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現在は一乗寺は無く、寺の名前だけが地名となって残っている。 |
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当時、下り松は比叡山から近江へ抜ける目印となっていた。
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因みに、この松は4代目との事です。
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| この松は吉川英治の宮本武蔵に登場する。 | |
| 宮本武蔵に吉岡清十郎はあっ気なく打ち負かされてしまう。 | |
| 一門の名を汚されたと弟、伝七郎も挑むが破れてしまう。 | |
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吉岡一門は清十郎の子、又七郎を立て最後の決闘の場として一乗寺下り松を指定した。夜も明けぬ薄暗闇の中
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| 下り松を取り囲んで数を頼んで武蔵の来るのを待つ・・・ | |
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武蔵は死を期し危地へ来る途中八大神社の前で足を止めて
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手を合わせて祈ろうとするが、その気持ちを一蹴して
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祈りもせずに其の侭下り松の決戦場へ駆け向かったと言う。
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武蔵は風の様に走り抜け、
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あっと言う間に幼い又七郎を斬り決着する。
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これは吉川英治の宮本武蔵であるが、
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水を挿す様ですが歴史的には本当に決闘したか定かで無いそうである。
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| 八代神社の隣に詩仙堂丈山寺がある。曹洞宗大本山永平寺の末寺である。 | |
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| 徳川譜代の臣であった石川丈山が54歳の時、 | |
| 京に帰り詩仙堂を造営し、没するまでの30数年間、 | |
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聖賢の教えを自分の勤めとしてこれを楽しんだ。
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| 丈山は隷書、漢詩の大家で文人茶の開祖と言われている。 | |
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詩仙堂は天災地変の難を免れ、庭園と共に往時を其の侭残していると言われている。
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座敷に座ると、静寂の中に「鹿威し」の音が澄んで響き渡り、一層の静寂感が漂い心が洗われる。
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| 時間を忘れ何時までも座り続けたい思いがした。 | |
| 道案内に従って住宅街の中の細い道を進むと浄土真宗の開祖、親鸞聖人所縁の本願寺北山別院に出る。 | |
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親鸞は9歳の時、慈円和尚のもとで出家、
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| 比叡山で修行していた。生ける者全てが救われる道を | |
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求めて精進していたが答えが無く、真実の道から
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遠ざかって行く自分を見出すばかりであった。
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| 29歳の時聖徳太子が創建した六角堂 | |
| (西国33箇所観音霊場)に100日間の参詣をした。 | |
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比叡山から雲母坂を下り、六角堂へ詣でる途中、
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| 清水が湧き出ている所があり、喉を潤し、 | |
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体を拭い休息したと言う。ここが北山別院である。
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親鸞聖人の遺徳を偲んで涌き水は「聖水」と懐けられ、又
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聖徳太子が童の姿になって親鸞聖人を励ましたと言う石は
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「影向石」と呼ばれ、親鸞聖人の若き日を
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| 偲ばせていると言われている。更に細い路地を500m程歩くと、金福寺の門前に出る。 | |
| 金福寺は864年、慈覚大師が国家安泰衆生救済を念じて創建されたが一時荒廃していた。 | |
| その後元禄時代に鉄舟和尚が復興して臨済宗とした。この頃芭蕉は時々鉄舟和尚を訪ね親交を深めていた。 | |
| 何時しか人々は庵を芭蕉庵と言う様になったとの事。 | ![]() |
| 70年後与謝蕪村の一門が庵の荒廃を歎いて | |
| 再興したのが今日の芭蕉庵と言われている。 | |
| うき我を さびしがらせよ 閑古鳥 | |
| 芭蕉 | |
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蕪村一門は |
| しばしば当寺で句会を開いていたと言う。 | |
| 芭蕉庵の近くには蕪村・呉春・景文・青木月斗達の | |
| 墓がある。 | |
| 耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵 | |
| 蕪村 | |
| 舟橋聖一作「花の生涯」のヒロイン、村山たか女は天誅組によって三条河原で晒者にされたが助けられ、 | |
| 尼となって金福寺に入り、以後14年間余生を送り | ![]() |
| 明治9年、波瀾の生涯を終わったと言う。 | |
| 後年、高浜虚子が訪れ以下の名句を詠まれている。 | |
| 行く春や 京を一目の 墓どころ | |
| 虚子 | |
| その他、名家の俳句が多く詠まれている。 | |
| 地の利を生かして、機会をみて順次 京都散策 を続けます。以後も宜しくお願い致します。 | |
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