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| 【はしがき】 |
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| 中山道は 江戸⇒武蔵国⇒上野国⇒信濃国⇒美濃国⇒近江国⇒京 を結ぶ五街道の一つです。 |
| 温暖な海沿いの東海道より距離は長く、厳しい峠越えが多くありましたが川越が少ないので |
| 女性の旅に多く使われ、幕末の動乱期に将軍家茂に嫁いだ皇女和宮は中山道で江戸へ下り、 |
| 輿入れの行列は50kmも続き、現在の貨幣価値で150億程掛かったそうです。 |
| 東海道中膝栗毛で珍道中を繰り広げた弥次さん、喜多さんは伊勢参りの後、四国の金毘羅参りをして |
| 中山道を辿って、善光寺や草津温泉に寄り道して江戸に戻っています。 |
| 東海道の次は中山道でしょう!・・・の思いから 2005.7.30(土) 歴史の旅に出ました。 |
| koreisyaの会、是松さんが大宮まで来てくれ、 大宮⇒上尾 を一緒に旅して呉れました。 |
| 大変な勇気を貰い、感謝しつつ長旅を続けました。 |
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| ≪参考文献≫ |
| 中山道を歩く (山と渓谷社) ; 中山道69次旅日記 (坪田茉莉子著) |
| 木曽海道六十九次之内 英泉と広重が手分けして描いています。 |
| 拡大したい方は中山道広重美術館を検索して下さい。 |
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| 1. 武蔵の国 江戸 ⇒ 本庄宿(10次) |
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| 【江戸】 |

≪日本橋雪之曙≫ |
| 降雪後、日本橋の上は人々で賑わっています。 |
| 帳簿を眺めて売上の計算をしています。 |
| 橋の袂には旬の寒鰤を天秤で運ぶ男や籠で担ぐ |
| 男もいます。 |
| 頭巾を被り、供を従えているのは町名主か、 |
| 緑色の裾の長い着物を着た2人は芸者と思われます。 |
| 2人の人足が木綿を積んだ大八車を押しています。 |
| 傘を肩にした町人が擦れ違って行きます。 |
| 饅頭傘を披り合羽を着て中山道を指して行く旅人は、 |
| 英泉自身かも知れません。 |
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| 都心は駐車場がないので、 日本橋⇒本郷 は歩く旅としました。学生時代に過ごした町並み、 |
| 又社会人となり通った場所を懐かしく歩いて40数年前にタイムスリップしました。 |
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| 現在の日本橋です。 |
| 上を高速道路が走っています。 |
| 中山道はこの橋を渡って始まります。 |
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| 南詰西側には ≪日本橋由来記の碑≫ がありました。 |
| 上部に広重の画、下部に由来が記されていました。 |
| 慶長8年(1603年)幕府諸大名に果たして |
| 城東の海浜を埋め立て架橋され、・・・ |
| 橋の上貴賎の往来昼夜絶えず・・・ |
| 何時しか人呼んで日本橋と称されたそうです。 |
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| 橋を渡った北詰西側の元標広場に |
| 道路元標の複製がありました。 |
| 本物は日本橋の中央部に埋め込まれていますが、 |
| 交通量が激しくて見れません。 |
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| 北詰東側に |
| ≪日本橋魚市場発祥の地碑≫ がありました。 |
| 魚が好物だった家康は摂津の佃村・大和田村から |
| 数十名の漁民を江戸に移り住ませて、 |
| 江戸城で消費する魚をとらせ、幕府に納めた残りの魚を |
| 一般に販売、 魚をとる人と 商う人が分離され |
| 市場となり、諸国からの海産物も入荷するようになって |
| 大いに賑わっていたそうです。 |
| この魚河岸は300年余り続き、関東大震災により |
| 現在の築地に移転したと言われています。 |
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| 日本橋を渡ると三越本店です。 |
| 近くに越後屋跡がありました。 |
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三井財閥の始祖、三井高利は伊勢松阪の商人で
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1622年三越の前身、越後屋を創業とありました。
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周辺には三井系の企業が集中していました。
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三越正面玄関のライオン像です。1914年の創作で、
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| ロンドントラファルガー広場にある獅子像がモデルとの事、 |
| 商売の王者たらんとする決意だそうです。 |
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現在は解りませんが、以前はこのライオンの前や
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渋谷の忠犬ハチ公前が待ち合わせ場所として
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利用されていました。
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| 三越の裏が日本銀行本店です。 |
| 幕府の金貨鋳造所で本館は重要文化財です。 |
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| 中山道を離れ、室町3丁目で右折して小伝馬町へ、 |
| 暫く行くと、十思公園がありました。 |
| 伝馬町牢屋敷跡、処刑場跡、時の鐘 がありました。 |
| 周辺一帯には時代劇に登場する様な牢屋敷が |
| あったそうです。 |
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| 1613年(慶長18年)〜1875年(明治8年)まで使われ、 |
| 男女に別れた身分毎の牢獄があり、全国から送られた |
| 罪人は数十万人、多い時は1000人近い罪人が |
| 投獄されていたと言われています。 |
| 吉田松陰終焉の地の石碑もありました。 |
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| 二代将軍、秀忠の創建で、この鐘を撞いて |
| 町民に時を告げていたとの事、 |
| 直ぐ近くにあった伝馬町牢屋ではこの鐘の音を |
| 合図に処刑が執行されたそうです。 |
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| 中山道に戻り、神田駅前を通過 |
| お茶の水駅前の川が ≪仙台堀≫ です。 |
| 中山道、聖橋からの光景です。 |
| 幕府の命により、仙台の伊達藩が台地を掘り下げ |
| 神田川の流路を変えたと言われています。 |
| 伊達藩の力を削ぐ為に散財させたと言う説もあります。 |
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| 聖橋を渡ると湯島聖堂です。 |
| 1690年(元禄3年)5代将軍徳川綱吉によって |
| 建てられた孔子廟です。 |
| ここに昌平坂学問所を設置、 |
| 諸藩の多くの人材を教育したとありました。 |
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| 昌平坂を上ると、銭形平次でお馴染みの神田明神です。 |
| 江戸の総鎮守で、神田祭は江戸の二大祭り |
| だったそうです。 |
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| 中山道を進むと、 |
| 本郷三丁目の角に ≪かねやす≫ がありました。 |
| 川柳で ≪本郷もかねやすまでは江戸の内≫ |
| と詠まれ、ここまで瓦葺の町屋が続いていたそうです。 |
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| 本郷三丁目を右折して春日通りを行くと左手に麟祥院があり、境内に三代将軍家光の乳母春日局の墓がありました。 |
| 春日町は春日局(お福)の生誕の地です。墓石に穴があるのは、死後も天下が見通せるようにとの遺言によるそうです。 |
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| 春日通りを本郷三丁目まで戻り、 |
| 中山道を進むと東大赤門に出ます。 |
| 将軍家斉の娘の降嫁に合わせて |
| 加賀藩上屋敷に建てられた御守殿門とありました。 |
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| 赤門を入り直進すると、三四郎池に出ます。 |
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| 三四郎が凝っとして池の面を見詰めていると |
| 大きな木が幾本となく水の底に映って、 |
| 其の又底に青い空が見える・・・ |
| 漱石の ≪三四郎≫ の一節です。 |
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| そこには現在でも三四郎の舞台がありました。 |
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| 青春時代に読んだ漱石の≪三四郎≫を思い出しながら |
| 静寂な三四郎池の周りを歩き、石段を上がると |
| 見覚えのある大講堂がありました。安田講堂です。 |
| 1969年、東大の安田講堂に学生が立てこもり |
| 機動隊と攻防を繰り広げた事件で、3日間TV中継され、 |
| 釘付けになった記憶があります。 |
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| ここで1日目の旅は終了です。 |
| 今夜は久し振りに千住の実家泊まりです。 |
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| 赤門を過ぎると、農学部の前で街道は分岐します。 |
| 本郷追分です。 |
| 直進すると日光御成道、左折が中山道です。 |
| 角に創業250年の 高崎屋 がありました。 |
| 当時、両替商を兼ね現金安売りで繁盛していた |
| 大店だったそうです。 |
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| 街道を進むと、左手のマンションの陰に八百屋お七の墓のある円乗寺がありました。 |
| 路地を入った左側が八百屋お七の墓です。 |
| 市中引き回しの後、鈴が森処刑場で火炙りの刑に処せられた八百屋お七と吉三郎の悲恋物語は |
| 井原西鶴の 『好色五人女』 で取り上げられ、激しく恋に狂う女として浄瑠璃化され、 |
| 歌舞伎で大いに持て囃され一躍有名になったそうです。 |
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| 中山道を巣鴨駅の手前で右折すると駒込駅の近くに六義園がありました。 |
| 柳沢吉保が5代将軍徳川綱吉から土地を賜り、造られた庭園です。 |
| 後に三菱の創業者岩崎弥太郎の別邸となり、東京に寄贈されたとありました。 |
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| 【板橋宿(1次)】 |
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| 日本橋を発って、最初の宿場です。 |
| 旅人をこの宿まで見送る人が多かったそうです。 |
| 宿場へ旅人達が足を進めています。 |
| 夫婦らしき旅人が籠を担いだ供を従えています。 |
| 供の者は腰を屈めて駕籠に乗れとせがむ |
| 駕籠舁を見ています。 |
| 宿場の手前の出茶屋では緑台に腰掛けた旅人と |
| 応待する下女が見えます。 |
| 店の前では馬子が馬の草鞋を交換中です。 |
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| 中山道は国道17号線と合流したり離れたりして進みます。 |
| 国道17号線を北上、巣鴨駅の近く左手に |
| 巣鴨地蔵通商店街があります。これが中山道です。 |
| 有名な 『おばあちゃんの原宿』 です。 |
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| 商店街入り口に真性寺が有りました。 |
| 境内に江戸六地蔵があります。 |
| 江戸の出入り口となる五街道筋、東海道・甲州街道 |
| ・中山道・日光街道・佐倉街道にあったそうです。 |
| 大変大きなお地蔵様です。 |
| 六地蔵は京都への出入り口の街道筋にもあります。 |
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| 境内に芭蕉句碑がありました。 |
| 白露も こぼれぬ萩の うねり哉 |
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| 裏面にも杉山杉風(蕉門十哲の1人)句碑もありました。 |
| 萩植て ひとり見習う 山路かな |
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| 芭蕉が巣鴨を訪れた事は無いが |
| 当時、真性寺の境内には萩が植えてあり、 |
| 茂みになっていて、門人達が芭蕉の≪萩の句≫こそ、 |
| この巣鴨の地にふさわしいと思い 、 |
| この句碑を建てたそうです。 |
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| 商店街を暫く進むと高岩寺があり、 |
| 本堂に秘仏のとげ抜き地蔵があります。 |
| 毛利家の女中が誤って針を呑み込んでしまい、 |
| 地蔵尊の御影を飲ませると、女中は針に貫かれた御影を |
| 吐き出したそうです。何時しか“延命地蔵” として |
| お年寄りに信仰される様になったそうです。 |
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| 境内にある聖観音菩薩(洗い観音)は |
| 体の治したい箇所を掌や手拭で撫ぜると治る |
| と言われていて多くのお年寄りから信仰されています。 |
| 何時でも、おじいちゃん、おばあちゃんの行列が出来ます。 |
| 早朝の観音様は穏やかで、清々しい表情でした。 |
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| 商店街を抜け、そのまま中山道を進みます。 |
| JR埼京線、板橋駅前に近藤勇の墓碑がありました。 |
| 新撰組隊長、近藤勇はここで囚われ処刑され、 |
| 京都三条河原に首が晒されたとありました。 |
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| 国道17号線と交差して中山道は続きます。 |
| 国道を渡った右手に東光寺があり、 |
| 宇喜多秀家の供養塔がありました。 |
| 関ヶ原で西軍の副大将として敗北、 |
| 八丈島に流刑され死去、明治維新により恩赦となり |
| 宇喜多秀家の子孫一族が供養塔を建立したそうです。 |
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| 車がやっと擦れ違えられる程の商店街を進むと |
| 石神井川に架かる板造り塗装の板橋にでます。 |
| 板橋の名前はここから付けられたそうです。 |
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| 更に街道を進むと、 |
| 板橋宿の名所として名高い 縁切榎 がありました。 |
| 嫁入りの行列が通ると、必ず不縁になると言われ、 |
| 皇女、和宮の行列は榎を菰で包み、 |
| その下を通って板橋本陣に入ったそうです。 |
| 現在でも、この木に祈ると男女の縁が切れるという |
| 信仰は続いているそうです。 |
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| やがて中山道は国道17号線に合流します。 |
| 志村坂上に 志村一里塚 がありました。 |
| 国道の両側に西塚と東塚があります。 |
| 日本橋から3里です。 |
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| 少し先、国道沿い右側に小さな公園がありました。薬師の泉です。 |
| その昔、豊かな湧泉は中山道を往来する旅人や江戸名所を訪れる人々の憩いの場所として |
| 賑わっていたと言われています。 |
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| 【蕨宿(2次)】 |
| 江戸を出る所に位置し、江戸防衛の意から |
| 橋が架けられず、渡し舟に頼っていました。 |
| この辺りは風光明媚で、西に富士さん、大山、 |
| 秩父の山々を眺めることができたそうです。 |
| しかし舟客は風景には無関心で何か不安そうです。 |
| 荷物を背に煙管を吸っている商人。馬子と馬。 |
| 引回合羽を着て、風呂敷に包んだ行李を背負った旅商人。 |
| 二人の女性が手拭を姉さんかぶりにし三味線を抱えて |
| 不安そうに屈み込んでいます。その横は荷物を肩に |
| 振り分けて担ぎ、道中差を差した旅人。 |
| 風呂敷包の商品を背負い道中差の小商人がいます。 |
| 白鷺が舟の接近に驚いて、飛び上がっています。 |
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≪ 蕨之驛 戸田川渡場 ≫ |
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| 国道17号線で戸田橋を渡り、土手沿いに右折すると、 |
| 中山道戸田渡船場跡の碑がありました。 |
| 下戸田村が渡しの権利を持ち、 |
| 13痩約40人が従事したとありました。 |
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| 中山道は国道と平行して直ぐ東側を通っています。 |
| 本陣跡には、 |
| モニュメントとそれに併設する資料館がありました。 |
| 老中、水野忠邦や皇女和宮が宿泊、 |
| 明治天皇が大宮氷川神社行幸の際、 |
| 休憩されたとありました。 |
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| 更に街道を進むと、 |
| 国道と中山道の合流する角に中山道広場があり、 |
| 姫道中と大名行列がモザイク壁画になってありました。 |
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| 2日目の旅はここで終了です。 |
| 千住の実家に泊まり、明日早朝に出発です。 |
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| 【浦和宿(3次)】 |
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| 六国見のケヤキ(与野駅前)から、富士・浅間・甲斐・ |
| 武蔵・日光・伊香保が見えたそうです。 |
| 英泉は噴煙を上げる浅間山を取り上げています。 |
| 菅笠、合羽の刀を差した武土と上着を脱いで腹掛だけで |
| 両掛荷物を担ぐ供の者です。 |
| 背に荷物を乗せた馬とそれを引く馬子、馬の直ぐ後では |
| 村の子供が肥料にする馬糞を掻き集めています。 |
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| 暫く国道17号線を北上、六辻で中山道に入ります。 |
| JR武蔵野線を越える坂道が 焼米坂 です。 |
| ここには立場があり、名物として新米を籾のまま煎って |
| 殻を取った焼き米を保存食として売っていたそうです。 |
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| 街道を進むと調(つきのみや)神社がありました。 |
| 狛犬では無く、狛兎です。 |
| 霊水も兎の口から出ています。 |
| ここで都に納める貢物を集めていたそうです。 |
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| 中山道はJR京浜東北線に沿って進みます。 |
| 与野駅手前に一本杉の碑がありました。 |
| 杉の大木は朽ち果てその跡に小さな杉が植えられ、 |
| 石碑だけになっていました。 |
| 1864年(文久4年)正月の朝、 |
| 僧となるために江戸に向かう途中の千葉周作門下、 |
| 丸亀の浪人河西祐之助を此処まで追い駆け、 |
| 水戸家家臣宮本鹿太郎他4名が父の仇討ちをした。 |
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| 与野駅前の交差点角に大欅がありました。 |
| 六国見の大欅と言われ、富士・浅間・甲斐・武蔵 |
| ・日光・伊香保が見えたそうです。 |
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| 【大宮宿(4次)】 |
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| 富士山と街道沿いにある満開の桜です。 |
| 石標には 『青面金剛』 と彫ってあります。 |
| これは悪霊が外部から村へ侵入するのを防ぐ役割を |
| 果たしていたそうです。宿駕籠に乗って揺られて行く |
| 旅人と荷物を振り分けた旅人が描かれています。 |
| 鍬を担いだ農夫が竹籠を背負った少女を従えて |
| 家路を急いでいます。 |
| 当時から大宮公園は桜の名所だった様です。 |
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| 街道の欅並木を過ぎ、さいたま新都心駅を越すと |
| 右手に氷川神社一の鳥居がありました。 |
| 二の鳥居・三の鳥居を経て氷川神社へ続いています。 |
| 参道は鬱蒼とした欅並木で、最初の中山道との事です。 |
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| 一の鳥居を過ぎ、街道を少し離れた裏通りに |
| 塩地蔵がありました。 |
| 大宮宿で病に倒れた父親を娘二人が塩断ちして |
| 治したと言う謂れがあります。 |
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| 大宮駅までメル友の是松さんが見送りに来て呉れ、 |
| 次の上尾宿まで一緒に旅をしました。 |
| 小生より、一回りも上の元気一杯いの先輩です。 |
| 氷川神社は徳川幕府や明治政府から厚く保護され、 |
| 大宮の地名はここから取られたと言われています。 |
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| 氷川神社の奥にある桜で有名な大宮公園ボート池です。 |
| 明治の文豪、正岡子規・夏目漱石・森鴎外・高浜虚子らも |
| 訪れたと記されています。 |
| ここは鴎外の ≪青年≫ に登場します。 |
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| 【上尾宿(5次)】 |
| 境内に立った幟には 『加茂大明神』 とあります。 |
| 社の隣の農家では一家総出で唐箕を使って精選に |
| 忙しく働いています。娘が脱穀した籾を唐箕の |
| 上部の漏斗状の口へ流し込んでいます。 |
| 右では農婦が精選済の籾を俵に詰めています。 |
| 農家の隣が立場茶屋で、 |
| 合羽婆の武土が両掛けに担いだ供を連れて出た後へ、 |
| 葛籠を背負った修行者が入って行きます。 |
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| JRに沿って中山道を進むと右手に加茂神社があります。 |
| 英泉はここの立場茶屋で新しい技術の唐箕を使う農民を |
| 描いています。 |
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| 街道を進むと、 |
| JR上尾駅の隣に氷川鍬神社があり、 |
| 境内に二賢堂碑がありました。 |
| 旅籠屋の主人が菅原道真と朱子を祀って、 |
| 私塾の二賢堂を開いたとありました。 |
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| 上尾駅前の裏通りに遍照院があり、 |
| 『遊女お玉の墓』 がありました。 |
| 越後出身の遊女お玉は美しく気立てが良く、 |
| 誰からも好かれていて、毎日故郷の両親を思い |
| お参りをしていたそうです。 |
| 25歳で病死、主人や同輩に手厚く葬られたとの事。 |
| 遊女のお墓があるのは珍しいそうです。 |
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| 是松さんは若い頃、4カ国の語学に精通し大手企業在職時、海外でも御活躍されたそうです。 |
| 是松さん: これは遊女ではなく孝女ですよ・・・ |
| 澤田: こんな漢字ばかりの碑文も読めるんですか尊敬しちゃいますよ・・・ |
| 是松さん: いやいや拾い読みですよ・・・ こんな会話をしながらの旅でした。 |
| 感謝しつつ是松さんとは上尾駅で別れて、意を強くして以後の長旅を続けました。 |
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| 【桶川宿(6次)】 |
| 荒壁の粗末な農家の前に敷いた茣蓙の上で、 |
| 農婦が麦の穂を鋤いています。 |
| 農夫は家の中の囲炉裏から煙管に火をつけています。 |
| 煙草の下葉が乾燥のため軒下に吊りさげてあり、 |
| その下には畑作用の踏鋤が立て掛けてあります。 |
| 振分荷物を肩に掛けた町人風の年老いた旅人が、 |
| 農婦に道を指差しながら尋ねています。 |
| 馬子が横のりした帰り馬がとぼとぼと帰って行きます。 |
| 長閑な風景です。 |
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≪桶川宿曠原之景≫ |
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| 町谷で街道から離れ、JR高崎線の線路際に |
| 雷電神社がありました。 |
| この地方は 『三束雨』 の名がある様に麦を3束、 |
| 束ねない内に雷雨があると言われる程 |
| 雷が多かったそうです。 |
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| 中山道を進むと桶川駅に出ます。 |
| 駅前に江戸時代からの旅籠屋で、 |
| 現在も営んでいる竹村旅館がありました。 |
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| 桶川本陣跡の先を右折、稲荷通りを進むと稲荷神社に出ます。 |
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| 境内右側に力石と呼ばれる大きな石があり、≪大磐石≫ と記されていました。 |
| 重量160貫、約610キログラム。 嘉永五年三宮卯之助 之を持つ石主 大阪屋清右衛門 とありました。 |
| 本当かな?・・・ |
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| 桶川駅を過ぎると、街道沿いに大雲寺がありました。飯盛女のもとへ通う僧が大雲寺の地蔵だったと言う。 |
| 三体の地蔵さんの向かって右側のお地蔵さんが「女郎買い地蔵」で、夜な夜な女郎買いに出かけるので、 |
| 住職が背中に「かすがい」 を打ち込み、鎖で縛ったそうです。その 「かすがい」 の跡は今も残っています。 |
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| 【鴻巣宿(7次)】 |

鴻巣宿吹上冨士遠望 |
| 蛇行する街道に榎が植えられ、 |
| 両側には麦畑が広がっています。 |
| 虚無僧が背を向けて歩いて行きます。 |
| 菅笠、紺の堅縞の着物に紺の手甲、股引、足袋を |
| 付けた旅商人が商品を天秤の両端に掛けて |
| 担いで行きます。 |
| 風呂敷包を背負った商人同志が歩いています。 |
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| JRと平行に走る街道を進むと |
| 鴻巣駅の手前に人形店が軒を連ねています。 |
| 江戸時代に京都の人形師が30軒移住したそうです。 |
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現在でも8件あるそうです。
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| 近くに雛屋歴史資料館がありました。 |
| 江戸時代から現在までの雛人形や雛人形造りの道具・ |
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関係資料が展示されていました。
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| 街道を進むと左手に立派な山門の勝願寺がありました。良く見ると山門や瓦に三つ葉葵の紋があります。 |
| 鷹狩を好んだ家康はここまで通っていたとありました。 |
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| 更に街道を進むと、氷川八幡神社がありました。 |
| 羅生門の鬼退治で活躍した渡辺綱が祀られて |
| いるそうです。 |
| 神社の正面にある 『箕田碑』 には1759年に建立され、 |
| この地が武蔵武士の本源地であるとありました。 |
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| やがて街道は荒川沿いに進みます。 |
| 久下の荒川堤下に白井権八延命地蔵がありました。 |
| ここで権八が商人を殺して金を奪ったそうです。 |
| ここから街道は荒川の堤防上を進みます。 |
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| 暫く行くとマンションの陰に一里塚の祠がありました。 |
| 『熊谷の土手といふはその長さ三里もあり』 と |
| 渡辺崋山は記しています。 |
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| 【熊谷宿(8次)】 |

≪熊谷宿 八丁堤之景≫ |
| 荒川左岸の土手 熊谷提の上を描いています。 |
| 立場茶屋ではあんころとうどんを売っています。 |
| 老婆が茶を運んでいる茶屋の旅人は煙管に |
| 火をつけています。煙管を銜えて緑台に腰かけた |
| 馬子は煙草を出そうとしています。 |
| その後で馬が飼葉桶の中へ頭を突っ込んでいます。 |
| 右側の地蔵は白井権八に因んで建てられた |
| 「権八地臧」で、供が説明する地臧の由来を |
| 聞いています。 |
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| 英泉はここで描いています。 |
| 長い熊谷堤は権八の様な追剥の出る物騒な場所 |
| だったそうです。 |
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| JR高崎線の踏み切りを越すと熊谷駅前です。 |
| バスターミナルに一ノ谷源平合戦での |
| 熊谷直実の騎馬像がありました。 |
| 熊谷次郎直実の父直貞が猛熊を退治して |
| 熊野権現堂を築き、熊谷の地名を生んだとも |
| 伝えられています。 |
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| 熊谷寺は一ノ谷の源平合戦の後 |
| 熊谷直実は叔父の久下直光との領地争いに敗れ、 |
| 蓮生と言う法師に出家して草庵を結んだ所です。 |
| 直実はここで没しています。 |
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| 近くの星渓園は熊谷宿本陣の別邸です。 |
| 水が湧き出る玉の池を中心に、その周囲に竹木を植え、 |
| 名石を集めた回遊式の庭園です。 |
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| 【深谷宿(9次)】 |
| この宿場は飯盛女が多かったことでも知られています。 |
| 飯盛女とは旅篭屋に抱えられて客に給仕をするとともに |
| 売春もした女だそうです。 |
| 格子越しには赤い着物を着た媚めかしい |
| 女達が格子女郎よろしく座っています。 |
| 杖を突いて笛を吹く按摩・御用 提灯を持った宿役人も |
| 描かれています。 |
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| 中山道と国道17号線の合流点に |
| 樹齢300年余りの見返りの松がありました。 |
| 深谷宿での遊女との思いを胸に |
| 旅人が振り返ったと言われています。 |
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| ここで3日目の旅は終了です。 |
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| 国道17号線沿いにある 道の駅 岡部 で車中泊です。 |
| 今夜は途中のスーパーで買った |
| トンカツ・マカロニサラダと自炊の御飯と味噌汁です。 |
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| 道の駅 岡部から国道17号線を戻り、 |
| 深谷駅手前でJRの踏み切りを渡ると清心寺です。 |
| 一ノ谷の合戦で平忠度を討った岡部六弥太の所領で、 |
| 六弥太は景色の良いこの地に忠度の菩提を弔う為、 |
| 持ち帰った遺髪を埋め、五倫塔を建て |
| その死を悼んだと言われています。 |
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| 国道17号線を進むと、岡部六弥太一族の菩提寺普済寺があります。 |
| 境内に平家物語にある平忠度の歌碑がありました。 |
| 行きくれて木の下かげを宿とせば 花やこよひの 主(あるじ)ならまし |
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| 【本庄宿(10次)】 |
| 参勤交代の大名行列が橋を渡っています。 |
| 川の両岸には旅人の安全と目安のために |
| 常夜燈がありました。 |
| 遠くの山は上毛三山で、ひだりから妙義山、棒名山、 |
| 赤城山と思われます。 |
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≪本庄宿 神流川渡場≫ |
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| 車中泊した道の駅岡部の先で右折、中山道に入ると |
| 坂道に沢山の石塔がありました。百庚申です。 |
| 140年前の万延元年庚申の年に造ったもので |
| 今は60基ほど残っているとありました。 |
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| 街道を進み本庄宿に入ると、田村本陣表門の裏に旧本庄警察署が移築されてありました。 |
| 旧本庄警察署は代表的な明治の洋風建築で資料館として使用されていました。 |
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| 近くに金鑚(かなさな)神社がありました。この境内の天然記念物になっている大楠です。 |
| 寛永16年(1639年)に神社社殿改修のおり、本庄城主・小笠原氏が献木したもので、 |
| 楠がこのように巨木になったのは大変珍しいそうです。 |
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