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| 番外巡礼 東寺 と 高野山 |
| 弘法大師の三大霊場として善通寺・東寺・高野山金剛峰寺が知られています。 |
| 75番札所の善通寺は大師の生まれ故郷で、父親の名前である佐伯善通から付けられています。 |
| 『身は高野、心は東寺におさめおく』 と記されている様に、高野山を自らの修禅の場として開き、 |
| そこで得られた智恵を東寺で実践されたそうです。 |
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| 【東寺】 |
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| 2005.03.04(木)に参詣。 |
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| 新幹線で大阪に向かう時、 |
| 京都駅を出て、直ぐ左に見える五重塔が東寺です。 |
| 南大門を入ると、正面に本堂の金堂、 |
| 右手に五重塔があります。 |
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| 金堂には |
| 十二神将の台座の上に薬師如来、両脇に月光菩薩、 |
| 日光菩薩の薬師三尊が祀られています。 |
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| 東寺の象徴である五重塔は826年、弘法大師の |
| 創建着手から始まり、焼失する事4回を数え、 |
| 現在の塔は1644年、徳川家光の寄進によるそうです。 |
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| 金堂の隣には講堂があり、五智如来、五菩薩、五大明王、 |
| 四天王、梵天、帝釈天の二十一体の仏像が安置され、 |
| 弘法大師の密教の教えを表現する立体曼荼羅
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| (密厳浄土の世界)との事です。 |
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| 別名御影堂とも言われ、弘法大師の住房との事です。 |
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内部は前堂と後堂からなり、
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| 前堂には国宝弘法大師坐像が安置され、 |
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後堂には大師の自作と伝えられる
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| 国宝不動明王坐像が安置されています。 |
| 不動明王坐像は秘仏のため常時非公開です。 |
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| 【高野口、九度山】 |
| 2005.04.01(金)高野山に参詣。 |
| 高野山表山道(370号線)入り口の九度山には家康と対立、関ヶ原の戦いで西軍に味方して敗れた |
| 真田昌幸・幸村父子が隠れ住んだ屋敷の真田庵がありました。 |
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| 【真田庵】 |
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| 信濃国上田城主、真田昌幸は武田氏が亡んでからは徳川氏に属したが、関ヶ原の戦いで西軍に味方して敗れ |
| 高野山の九度山に閑居します。九度山では晴耕雨読して敵を欺き、真田十勇士に真田紐の行商をさせ |
| 諸国の情報を集め、武術の鍛錬をし、大阪冬の陣、夏の陣に一族と共にここから出陣し、 |
| 夏の陣で壮烈な最後を遂げたと有りました。 |
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| 夢かなうことなく、この世を去りこの地に葬られた |
| 真田昌幸の墓です。 |
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| 【慈尊院(女人高野)】 |
| 真田庵の近くに、わが子を慕って讃岐国(香川県)から訪れたが女人禁制のため高野山への入山が出来ず、 |
| ここで亡くなった母公のため大師が造られた廟堂がありました。 |
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| 816年(弘仁7年)、 |
| 弘法大師(空海)が高野山開創に際し、 |
| 高野山参詣の表玄関として伽藍を草創し、 |
| 一山の庶務を司る政所を置き、高野山への宿所 |
| 並びに冬期避寒修行の場所としたそうです。 |
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| 空海自身も冬は山を下り、 |
| ここで過ごしたと言われています。 |
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| 女人禁制のため高野山への入山が出来ず、 |
| ここで亡くなった母公のため造られた廟堂です。 |
| 大師は弥勒菩薩を安置、 |
| それ以来女性の信仰が絶える事が無く、 |
| 女性の願いは何でも聞いて呉れると言われています。 |
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| 【高野山】 |
| 橋本から麓の九度山を経由して約30km走行して聖地高野山に到着です。 |
| 高野山は、およそ1200年前に、弘法大師によって開かれた真言密教の修行道場であり、 |
| 全国に広がる高野山真言宗の総本山です。標高およそ900m、山の上の盆地には金剛峯寺を始め |
| 117もの寺院が立ち並ぶ真言密教の聖地になっています。 |
| うっそうと杉の樹の茂る奥の院には、信長・秀吉等の武将やさまざまな人々の墓石が立ち並んでいます。 |
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| 高野山は女人禁制でした。 |
| 『高野七口女人堂』 と言われ、 |
| かっては七つの参詣道に女人堂があったそうです。 |
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| 現在は不動坂口(京口)の女人堂だけが |
| 残っているとの事です。 |
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| 表参道を上り詰めた高野山への入り口にある |
| 高さ 25.1m、 一山の総門である大門です。 |
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| 弘法大師が高野山を開創する時 |
| 一山の総本堂として建てられたそうです。 |
| 現在の建物は7代目との事です。 |
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| 御影堂は弘法大師の住まいで、 |
| 堂内には入定前の大師を描いた御影が安置されていて、 |
| 旧暦3月21日にのみ開扉されると記されてありました。 |
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| 昭和11年に再建されたと言う、 |
| 高さ45mの朱塗りの多宝塔が根本大塔です。 |
| 弘法大師が高野山開創の時、真言密教の |
| 根本道場として創建され、黄金色の大日如来と |
| 金剛界の四仏が安置されていました。 |
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| 国宝23件、重要文化財174件、山内の各寺院に伝わる |
| 仏教美術品が保護収蔵してあるそうです。 |
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| 金剛三昧院は |
| 頼朝の妻、北条政子が亡き夫の菩提をともらう為に |
| 1211年に創建したお寺です。 |
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| 3代将軍、家光が10年以上の歳月を掛けて |
| 造営したと記されてありました。 |
| 右側に徳川家康、左側に2代将軍秀忠が |
| 祀られています。 |
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| 堂内に物語の絵巻が展示して有りました。 |
| 石堂丸の話は全国に伝わり布教の助けになった様です。 |
| 承瑠璃にも取り入れられて居ます。 |
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| 石堂丸の父親の加藤左衛門繁氏は平安末期、筑紫(福岡)の国の領主であったが、 |
| 亡くなった親友の娘千里(ちさと)を引き取つた事が悲劇の始まりとなり、正妻との軋轢を知るに及んで、 |
| 自らの罪深さに慄き全てを捨てて京都に出て仏門に入り、其の後高野山に登り苅萱道心(円空)と名乗り庵を作って |
| 修業に入ります。繁氏出家の後(ちさと)は男の子を出産、父親の幼名を取って石堂丸と名付け十四才に為った時、 |
| 風の便りで繁氏が高野山に居る事を知り、父に会いたい一心から母親と共に高野山に向かい麓の学文路(かむろ)に |
| 着いたが女人禁制の掟に阻まれ母親を宿に残して単身高野山に入りました。 |
| 高野山で父の所在を尋ね歩き、たまたま会った僧に尋ねた所、此の僧こそ石堂丸の父親だったという。 |
| 然し修業の身で名乗る事は出来ず、其の人は既に亡くなったと偽りを告げ母親の元へ帰しました。 |
| 宿に帰って見ると石堂丸の帰りを待ち侘びて居た母親は急な病の為亡くなって居ました。 |
| 母親を亡くした傷心の石堂丸は再び高野山に登り、苅萱道心の弟子となるが、親子の名乗りをする事は無く |
| 約三十年高野山で修業し、後に信州の善光寺に移り生涯親子の名乗りをする事なく
建保二年(1214)没し、 |
| 石堂丸も善光寺に移ったと言う伝説です。 |
| 現在、円空がお世話になった人々に送った手彫りの円空仏が信州に沢山ありますが大変な高値になっています。 |
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| 元は1593年、秀吉が亡き母の供養の為に建立、 |
| 青巌寺と言われたが明治2年1869年に興山寺と |
| 合併して金剛峯寺と改名されたと事です。 |
| 主殿の部屋には狩野派の絵師による襖絵があり、 |
| 秀次が自刃した部屋もありました。 |
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| 日本一広い石庭と言われています。 |
| この石庭、蟠龍庭は無心の静寂があり |
| 京都の竜安寺と又違った素晴らしい景観でした。 |
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| 武将、福島正則が母を弔い建立した鐘です。 |
| 6時から22時まで2時間毎に山内に時を知らせます。 |
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| 織田信長、豊臣秀吉、石田三成、前田利家、等々戦国時代の武将達や色々な人達の墓石が林立しています。 |
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| 最奥には大師が眠る弘法大師御廟があります。 |
| 御廟の拝殿、燈籠堂には1000年燃え続いている |
| 消えずの火がありました。 |
| 奥の院にお参りして、巡礼の旅は無事終了です。 |
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| 2004年10月1日から投稿して来ました、四国88ヶ所巡礼の旅は2005年6月15日で終了です。 |
| 愈々定年後から始めた5ヵ年計画は最後の旅となりました。 |
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| 2001年は 西国33箇所観音霊場巡礼の旅 |
| 2002年は 東海道53次の旅 |
| 2003年は 奥の細道を辿る旅 |
| 2004年は 四国88ヶ所巡礼の旅 |
| 2005年は 中山道69次の旅 に出掛けました。 |
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| 2005年10月1日から投稿します。 引き続き御高覧戴ければ幸いです。 |
| それでは又 ・ ・ ・ |
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