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| 2. 上野の国 新町宿(11次) ⇒ 坂本宿(17次) |
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| 【新町宿(11次)】 |
| 英泉は神流川橋を描いています。 |
| 遠景の富士山に似た高い山は赤城山です。 |
| 英泉は 『木曽名所図会』 の中で |
| 赤城山は富士峯に似たり、と書いています。 |
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≪新町≫ |
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| 江戸時代にはこの橋の両側に見通し燈籠がありました。 |
| 国道17号線を神流川橋の手前で左折すると |
| 大光寺があり、本庄側にあった燈籠が流失して、 |
| この寺に本庄側英泉常夜燈が再建されたそうです。 |
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| 中山道は橋を渡り国道を右折して国道17号線と |
| 平行に進みます。分岐点に一茶常夜燈がありました。 |
| 新町宿に泊まっていた俳人一茶は無理やり |
| 寄付させられた事を日記に書いているそうです。 |
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| 神流川橋を渡った右側に古戦場碑がありました。滝川一益軍2万と小田原北条軍6万が激闘して、 |
| 滝川軍は約4千人の戦死者が出た とありました。 |
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| JR高崎線、新町駅近くにこの戦での首検分後、 |
| 埋葬した 首塚八幡宮 がありました。 |
| 里人達は以後無縁の霊を祭り首塚と呼び、 |
| 古くから首から上の病いの神として |
| 参詣する人が多いそうです。 |
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| 中山道を進むと於菊稲荷神社があり、中に絵馬が掲げられてありました。 |
| 新町宿の大黒屋に於菊というたぐいまれな美貌と気立て良さの娼妓がいました。風邪をこじらせて |
| 重い病で床に伏してしまいます。やがて於菊への待遇が一変してあんどん部屋に追いやってしまいます。 |
| 於菊の不遇に町の人達は同情して神社の裏に小屋を建て引き取り、看護にあたりました。 |
| ある夜枕もとに稲荷の霊が現れて病は奇跡的に全快、神に感謝した於菊はそのまま神社に |
| 自分の身を捧げる決心をし奉仕したそうです。 |
| それ以来この神社はいつからか於菊稲荷神社と呼ばれ、新町の名所として遠くは江戸、相模、長崎からも |
| 参詣人が集まり大いに賑わったと言うことです。 |
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| 【倉賀野宿(12次)】 |
| 宿場の南を流れる烏川は利根川と合流して |
| 江戸に繋がっています。 |
| 英泉は烏川に建った茶屋を描いています。 |
| 茶屋の女房が束子で釜の底の煤を擦り取り、 |
| 水門の辺りでは男の子達が遊びに熱中しています。 |
| 休んでいる旅の女がこの様子に見入っています。 |
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≪倉賀野宿 烏川之図≫ |
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| 宿場町で利根川最上流の河岸の為、江戸を往復する荷船で活気にあふれていたそうです。 |
| 各地の産物が江戸へ、江戸からは日用品が地方へと運ばれ、その最盛期には、米300俵積みの大船が |
| 150艘余り往来していたと言われています。 |
| 主に上りが塩・茶・小間物・ぬか・干鰯・綿、下り荷には、米・大豆・麻・紙・たばこ等の船荷が |
| 沢山の人足とともに往来していた とありました。 |
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| 中山道を進み関越自動車道を越えると岩鼻陣屋跡です。 |
| 幕府直轄領50万石を統治する代官所と処刑場が |
| あったそうです。 |
| 国定忠治の取調べもこの代官所で遣った とありました。 |
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| 倉賀野宿手前に倉賀野追分がありました |
| 右が中山道、左が日光道です。 |
| 常夜燈の台には雷電や団十郎等々 |
| 寄進者の名前がぎっしり書いてありました。 |
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| やがて中山道は倉賀野宿に入ります。 |
| 倉賀野城址は現在小さな児童公園の様で |
| 碑と看板があるのみでした。 |
| 上杉憲政の支配下であったが1565年(永禄8年)に |
| 信玄に滅ぼされ、 |
| 金井淡路守秀景が倉賀野城主となり、信玄没後の |
| 1575年(天正3年)勝頼は長篠の戦で敗れ、 |
| 秀景は勝頼にとって生き残った貴重な将であったと言う。 |
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| 宿場中程の倉賀野駅近くに脇本陣がありました。 |
| 門と白壁だけが昔の面影を残していました。 |
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| 街道を下佐野町で左折、上越新幹線の下に |
| 佐野常世神社がありました。 |
| 佐野源左衛門常世が旅の僧(実は北条時頼)のために |
| 鉢の木をくべて持て成した という伝説が |
| 謡曲 『鉢の木』 に登場する とありました。 |
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| 近くに定家神社がありました。 |
| 歌人藤原定家を祀っていて、現在も学問の神として |
| お参りする人が多いそうです。 |
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| 新古今集に |
| 駒とめて袖打はらふかげもなし |
| さののわたりの 雪の夕暮 |
| とありますが、ここで詠われたかは定かでないそうです。 |
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| 【高崎宿(13次)】 |
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| 遠景の山は榛名山です。 |
| 裕福そんな若女主人が供を連れて歩いていると、 |
| 御座を背負った貧しい男が菅笠を裏返しにして |
| 何かを無心しています。 |
| 貫えそうだと気付いた人足も手を差し出して |
| 走って来る様子が描かれています。 |
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| 高崎市内に入ると烏川沿いに頼政神社がありました。 |
| 頼政は平安末期源家の正統に生まれた武将で |
| 歌人としても優れ、 保元・平治の乱で功をあげ、 |
| 後に剃髪し源三位入道となり、以仁王を奉じ |
| 平家追討を謀るも破れてしまい、 |
| 1180年(治承4年)宇治平等院で自刃したとありました。 |
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| 中山道はやがてJR高崎駅に出ます。街道右手に大信寺があり、境内に徳川忠長の墓がありました。 |
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| 忠長は二代将軍秀忠の三男で駿河大納言と呼ばれ駿河55万石の藩主です。 |
| 乱行があったとして高崎城に幽閉され、1633年(寛永10年)27歳の時自刃させられたと言う。 |
| 三代将軍家光とのお家騒動は有名です。 |
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| ≪歴史の詳細≫ |
| 二代将軍、秀忠と淀君の妹である奥方のお江与の長男、長丸は二歳で病死する。 |
| 次男、竹千代(後の家光)は乳母の春日局によって育てられ、 |
| 三男、国千代(後の忠長)は将軍とお江与の傍で育てられたと言う。 |
| お江与の方に溺愛された忠長は、一時は兄の竹千代(家光)をさしおいて世嗣に噂されるほどになり、 |
| 将軍秀忠も夫人の影響を受けてか、家光よりも忠長をかわいがったそうです。 |
| 家光の乳母春日局は、命懸けで駿府の家康に訴え、 |
| 家康は ≪竹千代が16歳になったら予が連れて上洛し元服させる≫ と宣言、 |
| 三代将軍が家光になったと言う歴史があり、兄弟の仲は頗る悪かったと言われています。 |
| 二代将軍、秀忠の没後、その仲は決定的となり1633年(寛永10年)27歳の時自刃させられたと言う。 |
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| 近くに高崎城跡があり、乾櫓と東門が大手門に復元されていました。 |
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| 市内何処からでも見えるのが高崎白衣観音です。 |
| ちょっと寄り道してお参りしました。 |
| 真下から見上げるとあまりにも大きいので驚きでした。 |
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| 【板鼻宿(14次)】 |
| 『 馬をさへ ながめる雪の あした哉 』 |
| と言う芭蕉の句にヒントを得て |
| 雪景色にしたのがこの画だと言われています。 |
| 雪が止み、 |
| 旅人の肩に積もっているのが面白い描写です。 |
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≪板鼻≫ |
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| 高崎から国道17号線は18号線になります。 |
| 国道18号線を進むと、やがて碓氷川沿いに出ます。 |
| 国道沿いに榎の大木が見えて来ます。 |
| 藤塚一里塚です。 |
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| 対岸に達磨寺がありました。碓氷川から発見された香木に中国からの渡来僧が達磨大師坐像を彫刻して |
| 草庵に祀ったのが起こりとありました。毎年1月7日は達磨市で賑わい、よくTV中継もされます。 |
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| 中山道は板鼻宿に入ります。現在本陣跡は公民館になり、 |
| 資料館として公開されていました。 |
| 裏に皇女和宮が泊まった本陣の書院が保存され、 |
| 皇女和宮を迎える宿場の対応が記されてありました。 |
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| 1.三日間旅人の通行止 |
| 2.二階雨戸を閉切り目貼りをする |
| 3.表には水を満たした天水桶を置く |
| 4.表屋根に留石板を添える |
| 5.焚き火禁止 |
| 6.表障子開け払い奥まで見透しにする |
| 7.看板、わらじは吊るさず外す |
| 8.水車、その他鳴り物禁止 |
| 9.身元不審人を置かない |
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| 立て看板には |
| 旧本陣書院(皇女和宮泊所) |
| この建物は板鼻本陣に付属した書院であった。 |
| 幕末に皇女和宮が十四代将軍家茂へ輿入の為、 |
| 京都から江戸へ下向途次、1861年(文久元年) |
| 11月10日にこの書院で過ごされた とありました。 |
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| 【安中宿(15次)】 |
| 坂道を登って行く大名行列が描かれています。 |
| 前方に三人の旅人らしき人物がいます。 |
| 大名行列には露払いがいて、この様な光景は無く、 |
| 作者広重の思いが描かれています。 |
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| 中山道は国道18号線を外れて安中駅方面に左折です。信越本線の安中駅を過ぎると、 |
| 安中藩の農民統治を担った郡奉行役宅と四軒長屋の武家長屋が復元されてありました。 |
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| 街道の左奥に明治の教育者で同志社大学の創設者、 |
| 新島襄宅がありました。 |
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| 中山道は原市の杉並木に出ます。 |
| 杉並木碑には国指定天然記念物とありました。 |
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| 【松井田宿(16次)】 |
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| 広重の画は松井田宿へ入る手前の坂辺りで、 |
| 遠景に碓氷峠が描かれています。 |
| 米俵とともに馬子も乗せて坂を登って行く光景と |
| 背一杯の荷物を積んで馬子に引かれて坂を下る馬が |
| 描かれています。 |
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| 中山道はやがて松井田宿に入り不動寺がありました。1243年(寛元元年)慈猛上人の開山で、 |
| 元亀・天正の頃は武田信玄から寺領を貰い、江戸時代には徳川家光より89石を与えられて |
| 末寺17ヵ寺を有する大寺であった とありました。 |
| 山門左側に三基の石塔婆があり、1352年(観応3年)の銘がありました。 |
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| 宿場外れの西松井田駅前に関東屈指の禅寺、補陀寺がありました。 |
| 川越城と松井田城の城主であった大道寺政繁の菩提寺です。 |
| 小田原落城後切腹、前田氏の大名行列が通ると墓が涙を流すとの伝説があるそうです。 |
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| 街道は国道や信越線と交差しながら進みます。 |
| やがて五料茶屋本陣に出ました。 |
| 名主屋敷でお西とお東の2軒あり、参勤交代の大名や |
| 公家の休憩所として使われていた とありました。 |
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| 近くに夜泣き地蔵と茶釜石がありました。 |
| 右側の大きな地蔵が夜泣き地蔵です。 |
| 昔ある馬方が脇に落ちていた地蔵の首を、 |
| 荷物のバランスをとるために一緒に深谷まで運び、 |
| 不要になるや捨ててしまいます。 |
| すると夜な夜な 『首が五料恋しや』 と泣くので、 |
| 五料まで戻して胴の上に載せてやったそうです。 |
| それ以来泣かなくなったそうです。 |
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| その前にある茶釜石は、たたくと金属性の音がします。 江戸時代、大田南畝(蜀山人)が 『五両(五料)では |
| あんまり高い茶釜石 値(音)打ちを聞いて通る旅人』 という狂歌を残している とありました。 |
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| 中山道を進み、国道とJR信越線を越した山際に碓氷神社が有りました。 |
| この神社は碓氷峠熊野神社の分霊を祀る碓氷郷の鎮守で、源頼朝が信州浅間の牧狩り時に |
| 立ち寄り境内に御所を置いた境内に御所を置いた との伝説がある と記されてありました。 |
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| 【坂本宿(17次)】 |
| 正面の刎石山を借景にして坂本宿を描いています。 |
| 実際の刎石山は街道の真正面にあり、 |
| 英泉は旅人で賑わう街道を描く為に構図を変えています。 |
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| 街道を進むと坂本宿です。 |
| 英泉はここからの坂本宿を描いています。 |
| 前後に関所や峠を控え、 |
| 旅装を解く旅人が多かったそうです。 |
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| やがて中山道は信越本線の横川駅です。横川駅と言えば 『峠の釜飯』 です。早速懐かしい釜飯を購入しました。 |
| ¥900なり。10数年前は牽引車の連結作業の数分間横川駅で停車、その間にプラットホームに降りて |
| 肩から吊すようにして売り歩いていたオジサンから時間を気にしながら 「釜飯」 を買った事を思いだしました。 |
| 味は当時と同じで、鶏肉・ゴボウ・椎茸・筍・うずら・グリーンピース・紅生姜・栗・杏、古き良き時代を思い出しました。 |
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| 横川駅を過ぎ、碓氷関所跡にでます。東海道の箱根の関所と同様に |
| 『入り鉄砲に出女』 を取り締まった重要な関所だった とありました。 |
| 石の上に持ち物を全て広げて検分されたそうです。 |
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| 中山道は山道の碓氷峠越えです。 |
| 奇岩の林立する妙義山を左に眺めながら上ると |
| 碓氷湖に出ます。更に高度を上げると |
| 赤レンガのアーチ式 『めがね橋』 の傍に出ます。 |
| 1892年にアプト式鉄道として開通、 |
| 現在国の重要文化財に指定されています。 |
| もう直ぐ峠の頂上です。 |
| 頂上から先は信濃の国です。 |
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