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| 【 はしがき 】 |
| 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり・・・」 で始まる芭蕉の「奥の細道」は先人の文芸の歴史(歌枕)を |
| 辿る旅で、千住の 「行くはるや・・・」 で始まり、大垣の 「・・・行く秋ぞ」 で終ります。 |
| 「奥の細道」 には曽良の句を含めて約60の句があります。 全てその場で創作された句ばかりで無く、 |
| 旅後の 「奥の細道」 編集時に挿入された句も多くあった様です。元禄2年(1689年)の芭蕉と同じ場所に立って、 |
| 当時から現在への歴史の経過が見たくて 2003年7月22日 奥の細道を辿る旅に出ました。 |
| 奥の細道を何度も読み返し、自分勝手な想像を廻らしています。 あまり詳細に突っ込まないで下さい。 |
| 尚、日付は全て陰暦から陽暦に直してあります。 |
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| ≪参考文献≫ |
| 全訳古典撰集、奥の細道(旺文社)・・・曽良の随行日記の日付・天気・メモは大変参考になりました。 |
| 森敦われもまたおくの細道(日本放送出版協会)、奥の細道を歩く(新潮社) |
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| 【 深川 】 |
| 1672年、29歳のとき、若き桃青は俳諧師になるべく、 |
| 伊賀上野から江戸の中心、小田原町(中央区)へ |
| 移住します。 |
| 写真は隅田川を眺めている若き芭蕉像です。 |
| 既に江戸でも俳諧師としての才能を評価されていましたが、 |
| それだけでは儘ならず神田上水工事にも携わって |
| 生活していたそうです。 |
| 俳諧師として見通しが持てたのは32歳頃の様です。 |
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| 当時の俳諧の宗匠は愛好者からの連句に点を付ける点料と彼らが催す連句会を指導する出座料で |
| 生活をしていました。人気取りの為に客に迎合したり、商策をめぐらす者も出て太鼓持ちの様な |
| 俳諧師が多くなり、桃青は嫌になり、37歳の冬、辺鄙な深川村(江東区)へ移住しました。 |
| 1681年、門人から芭蕉の株一本が贈られ、これが見事に茂って桃青宅の名物となり、 |
| 何時しか人々から芭蕉の庵と呼ばれる様になったそうです。 |
| 人々が付けたニックネームですが桃青も気に入って好んで使う様になったそうです。 |
| これが芭蕉の誕生と言われています。 |
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| 深川、隅田川岸に芭蕉記念館があります。 |
| 庭園には再建された芭蕉庵がありました。 |
| 余りにも新しく、綺麗で、もう少し当時の「草の戸」の |
| 雰囲気を出していたらと残念で堪りませんでした。 |
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| 川沿いに5分程歩くと、小さな祠だけが祀られた |
| 芭蕉稲荷神社があります。 |
| ここが芭蕉庵跡と言われています。 |
| 近くの川岸に芭蕉庵史跡展望庭園があり、 |
| 冒頭の隅田川を眺めている若き芭蕉像がありました。 |
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| 旅立ちに際し住んでいた庵を譲り、門人の杉風の採荼庵に移る時、雛を飾る賑やかな世俗の人が |
| 住む様になると草の戸への別れを庵の柱に掛けたと記されています。 |
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| 草の戸も 住み替わる代ぞ 雛の家 |
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芭蕉庵跡から清澄通りをおよそ1km南下すると、
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| 清澄公園があります。 |
| この公園は紀伊国屋門左衛門の屋敷跡で、 |
| 明治時代は岩崎弥太郎の別邸だったそうです。 |
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| 公園をすぎ、仙台堀川の小さな海辺橋を渡った南詰に |
| 門人、杉山杉風の採荼庵跡がありました。 |
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ここから舟で奥の細道へ出発しました。
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| 【 千住 】 |
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元禄二年、1689年5月16日、芭蕉・曽良・親しい人達は
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| 日の出と共に隅田川を舟でおよそ10km北上して、 |
| 日光街道の千住大橋に上陸しています。 |
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橋の手前には平安時代創建の素盞雄神社があります。
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境内に芭蕉像を刻した碑がありました。
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| 千じゅと云う所にて舟をあがれば、 |
| 前途三千里のおもい胸にふさがりて、 |
| 幻のちまたに離別の泪をそゝぐ |
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行春や 鳥啼き魚の 目は泪
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| と有りました。 この碑は1820年に建てられたそうで、 |
| 戦災にも合い傷みが進み読み取るには苦労しました。 |
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余談ですがこの神社から2km程の所が小生の生まれ故郷で、
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長女はこの素盞雄神社でお宮参りをしました。
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日光街道に架かる千住大橋です。
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| 文禄3年、1594年、家康が奥州への道を開く為に、 |
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隅田川で最初に架けた橋と言われています。
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現在の橋は昭和2年、1927年に建立とありました。
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橋を渡ると直ぐに大橋公園です。 小さな園内に、
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| 奥の細道行程図と矢立初の碑がありました。 |
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碑には「千じゅと云所にて船をあがれば、
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| 〜後かげのミゆるまでハと、見送るなるべし」 |
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奥の細道の抜粋がありました。
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| 芭蕉と曽良はここで親しい人達に見送られて、 |
| 前途3000里の思いを胸に陸奥を目指しました。 |
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| 【 草加 】 |
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| 百代橋と言う歩道橋からの草加松並木です。 |
| 綾瀬川沿いにおよそ1.5km続きます。 |
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| 松並木に佇み、親しい人達と別れた |
| 千住を振り返っている芭蕉像です。 |
| 「其日、漸早加と云う宿にたどり着きにけり、 |
| 痩骨の肩にかゝれる物先ずくるしむ。・・・」と |
| 芭蕉は旅仕度について愚痴を並べています。 |
| 芭蕉と曽良がここを通ったと思うと又格別です。 |
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| 【 春日部 】 |
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| 奥の細道では草加に泊まっていますが、曽良の |
| 随行日記によると次の粕壁(春日部)に泊まっています。 |
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泊まった場所については江戸時代創建の東陽寺説と
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| 鎌倉中期創建の小渕山観音院説があります。 |
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東陽寺には山門脇に「伝芭蕉宿泊の寺」とあり、
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境内に曽良随行日記の一節「廿七日夜カスカベニ泊ル
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| 江戸ヨリ九里余」と刻まれた真新しい石碑があり、 |
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山門・本堂等々全てが新しく、奥の細道を宣伝材料に
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| しているなあ!と 思いました。 |
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| 小渕山観音院(正賢寺)は丁度山門の修復工事中でした。 |
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全てが古びた佇まいで境内には
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| 「毛のいへば 唇寒し 秋の風」 |
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の芭蕉句碑がありました。この句は奥の細道にはありません。
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| 両寺は好対照な寺院でした。 |
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| 【 大神神社(室の八島) 】 |
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| 芭蕉達は日光街道を進み鹿沼の手前の |
| 大神神社に5月18日参詣しています。 |
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富士浅間神社と同じ御神体で室の八島の歌枕には
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| 煙を詠う謂れが有ると芭蕉は室の八島の由来を |
| 同行曽良の話として書いています。 |
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| 暮るる夜は衛士のたく火を |
| それと見よ室の八島も |
| 都ならねば (藤原定家) |
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| 等々多くの歌人がこの地を詠んでいます。 |
| 境内の鳥居をくぐると、 |
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池に島が八つ在り、それぞれに橋が架かっていて、
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筑波神社・天満宮・鹿島神社・雷電神社・浅間神社・
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熊野神社・二荒山神社・香取神社が祀られています。
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これが室の八島です。
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| 【 金売吉次の墓 】 |
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曽良の随行日記には 「壬生ヨリ楡木ヘ二リミフヨリ半道
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| ハカリ行テ吉次カ塚右ノ方二十間ハカリ畠中ニ有」 |
| と記されています。その通り、日光へ向かう途中の |
| 畑の中に金売吉次の墓がありました。 |
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吉次とは源九郎義経を鞍馬山から連れだして
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| 藤原秀衡の元に送り届けた豪商と言われています。 |
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義経が平家を壇ノ浦で破った後、頼朝公と不仲になり、
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| 奥州平泉へ逃れようと吉次は義経のお供をして |
| 来ましたが、病に倒れ、ここで生涯を終えたそうです。 |
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| 【 日光山の麓(杉並木) 】 |
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街道を進むと、今市から日光まで見事な杉並木が続きます。
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この街道は日光例幣使街道とも呼ばれています。
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毎年朝廷から日光東照宮の例大祭に金幣を奉納する為に、
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| 勅使(使者)が通ったそうです。 |
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勅使の格式は高く、大名行列も遠慮する程で、
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沿道の住民は土下座して一行を見送ったそうです。
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勅使は50人程で殆どが公家に出入りしていた商人達で、
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一行の中には権威を悪用する者もいて、籠をゆすって
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| 人足を脅し、村役人達が金品を渡してその場を納める事が度々あったそうです。 これが「ゆすり」の語源だそうです。 |
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芭蕉達は東照宮参拝後、日光の麓に泊まっています。「よろず正直を旨としているので人々から仏五左衛門と言われている。
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安心してお休み下さいと主から言われる。主のなす事に心とめて見るに、利害損得に無分別で正直一点ばりであった。
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生れ付き清らかな性質は尊ぶべきである。」 と奥の細道にあります。
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| 【 日光 】 |
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| 芭蕉達は5月19日、昼頃日光へ到着しています。 |
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当時は家康の霊廟があるだけで、一般に公開されず、
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江戸浅草にあった清水寺の紹介状で参拝しています。
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丁度、東照宮は大修復工事の最中で見物はかなり
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| 制限されていて、芭蕉達は散々待たされてしまったそうです。 |
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そう言う訳か、奥の細道では東照宮については触れていません。
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あらたふと 青葉若葉の 日の光
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| この句は翌日、裏見の滝へ行く途中で詠まれています。 |
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| 芭蕉達は翌日の5月20日(快晴)、裏見滝へ行った。 |
| 駐車場から、山道を500m程登ると落差45mの |
| 裏見の滝があります。当時と異なり岩が崩落してしまい |
| 裏側に回り込めなくなっています。 |
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現在、観光客の殆どは華厳の滝へ行きますが、
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芭蕉達は何故か行っていない。当時は道が険しく
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| 華厳の滝を見る事が出来なかったので |
| 歌枕にならなかったそうです。 |
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奥の細道によると、二十余丁、山を登って滝有。岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧潭に落ちたり。
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岩窟に身をひそめ入りて、滝の裏より見れば、裏見滝と申伝へ侍る也。
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暫くは 滝に篭るや 夏の初め
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芭蕉達は滝見物の後、
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| 大谷川沿いの慈雲寺に寄っています。 |
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そこには川に向かって石地蔵が一列に並んでいます。
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何度数えても合わないので化地蔵と呼ばれています。
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| 又大谷川には男体山の噴火による溶岩で出来 |
| 含満が淵があります。 |
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剃り捨て 黒髪山に 衣更 (曽良)
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| 黒髪山(男体山)は霞がかかって雪が残っている。曽良は河合惣五良と言って、芭蕉庵の近くに住み台所仕事を |
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手伝ってくれていた。この度松島・象潟を眺める為と私の旅の苦労を助け労わろうと暁髪を剃って、
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| 名も惣五を宗悟と改めて旅立った。こう言う訳で黒髪山の句がある。と芭蕉はそれと無く随行者の曽良を紹介して、 |
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衣更の二字が力強く聞こえると誉めています。
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芭蕉達は含満ヶ淵を見た後、日光北街道を通って
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矢板⇒大田原⇒黒羽と向かっています。
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| 矢板の箒川に架かるかさね橋を渡ると那須野が原です。 |
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文献によると、芭蕉はこのあたりで馬を借りた様です。
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与謝蕪村の俳画 |
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那須の黒羽と言う所に知人がいる。遥かな一村を目当てにして行ったが雨が降り日が暮れてしまった。
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| 一夜の宿を借りて翌日野中を行くと野放しの馬がいた。草を刈る男に嘆き言い寄ると |
| 「どうしたらよかろうな!この野は縦横に広くて慣れぬ旅人は踏み違えるだろう、この馬の留まる所で返して下さい」 と |
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貸して呉れた。子供二人が馬の跡を走って来る。ひとりは小娘で名を 「かさね」 と言う。
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聞き慣れぬ名が優しかった。やがて人里に着いたので鞍壷に借賃を結び付けて馬を帰した。
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かさねとは 八重撫子の 名なるべし (曽良)
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| 【 黒羽 】 |
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芭蕉達は黒羽に5月21日に到着しました。
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黒羽の館代浄坊寺何某の家を訪ねた。
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| 思い掛けない訪問で主人は喜び毎日毎夜語り続けて |
| その弟の翠桃は朝夕欠かさず来て自分の家にも伴って、 |
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親族の屋敷にも招かれた。
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玉藻の古墳を訪ねたり、那須の与市の氏神と言う八幡宮に参詣したりもした。黒羽藩主の城代家老を勤めていた
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桃雪と弟の翠桃、二人の芭蕉門人から温かくもてなされ、黒羽には奥の細道で一番長期間の14日間逗留しています。
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| 黒羽滞在中、 |
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芭蕉達は周辺の名所旧跡を数々訪ねています。
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大雄寺は黒羽藩主大関家の菩提寺です。
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| 山門・本堂等々総茅葺きで当時の風情が残っています。 |
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| 近くに芭蕉の館があり、芭蕉と曽良の像がありました。 |
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| 裏山を登ると黒羽城址公園です。 |
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ここから黒羽が一望でした。
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| 当時芭蕉達が尋ねた修験光明寺は無く、 |
| 芭蕉句碑だけが残っていました。 |
| 修験光明寺と言うのがあり、招かれて行者堂を拝んだ。 |
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(役行者の一本歯の高足駄を拝んだと言われています)
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| 芭蕉はここで奥州への旅の無事を祈っています。 |
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近くの西教寺には曽良の句碑がありました。
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| かさねとは |
| 八重撫子の |
| 名なるべし |
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| 雲巌寺は黒羽から車で30分、静寂な山中にありました。 |
| 禅宗の四大道場の一つで、境内には自由に入れますが |
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建物内は一切立ち入り禁止で、本堂裏の仏頂禅師の庵跡に
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行けなかったのは残念でした。
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| 芭蕉は5月21日黒羽に到着して、早速禅の師である |
| 仏頂禅師に会いに雲巌寺を訪ねています。 |
| あいにく師は不在で |
| 芭蕉は即興の句を師の庵の柱に掛けて残しています。 |
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| 木啄も 庵はやぶらず 夏木立 |
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| 臨済宗の僧、仏頂禅師が開山した深川の臨川寺で |
| 芭蕉は禅を学んだと言われています。 |
| 恐らく芭蕉が黒羽で一番会いたかったのが |
| 仏頂和尚だったと思われます。 |
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| 【 殺生石 】 |
| 那須温泉湯元にある殺生石への途中に常念寺があります。 |
| ここに芭蕉の句碑がありました。是より殺生石に行く。 |
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館代より馬にて送られる。この口付きのおのこ、
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| 短冊得させよと乞う。やさしき事を望み侍るものかなと |
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| 野を横に 馬牽き向けよ |
| ほとゝぎす |
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| 那須温泉湯元に温泉神社があります。 |
| その裏山が殺生石です。 |
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| 殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。 |
| 蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど重なり死す。 |
| と奥の細道にあります。 |
| 6月5日、芭蕉達は那須温泉湯元に泊まっています。 |
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日も傾いたので、小生も一泊です。
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| 【 芦野 】 |
| 芭蕉達は6月7日、奥州街道を進み、 |
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芦野氏3900石の城下町に入ります。
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城下の外れに竹林があり、質素な墓が並んでいます。
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これが芦野氏旧墳墓です。
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| 街道右手の御殿山には芦野氏の居城桜ヶ城城址があり、 |
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ここから芦野のかっての城下町が一望出来ました。
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| 芦野氏19代資俊は桃酔と言う俳号を持つ程俳諧に |
| 通じていて、「この柳見せばやな」とのたまひ聞こえ給うたので |
| 遊行柳に立ち寄ったと芭蕉は記しています。 |
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| 街道を進むと左手には温泉神社があります。 |
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樹齢700年の大杉はそれは見事なものでした。
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芭蕉達もここに立ち寄ったと記されています。
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城下町の外れには西行が詠み、謡曲にも歌われた遊行柳が
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| 田の畔に残っていました。ここの郡守がこの柳を見せたいと |
| 折々言ってよこされたので何時になったらばと思っていた。 |
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今日この柳の陰に立ち寄りました。
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| と芭蕉は記しています。 |
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田一枚 植えて立ち去る 柳かな
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小生は鈍感なので、この有名な句から芭蕉の見た情景が
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| 見えて来ません。 |
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文献によると、芭蕉は柳の下で尊敬する西行を思っていた。
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はっと我に返ると田植えの人々は一枚田を植え終わり、
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次の田へと立ち去って行く、自分もこうしてはいられないと
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| 柳の下を立ち去って旅を続ける。こう言う情景だったそうである。 |
| 納得である。尚、この句は旅の途次で作られたものでは無く、 |
| 旅の後4年後に回想して本文中に挿入されたそうです。 |
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| 【 白河 】 |
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奥州街道はやがて下野と陸奥の県境である峠に
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差し掛かります。 ここに境の明神があります。
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社は下野(栃木県側)と陸奥(福島県側)にあります。
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| 平安時代末期まで白河の関はここにあり、 |
| 江戸時代に現在の場所に移されたそうです。 |
| 芭蕉達は両方の白河の関を尋ねています。 |
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街道を外れて山村を幾つか過ぎ、
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| 山道を進むとやがて白川の関跡です。 |
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当時は東北の玄関口として蝦夷の南下を防ぐ為に
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| 設置されたがやがて関としての機能は無くなり |
| 歌枕として名を残したそうです。 |
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石段を上がると質素な白河神社がありました。
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白河の関では、古人は冠を正し衣装を改めたと言う。
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芭蕉達は卯の花をかざして晴れ着のつもりにした様です。
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| 卯の花を |
| かざしに関の |
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晴れ着かな (曽良)
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「心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ」 ここに来てやっと芭蕉は旅の覚悟が出来たと記しています。
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白河に入ると白河藩主松平定信によって造園された
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日本最初の公園である南湖公園に出ます。
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| 湖岸道路を進むとやがて白河駅に出ます。 |
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駅付近には現在でも城下町の雰囲気が残っています。
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駅前には戊辰戦争で落城した白河藩主の居城、
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小峰城が復元され、城跡公園になっていました。
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| 【 須賀川 】 |
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| 奥の細道には |
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白河の関を越えて行くうちに阿武隈川を渡る。
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| 左に磐梯山が高く、右に岩城・相馬・三春の庄があり |
| 常陸・下野の地との境に山が連なっている。 |
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以前から親交のあった等窮と言う者を尋ねたとあります。
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| 等窮宅跡と可伸庵跡は須賀川のNTTになっていました。 |
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| 奥の細道には4〜5日留められた。とありますが、 |
| 実際は等窮宅に7泊した様です。 |
| その間に色々と訪ねています。等窮は奥州俳壇の |
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有力者で、以前江戸で俳諧を通しての知人であったそうです。
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等窮の屋敷の一隅に庵を構えていた可伸庵はNTTの裏に
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| ありました。 |
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| 芭蕉は大きな栗の木の陰に庵を構え |
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世に背を向けた僧、可伸を訪れています。
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| そのひそやかな様子に感銘して句を残しています。 |
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| 世の人の |
| 見付けぬ花や |
| 軒の栗 |
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| 等窮から白河の関をどの様な句を作って越えられたか問われ、 |
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長途の苦しみで心身疲れ、又風景に魂を奪われ、
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古歌、古人に断腸の思いがしてはかばかしく思いが廻らず、
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一句も無しに超えるのもすまないと思い、一句をひねり出した。と
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| 説明しています。 ここ十念寺にその句碑がありました。 |
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風流の 初や奥の 田植うた
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可伸庵跡から10分程歩くと、古来須賀川の総鎮守として
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崇拝されていたと言う、神炊舘神社(諏訪神社)がありました。
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曽良の随行記によると6月15日に、参詣しています。
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鳥居をくぐると、神水が湧き出しています。収穫の時、
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新米を炊き神に感謝したと言う故事があるとの事です。
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歴史の有りそうな厳かな石灯籠の列は見事でした。
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| 近くに相良等窮の墓のある長松院があり、 |
| 本堂前に等窮の句碑がありました。 |
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あの辺は つくば山哉 炭けふり
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相良等窮の先祖は秀吉と戦ったと言う、城持ちの武将で、
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| 等窮は須賀川宿で問屋を営み駅長の要職にあったとの事。 |
| 一族の墓は一際目立つものでした。 |
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| 曽良日記によると須賀川を発った日(6月16日)に |
| 阿武隈川の乙字ヶ滝に寄っています。 |
| 昨夜の降雨で水嵩が増して実に壮観でした。 |
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| 川岸には奥の細道には記されていない芭蕉句碑がありました。 |
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五月雨の 滝降うづむ 水かさ哉
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| 【 安積山 】 |
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| 等窮の庵から約5里、檜皮の宿を離れると安積山がある。 |
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この辺り沼が多く、かつみ刈る頃なのでどの草が花かつみと
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| 言うのか尋ねたが知る人はいない。 |
| 尋ね歩いて日は山の端にかかってしまった。 |
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二本松より右に行き、黒塚の岩屋を一見して福島に泊まった。
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| と 奥の細道に記されています。 |
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謡曲「安達原」で、旅人を泊めては殺したと言う
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| 鬼婆が住んでいた岩屋と埋められた塚です。 |
| ここには芭蕉の句碑はありませんでした。 |
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| みちのくの 安達の原の黒塚に |
| 鬼こもれると聞くはまことか |
| (平兼盛) |
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| 涼しさや 聞けば昔は 鬼の家 |
| (正岡子規) |
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| 【 信夫の里 】 |
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翌日伝説のしのぶもじ摺りの石を尋ねて、
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| 信夫の里へ,行った。 |
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文智擦観音山門にある芭蕉像です。
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| 遥か山陰の里に石が半分埋もれてあり、 |
| 昔はこの山の上にあったが往来する人が麦の葉をちぎって |
| この石で試したので嫌がってこの谷に突き落としたので |
| 石の表が下向きになっていると里の子供が教えて呉れた。 |
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と 奥の細道に記されています。
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| この石は乱れ染物を染布に摺るのに用いたもので、 |
| しのぶもちずりの染物は平安末期〜鎌倉時代まで |
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使用されたと言われています。
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| 早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺 |
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| 【 飯塚の里 】 |
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佐藤庄司の旧跡は左の山際一里半にあり、鯖野と聞いて
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| 尋ねて行くと丸山と言う所に庄司の旧館があった。 |
| かたわらの古寺(医王寺)に一家の石碑がる。 |
| 中でも二人の嫁の墓は哀れであった。 |
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と 奥の細道に記されています。
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| 医王寺は奥州平泉、藤原氏の配下の庄司佐藤基治、 |
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その子継信・忠信の菩提寺で,兄弟は義経の身代わりとなり、
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| 壮絶な最後を遂げたと言われています。 |
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戦いで二人の息子を失った老母の為に嫁達が武将の姿をして
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| 慰めたとの話に芭蕉は泪しています。 |
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奥の細道には寺に入り茶を乞うと義経の太刀と弁慶の笈を
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| 寺宝としていたと記しています。 |
| 境内の宝物殿には義経の太刀と弁慶の笈がありましたが |
| 小生にとってはその隣にある端正な芭蕉坐像の方が |
| 気になりました。 |
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| 医王寺の山門を入ると右手に本堂があり、 |
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その前庭に芭蕉の句碑がありました。
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| 笈も太刀も |
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五月にかざれ
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紙幟
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| 【 飯坂 】 |
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飯坂温泉は擦上川沿いに旅館が並んでいます。
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| その一角に芭蕉ゆかりの地と言う石碑があり、 |
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芭蕉は6月18日、ここに泊まったとありました。
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| その夜、飯塚(飯坂)に泊まる。温泉に入って |
| 土間にむしろを敷いて囲炉裏の明りで寝る。 |
| 夜に入って雷が鳴り、雨が降って寝ている上に漏り、 |
| 蚊や蚤で眠れない。持病で気を失いそうになる。 |
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夜も明けて旅立ったが気分が冴えない。
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地の涯を旅する行脚なので路上で死ぬも天命と
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| 気力を取り戻して伊達の大木戸を越した。 |
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と奥の細道に記されています。
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| 近くに共同浴場 「鯖湖湯」 がありました。 この浴場の |
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歴史は古く、日本武尊が入浴したと言う伝説があります。
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| 恐らく芭蕉の入った温泉では?と思い小生も入る事にしました。 |
| 入浴料100円でしたが湯温が43℃もあり、 |
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| 熱くて入れないので温めようとしたら地元の爺さんに叱られてしまい、早々に退却しました。 |
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| 【 笠島 】 |
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鐙摺・白石城を過ぎ笠島の郡に入る。笠島の道祖神前を下馬せずに通ったため、神罰に当たり落馬して死んだと言う、
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| 西行が 「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて 枯野の薄かたみにぞ見る」
と詠んだ、藤原中将実方の塚はどのあたりかと |
| 人に問うと、これより遥か右に見える山際の蓑輪笠島に道祖神の社と形見のすすきが今もあると教えて呉れた。 |
| 五月雨で道が大変悪く疲れてしまい、よそから眺めてやり過ぎた。 と奥の細道にあります。 |
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| 現在は道標が完備されていて、迷わずに |
| 訪ねる事が出来ました。 |
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| 道祖神社から5km程離れた竹林の中に |
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藤原実方の墓があり、近くに句碑がありました。
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笠島は いづこさ月の ぬかり道
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| 【 岩隈の松 】 |
| 岩沼に入ると直ぐに竹駒神社への道標がありました。 |
| 境内は広く、社殿は如何にも歴史がありそうな |
| 荘厳さを漂わせていました。 |
| 日本3大稲荷の一つと言われているそうです。 |
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| 神社の裏に二木の松史跡公園があり、そこに歌枕の |
| 武隈の松が有りました。武隈の松には目覚める |
| 思いがした。根は土際から二木に分かれて |
| 昔の姿を失っていない。 |
| 能因法師の「武隈の松はこのたび跡も無し、 |
| 千年を経てや我は来つらん」を思い出し感激した。と |
| 奥の細道にあります。 |
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| 芭蕉の句碑は |
| この史跡公園と竹駒神社の両方にありました。 |
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| 桜より |
| 松は二木を |
| 三月越し |
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| 【 宮城野 】 |
| 6月20日、名取川を渡って仙台に入った。ちょうど5月のあやめを葺く日であった。宿を探し求めて4〜5日滞在した。 |
| ここに画工の加右衛門と言う者がいて、多少風流を解すると聞いて知り合いになった。と奥の細道にあります。 |
| 彼の案内で青葉城、東照宮、榴ヶ岡天満宮、陸奥国分寺跡などに行っています。 |
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| 青葉城の伊達政宗です。 |
| 生憎城壁の工事中で、然も天気が悪く視界が無く、 |
| 市内の展望は霞の中でした。 |
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| 伊達家の菩提寺である瑞宝寺です。 |
| 山門を入り、石段を上がります。 |
| 唐門を抜けると、伊達政宗の廟所の瑞宝殿、 |
| 二代忠宗の廟所感仙殿、三代綱宗の廟所善応殿が |
| ありました。 |
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| 伊達政宗の廟所の瑞宝殿です。再建されたそうです。 |
| 華麗でしたが、日光東照宮とは又違った雰囲気でした。 |
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| 加右衛門が |
| はっきりしない歌枕を何処と考えて1日案内して呉れ、 |
| 薬師堂・天神の御社を拝んでその日は暮れた。 |
| と奥の細道にあります。 |
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奈良時代に陸奥国分寺が創建され、文治5年(1189年)源頼朝の奥州侵攻の時に焼失、
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| 慶長12年(1607年)、伊達政宗が現存する薬師堂・仁王門・鐘楼などを建立したと記されていました。 |
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| 薬師堂の仁王門と境内の芭蕉句碑 |
| です。 |
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| あやめ草 |
| 足に結ばん |
| 草鞋の緒 |
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| 出立に際し、松島と塩釜の所々を画いて贈られ、又紺の染緒の草鞋2足を餞別として貰った。 |
| 風流において只者でないと思ったと奥の細道にあります。 |
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| 【 壷の碑 】 |
| 芭蕉は加右衛門の画いて呉れた絵図を頼りに |
| 塩竈街道を進み多賀城址に至っています。 |
| 多賀城は724年に創建され平安時代まで東北地方の |
| 政治や軍事の中心であったそうです。 |
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| 壷の碑は道路を隔てた小さな丘の上にありました。 |
| 鞘堂の中には重要文化財の大きな石碑があり、 |
| かろうじて文字は読めますが意味不明でした。 |
| 諸国からの距離や多賀城の創建・修造について |
| 書かれていると説明がありました。 |
| 碑が建立されて約1000年後に芭蕉が訪れ、 |
| それから更に300年後に同じ石碑を見ている。 |
| 奥の細道を辿る旅に出て本当に良かったと思いました。 |
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| 昔から詠まれている歌枕は多く語り伝えられると言っても山崩れ、川流れ、道が変わり、石は埋もれて |
| 土に隠れて木は老いて若木に代わるので、時代が変わってその跡が確かでないのにここでは古人の |
| 心を見せていると、芭蕉が旅の苦労を忘れて感動している様が奥の細道に書かれています。 |
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| 【 末の松山 】 |
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芭蕉は近くの歌枕である野田の玉川、沖の石、末の松山を尋ねています。
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説明の看板があるので解りますが現在周囲は住宅街になっていて、野田の玉川は何処にでもある町内を流れる排水路であり、
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沖の石は町内の児童公園と言う感じでした。当時ここは海岸だったとの説明に時代の流れを感じました。
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| 沖の石から道かどを曲がると直ぐ末の松山でした。 |
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末の松山は芭蕉が尋ねた当時と同様に末松山宝国寺と言う
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| お寺になっていました。芭蕉の時代からある樹齢450年と言う
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| 松の大木が印象的でした。 |
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| 末の松山は寺を造りて、末松山といふ。 |
| 松のあひあひ皆墓原にて、はねをかはし枝をつらぬる契りの末も、 |
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終はかくのごとき。 と奥の細道にあります。
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| 【 塩竃 】 |
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| やがて塩竈に着くと、 |
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製塩に縁りのあるお釜神社がありました。
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| ここには南北朝から室町時代に使用されたと言う |
| お釜がありました。 |
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| 直ぐ近くに塩竈神社の表参道(男坂)がありました。 |
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芭蕉は6月25日早朝、この202段の階段を上って
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| 塩竈神社に参詣しています。 |
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| 石の階九仞に重なり、朝日朱の玉垣をかかやかす。 |
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かかる道の果て、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ
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| 吾国の風俗なれと、いと貴けれ。と奥の細道に記されています。 |
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急な階段を上がると本殿です。
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| 芭蕉と同じ階段を登って参詣していると思うと、 |
| 江戸時代にタイムスリップした思いがしました。 |
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| 【 松島 】 |
| 愈々松島です。芭蕉は奥の細道の序文で「笠の緒付けかえて、三里に灸すうるより、松島の月まず心にかかりて、」と |
| この旅が松島の景観にあることを記しています。 |
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| 舟を借りて松島に渡る。2里余りで雄島の磯に到着した。 |
| 当時は僧侶達の修行の島で芭蕉が訪れた時も |
| 世捨て人が何人かいたそうです。 |
| 曽良の句碑がありました。 |
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| 松島や |
| 鶴に身をかれ |
| ほととぎす(曽良) |
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| 芭蕉は言い古されているが松島は日本一の風景である。 |
| 誰でも筆をふるい、詞を尽くす。と賞賛しています。 |
| しかし何故か松島には芭蕉の句碑は有りませんでした。 |
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五大堂は朱塗りの橋を渡った小島にありました。
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坂上田村麻呂が建立した毘沙門堂で、後に慈覚大師が
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| 五大明王を安置したと記されていました。 |
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| 近くの瑞巌寺は慈覚大師の開基と言われ、伊達政宗が |
| 再建して、以来伊達家の菩提寺として栄えたそうです。 |
| 曽良日記によると、残らず見物したと記されています。 |
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| 【 石巻 】 |
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| 芭蕉達は、姉歯の松・緒絶の橋等の歌枕を尋ねようとしたが |
| 道に迷ってしまい、石巻に出てしまいます。 |
| 日和山公園からの石巻港です。 |
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| 日和山公園の一番眺望の良い場所に銅像がありました |
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曽良の芭蕉への思いやりが表現されていました。
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| 芭蕉達は |
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石巻から平泉に向かう途中、
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| 登米に一泊しています。 |
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ここには江戸時代の
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| 武家屋敷が保存されていました。 |
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| 【 平泉 】 |
| 芭蕉達は雨の中登米から一の関に着いて1泊、翌日雨も上がり平泉を見て |
| その日の内にまた一の関の宿に戻っています。 |
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| 丘の上の義経堂には木造の義経像が祀られています。 |
| ここで義経は自害したと言われています。 |
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| 眼下には北上川が流れ、正面に束稲山が見えます。 |
| 高館に上ると北上川が南部地方から流れている |
| 大河がある。衣川は城を巡って高館の下で |
| 大河に落ちている。泰衡達の旧跡は衣が関を隔てて |
| 蝦夷を防ぐと見えたり、よりすぐった忠臣がこの城に |
| こもったが、その功名も一時のもので、 |
| 後は叢となっている。 |
| 国破れて山河あり、城春にして草青みたりと笠打敷きて、 |
| 時のうつるまで泪を落としたと芭蕉は書いています。 |
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| 義経堂に上る手前に卯の花清水があり |
| そこに曽良の句碑がありました。義経の為に |
| 最後まで戦った兼房の白髪を思い出して詠んでいます。 |
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| 卯の花に |
| 兼房みゆる |
| 白毛かな (曽良) |
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| 中尊寺は850年慈覚大師が開き、 |
| 清衡によって完成されたと言われています。 |
| 当時の侭現存しているのは金色堂だけだそうです。 |
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| 杉並木の月見坂を上がると経堂と光堂があります。 |
| 経堂は藤原三代、清衡・基衡・秀衡の像があり、 |
| 光堂は三代の棺が納められ、遺骨が安置されています。 |
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| 五月雨の 降残してや 光堂 |
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| 奥の細道には光堂は四面を囲い甍で覆い風雨を凌いでいるので千歳の記念として残るであろうと記してあります。 |
| 現在、旧覆堂も重要文化財となり、コンクリートの覆堂で保護されています。 |
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| 近くにある毛越寺は極楽浄土を想定して |
| 二代基衡が建立したそうです。 |
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| 本堂の右手に移築された |
| 芭蕉直筆の「夏草や・・・」の句碑がありました。 |
| 実に達筆でしたが場違いの様に思いました。 |
| 衣川の合戦場の見える高館にあった句碑の方が |
| 臨場感があって感動しました。 |
| 因みに芭蕉達は毛越寺には立ち寄っていないそうです。 |
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| 一関への途中で、ちょっと寄り道です。 |
| 巌美渓は栗駒山を源とする磐井川の清流が奇岩を造り |
| 滝や淵になっている名勝です。 |
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| 【 岩出山 】 |
| 南部道遥かにみやりて、岩手の里に泊まる |
| と奥の細道にあります。 |
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芭蕉達は6月30日一関から岩出山まで歩いています。
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途中の千本松長根は当時の雰囲気があり、
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| 芭蕉と曽良がこの道を通ったと思うと感無量でした。 |
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更に県道を進むとやがて岩出山の町に出ました。
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岩出山は伊達政宗が青年期を過ごした所で、
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| 伊達家の学問所の旧有備館がありました。 |
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「備えあれば憂い無し」から名付けたそうです。
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| 茅葺き屋根の学問所は最も古い藩校と記されていました。 |
| 伊達藩は大変学問に力を注いでいたそうです。 |
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| 鳴子へ向かって出羽街道(国道47号線)を進むと |
| やがて歌枕の小黒崎に出ました。ここには芭蕉像があり、 |
| 説明板によると芭蕉像後ろの何の変哲も無い |
| 標高145mの小黒崎山が歌枕との事でした。 |
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又近くには歌枕の美豆の小島もありました。
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| 平安朝の昔から歌枕として知られていたそうですが |
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現在では田圃の中に説明板があるだけでした。
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小黒崎・美豆の小島を過ぎて、なるごの湯よりにかかりて
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「出羽の国に越むとす」 と奥の細道にあります。
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| やがて鳴子温泉を過ぎ、暫く行くと絶壁の鳴子峡に出ました。 |
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急な石段を降りると川岸の遊歩道まで行けます。
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この石段を又上ると思うと厭にになりましたが
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近々控えている月山登山の足慣らしと思いつつ下りてみました。
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| 遊歩道の渓谷美は素晴らしいものでした。 |
| 紅葉の時期は凄いだろうなあ!・・・ |
| と思いつつ急な階段を引き返しました。 |
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| ちょっと寄り道です。 |
| 鳴子温泉から山道に入り、30分程で鬼首温泉です。 |
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至る所で90℃位の熱湯が噴出していました。
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| 15分位の間隔で10m位吹き上げる間歇泉は圧巻でした。 |
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露天風呂で暫しの休憩して又次の旅を続けました。
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| 【 尿前の関 】 |
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更に国道47号線を進むと尿前の関にかかります。
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「関守にあやしめられてやうやうとして関を越す」
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| と奥の細道にある様に伊達藩の境界で |
| 取り締まりは厳しかったそうです。 |
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| 尿前の関を通ると出羽街道の中山越えの道が続いていました。 |
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当時の雰囲気を漂わせている長閑な山道でした。
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中山を越え、再び国道47号線を進むと
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| 右手に封人の家がありました。封人とは国境を守る人の事で |
| 代々庄屋が勤めていたそうです。 |
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芭蕉達が泊まった部屋です。
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受付のおじいさんによると煙は蚤虱を退治しているそうです。
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細かな演出は滑稽でした。
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| 「大山をのぼって、日既に暮れければ封人の家を見かけて、 |
| 舎りを求む、三日風雨あれて、よしなき山中に、逗留す」 |
| と 奥の細道にあります。 |
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47号線を更に進むと山刀伐峠に差し掛かります。
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| 現在はトンネルで一気に通過出来ますが |
| 当時は細い山道でした。 |
| ここが山刀伐峠への登り口です。 |
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当時を偲んで峠の頂上まで歩く事にしました。
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| 主人から道が定かでないし、物騒なので道案内を |
| 雇った方が良いと言われ、頼もしそうな若者が |
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道案内をして呉れた。 と奥の細道にあります。
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山刀伐峠とは昔、民家の夫婦が山刀で切り殺された
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| と言う伝説から呼ばれているとの事です。 |
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「今日こそ必ずあやふきめにもあふべき日なれ」 と
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| 芭蕉は決死の思いで峠越えをした様ですが |
| 現在は整備され約30分で峠の頂上に着きました。 |
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峠の頂上には俳人の加藤楸邨の筆による
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奥の細道の一節が刻まれた文学碑がありました。
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| 「高山森々として、一鳥声聞かず、木の下闇茂りあひて、 |
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夜行くがごとし。雲端に土ふる心地して、篠の中踏み分け、
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| 水を渡り岩につまずいて、肌に冷たき汗を流して最上の庄に出ず」 |
| とありました。 |
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| 山刀伐峠で 「奥の細道を辿る旅」 は丁度中間点です。 |
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前編を終了して、次から後編に入ります。
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