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| 5. 美濃の国 落合宿(44次)⇒ 今須宿(59次) |
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| 【落合宿(44次)】 |

≪落合≫ |
| 馬籠の先の十曲峠を超えて、急な坂道を下り、 |
| 平担な美濃路へ入ります。 |
| 画は十曲峠から落合宿へ下る風景です。 |
| 落合宿を目指して大名行列が坂を下っています。 |
| 遠くの山は恵那山でです。 | |
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| 坂を下って中山道を進み、途中で左折して |
| 新茶屋への道を辿るとやがて新茶屋一里塚に出ます。 |
| その前に新茶屋の休憩所が再現されていました。 |
| 信濃国と美濃国の国境です。 | |
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| 新茶屋の休憩所の前に、芭蕉句碑と並んで、是より北 木曽路の石碑がありました。 |
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| 送られつ 送っりつ果は 木曽の穐 |
| 芭蕉 |
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| 句碑の建てられたのは1843年(天保14年)で 『夜明け前』 にその時の様子が書かれています。 |
| この穐(あき)という字が気に入らん。 これでは木曽の蝿としか読めない とあります。 |
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| 近くの公園に子規の句碑がありました。 |
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| 桑の實の 木曽路出づれば 穂麦かな | |
| 街道を少し下ると、十曲峠です。石畳が840m復元されてありました。 |
| 車を駐車して医王寺まで往復する事にしました。 |
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| 前日の鳥居峠で少々疲れていて、帰りの登りを心配しながら下りました。 |
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| 石畳が終わると左手に、中山薬師の名でよく知られる日本三薬師のひとつ、医王寺がありました。 |
| 落合宿の名物 『狐膏薬』 は薬師如来の夢のお告げによって作られたそうです。 |
| 続膝栗毛に登場するくだりの書かれた看板がありました。 |
| サアサア、お買いなさってござりませ、当所の名宝 『狐膏薬』 道中のお足のいたみ、金瘡、切疵、ねぶくはれもの、 |
| ところきらわず、ひとつけにてなおる事うけ合い。他に又 『すいこうやく』 のすいよせる事は金持ちの金銀をすいよせ、 |
| 女中方もひたひたとすいよせる事きみょう希代、おたのしみに買いなされと膏薬効能をはやしたてて売ったと |
| 弥次・喜多道中記に書いてある とありました。 |
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| 再び街道を落合宿に向かって下ります。 |
| そこには子規の句通りの風景が広がっていました。 |
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| 坂を下り切った所が落合宿です。 |
| 落合宿本陣は文化年間に大火に見舞われ消失、 |
| 表門は再構築された時、加賀藩から火事見舞いに |
| 贈られたそうです。 |
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| 【中津川宿(45次)】 |
| 雨の宿場外れです。 |
| 遠景が恵那山、近景が街道沿いの家並みです。 |
| 雨が降る街道を青色の雨合羽を着た武家3人が行きます。 |
| 溜池では二羽の白鷺が餌を漁っています。 |
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| 黒御影石の街道に架かる四つ目川橋を渡ると |
| 中津川宿です。 |
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| 中津川本陣で長州藩の中津川会議が開かれ、 |
| 藩論は倒幕へ傾いたと言う。 |
| 本陣跡には石碑だけで何も無く、 |
| 僅かに当時の間取りを示す案内板がありました。 |
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| 桂小五郎が潜んでいた旧料亭です。 |
| 藩主に尊皇攘夷を説く為に中津川宿で待った |
| と言われています。 |
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| 【大井宿(46次)】 |
| 中津川からの旅人達は大井宿の手前の甚平坂を |
| 経て大井宿に入ります。 |
| 広重は雪の降りしきる中を、黙々と甚平坂を登ってくる |
| 2組の馬子、馬上の商人らしき旅人を描いています。 |
| 背後の大きな山が恵那山で、その左の一番奥の白い山が |
| 御嶽山です。 |
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| 甚平坂に雪道を行く広重の画碑がありました。 |
| 画碑の上に御嶽山が見えるそうですが |
| 薄曇で何も見えません。 残念でした。 |
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| 甚平坂を下り切った所に大井宿本陣がありました。 |
| 江戸初期の門と樹齢300年の老松が風格を |
| 添えていました。 |
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| 【大湫宿(47次)】 |
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| 大湫宿を出ると右側に2つの巨岩が並んでいます。 |
| 旅人には目立っていて街道の案内書には |
| 母衣岩・烏帽子岩と紹介されています。 |
| 坂道を上ってくる農民夫人は山で刈った紫を背負子で |
| 運んでいます。 |
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| 中山道である国道19号線を南下し恵那IC近くの左側に |
| 西行硯水公園がありました。西行はここで三年間暮らし、 |
| こんこんと湧き出る泉の水を汲んで、墨を摺り、 |
| 多くの歌を詠んだそうです。 |
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| 中山道は公園を過ぎて右折、 |
| JR踏切と中央道を越えます。 |
| 右手の丘の上に西行塚がありました。 |
| 西行塚は全国に十数所あり、 |
| どれが本物か特定出来ないそうです。 |
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| 中山道はやがて大湫宿にはいります。 |
| 皇女和宮はここに泊まったそうです。廃校になった |
| 小学校の校庭に皇女和宮の歌碑(二首)がありました。 |
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| 遠ざかる都と知れば旅衣 |
| 一夜の宿も立ちうかりけり |
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| 思いきや雲井の袂ぬぎかえて |
| うき旅衣袖しぼるとは |
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| 樹齢千三百年の大杉の根元に |
| 神明水が湧いていました。 |
| 大湫宿のシンボルとして旅人の目印になっていた |
| そうです。 |
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| 宿場外れに花崗岩の二つ岩がありました。母衣岩 と 烏帽子岩です。二つ岩は広重の画に登場します。 |
| これ以外にも大きな岩がゴロゴロしていて、旅人には有名だったそうです。 |
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| 【細久手宿(48次)】 |
| 宿場の東の高い所から宿場の入り口を望んでいます。 |
| 宿へ入ろうとしている武土は刀を担ぎ、 |
| 水を入れた竹筒を吊り下げています。逆に坂を登ってくる |
| 菅笠の一人旅は荷物を振り分けています。 |
| 背負子を背負って村人は山へ薪を集めに行く様子、 |
| 手拭を姉さんかぶりにし、右手に菅笠、左手に鎌、 |
| 腰に藁で、作った腰当をつけた村女が尻皮を腰に付け、 |
| 鎌を持った男と向かい合っています。 |
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| 中山道を進むと、池の島に弁天様を祭った |
| 弁天池がありました。睡蓮が池一面に繁殖していて、 |
| 赤と黄の花が数輪、咲いていました。 |
| 今も200年前と同じ風景だそうです。 |
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| 細久手宿手前の高台には庚申堂がありました。 |
| 宿の北東鬼門除けとして、寛政の大火後に再建された |
| とありました。 |
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| 宿場には尾張藩指定の旅籠、大黒屋がありました。 |
| 細久手宿の本陣・脇本陣が手狭になリ、 |
| 他領主との合宿を嫌った尾洲家が、 |
| 問屋役の酒井吉右衛門宅を 尾州家本陣 として定めた |
| そうです。 |
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| 中山道進むと、奥之田一里塚(瑞浪一里塚)がありました。 |
| 江戸 92里、京 42里 とありました。 |
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| 【御嵩宿(49次)】 |

≪御嶽≫ |
| 広重は立場茶屋を木賃宿に仕立て描いています。 |
| 宿の前の小川では老婆が米とぎをしています。 |
| 手拭で頬被りした女が水を天秤で運んでいます。 |
| 宿の障子には 「きちん宿」、 |
| 柱行燈には「御嵩山御神燈」があります。 |
| 宿の主人が囲炉裏で薪を焼べ、湯を沸かしています。 |
| 囲炉裏を取り巻きいているのは旅僧、旅商人、 |
| 道場回り、巡礼達で、囲炉裏の周囲で雑魚寝します。 |
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| 中山道はやがて国道21号線と合流します。 |
| 御嵩宿手前の国道沿いに和泉式部供養塔がありました。 |
| 平安三大女流歌人として名高い和泉式部は旅の途中、 |
| この地で病に倒れた とありました。 |
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| やがて御嵩宿に入ります。 |
| 願興寺の門前町として発達した宿場です。 |
| 脇本陣跡には中山道みたけ館と本陣が |
| 再建されていました。 |
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| 隣接する願興寺です。蟹の背に乗って現れた |
| 薬師如来の伝説があり蟹薬師とも呼ばれています。 |
| 平安時代初期の815年に創建、 |
| 本堂や24体の仏像など多くの重要文化財が保管 |
| されている とありました。 |
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| 街道筋に明治10年、再現された本陣と商家は江戸時代の雰囲気を其の儘残していました。 |
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| 【伏見宿(50次)】 |
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| 広重は杉の大木の下で休憩している旅人達の画を |
| 描いています。 |
| 木陰を利用して木の根元で昼寝しているのは |
| 修行者のようです。 |
| 仲睦まじく昼食を取っているのは巡礼の老夫婦です。 |
| 街道では大名行列の台傘を持った中間が草鞋の紐を |
| 締め、長柄傘を持った中間は煙管を吸っています。 |
| 三味線を持って歩いてくる三人連れば瞽女です。 |
| 左端からは薬箱を背負った医者が日傘をさして |
| 歩いてきます。 |
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| 中山道が国道21号線に合流した所に |
| 鬼の首塚がありました。 |
| 願興寺の市で何時も悪さをしていた |
| 関の太郎の首を埋めたそうです。 |
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| 国道21号線を進むと、 |
| 国道沿いに伏見宿本陣跡がありました。 |
| 植木で隠れて見過ごしてしまいそうでした。 |
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| 【太田宿(51次)】 |
| 広重は木曽川を超える 『太田の渡し』 を描いています。 |
| 筏は、尾張藩領の木曽山中で伐採した檜などの木材を |
| 尾張の熱田湊まで運んで行く筏です。 |
| 首から頭陀袋をかけた巡礼の親娘が、これから渡る |
| 対岸の太田宿を眺めています。 |
| 腰を下ろした旅人2人が舟の到着を待っています。 |
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| 中山道は木曽川に架かる太田橋に出ます。 |
| ここに太田の渡し跡がありました。 |
| 碓氷峠・木曽の桟・太田の渡しが中山道の三大難所 |
| と言われていたそうです。 |
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| 木曽川を渡り、国道と平行にある街道を進むと、太田宿に入ります。 |
| 本陣跡には当時の表門だけが保存され、街道を挟んで重要文化財の脇本陣 林家がありました。 |
| 享保年間に太田宿が大火に合い、明和6年(1769年)に建てられ、本陣の予備的な役割を果たし、 |
| 役人や旅人の宿泊施設・味噌醤油の醸造販売・質屋等を営んでいたそうです。 |
| 江戸時代の名残りを今に留める数少ない建物 とありました。 |
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| 街道を進み高架下を抜けると、虚空蔵堂がありました。 |
| 近くの代官所で生まれた坪内逍遥はここでよく遊んだ |
| そうです。 |
| 虚空蔵堂前の柱には承久の変・木曽川古戦場跡 |
| とありました。 |
| 約八百年前の鎌倉時代、承久3年(1221)に |
| 北条義時の幕府軍と、後鳥羽上皇の朝廷軍が |
| 木曽川を挟んで対峙し戦闘になり、結果朝廷軍が惨敗し、 |
| 後鳥羽上皇は隠岐に流された。 とありました。 |
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| 中山道は国道21号線に合流します。国道沿いに小さな逍遙公園がありました。 |
| 逍遙の生まれた代官所跡は太田小学校になっていて校庭の片隅です。 |
| 坪内逍遥顕彰碑と生誕の地の説明板がありました。 |
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| 【鵜沼宿(52次)】 |
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| 木曽川左岸の上に建った犬山城と |
| 木曽川を渡る 『鵜沼の渡し』 が描かれています。 |
| 犬山城の天守閣は李白の詩から取って、 |
| 白帝城とも言われ、現存する最古の城 とありました。 |
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| 木曽川に沿って国道21号線を南下、JR鵜沼駅を過ぎ国道から離れて右折すると鵜沼宿に入ります。 |
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| 街道沿いの右側に鵜沼宿脇本陣跡があり、 |
| 芭蕉句碑がありました。 |
| 芭蕉は脇本陣、坂井邸に三度逗留しています。 |
| 句碑は三首ありました。 |
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| 汲溜の 水泡だつや 蝉の声 |
| ふぐ汁も 喰えば喰わせよ 菊の酒 |
| 送られつ 送りつ果ては 木曾の秋 |
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| ちょっと寄り道です。 |
| 木曽川の対岸に聳える国宝犬山城へ行く事にしました。 |
| 天文六年(1537)斯波氏の守護代の織田信康が築城し、 |
| 次男の広近が守り、その後織田氏の同族間での争いで |
| 織田信長に攻略され奪われる。戦国時代には目まぐるしく |
| 城主がかわり、尾張徳川家の徳川義直の家老、 |
| 平岩親吉が入ったが世継ぎがなく断絶、 |
| かわって成瀬正成が入り、明治に至っています。 |
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| 日本唯一の個人所有の城でしたが |
| 2004年成瀬氏は愛知県に寄付されました。 |
| 6日目の旅はここで終了です。 |
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| 国道21号線と平行に走る街道を進み、加納城跡先で |
| 国道157号線に入り、西国33ヶ所観音霊場の33番札所、 |
| 谷汲山華厳寺を目指しました。 |
| 今夜は谷汲温泉、満願の湯で一風呂浴び、 |
| 前の駐車場で車中泊です。夕食は途中のスーパーで |
| 仕入れた握り寿司とアサリの味噌汁としました。 |
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| 早朝、華厳寺に参詣しました。 |
| 人っ子一人いない境内には冷気が漂い |
| 心が洗われる思いがしました。 |
| 西国33箇所観音霊場、満願の華厳寺本堂で |
| 真っ暗な回廊を一巡りすると、本尊と血縁が出来て、 |
| 極楽往生が約束されるのだそうです。 |
| 何だか極楽へ行けそうな気がして来るから不思議ですね! |
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| 【加納宿(53次)】 |
| 徳川家康は、岐阜城を廃し、中山道沿いの加納に |
| 宿場を設けるとともに加納城を築きました。 |
| 松並木のある街道を大名行列が行きます。 |
| 道端の旅人達は土下座をして行列が通り過ぎるのを |
| 待っています。 |
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| 早朝、岐阜市内に戻りました。 |
| 加納宿への手前の街道の両側に土手を築き、 |
| 榎が植えられていました。細畑の一里塚です。 |
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| やがて加納城跡です。 |
| 現在は本丸跡に僅かに石垣が残っているだけでした。 |
| 関が原合戦の後、岐阜城を移築して造られたそうです。 |
| 本丸、二の丸、三の丸、厩曲輪、南曲輪が設けられ |
| 内堀、外堀が廻らされていたようです。 |
| 中山道唯一の城下町です。 |
| 現在は殆どが消失しています。 |
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| ちょっと寄り道して、再建された岐阜城へ行きました。 |
| 岐阜城は長良川のほとりにある金華山の頂上に斉藤道三が築き、後に織田信長の居城となります。 |
| 現在はロープウエイで上れます。良くぞこんな場所に築城したものだと感心しました。 |
| 関ヶ原の合戦で西軍に属していた為、岐阜城は1601年に廃城になり、 |
| その天守閣は加納城(今はない)に移されたそうです。 |
| 加納城の古図を基に昭和31年に復元されたとありました。 |
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| 天守閣からの岐阜市内と長良川の展望です。 |
| 家は少ないと思いますが道三も信長も同じ風景を |
| 眺めていたと思うと、忽ち当時にタイムスリップします。 |
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| 【河渡宿(54次)】 |
| 旅人は舟で長良川を渡って河渡宿へ入ります。 |
| 英泉はこの川で有名な鵜飼の有様を描いています。 |
| 鵜匠達は埔獲した鮎の大半を尾張藩へ上納したそうです。 |
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≪岐阻路ノ驛河渡 長柄川鵜飼船≫ |
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| 中山道を進むと、長良川に架かる河渡橋に出ます。 |
| ここが小紅の渡しです。現在でも無料で渡れます。 |
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| 河渡橋を渡ると河渡宿です。 |
| 宿改修碑と代官祠です。 |
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| 【美江寺宿(55次)】 |
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| ここは長良川や揖斐川に挟まれた土地で |
| 氾濫によく見舞われていたそうです。 |
| 奈良時代の初期、この地域を氾濫から守ろうと、 |
| 伊賀国の十一面観音を移し大伽濫を建立、 |
| それ以来川の流れが穏かに美しくなったので、 |
| 人々はこの寺を美江寺と呼んだそうです。 |
| 鍬を担いだ農夫が旅の老僧に道を尋ねられて、 |
| 教えています。手拭を被り商品を入れた葛籠を背負った |
| 旅商人が腕を組んで立聞きをしています。 |
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| 街道を進み、樽見鉄道の踏み切りを越した所に美江寺がありました。 |
| 寺院は戦国時代 、斉藤道三により岐阜に移され名前だけが残り、現在は観音堂だけでした。 |
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| 中山道は揖斐川に架かる鷺田橋に出ます。 |
| ここが呂久渡船場跡です。近くに小簾紅園があり、 |
| 皇女和宮の歌碑がありました。 |
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| 落ちてゆく 身と知りながら もみじ葉の |
| 人なつかしく こがれこそすれ |
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| 街道から少し離れた住宅の中に小さな公園があり、 |
| ハリヨの池がありました。 |
| ハリヨは綺麗な水にしか生息出来ず、 |
| 体長7〜8cmの小魚で、産卵のために、 |
| 鳥の巣のような巣作りをする とありました。 |
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| 【赤坂宿(56次)】 |
| 赤坂宿の東を流れている杭瀬川です。 |
| 橋の向こうに赤坂宿が見えます。 |
| 今雨が止んだ様で、手拭を姉さん被りした女が |
| 傘を半分窄めて橋を渡っています。 |
| 宿場を出立した合羽を着た旅人が橋を渡っています。 |
| 杭瀬川は揖斐川に合流し、桑名宿との間には |
| 舟運が発達していた とありました。 |
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| 中山道は近鉄養老線の東赤坂駅を経て、杭瀬川に架かる赤坂大橋に出ます。 |
| ここが赤坂港です。街道を挟んで川燈台もありました。上流の池田山からの豊富な湧き水で |
| ここが赤坂港です。街道を挟んで川燈台もありました。上流の池田山からの豊富な湧き水で |
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| 宿場内に昨日行った西国33ヶ所観音霊場、 |
| 33番札所、谷汲山華厳寺への |
| 谷汲道道標がありました。 |
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| 更に街道を進むと |
| 畑の中に広大な美濃国分寺跡がありました。 |
| ここは水田に埋没していので、ほぼ完全な形で発掘され、 |
| 法隆寺式の伽藍配置だった事が明らかになった |
| とありました。 |
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| 【垂井宿(57次)】 |

≪垂井≫ |
| 広重は雨がそぼ振る中を垂井宿へ入ろうとしている |
| 大名行列を真正面から描いています。 |
| 宿役人が傘を差して出迎え、 |
| 茶屋では主人と荷物を天秤で運ぶ蓑を着た人足や |
| 合羽を着た旅人が外で土下座して行列を迎えています。 |
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| 相川の追分橋を渡り、JR垂井駅辺りが垂井宿です。 |
| 欅の大木の根元から湧く清水があり、 |
| 垂井の地名が生まれ、歌枕としても知られていたそうです。 |
| 芭蕉句碑がありました。 |
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| 葱白く 洗いあげたる 寒さかな |
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| 中山道は国道21号線を横切って東海道線の線路を |
| 渡ると垂井一里塚がありました。 |
| 関ヶ原合戦の際に浅野幸長が付近に布陣し、 |
| 毛利勢と対峙した とありました。 |
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| 【関が原宿(58次)】 |
| 広重は関ヶ原の合戦を避けて、宿場外れの茶屋を |
| 描いています。茶屋軒には 『名ぶつさとうもち』 提灯、 |
| 柱の看板には 『三五、そばきり うんどん』 とあります。 |
| 傘 扇 草鞋などが売られています。 |
| 2つのお茶を盆に乗せてきた老婆が旅人の注文を |
| 聞いています。 |
| 役馬を供出しに行くと思われる手拭で頬被りした女が |
| 馬二頭を引いて歩いています。 |
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| 中山道は国道21号線に合流します。 |
| 国道沿の左手に家康最初の陣地、桃配山があります。 |
| 672年の壬申の乱の時に |
| 大海人皇子がこの山に陣を置き、近江に攻め入って |
| 大友皇子の軍を破った所です。 |
| 桃を配り戦勝したのでこの名前が付いたそうです。 |
| 関ヶ原の合戦場は国道右側の広大な平地です。 |
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| 一方西軍の大将、石田三成は北国街道の北側の |
| 笹尾山に陣を敷きました。 |
| 慶長5年(1600)9月15日未明、霧が晴れて |
| 戦闘が開始されました。 |
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| 後に軍事評論家達は霧が晴れた時の陣形を見て、 |
| 『鶴翼の陣』を引いた西軍、石田三成の勝利を |
| 予想したそうです。所が歴史は小早川秀秋の寝返りで |
| 家康の勝利に終わります。 |
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| 小早川秀秋は、報償として宇喜多家の所領である備前・美作51万石を手に入れます。 |
| 東軍の大名達からは卑劣な行為をした人間として冷ややかに見られ、耐え切れなくなり、 |
| 気分を紛らわせる為に飲んだ酒に溺れ、次第に性格は凶暴になり、領民や家臣を次々と斬り殺し、 |
| 小早川家を守ろうと奮闘して来た多くの家臣達は次々と出奔してしまい、最後は狂い死にしたそうです。 |
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| 桃配山にあった家康の本陣は戦闘が一進一退を |
| 繰り返している中で、前線に近い陣場野に移動します。 |
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| 東西合わせて約20万の戦闘は午前8時頃始まり、 |
| 午後1時頃には西軍の大谷隊が崩れ、 |
| 大谷吉継は自刃、続いて隣の小西隊が崩れ敗走、 |
| 西軍の中で最大の兵数で善戦していた宇喜多隊が崩れ、 |
| 天下分け目の関ヶ原の合戦は、たった1日で |
| 東軍の勝利で決着となります。 |
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| 家康は陣馬野で |
| 午後5時頃に首検分をしたと云われます。 |
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| 陣場野の家康陣の近くに東首塚があります。 |
| 手前の井戸が首洗い井戸で、家康の命により |
| 首検分後の首を葬ったとありました。 |
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| 国道21号線沿いに西首塚がありました。 |
| 両軍戦死者数千の遺体を葬ったところで、 |
| 胴塚とも呼ばれています。 |
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| 【今須宿(59次)】 |
| 今須は美濃国における最西端の宿場です。 |
| 約50cmの小溝が国境で、近江国に属する人は |
| 近江詞で、美濃国に属する人は美濃訛りの言葉を |
| 話していたそうです。 |
| 家と家に住む近江人と美濃人が壁越しに寝ながら |
| 隣の他国人と物語をすることができたという由来で |
| ここを寝物語の里とも呼ぶようになったそうです。 |
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≪今須≫ |
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| 中山道は国道21号線と平行に裏道を進みます。 |
| 不破の関跡がありました。 |
| およそ1300年前、越前の愛発(あらち)の関、 |
| 伊勢の鈴鹿の関とともに、日本の三関といわれ、 |
| 歌枕としも広く知られていました。 |
| 芭蕉の句碑がありました。 |
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| 秋風や 藪も畠も 不破の関 |
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| 中山道は国道を渡り、山道になります。 |
| 古くから旅人に良く知られていた鴬の滝がありました。 |
| 今は新幹線のガード際に金網で囲まれ、雑草が生茂り、 |
| 見過ごしてしまう程でした。 |
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| 近くに常盤御前の墓がありました。 |
| 牛若丸が鞍馬山を抜け出して東国へ走ったと聞いた |
| 常盤御は乳母の千草を連れて牛若丸を追ってきたが、 |
| 山賊に殺されてしまったとの事、 |
| 哀れに思った土地の人が、ここに葬り墓を造った |
| とありました。 |
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| 7日目の旅はここで終了です。 |
| 長旅で少々疲労気味、一旦帰宅する事にしました。 |
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| 愈々美濃の国から近江の国に入ります。 |
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