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| 6. 近江の国 柏原宿(60次)⇒ 京(終着) |
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| 【柏原宿(60次)】 |

≪柏原≫ |
| 井吹山の麓にある柏原宿の名産は伊吹艾です。 |
| 平安時代の歌人、和泉式部の和歌です。 |
| けふも又 かくや伊吹のさしもぶさ |
| さらば我のももえや渡らん |
| 広重はこの宿場の亀屋を描いています。 |
| 福助の前で番頭が、又伊吹山の模型の前では手代が、 |
| それぞれ紙に包んだ艾を並べて座っています。 |
| 店内に三人程の旅人の客がいます。 |
| 隣の亀屋の茶屋では金太郎人形を飾っていて、 |
| 店の前では人足達が長持のような艾の荷物に |
| 持たれて休んでいます。 |
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| 中山道は国道21号線を南下して今須の信号を右折します。間も無く美濃と近江の国境に出ます。 |
| ここが寝物語の里です。小さな溝を隔てて建つ旅籠の泊まり客同士が、寝ながら話ができたそうです。 |
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| 広重の描いた亀屋です。伊吹堂は 『亀屋佐京の切艾』 と言われ江戸でも知られていたそうです。 |
| 福助人形(約2m)が想像以上に大きかったので驚きでした。 |
| 福助は亀屋の番頭で、その働きで商売が繁盛したと言う事で人形が全国に広まったそうです。 |
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| 【醒井宿(61次)】 |
| 宿場の名勝として 居醒の清水、十王水、西行水、の三水・ |
| 蟹石、日本武尊の越掛石 鞍掛石 景向の四石があり、 |
| 『三水四石』 と言われていました。 |
| 広重はこの名勝を避けて宿場の外れを描いています。 |
| 背後の松林と山の間は琵琶湖です。 |
| 大名行列の最後尾と土手には行例の威圧感から |
| 開放された農夫が描かれています。 |
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≪醒ヶ井≫ |
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| 宿場を流れる地蔵川です。 |
| 鍾乳洞から一定の水温・水量が湧出して、 |
| 夏にはトコロテン、素麺を冷やして旅人に |
| 出していた とありました。 |
| バイカモが元気に生えていました。 |
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| 日本武尊が高熱で倒れた時、身体を洗い癒したところ、 |
| 正気に戻ったと言う。以来 この水を 『居醒の清水』 |
| と呼ぶようになった とありました。 |
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| 近くに十王堂があったことから |
| 十王水と呼ばれるようになったそうです。 |
| 清流にのみ生えると言う梅花藻が元気でした。 |
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| 西行が立ち寄ったと言う。 |
| 西行の飲み残した茶の泡を飲んだ茶屋の娘が懐妊、 |
| もし自分の子なら泡に戻れと言うと |
| その子はたちまち泡になったという伝説があるそうです。 |
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| 【番場宿(62次)】 |

≪番場≫ |
| 広重の絵は |
| 見付から番場宿内を見通して描かれています。 |
| 看板を利用して版元と自分の宣伝しています。 |
| 店の前には駕籠が置いてあるが駕籠舁がいない。 |
| 宿場を出立する菅笠を被り、引回合羽を着た男は、 |
| 旅商人が飛脚と思われます。 |
| 馬子達3人が客を帰り馬に乗せ稼ぐつもりか |
| 立話をしています。 |
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| 番場宿へは国道21号線を米原ICの入口で左折します。 |
| そこに長谷川伸の戯曲 『瞼の母』 の主人公、 |
| 番場忠太郎の像がありました。 |
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| 名神高速の下を抜けると、突き当たりが蓮花寺です。元弘3年、1333年京都合戦に敗れて落ちて来た |
| 六波羅探題の北条仲時一行がここでの戦闘にも敗れ、432名がここで自刃、その供養塔です。 |
| 血はその身を浸して、恰も黄河の流れの如く也 と太平記に記されているそうです。 |
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| 【鳥居本宿(63次)】 |
| 中山道は番場から摺針峠を起え鳥居本へ入ります。 |
| 峠から西方の眼下には琵琶湖が広がっていて、 |
| 中山道第一の景として知られていました。 |
| 中山道を住来する大名達も必ず立ち寄ったので |
| 茶屋の内部は本陣風に造られていたそうです。 |
| 広重はここで休憩している大名の一行を描いています。 |
| 茶屋の前に置かれた駕籠。茶弁当、合羽籠、竹馬などの |
| 脇では従者達が休憩し、旅人達は道端の茣蓙の上で |
| 絶景を眺めています。 |
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≪鳥居本≫ |
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| 国道21号線は米原から国道8号線に入ります。 |
| 近江鉄道の鳥居本駅で国道を左折すると中山道です。 |
| 『おいでやす彦根市へ』 のモニュメントがあり |
| ここから鳥居本宿です。 |
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| 街道の右側に、 |
| 名物赤玉を売っている神教丸本舗がありました。 |
| 現在も有川製薬(株)で営業しています。 |
| もろもろの病の毒を消すとかや ・・・ |
| と 続膝栗毛に登場します。 |
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| 街道左側に古びた合羽の看板が下がっていました。 |
| ここは合羽の産地で、江戸後期には15軒の合羽屋が |
| あったが現在は全て廃業したそうです。 |
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| 街道の新幹線際に小野と言う集落があります。 |
| 小野好美が奥羽から京に戻る途中、 |
| ここで貰い受けた娘が、歌人 『小野小町』 であった |
| という伝承があるそうです。 |
| 何時の頃からか小さな祠には小町地蔵が祀られていて、 |
| 最近、新しい祠が出来上がった とありました。 |
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| ちょっと寄り道です。 |
| 国道8号線を右折、彦根市内に向かうと小高い山に |
| 3重3層の天守閣(国宝)が見えます。 |
| 彦根藩井伊家三十五万石の居城です。 |
| 天守閣からは琵琶湖が一望の下に見渡せます。 |
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| 彦根城の北東にある玄宮園です。 |
| 1977年(延宝5年)に第4代藩主、井伊直興が |
| 近江八景に模して造園した縮景園とありました。 |
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| 【高宮宿(64次)】 |

≪高宮≫ |
| 広重は宿場南の犬上川から宿場を望んで描いています。 |
| 平時の犬上川の水は少なく、板橋の板が外され |
| 旅人達は水のない場所を探して歩いています。 |
| 高宮宿は麻布の生産地で高宮布として近江商人が |
| 諸国を回って売り歩きました。外皮を剥いで残った |
| 軽くて脆い茎は苧殻と呼ばれ屋根葺の下敷、 |
| お盆の迎え火、送り火、懐炉灰の原料などに用いられ、 |
| 農婦二人が軽々と背負っているのは苧殻です。 |
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| 国道8号線を南下して、高宮信号を左折、 |
| 一つ目の信号を右折すると中山道です。 |
| 高宮宿は多賀大社の門前町として栄えました。 |
| 街道沿いにちょうちん屋がありました。 |
| 昔から祭り提灯を専門に造っている老舗です。 |
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| その先の四辻にあるのが多賀大社の一の鳥居です。 |
| この鳥居は寛永12年、1635年社殿と同時に |
| 建造された とありました。 |
| 参道はここから約3km 続きます。 |
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| 街道沿いの右側に格式のある構えの円照寺がありました。 |
| 境内に大阪の陣遠征の時休憩に立ち寄って座ったと言う小さな家康腰掛石がありました。 |
| 実は始め境内を探したが見つからない、檀家の人らしき人が墓参りに来たので聞いて見たが |
| その人も知らないとの事、興味を持った様で一緒に探してくれた次第です。 |
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| 高宮宿を過ぎ中山道を進むと、松並木となり、 |
| 又おいでやす彦根のモニュメントがありました。 |
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| 街道を進むと、左側にくれない公園があり、 |
| 伊藤忠兵衛の碑がありました。 |
| 丸紅・伊藤忠商事の創始者で伊藤家は代々呉服の |
| 行商をしていたが、忠兵衛が大阪で近江麻布を扱って |
| 成功し発展したとありました。 |
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| 中山道は宇曽川に架かる歌詰橋にでます。 |
| 平将門の乱を鎮めた藤原秀郷が将門の首を都に |
| 運んでいたところ、橋の上で将門の首が目を開いて |
| 襲い掛かって来たと言う。 |
| 秀郷が咄嗟に歌を詠んで欲しいと頼むと、 |
| 首は言葉に詰まって地面に落ちたそうです。 |
| 歌詰橋の伝説です。近くに将門の首塚がありました。 |
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| 【愛知川宿(65次)】 |
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| 恵智川宿の町人が藩主に申し出て天保二年(1831)に |
| 完成したものです。この橋の通行料を無賃としたため |
| 『無賃橋』 とも呼ばれていました。 |
| 堤防には白装束の虚無僧2人と葛籠を背負いその上に |
| 赤児を乗せた男とつき従う男の子が描かれています。 |
| 赤い上衣を着た女の牛飼が何かを運んでいます。 |
| 荷物を天秤の両端に掛けて人足が渡っています。 |
| 木柱に 『はし銭いらず』 とあります。 |
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| 中山道は愛知川商店街に入ります。 |
| 左側に料亭の竹平桜がありました。 |
| 江戸時代から続く老舗の料理旅館で、 |
| 明治天皇が巡幸された時、 |
| 侍従長の岩倉具視をはじめ大隈重信、井上馨、 |
| 山岡鉄舟など明治を築いた重鎮がお伴で |
| 宿泊された とありました。 |
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| 愛知川宿を出ると街道は国道8号線に合流、直ぐ御幸橋です。袂に江戸時代からの常夜燈がありました。 |
| 当時の愛知川は急流で 『人取り川』 とも呼ばれ、渡ろうとして溺死する旅人も多かったそうです。 |
| 篤志の町人が橋を架けて、無賃で人々を通したとありました。 |
| 広重の画にも御幸橋が登場し、『はし銭いらず』 と書かれています。 |
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| 橋を渡ると中山道は国道8号線から東へ入ります。 |
| 近江商人発祥の地と言われる五個荘の町に入ります。 |
| 街道を進むと、やがて国道8号線に合流です。 |
| 合流地にてんびんの里のモニュメントがありました。 |
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| 【武佐宿(66次)】 |
| 武佐の西に日野川《横関川)が流れています。 |
| 旅人は平常時はこの川を舟で渡り、 |
| 水量が減ると川に杭を打って止めた2艘の舟の上に |
| 板を渡して渡っていました。 |
| 広重はこの舟橋を描いています。 |
| 葛籠の上に風呂敷包と茣蓙を重ねて背負った老人が |
| 杖を突きながら渡っています。 |
| 風呂敷包と傘を背負った一人旅が、覚束ない |
| 老人の足取りを見守っています。 |
| 手前の岸で村役人が旅人達の渡橋を眺めています。 |
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≪武佐≫ |
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| 新幹線のガードをくぐった左手が 『老蘇の森』 です。 |
| 太古の昔、老人が植えた木が成長して |
| 大きな森になった とありました。 |
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| 森の中に重要文化財の奥石神社がありました。 |
| 織田信長が柴田勝家に命じて造営した とありました。 |
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| 中山道は武佐宿に入ります。 |
| 本陣跡には門と蔵だけが残っていました。 |
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| 本陣の斜前に創業400余年の滋賀県に唯一残る旅館、 |
| 中村屋が創業していました。 |
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| ちょっと寄り道です。 |
| 国道8号線を渡り、新幹線のガード下を通って、 |
| 織田信長の居城、安土城址へ行きました。 |
| 天正4年1576年着工、 天正8年1580年完成、 |
| 1582年6月15日に炎上焼失しています。 |
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| 信長廟は、1582年(天正10年)、 |
| 京都大徳寺で信長の葬儀をとり行った羽柴秀吉が、 |
| 信長の菩提を弔うために安土城内の二の丸跡に |
| 建立したとありました。 |
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| 【守山宿(67次)】 |

≪守山≫ |
| 町並みが川に沿っている所はないので、広重は意図的に |
| 町並みを川に沿わせて描いたものと思われます。 |
| 宿場の背後の山は、富士山に似ているので |
| 近江富士と呼ばれた三上山です。満開の花を咲かせ、 |
| 宿場を春襴漫の華かな雰囲気に包んでいます。 |
| 商品を天秤で担いだ行商人、乗掛け馬に乗った武土、 |
| 長持を担いだ人足達、乳呑児を背負った母親と |
| その子供達です。 |
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| 中山道は国道8号線と合流したり離れたりしながら進みます。左手に道の駅 竜王かがみの里に出ます。 |
| 道の駅の前の国道沿いに義経元服池がありました。承安4年(1174)3月3日、源氏の御曹司、牛若丸は |
| 奥州の金売り吉次と同伴して東下りの途中、稚児姿では見つかりやすいのでここで元服したとありました。 |
| 池の石清水を用いて前髪を落とし、元結の侍姿を池の水に映したそうです。 |
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| 義経が源氏の再興と武運長久を祈願した鏡神社です。 |
| 南北朝時代のこけら葺屋根の建築で |
| 国の重要文化財に指定されています。 |
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| 国道8号線を進むと、左手に平家終焉の地がありました。 |
| 平家一門が壇ノ浦の合戦に破れ、一門の大将の |
| 平 宗盛・息子の清宗が鎌倉より京都へ送られる途中、 |
| この地で処刑されました。 |
| すぐそばの池で、宗盛と息子の清宗の首を洗ったので |
| 宗盛首洗池と言われています。 |
| 蛙があわれを感じて鳴かなくなったところから |
| 蛙なかずの池とも呼ばれるようになったそうです。 |
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| 街道を進むと、守山宿に入ります。 |
| 左錦織寺道、右中山道の道標です。 |
| 守山は、東下りの第一番目の宿として |
| 京発ち守山泊まりで旅人に知れていました。 |
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| JR守山駅の近くで街道から少し入った場所に老舗の造り酒屋と酒蔵を改造した郷土人形館がありました。 |
| 元首相、宇野宗佑の生家です。収蔵品はすべて宇野宗佑氏のコレクションで内外の郷土人形や郷土玩具をはじめ、 |
| 守山宿の歴史と文化を伝える内容の展示です。人物を通して、守山の土地を語り、立入城主であった宗継氏をはじめ、 |
| 坂上田村麻呂、紀貫之、源頼朝、織田信長、宇野家の祖である宇野醴泉が整然とならんでいます。 |
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| 街道沿いに東門院がありました。 |
| 境内にあった重要文化財の三基の石塔です。 |
| 比叡山の東門を守るために建立されたそうです。 |
| 守山の地名はここから生まれた とありました。 |
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| 守山宿の外れに榎の植った今里一里塚がありました。 |
| 日本橋から128番目の一里塚です。 |
| 滋賀県で現存する唯一の一里塚 とありました。 |
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| 【草津宿(68次)】 |

≪草津追分≫ |
| 草津川が草津宿より高いところを流れています。 |
| 水が少なく、旅人達は板橋で川を渡っていました。 |
| 手拭で姉さん被りし、傘と風呂敷包を持った |
| 若い女が板橋を渡っています。 |
| 母親と娘2人の後ろに川原を流れてきた木の枝を集め、 |
| 担いでいる子供がいます。ここで中山道は東海道と合流、 |
| 大津経由で京へ続きます。 |
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| 土手の上が天井川の草津川です。 |
| 現在はトンネルになっています。 通り抜けると |
| 『左 中仙道美のぢ 右 東海道いせみち』 |
| の道標がありました。 |
| 東海道と中山道はここで合流します。 |
| ここからは同じ街道を辿って三条大橋を目指します。 |
| なるべく 東海道53次の旅 と異なる名所を尋ねました。 |
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| 街道の合流と京立ちの旅人が初日の宿とする為に |
| 見送りの人々も多く、何時も賑わっていたそうです。 |
| 草津宿は中山道で一番大きな宿場だった とありました。 |
| 宿帳には吉良上野介や浅野内匠頭、皇女和宮、 |
| シーボルト、新撰組の土方歳三などありました。 |
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| 元禄12年(1699)7月4日に浅野内匠頭長矩が宿泊、 |
| 同月13日、約一週間後に吉良上野介が宿泊しています。 |
| 後に松の廊下の刃傷が起きるとは思っていなかった様です。 |
| 歴史とは面白いものですね・・・ |
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| 皇女和宮も第一日目の宿は草津宿でした。 どんな気持ちで泊ったのでしょう ・・・ |
| 夕食の献立です。以外に質素なのに驚きでした。 |
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| 【大津宿(69次)】 |
| 街道は大津宿へ入り、逢坂山へ向かって坂道を登ります。 |
| 広重の画はこの坂の途中から琵琶湖を望んだものです。 |
| 湖面には白い帆の船が浮かんでいます。 |
| 湖岸には湊があり、舟で運ばれてきた北国や湖周辺の |
| 産物がここから牛車で上方方面へ運ばれて行きます。 |
| 米俵を積んだ牛車が2台登って来るのを |
| 親娘三人が物珍しそうに眺めています。 |
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≪大津≫ |
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| 野路の玉川を過ぎ、瀬田の唐橋の手前に建部大社がありました。 |
| この社は、近江一の宮といわれ、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。 |
| 平安時代末、源頼朝が平家に捕らえられて伊豆に流される途中、建部大社に立ち寄り、源氏再興を祈願、 |
| 成就したので武将達の武運来運の神として信仰を集たそうです。 |
| 境内にある石灯籠とともに本殿は重要文化財に指定されています。 |
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| 中山道は瀬田の唐橋を渡り、やがて近江八景の一つ粟津の晴嵐に出ます。今では数本の松が残るだけです。 |
| 今井兼平はここ粟津で義仲とともに戦って悲壮な最期を遂げました。 義仲が討たれたことを知ると、 |
| 自ら刀を口に逆立てて馬から飛び降りたという。 謡曲 『兼平』 の素材となって語られています。 |
| JR石山駅裏に今井兼平の墓がありました。江戸時代に兼平を尊敬していた膳所藩主 本多俊次が墓を建立、 |
| 現在の墓は今井家末裔によって同じ場所に建てられた とありました。 |
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| 琵琶湖岸に膳所城跡がありました。 |
| 現在は表門のみで公園になっています。 |
| 関が原の合戦の翌1601年に東海道・中山道・北陸道の |
| 三街道を通す瀬田唐橋と琵琶湖の支配権を押さえるため |
| 築城されました。 |
| 琵琶湖にせり出し、湖水を天然の堀とした水城です。 |
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| 湖岸道路と平行にある中山道沿いに義仲寺があり、 |
| 義仲・巴御前・芭蕉の墓があります。 |
| 木曽義仲は頼朝の命を受けた範頼・義経の軍勢と戦い |
| この地で討ち死にした とありました。 |
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| その数年後、見目麗しい尼僧が近くに草庵を結び、日々供養をしていたそうです。 |
| 里人がいぶかって問うと、我は名も無き女性と答えていたそうです。この尼こそ義仲公の側室巴御前であったと言う。 |
| 尼の没後、この庵は無名庵⇒巴寺⇒木曽塚⇒木曽寺⇒義仲寺と呼ばれたと鎌倉時代の古文書にあるそうです。 |
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| 元禄7年、1694年10月12日、芭蕉は大阪の旅窓で |
| 他界します。 |
| 『骸は木曽塚に送るべし』 との遺言によって、 |
| 遺骸を当寺に運び、墓を建てた とありました。 |
| 墓の隣に句碑がありました。 |
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| 旅に病んで 夢は枯れ野を かけ廻る |
| (芭蕉) |
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| 中山道はやがて逢坂山に差し掛かります。右手に蝉丸神社下社がありました。 本殿・関の清水と歌碑です。 |
| 逢坂の関の清水にかげ見えて 今やひくらん望月の駒 (紀貫之) |
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| 蝉丸神社は街道沿いに上社、下社、分社と3社がありますが、一般に関蝉丸神社といえば、この下社を指します。 |
| 平安時代の盲目の歌人で、琵琶の名手としても有名な蝉丸が祀られ、世阿弥の謡曲 『蝉丸』 にも登場します。 |
| これやこのゆくもかえるもわかれては 知るも知らぬも逢坂の関 (蝉丸) |
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| 【京(三条大橋)】 |
| 逢坂山を越えて愈々中山道は京へはいります。JR東海道線をくぐると右手が天智天皇山科陵です。 |
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| 第38代天智天皇は中臣鎌足らと謀って蘇我入鹿など蘇我氏を滅ぼしたあと、叔父の孝徳天皇を立てて |
| 自らは皇太子となり、大化という元号を制定し、さまざまな改革を行います。(大化の改新) |
| 663年大津へ遷都してそこで即位、後に天智天皇は死に臨んで、息子の大友皇子に皇位を継がせたいと思ったが、 |
| 崩御後に起きた壬申の乱により、弟の大海人皇子が勝利します。 即位したのが天武天皇です。 |
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| 秋の田のかりほの庵のとまをあらみ わが衣手は露にぬれつつ (天智天皇) |
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| 街道の終着、三条大橋の袂に皇居を遥拝している高山彦九郎の像があります。 |
| 交差点を渡ると終着三条大橋です。欄干の擬宝珠が見えて来ます。 |
| 長い旅の道程を思い出しながら暫く鴨川を眺めていました。 |
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| 【あとがき】 |
| 日本橋⇒三条大橋、534km |
| 広重、英泉の画をよく見ると風景だけでなく、人物の描写が実に面白いのです。 |
| 幕末動乱期に公武合体の切り札として言い名づけがいるにも拘わらず政略結婚をさせられた |
| 皇女和宮が道中で詠んだ歌は心を打たれました。 |
| 近年、熊の出没がニュースに良く登場します。真夏のweek day に峠道を歩く人等いません。 |
| 熊に出会った際の注意書きを読んだ時から恐怖感に悩まされ、どきどきの山歩きになりました。 |
| 注意書によると、熊との鉢合せが恐いそうです。歌いながらの登山は苦しかったです。 |
| 266箇所の史跡を尋ねた歴史の旅は実に楽しいものでした。 |
| 暑い最中netの友人の是松さんが1日旅に同行して呉れました。嬉しかったですよ・・・ |
| 韓国の朴さん始め多くの方々、又最後まで御高覧戴きましたfrom50の皆さん、有難う御座いました。 |
| モリオさんの補足説明は一層楽しい旅にして戴きました。 |
| 関係者の皆様に感謝しつつ筆を置かさせて戴きます。 |
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| 次の5ヵ年計画は 『日本の旅』です。北から南下して何時の日にか南端の西表島に立てたらと思っています。 |
| 2006年は北海道編です。引き続き御高覧下さい。それでは又・・・ |
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