2002年9月掲示板への書き込みから、ご本人の了解を得て転載します。




おはなし〜ある半生記〜


娘が不登校にならなければ、私は自分のトラウマに気付かずに居たと思います。
夫が怒鳴ったり、子供を叱ったりする時に、嫌だと思ったり、辛かったり・・・
そんな事は年中でした。
不登校になった娘に対して暴言を吐く夫から娘を庇う毎日。
そんな時突然、身体が冷たくなって、硬直し、遠い日の出来事がフラッシュバック。
口も聞けず、動けない自分がいました。

それまで、自分は強い人間だと思っていました。
どんな事にも心は傷付いていないと思っていました。
そうではなかったんですね。
心の傷に気付かないで済んでいただけなんだと解りました。

トラウマの原因と向かい合って、自分が傷付いている事を認める。
そうする事で傷から立ち上がる事が出きる。
自分が忘れようとしていた事を、自分の口で話せるようになった時
本当の意味で解放されるのだと思いました。

別に虐待を受けていたわけでは有りません。
色々なことが絡み合って、大きな傷みを心に受けていました。
問題をお話する為には、その序章とも言うべき事からお話した方が
その後の事が理解して頂きやすいと思います。

私がもの心つく前の話は、親戚の者から姉が聞いたことを
姉が私に話したまた聞きなので、ちょっとおかしいなと感じる事もあると思います。
そこの所は見逃してください。

私は子守唄代わりに母から、父の悪口を聞いて育ちました。
夫婦げんかは毎日。
父が怒って出ていった後、「アンタさえ居なければ・・・」jと。
「離婚しようと思ってた時にアンタがお腹にいる事がわかったから・・・」
その言葉を聞いている兄や姉も何かというと私を邪魔にしました。
自分は居てはいけないのだと思いながら、母や兄弟の顔色を伺い
そぉ−っと邪魔にならないように過ごす毎日でした。

小学校に入って、私は口を聞かない子になっていたので
知恵送れではと思われました。
大人と口を利くと嫌な思いばかり・・・「沈黙は金」その言葉は知りませんでしたが。

両親は、その結婚の時から不穏なものを抱えていました。
お互いに別の人と結婚していたら・・・
その後の悲劇というものは無かったと思います。

母はお嬢様として何不自由なく暮らしていました。
母の父親がお妾さんを囲っている事がわかって、母親(地方の大金持ちの出)は
私の母を筆頭に五人の子供を連れて家を出ました。
旧家故に、里には戻れなかったといいます。
勢いで出たものの、生活の仕方も分らない母親を見て
私の母親が働きに出たそうです。まだ12〜3歳。
色々な職を経て、年頃になっていた母は恋をしました。

そんな時、出張で横浜に来ていた父が母に一目ぼれ。
父も地方の資産家の息子でした。
探偵を雇い、母の家の事情を知った父は母の留守に母の家に出かけました。
その頃の母の家は借金まみれ。お嬢様から奥様になった母親が
売る物が無くなるとあちこちに借金を作っていました。

父の提案。
借金は全部自分が返す(その時既に返してあって、証文を持ってきていた)。
母の兄弟の面倒はすべて見る。
家も買い与える(買った家の権利書も出した)。
何不自由無く暮らせる様にする。
 
だからお嬢さんと結婚させてくださいというものでした。
母親は娘が結婚したがっている人がいる事も、家族の為に結婚できないことも
全て知っていたのですが、楽な暮らしが出来る事に目がくらみました。

母は駆け落ちも考えたようですが、兄弟のことを考え(自分は勉強が好きなのに貧しい為に出来なかった、せめて兄弟は好きなだけ勉強をさせてやりたい。育ち盛りにお腹いっぱい食べさせてやりたい)て父との結婚を承諾したそうです。


両親の結婚生活は最初の頃はそれなりに幸福な日もあったようです。
でも、中々子供が出来ませんでした。
諦めかけた頃に姉が生まれました。
でも、それが父の出張中だった為に、父は疑いを持った様です。
お産婆さんも「十月十日」の意味を説明したりしたのですが
結婚以来出来なかった子が出来たことを父は納得しなかったとか・・・。
そして、自分が横取りをしたという負い目があった父は
その人と母が関係を戻したのではと疑った様です。

それでもそれなりに平穏に過ごしていました。
戦争が終わって、貯金が封印され、貨幣価値が変わって
お金で母を繋いでいた父の気持ちが崩れました。
不幸は続くものです。
軍関係の仕事に就いていた父は職も失いました。

その頃から父の様子が変わったそうです。
結局、自分の部下だった人の会社に職を得て何とか暮らしていました。
その後、兄が生まれました。
部下の元で働く父は辛い思いがあったのでしょう。
酔うと暴れて、暴言を吐くようになっていたそうです。

耐えかねて離婚を考えた時に私を身篭っている事に気付いた母は
そのまま父の元にいました。
父は初め、私を可愛がったそうですが、私は赤ん坊でしたから知りません。
「初めて本当の自分の子」だと親戚の者に言ったそうです。
物心ついてからの私は、母をいたぶり、兄や姉に暴力を振る父を
恐いとしか思いませんでしたから、なつかないどころか逃げ回りました。

「可愛さ余って憎さ百倍」その言葉通りになりました。
でもそんな事はまだまだ序の口でした。
ある日事故に遭って、父は寝たきりになりました。
職も失いました。母の内職で細々と暮らす毎日。
そのうち父が動けるようになって、小さな会社で働き出しました。
体は動くようになったのですが、後遺症で「頭が痛い」と言う様になりました。
頭痛が始まると大変です。暴れ狂います。
治ると嘘の様に大人しくなって「俺が悪かった、捨てないでくれ!」と
床に頭を摩り付ける様にして謝っていました。

私の本当の不幸(その頃は不幸とも思っていませんでした。)は
兄が小学校を卒業してから起きました。
給食費も、学校に持って行くべきお金も、母は私にくれなくなりました。
その頃は級長がお金を集めました。
払っていない事はクラス全員に分ってしまいます。

給食の時間が嫌でした。
食べようとすると、周りの子達から「お金も払わないで食べるんだ。ただ食い!」
そんな言葉が飛んできて、ジ−っと見つめられます。
それが嫌で食べないと、先生が「なんで食べないんだ。好き嫌いするなよ」と。
でも、いじめられてるとは思いませんでした。
まあ本当の事だから仕方ないかなって思ってました。
その内、給食時間になると鼻血を出すようになって
保健室に行けることになりました。

その後先生から手紙を渡され、それを読んだ母が凄く怒って・・・
実は生活保護の案内の手紙でした。
次の日学校に来た母に、私は完全に捨てられました。
先生と話して母が帰った後、先生が言った言葉。
「お母さんに聞いたぞ。お金を渡してるって言ってた。お前が使ってるらしいな。何に使ったんだ。毎月分だと相当になる。お母さんお前の盗癖に困ってるって言ってた。」

自分がそこまで邪魔だったとは・・・
母にとって、自分が居なければいい子なのは知ってましたが
そこまで憎まれていたとは・・・
でも本当の事は言いませんでした。
母が必死でついた嘘を暴くわけにはいきません。
もっと母に嫌われてしまいます。

それまで、毎日必ず家に帰り着くと、玄関の外から
「お母さんただいま!」と言って、声が聞こえるまで「ただいま!」と言って、
(捨てられる不安でいっぱいでした)近所でも評判になっていた声掛けを
その日から止めました。
捨てられたことをハッキリ感じ取りましたから・・

親に捨てられたと感じて、私が最初にやったこと。
近所のスカーフ工場に行って、土曜の午後と日曜に
働かせて欲しいと頼みました。
その頃は横浜のスカーフ・絹製品は輸出の花形。
猫の手も借りたいという景気でした。
「おばちゃん、お願い。買いたい物があるから働かせてください。」
そして、手先が器用かどうかテストのようなものをされて
次の土曜から働きました。

スカーフを一枚一枚角を揃えて畳んで、セロハンの袋に入れます。
大人の様に早くは出来ません。
慌ててもどうにもなりませんでした。
でもその時の経験はその後、何かをやる時の良い指針になりました。
どんなにゆっくりでも、一枚ずつ丁寧にやっていると
段々慣れてスピードがアップします。丁寧さも身体が覚えます。
早くと急ぐ余り、一枚ずつをいい加減にやっていると
いい加減さが体に染みついて、どんなに沢山やっても綺麗にできなくなります。
これは良い経験でした。給食費も払えました。

余談ですが、中学に入ってからは通学路の美容院に頼み込んで
タオルの洗濯と、店の床掃除を毎日やらせてもらいました。
高校時代は、授業中に本当の内職をやりました。
1週間に何枚と決められたレース編みをやってました。
これは本当に良いお金になりました。
大物はばれるのでせいぜいテーブルセンターどまりでしたが・・・
土日は結婚式場の下働き。

そろそろ、本題に入って行きます。
私が中学に入る頃、父の体調が悪くなってほとんど家に居るようになりました。
庭が広かったので、そこで野菜を作ったりしてました。
母は内職では生活が出来なくて、本格的に外に働きに出ました。
父の不安が大きくなって、喧嘩もひどくなりました。

そんな時、以前話した不良少年の兄が事件を起こします。
警察に行った母が昔の恋人に会ってしまいます。
その人は私の住む街の警察署長になっていました。
便宜を図ってもらって(苗字を見て、もしやと思って兄のところに来た)
兄は帰されたのですが、兄の不用意な言葉で父がいきりたちました。

刃物が出る喧嘩が始まりました。
父の様子が異常になって来出しました。
それでもまだその時は良かったのです。
夏休みに入って間も無い土曜日に事件が起きました。



さて、土曜の夜のことです。
前日から父は妙におとなしくなっていて、薄気味が悪かったんですが・・・・
つい、油断をしたという感じです。
夜中に隣の部屋から「何をするんです!!」という母の声と
「お父さん止めてよ!!」という姉の声。
慌てて見に行った私の目に飛び込んできた光景は
裁ちバサミを手にした父が、母の髪の毛を掴んで
ジョキジョキと切っている姿。

部屋中に髪が散らばっていました。
母は頭の半分をボウズの様にされて、ひどい形相で叫んでいました。
「これでお前はもう何処にも行けない」と言いながら
逃げようとする母の髪を掴んで、父は引っ張っています。
私と姉が止めようとすると、突き飛ばされました。

そのまま母の髪を掴んで部屋を出て、家中を引っ張りまわしました。
犬が怯えて吠え出しました。
その犬を足で蹴飛ばして、尚も母を離そうとしない父。
それまでの父は家族に暴力を振るっても、動物や虫に優しく
畑の虫も可哀想と言って殺虫剤を使わない人でした。
どうやって逃げ出したのか、覚えていませんが
気がつくと町外れの工事現場でした。

朝まで待って、そぉーっと帰ってみると父は大イビキで寝ています。
手には裁ちバサミを持ったまま。
昼間は何の反応もせず、大人しく座っている父。
その夜、用心の為に姉と私と母は一緒の部屋に眠りました。
緊張をしていても、前日が一睡もしていませんから
何時の間にか眠ってしまった様です。

何となく気配のようなものを感じて目を覚ますと
戸口に白いものが揺れています。
慌てて電気をつけてみると、前日までとは違う父がそこに立っていました。
頭からシーツを被り、右手に出刃包丁、目はそれまでとは違って
狂気が宿っているのがハッキリと、子供の私にも分かりました。
勢いで刃物を持つことはそれまでもありましたが
狂気の状態で刃物を持つ父は初めてです。
「ついに狂った」妙に落ちついてそう思いました。

母と姉を起こして窓から逃げました。
町中を逃げました。何処までも追ってきます。
シーツが足に絡み付いて父が倒れた隙に全速力で逃げました。
お寺の裏山の切り株に座って一夜を過ごしました。
兄は両方の日とも、夜遊びに行っていて居ませんでした。
「居たらどうなってたか分らないから、かえって居なくて良かった」
そんな事を話ながら、これからどうなるんだろうと考えていました。

朝、帰宅して玄関を開けた私達は・・・驚きでポカンと口を開けたままでした。
廊下に沢山の血と、切り刻まれた犬の肉片、ゴロンと転がる犬の頭。
部屋に突き刺さった血だらけの出刃包丁。
その横で泥だらけのシーツ(血だらけ)にくるまった父。
死んだように眠っています。

起き出さないように気をつけて、母が役所や保健所、警察に連絡をしました。
それまでは連絡をしても「家族の問題」として
取り合ってくれなかった警察も、保健所と連携して動いてくれました。
暫くして精神病院の鉄格子のある車に乗せられ、父は居なくなりました。

「めでたし、めでたし」な筈なんですが、この後私は強く(?)なります。
それまでの、邪魔にならない様になんて感じとは違って
暴言を吐いて母をいじめぬきました。
何もかもが気に入らなかった。許せなかった。
でも、明日から学校という日に、考えました。    



明日から学校という時に決めたこと。
それは全てを無かったこととして封じ込めることでした。
家の北と西に隣家があります。
北側は同い年の女の子が居ましたが、私立の女子校に行っています。
西側にはその春、大きな家が建って、
同い年の男の子の一家が越してきました。
その子はあの騒ぎを知っていても話さないと分っていました。

また余談ですが、その男の子が騒ぎの翌日
窓(その家の台所の窓が我が家の庭に面していた)から顔を出して
「映画行こうか?」と・・・それまで話したことも無いのに。
「お金無いから駄目よ」
「バカ、誘ってるんだからお金なんか取らないよ」
そんな会話の後、次の日に玄関(内の門とそこの玄関が隣り合わせ)で
待ち合わせ。大きな外車に乗せられて、映画館に横付け。

「ゴメンな。組の抗争で狙われたら大変だから、一人で出してもらえないんだ。こんなだから友達出来ないし、家がヤクザって分ると学校に居られなくて今まで何回も転校してんだ。転校してきた日、お前が同じ学校って分って、また駄目かって思ったんだ。でもお前何にも言わなかったな。ありがとう!一回お礼言いたかったんだけど学校じゃ拙いしね。」

そんな話しの後で、「俺イヤなことがあると映画見るんだ。嫌な事忘れるぞ。お前も忘れちゃえよ。ウチの商売じゃ、刃物どころか鉄砲だって出てくるよ。」と。
「やっぱり知ってるんだ」と私。「関係ねえよ」とその彼。

と言うわけで、問題は町内の人がどのくらい知っているか。
同じ学校の人がもしも知っていて何か言った時に
とぼけなければと思いました。
今と違って、もっともっと「狂人」に差別のあった時代です。

何か言われてとぼけた時に、私の言葉を信じさせるには・・・
良い人になる事。明るく元気で、家庭に問題があるようには見えない子。
敵を作らず、かと言ってうんと親しい子も作らない。
家に呼ぶのは危険なので・・・
幸い学校から遠い地区に家がありました。
綿密な計画の元、私は変わりました。
いきなり変わると不信がられるのでゆっくり、ゆっくり・・・

学校が始まって、私は母に暴言を吐かなくなりました。
ある意味もっとひどかったかも知れません。
家で、一言も口を利きませんでした。
私の心の中で、あの夜の事が完全になかった事になる迄
完全に母を無視し続けました。
高校一年の夏、やっと少し口を開きました。      



口を開く様にはなっても、別に母に心を許していた訳ではありません。
その後も何かと問題を起こす母でしたが、兄や姉ほど気にもせず
心を痛めると言う事もありませんでした。
何しろその後の母のやった事は・・・タガが緩んだんでしょうか。

男の人がとっかえひっかえ。
その内姉のボーイフレンドにまで・・・。
姉と母の喧嘩が年中起きて、男の子(人)の親が乗りこんできました。
そんな事が3回。
その後、母と姉の中がどんな風に仲直りできたのか分りませんが
私が嫌だったのは、その騒ぎの一回が、ご近所(同じ町内)だった事です。

その家の前を通らなければ学校に行けないのに
その親も相当怒っていたのでしょうね
私が通る時に聞こえよがしに「ふしだら女の娘」と言いました。
後ろ指をさされたり、不信感を持たれたりしない様にと
折角自分を変えて暮らしていた私には大きな屈辱感でした。

でも、男の人とどうこうという母の気持ちは
妙に納得できて、その事自体は仕方が無いものと思っていました。
男女の中が少し分るようになっていて、母を可哀想とも思っていましたから。

高校卒業後就職をして、お金を溜めて二年遅れで大学の夜間に。
夜のことを考えて、大学の近くにアパートを借りました。
そのアパートに、「差し押さえ通知」が届きました。
全然知らないお金。相当な金額を借りて、
そのまま返していない事になっていました。

調べてわかった事。あきれました。またやられたという感じ。
母が私の実印を作って、勝手に借りて知らん顔をしていたんです。
裁判所で聞いた話では、手っ取り早い解決方法は返すしかないとの事。
その後に母を相手取って訴訟を起こして返却を迫るしかないと・・・

学費用の貯金と、友人達に借りた(事情を話せないので少しずつ)お金。
それでも不足でしたから、高利貸し(今ならサラ金ですね)の家へ
かき集めたお金を持って、お願いに行きました。
ヤクザ(?)と見える社長さんは初めは取り合ってくれませんでしたが、
事情が分って、それが嘘ではない事を信じて差し押さえを止めてくれました。
その代わり毎月私が責任を持って返却する事。

その社長さん結構良い人で、私が提示した金額を
「若いお嬢さんからそんなに取れない、誠意を感じたから利子分はいい」
そう言って、かなり長期返済にしてくれました。
でもその返済の事があって、大学は辞めました。

その後、大学も辞めたので安いアパートに変わろうと
引越し準備で電話局に行って、電話の移転手続きをしようとしたら
私の電話は抵当に入っていて移転できないと・・・
これも私の名前で、母がやった事でした。

ここまで来ると笑うっきゃない感じでした。
その後母が家を処分した時に、少しは返してくれるのかと思ったお金は
一銭も返してもらえず、姉の家の購入資金の一部になりました。
良い人生勉強。
親ですら子供を利用したり、裏切ったりするんだから
他人が何かやってもし方が無いかなと思う様になって
余り、物に動じなくなりました。

私の娘達かから母は「親戚中で一番上品で優しいおばあちゃん」と言われて
事実、昔の事が全て夢のような感じの人になっています。
叔母がある時、「姉さんがね、あなたの事は自分が全て悪いんだって。『あの子は自分で生きてきた子だから私は親じゃないようなもの』って言ってたのよ」と。

それを聞いて感じた事は、許すとか許さないという上等なものではなく
「その気持ちを持って地獄までどうぞ!その時嘘か本当か分る」というもの。
こんな風に言うと、親に傷付けられたって思いますよね。
でも本当の私の傷はそんな事ではないんです。

母が私を愛せなかった気持ちも「ストン」という感じで理解できたんです。
自分が人を好きになる年頃になって
気持ちの動かない結婚がどれほど不幸かも分りますから・・・
父が狂った事も確かに人に隠したい事でしたが
自分の気持ちを傷付けるものでもないんです。

一連の物事は、私が意識して無かった事として封印したものです。
次女を庇って夫と喧嘩をしている時にフラッシュバックした光景は
私自身が本当に忘れたくて、そして本当に意識が消してしまったもの。
その事に気がついた時、いつかキチンと気持ちを整理をしたいと思ったのです。

その為にここをお借りしたのに・・・        

*


今、自分の気持ちを確かめる為、書いたものを読み返しました。
皆さんもお気づきと思いますが、余り感情が出ていませんよね。
恨みつらみ、憎しみ、それどころか愛情を求めてもいない。
大きな憎しみや、恨みを持つほど愛してもいなかったんです。

私が本当に忘れたかったものは、「罪悪感」だと気付きました。
大きな憎しみも恨みも、愛を求める感情も無く、両親の死を願った事。
あの日、父を狂わせるボタンを押したのは私なのです。
自分が忘れ様として、「無かったこと」にした事柄は
必要ならば思い出す事が出来ました。
でも、本当の肝心なことは完全に記憶の中から消えていました。

耐えきれない思いを、私の脳が消したのだと思います。
だから自己否定することも無く生きて来られたのだと思います。
荒れて、「嫌だ許せない!」と思っていたのは自分の事だったのです。
いつ消えてしまったのか思い出せませんが・・・

邪魔にならない様に暮らす私は、雨の日は懐中電灯を持って
押入れの中で本を読んでいました。
晴れた日は裏庭の隅で、植物の観察をしていました。
父の畑仕事の道具を入れる小屋がありました。
夕方、道具を仕舞いに来る父の様子をそっと見る事がありました。

在る日、出刃包丁を隠し持って小屋に入った父が、ブツブツ言いながら
その包丁を研いでいるのを見つけました。
「アイツを殺してやる」そう言っていました。

裁ちバサミで母の髪を切った次の日、危険だからと刃物を隠した私達。
出刃包丁のことを黙っていました。
次の日、父にお酒を飲ませました。
お酒を飲むと暴れるので、その頃は目に付く所にお酒は置いてなかったので
父は大喜びで飲みました。

私達三人が寝た部屋は、シンバリ棒で開かないように止めて寝ました。
母と姉が寝た後、その棒を外したのは私です。
狂うとは思いませんでした。
でも、父が母を殺し、父も後追い自殺をする。
その事を、恨みも憎しみも、愛も無く願った私です。
憧れにも似た気持ちで、情景を頭に描いてほくそえんだんです。

その死を願った理由がどうしても思い出せなかったんですが
罪悪感に気付いた時に、思い出しました。
「両親が居なくなれば、私は叔母さんの家に引き取られる」
たったそれだけの事の為にです。
その叔母とは大人になってから文通をしていますが
一度も、その日の事は思い出した事がありませんでした。

愛憎の果てというのならまだ自分を許せたかもしれません。
親に愛を求めて、受け入れて貰えないと傷付いたり憎んだりするのだと思います。
きっと私も小さな時はそうだったのかもしれません。
でも、もの心ついてからの私は忙しくて、そんな事に構っていられませんでした。
恨んだり憎んだりを通り越して、生きるのに忙しかったというべきでしょうか。

強がりや、やせ我慢ではないんです。
三歳の時にはもう、自分で下着やスカートにつぎを当てたり
山に美味しい水を汲みに行ったり(水道はありましたが清水が湧き出してた)
内緒で飼ってた(山で)犬の餌を探したり、忙しかったんです。

余りにも幼い時から日常の中で「要らない子」と言われたので
そんなものかなという感じが強かったんです。
今考えると笑ってしまいますが、小学校でお金を稼ぎ出した時
もう親がいなくても暮らして行けると本気で思いました。
親子の情愛が育たないままだったのだと思います。

友達が親の愚痴を言う時、自分は恵まれてると思いました。
邪魔になりさえしなければ何も言われず、一人の時間を満喫してました。
今でも一人が好きです。
寂しいとか、つまらないという感じが余り解りません。

そんな淡々とした気持ちで人の「死」を願ったんです。
思い出した今、自分がそういう人間だという事を
キモに銘じて生きていかなければと思います。
娘達とも、煩がられるほど関わりをいっぱい持って、
親子の情愛を育てて行きたいと思います。

長い話にお付き合い下さった皆さんには
気持ちが落ち着いてから改めてお返事書きたいと思います。
本当にありがとうございました。
心が軽くというより、今は空っぽの感じです。


*

私今、母と仲良しですよ。
でも、親子だからというよりは、年寄りを労わりましょうという感じです。
夫の母に対する時の私の感情と同じです。
可哀想という思いはあります。
一卵性親子と呼ばれた姉に冷たくされ、その姉の事で親戚中に頭を下げる。

仲良くする一番の理由は、私の娘達が「大好きなおばあちゃん」だから・・・
昔は○○小町といわれた人も皺くちゃです。
別の人生を歩んでいたらと思う日もあるのでしょうね。


**

お蔭様で、心が軽くなったばかりではなく、心の中に埋まっていた
一連の事々に付随する沢山の幸せな思い出も浮かび上がってきました。
ここの皆さんが「親に愛されない子=不幸な子」的図式で
私を見ないで下さった事、感謝です。
幸せな時間の中で育ってきた事を、再認識した数日間でした。

山の中で内緒で飼っていた犬は、その頃の私より大きくなって
餌も足りなくなって、困っていました。
たまたま散歩に来たおじさんが飼ってくれる事になりました。
「会いにおいで」と家も教えてくれて、次の日行って見ると
古材の犬小屋に入った「クロ(そう呼んでいた)」は上品な犬になってました。

子供心にも毎日行くのは悪いと思って、数日空けて行くと
「クロもおじちゃん達も寂しかったよ。遠慮なんてしないで毎日おいで」と。
そこのご夫婦とは本当の茶飲み友達(?)になりました。(^○^)

スカーフ工場ではおばちゃん達が私の手を撫でて
「若い子の手はスベスベだ。私達の手はガサガサだから上等の絹は引っかかるのよね。上物はアンタ専門!」そう言って、一番金額の高い上等な物を私に廻してくれました。
お陰で、数はこなせなくてもそれなりのお金になりました。
あの頃の上等な絹の感触は本当に優しかった。

中1の春、理科の初めての宿題は1週間かけて
自分の周りの草花を調べ、観察日記を書くものでした。
裏庭で、草花の観察を日課にしていた私には、得意中の得意。
提出後、私のものだけ返してもらえませんでした。
どうなってるのかと聞く私に「あんなに細かく丁寧に観察してあるものは初めてだから、学校に寄贈して貰う事になった」との先生の返事。
「全員に買うほど先生の給料無いから、みんなには内緒」と言って
数日後、24色の色鉛筆を渡してくれました。

裏庭は「秘密の花園」みたいでした。
お寺の庭と地続きだった裏庭は幽霊にも会える場所でした。
モグラが顔出す瞬間も見ました。
強い「ホンチ(戦う為の土蜘蛛)」がいっぱいいました。
マッチ箱に沢山入れて学校に持っていくと、男の子の羨望の的でした。

隣のヤクザの息子は、偶然にも就職した会社が隣のビル。
遅刻しそうな朝、焦っている時に何回も助けてもらいました。
イライラしながらバスを待っていると外車がス−っと・・・
中から顔が出て「早く乗れよ!」会社に横付けです。
「大学行かなかったの?」
「家、出たいからな」 
「そうか・・・」
「来年、兄貴が大学卒業したら、二人で部屋借りるんだ」
次の年から、朝拾ってもらう事は無くなりました。

レース編みの内職は、たまにブラウスの袖部分だけを、当時流行った
「パイナップル編み」にすることがありました。
街で、自分が編んだと思えるものを着ている人を見かけると
くすぐったいような、誇らしいような、何とも言えず嬉しかったものです。

金融業の社長さんは、完済の日に電話をくれて、「家においで・・」と。
行った私の目の前で書類を破ってくれて、「本当は事務的に済ませるんだけどね」
カツ丼だか親子丼をご馳走してくれました。
「立派なフリした大人だってトボケたり逃げたりするのに・・・」
「お嬢さん偉い!!有難うございました。」と頭を下げてくれました。
利子無しで1銭の儲けにもならなかったのにです。

こんな風に沢山の善意に囲まれ、必要な時には何処かから
助けの手が差し伸べられた事。
こんな素敵な時間を思い出したからもう大丈夫です。




もくじ