前編2  土佐の国(高知)    24番 最御崎寺〜39番 延光寺

23番薬王寺から次の札所へはほぼ海岸沿いに55号線を走行します。遍路姿の巡礼者を追い抜いて行きます。
巡礼者は皆元気で思ったより早足で歩いています。
約70km走行すると、右手の山の中に
大きな弘法大師像が見えて来ました。
もう直ぐ室戸岬です。
岬の手前に御蔵洞がありました。
19歳の時
『明星、来影す』 と大師の口の中に明星が飛び込む
伝説はここで生まれました。
空海は宝亀5年(774年)讃岐の国で生まれ、
5歳で都に上がり、才覚を顕しまたが、国の中心である
奈良仏教の門を叩かず、辺地修行者として四国を巡り、
その果てに、ここ室戸の洞窟に籠ったそうです。
見えるものは空と海、無限の闇、
これまで無空、如空、教海等と名乗っていた
一人の青年僧はここで悟りを得て、自らの名に
空と海を選んだと言われています。
空海の誕生です。
恐らくこの光景をずーっと眺めていたものと思います。
一人洞窟からじっと空と海を眺めていると
全てを忘れて、無の世界となるから不思議です。
やがて岬の先端に到着しました。
岬の突端には
太平洋に向かっている中岡慎太郎像がありました。
土佐藩の下級武士で、脱藩後に竜馬と共に
倒幕、開国運動をしました。
余談ですが坂本龍馬と酒を酌み交わしている時に
襲撃され、暗殺されたと言われています。
二人の像が京都東山の丸山公園にあります。

24番札所 最御崎寺】
約75km走行して、24番札所 最御崎寺に到着です。
山門の前に巡礼者を見守る様に弘法大師像がありました。
かっては女人禁制の寺院であったそうですが、
境内に入ると明るく開放的な南国情緒がありました。
弘法大師は
御蔵洞で修行の後、唐に渡り帰国後室戸岬を
再度訪ねて、虚空蔵菩薩を刻んで本尊として
開基したと言われています。歴代の天皇の崇拝が厚く
足利尊氏は土佐の国の安国寺とし、江戸時代には
藩主山内家の祈願所として栄えたと言われています。
山門から岬へ少し下りると高所にある為、
灯台自体はそれ程高くはないが
台風で有名な灯台がありました。

25番札所 津照寺】
約6km走行して、25番札所 津照寺に到着です。
急な石段を上ると鐘楼門がありました。
お寺は室津港を見下ろす小高い丘の上です。
慶長7年(1602年)土佐藩主、山内一豊が室津沖で
暴風雨に会い遭難しかかった時一人の僧が現れ、
舵を取ってくれ無事帰る事が出来たと言う。 
翌日、寺を尋ねると地蔵菩薩がびしょ濡れに
なってとの事、それ以来藩主に厚く信仰され、
何時しか本尊は 『舵取り地蔵』 とも
言われているとの事です。
丘の頂上の境内から見下ろす室津港です。

26番札所 金剛頂寺】
約5km走行して、26番札所 金剛頂寺に到着です。
鬱蒼とした森林に囲まれたお寺です。
弘法大師が嵯峨天皇の勅願により
薬師如来を刻み本尊として開基したと言われています。
境内に 『一粒万倍の釜』 がありました。
弘法大師が炊くと、
お米が万倍に増えたと言われています。
2日目の巡礼はここで終了です。
国道55号線を海岸沿いに進み、
今夜は奈半利川沿いにある二十三士温泉に宿泊です。
幕末の元治元年(1864年)、
土佐藩の尊皇攘夷派23名が謀反を企て、
反逆者として奈半利川で惨殺されたと言う。
そんな幕末の志士に因んで名付けられたそうです。
露天風呂には小石が引き詰められていて
川風が実に爽快でした。

27番札所 神峯寺】
約33km走行して、27番札所 神峯寺に到着です。
狭い山道を登った頂上にありました。
暫く石段を上ると山門がありました。
更に登り詰めると森を背に大師堂がありました。
行基が十一面観世音菩薩を刻み本尊とし、
後に聖武天皇の勅命により
弘法大師が神仏合祀して札所としたとありました。
石段脇に
水量の多い 『神峯の水』 と言う霊水がありました。
病で危篤状態の女性が
夢に現れた弘法大師にこの水を飲ませて貰い
一命を取り止めたと言う伝説があるそうです。

28番札所 大日寺】
約38km走行して、28番札所 大日寺に到着です。
石段を暫く上ると歴史のありそうな山門です。
山門をくぐると正面にどっしりとした本堂がありました。
聖武天皇の勅願により大日如来坐像を本尊として
行基が開基したと記されていました。
境内から林道で150m程行くと奥の院です。
弘法大師が楠に薬師如来を爪で彫ったと
言い伝えられていて、目、耳、口、鼻等
首から上の病気にご利益があるそうです。

29番札所 国分寺】
約11km走行して、29番札所 国分寺に到着です。
山門をくぐると、長い石畳が続き、
茅葺屋根の重要文化財の本堂がありました。
土佐の国の国分寺で行基が千手観音像を刻み
本尊として開基され、後に弘法大師が訪れて
29番札所にしたと記されていました。
境内には酒断ち地蔵があり、
全国から祈願に訪れている人が多いそうです。

30番札所 善楽寺】
約11km走行して、30番札所 善楽寺に到着です。
土佐一宮の別当寺として建立されたが、
一時廃寺となり、国分寺から大師像を迎えて
30番札所として再興されたとの事、
首から上の病気に御利益があり、ノイローゼ、脳の病気、
目、耳、鼻の祈願に訪れる人が多いそうです。
先ず高知市内に入り、
歌に唄われているはりまや橋に寄りました。
全国に知られた名所、現在のはりまや橋です。
市の中心にあり、実にアンバランスな風景でした。
土佐民謡『よさこい節』に坊さん簪買うを見たとあります。
竹林寺の修行僧、純信(37歳)が恋仲の鋳掛屋の
娘お馬(17歳)に贈る為、播磨屋橋の小間物屋で簪を
買ったのを見た人が当時流行っていたよさこい節にのせて
唄ったと言われています。
純信は僧の身、許されぬ恋で二人の駆け落ちは失敗。捉えられ二人とも国許から追放処分になりました。
因みに二人は追放された後、各々別の人と結婚して幸せな人生を送ったそうです。

31番札所 竹林寺】
約10km走行して、31番札所 竹林寺に到着です。
札所は高知市内を見下ろす五台山の頂上にありました。
石段を上がり、山門をくぐると、
タイムスリップして静寂に包まれます。
本堂は室町時代の創建で重要文化財です。
聖武天皇が
唐の五大山に登り文殊菩薩を拝した夢を見て、
行基に五台山に似た霊地に寺を建立する様に命じ、
行基が文殊菩薩を刻み本尊としたのが開基で、
後に弘法大師が整備して札所にしたと記されていました。

32番札所 禅師峰寺】
約8km走行して、32番札所 禅師峰寺に到着です。
山門と仁王像は重要文化財です。
奈良時代に行基が開基し、
後に弘法大師が訪れ海上安全を願って
十一面観音像を刻んで本尊としたと言われています
山内一豊が参勤交代の時は
航海安全の祈願を欠かさなかったそうです。
海の底から隆起して出来たと言う岸壁の前に
不動明王がありました。
次の札所へは桂浜の傍を通るのでちょっと寄り道です。
お馴染みの風景、白砂青砂の桂浜です。
太平洋を眺めて立つ龍馬像です。
28歳で土佐藩を脱藩した龍馬は江戸の勝海舟の元に
身を寄せ、京都、長崎、鹿児島と歴史に拘わる場所で
時代を加速させました。

33番札所 雪蹊寺】
約10km走行して、33番札所 雪蹊に到着です。
鎌倉仏師の運慶とその子の湛慶が訪れ、
運慶は檜の寄木造りで本尊の薬師如来坐像、
日光・月光菩薩を造り、湛慶は毘沙門天、吉祥天、を
造ったと伝わっています。
それらは全て重要文化財に指定されています。
弘法大師が開基、自ら刻んだ大師像がありました。
長宗我部元親に保護され、元親死後菩提寺として
栄えたと言われています。

34番札所 種間寺】
約7km走行して、34番札所 種間寺に到着です。
摂津の四天王寺を建立する為に百済から招かれた
仏師達が帰国の途中暴風雨に遭い、近くの秋山に避難、
仏師達は帰路の航海の安全を願って薬師如来を刻んで、
秋山の本尾山山頂に安置したそうです。
後に弘法大師がその薬師如来を本尊として
お寺を建立して、唐の国から持ち帰っていた五穀の種を
蒔いた事から名付けられたと言われています。

35番札所 清瀧寺】
約12km走行して、35番札所 清瀧寺に到着です。
行基が薬師如来を刻んで本尊として開基し、
後に弘法大師が寺の山中で修法を行い、
満願の日に金剛杖で地面を突くと清水が湧き、
滝となり鏡の様な池が出来たと言う。
これが寺名の由来との事です。
境内に高さ15m程の薬師如来像がありました。
胎内を真言を唱えながら巡ると厄除けの
御利益があるとの事、早速実行、真っ暗で何も見えない
戒壇を手探りで真言を唱えながら巡りました。
南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、・・・・
きっと御利益があるものと思います。

36番札所 青龍寺】
約15km走行して、36番札所 清龍寺に到着です。
石段を上ると、山門があり、さらに石段を上り切った所に
本堂がありました。
弘法大師は唐の青龍寺で真言密教を授かり、
報恩の為に帰国して青龍寺を建立しようと、
唐から仏具の独鈷杵を投げました。
四国巡礼中に、この地で老松に留まっている
独鈷杵を見つけて、嵯峨天皇に奉上して、
不動明王を刻み本尊として、
お寺を建立したとありました。

37番札所 岩本寺】
約60km走行して、37番札所 岩本寺に到着です。
四国霊場で唯一五体の本尊を安置していると言う。
聖武天皇の勅願により行基が開基し、
後に弘法大師が夫々に本地仏を安置して、
5社5ヶ寺を建立したと言われています。
大師堂には 『矢負の地蔵』 がありました。
昔、貧しい信心深い狩人が岩本寺の観音様に
殺生につながる狩人を辞めたいと願をかけました。
年貢の取り立てに困って自分の胸を
矢で射抜いてしまいます。気が付くと傍のお地蔵様の
胸に矢が刺さっていたそうです。
それ以来身代わりなった地蔵菩薩を
『矢負いの地蔵』 と呼んでいるそうです。

3日目の行程はここで終了、国道を南下して約100km先の四国の最南端の足摺岬を目指しました。

途中、ニュー佐賀温泉で一風呂浴び、足摺岬への
入り口にある道の駅、『めじかの里土佐清水』 に到着、
早朝岬を目指す事にして、今夜はここで車中泊です。
暫くして隣に車が来て、
心細いので御一緒させて欲しいとの事、
西表島から来て巡礼しているとの事、
話が弾み夜が更けて行きました。
約95km走行して、早朝の足摺岬に到着です。
荒々しい波が打ち寄せる岬の先端には
台風の通り道で有名な燈台がありました。
岬への入り口には太平洋の彼方、米国を眺めている
ジョン万次郎の銅像がありました。
万次郎は土佐清水市中浜の貧しい漁師の家に生まれ、
1841年1月、14歳の時、シケに遭い漂流して
5名で太平洋の孤島、鳥島に漂着します。
そこで約半年間の過酷な無人島生活を送り、
アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって発見され、
助けられます。
5人の漂流者達はそこから安全なハワイへ着き、
万次郎はここで1人アメリカへ渡る決心をします。
1843年、万次郎が救出されてから2年後、
船はアメリカ最大の捕鯨基地、マサチューセッツ州のニューベットフォードに帰港、
鎖国の時代に万次郎は日本人として初めてアメリカ本土の土を踏みます。
当時万次郎はジョン・ハウランド号からとって 「ジョン・マン」と言う愛称で呼ばれていたそうです。
漂流から10年後万次郎は仲間二人と共に琉球(沖縄県)に上陸、翌年の夏ようやく土佐へ帰ります。
万次郎の帰国から2年後1853年アメリカのペリー提督が黒船を率いて現れます。
初の公式海外使節団をアメリカに送ることになり、勝海舟と福沢諭吉と共に万次郎は随行艦 「咸臨丸」 に乗って
通訳として、また航海士として活躍、日米の架け橋となる幾多の業績を残したとありました。

38番札所 金剛福寺】
38番札所 金剛福寺は
ジョン万次郎銅像の近くにありました。
足摺岬は補陀洛に最も近いとされていて、
嵯峨天皇より 『補陀洛南東門』 の勅額を賜り、
源氏一門とも縁が深く平安時代には
土佐最大の寺院として栄えたそうです。
弘法大師が三面千手観世音菩薩を刻んで安置して
建立したとされています。
弘法大師が修行する時、沖の不動岩に亀を呼んで
行ったと言う伝説があります。
頭を撫ぜて念じると幸運が来るとの事、
早速、撫ぜ、撫ぜして健康祈願をしました。

39番札所 延光寺】
約60km走行して、39番札所 延光寺に到着です。
聖武天皇の勅願により、行基が薬師如来を
刻んで本尊として開基、後に弘法大師が脇侍として
日光・月光両菩薩を刻んで安置し、
札所としたと言われています。
境内の中央に梵鐘を背負った赤海亀像がありました。
この赤海亀が背負って来た梵鐘には延喜11年(911年)
の銘があり、県内最古の梵鐘で重要文化財に
指定されているそうです。

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