきた。
「河原さん、永眠者の中に入っていたよ。」
少し見えかけていた目標が雲に覆われて見えなくなってしまった。
わたしに生を取り戻してくれた人は多分、今天国に居るのだろう。
山さんの記憶が薄れていくのとはちょっと違う気がするけれど、「与生」の贈り主は、私に命をとり戻してくれただけではなく、すごく変化に富んだ密度の濃い人生を残して私の心からすこしずつ遠ざかっていっているような気がする。
善さんの登場で「与生」をくれた人探しをはじめたが、そろそろ打ち切りにしようと思う。遥かかなたから、「この辺で終わりにしたら?」という声が聞こえるから・・・完