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| 3. 信濃の国(前編) 軽井沢宿(18次)⇒ 塩尻宿(30次) |
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| 【軽井沢宿(18次)】 |

≪軽井澤≫ |
| 夕日が沈んで暗くなった軽井沢宿外れの街道です。 |
| 風呂敷包を背おっている旅人が焚で煙管に |
| 火を付けようとしています。 |
| 馬上の旅人が、自分の煙草へ馬子の煙管から |
| 火を移して貫っています。疲れているせいか、 |
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当時の旅人は焚き火を見ると必ず一服したそうです。
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| 旧中山道は山道で車での通行は出来ません。 熊野神社へ行くには碓氷峠を一気に下って |
| 軽井沢から聖パウロ教会を経て街道を逆行します。 |
| 神社の前が中山道で、熊野神社は信濃と上野の境界にあります。駐車場から約200m、碓氷峠見晴台へ行きました。 |
| ここからの展望は素晴らしいパノラマです。さっき通って来た妙義連峰が直ぐ目の前にありました。 |
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| 再び下って教会の前に出ました。 |
| 聖パウロ教会はカソリックの教会で、 |
| アメリカ建築学会賞を受賞した軽井沢を代表する |
| 教会との事です。 |
| 実に軽井沢の雰囲気に合っていました。 |
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| ちょっと寄り道です。 |
| 白糸ハイランドウエーで 弥次さん、喜多さんも |
| 寄っている草津温泉へ行く事にしました。 |
| from50のオフ会はこの山道を通った様で |
| 時々見慣れた景色に出会いました。 |
| 途中、白糸の滝に寄り道です。 |
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| 草津温泉を代表する湯畑と西ノ河原です。 |
| 西ノ河原の最奥に東洋一の露天風呂があり、一風呂浴びて疲れを取りました。 |
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| 近くの囲山公園に十辺舎一九の碑がありました。 |
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| 続膝栗毛十遍下より |
| 上毛の國草津はここに海内無双の霊湯にして、 |
| 湯宿の繁昌いふばかりなく、風流の貴客絶えず、 |
| 弥次郎、北八も今日湯宿に着きて、壷ひと間を借りて |
| ・・・云々 |
| 十辺舎一九 |
| とありました。 |
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| 4日目はここで終了です。 今夜はここで車中泊です。 |
| スーパーで赤飯、スパゲティサラダ、アサリを購入、 |
| 具沢山のアサリの味噌汁を自炊しました。 |
| 朝起きたら、 |
| 両側の道の駅は野宿の車がいっぱいでした。 |
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| 早朝AM.5出発、ハイウエーで軽井沢へ向かいました。 |
| 早朝なので有料道路は全てタダでした。 |
| 途中の鬼押出しです。 |
| 1783年(天明3年)の浅間山噴火によって流れた |
| 溶岩とありました。 |
| 残念ながら浅間山は霧の中で全く見えませんでした。 |
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| 【沓掛宿(19次)】 |

≪沓掛驛 平塚原雨中之景≫ |
| 平塚原は、浅間山の南の裾野、沓掛宿の手前です。 |
| 浅間下しの寒風と叩きつけるような雨の中を |
| 旅人達は前屈みになって強風に立ち向かっています。 |
| 山に囲まれ、水運に恵まれなかった信州の農民は |
| 自分の馬で駄賃稼ぎに荷物を運んでいたそうです。 |
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| 下り切るとJR中軽井沢駅です。ここが沓掛宿です。 |
| 気付いたら晴れ上がり、浅間山が目の前にありました。 |
| 今朝はここの川岸で飯盒炊爨の朝食にしました。 |
| 炊きたての御飯・焼き海苔・味噌汁・佃煮の朝食ですが |
| 格別でした。 |
| 自然の中での食事は何を食べても美味しいですよ!・・・ |
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| 湯川の赤い橋を渡ると平安時代創建と言う |
| 長倉神社がありました。 |
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| 神社の境内には長谷川伸の小説、 |
| 主人公 『沓掛時次郎』 の碑 がありました。 |
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| 千両万両 まげない意地も |
| 人情からめば 弱くなる |
| 浅間三筋の けむりの下で |
| 男 沓掛時次郎 |
| 長谷川 伸 |
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| 中山道は国道18号線と合流したり、 |
| 離れたりして続きます。 |
| 燈籠の台座に馬が彫られている |
| 立派な馬頭観音がありました。 |
| 昔の人々の馬に対する心遣いが見えてきます。 |
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| 近くに遠近神社がありました。おちこち神社と読みます。 |
| 謡曲 『鉢木』 に |
| 『浅間の嶽に立つ煙、遠近人の袖寒く』 |
| とあるそうです。 |
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| 【追分宿(20次)】 |
| 立ち止まって振り返ると、浅間山が眼前に広がります。 |
| 松並木の街道を2本差の武土が人足に長持のような |
| 荷物を担がせて小田井宿へ向かっています。 |
| 重量制限を超えたのか人足が3人掛りで担いでいます。 |
| 馬子が、油紙で包んだお茶と思われる |
| 揚荷3個積んだ馬を引いています。 |
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≪浅間山眺望≫ |
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| 中山道を進むと直ぐ追分宿です。 |
| 英泉画と同じ場所からの浅間山です。 |
| ここからの浅間山の頂上は平らで、 |
| 英泉画とはかなり異なります。 |
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| 中山道は信濃追分駅前から国道に別れます。 |
| 暫く行くと右側に浅間神社がありました。 |
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| その隣の追分節発祥の碑です。 |
| 追分節はこの追分に発祥し、全国各地に伝えられた |
| とありました。 |
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| 国道への合流場所に |
| 追分節に登場する枡形茶屋 つがるや がありました。 |
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| ア キタホイ 追分の枡形の ア キタホイ |
| 茶屋でヨー ホイ ほろりと泣いたが ア キタホイ |
| 忘らりよか ア キタホイ |
| オーサドンドン ア キタホイ |
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| 国道を進むと 分去れ(わかされ) にでます。 |
| 右は越後への北の道、左は木曽への中山道です。 |
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| 【小田井宿(21次)】 |
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| 浅間山の麓から引いた用水が流れるすすき野を |
| 渡って行く信心深い人達です。 |
| 笈を背負い 「本堂造立」 の幟を杖代りにしているのは |
| 勧進僧で、反対から来るのは巡礼者です。 |
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| 国道から離れて中山道を進むと、 |
| 信濃鉄道の御代田駅近くに御代田一里塚がありました。 |
| 普通一里塚には榎が植わっていますが |
| ここの一里塚は枝垂れ桜でした。 |
| 樹齢数百年の大木で開花はきっと綺麗だろうな・・・ |
| と思いつつ旅を続けました。 |
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| 真っ直ぐ中山道を進むと、小田井宿です。 |
| 浅間山の山麓にある小さな宿で、女性が安心して |
| 利用出来たので姫の宿と呼ばれていたそうです。 |
| 本陣には皇女和宮が立ち寄ったので上段の間と厠が |
| 普請されたとありました。 |
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| 街道を進むと、小田井宿と岩村田宿の中間に |
| 皎月原がありました。 |
| 飛鳥時代から古記録や伝説のある名所として |
| 知られていたそうです。 |
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| 伝説 『皎月の輪』 |
| 昔、皎月という官女がお咎めを受けて流されてきた。 |
| 白馬を愛していた皎月はある時、馬を引き出して |
| 乗りまわしていた。 |
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| ところが天の竜馬だった白馬は空をかけまわった後、平尾山の頂上に立ち止まった。 |
| そこで皎月は 「私は白山大権現であるぞ。」 といって光を放って岩の中に入ってしまった。 |
| その後、官女は白山大権現とあがめられる様になり、時々小田井の原に下りて馬の輪乗りをした。 |
| そのあとには草がはえなかったので、そこを「皎月の輪」と呼ぶようになった とありました。 |
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| 中山道を進むと、 |
| 岩村田宿の入口に住吉神社がありました。 |
| 境内に樹齢数百年と思われる大欅がありました。 |
| 元気に枝葉を見せていますが裏側の幹は空洞で |
| 痛々しい思いがしました |
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| 【岩村田宿(22次)】 |
| 盲人同志の喧嘩です。 |
| 岩村田宿は西へ善光寺道・東へ下仁田道 |
| 南へ甲州街道が分岐する地として栄えていました。 |
| そのため物資輸送をめぐって他宿との間で |
| 争いが絶えなかったそうです。 |
| 英泉はこれを題材にしたと言われています。 |
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| 岩村田宿の手前にあるのが龍雲寺です。 |
| 城郭風の山門は大変な威厳がありました。 |
| 境内に武田信玄の墓がありました。 |
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| 天正元年、1573年4月12日信玄が駒場で病死した際、 |
| 遺命で喪を隠し、北高禅師が遺骸を龍雲寺に持ち帰り |
| 密かに埋葬したという。 昭和6年骨壺が発見され、 |
| 中から骨と島田助宋作の短刀、 |
| 大壇越信玄千時天正元年酉年四月十二日於 |
| 駒場交戦時為舎利納慈、北高和南頂百拝 |
| と記された袈裟環が発見され、言い伝えが確認された |
| とありました。 |
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| 中山道を進み浅間総合病院を過ぎると、 |
| 相生の松がありました。 |
| 当時は双幹の男女松だったそうですが枯れてしまい、 |
| 細い松が2本ありました。 |
| 皇女和宮はここで 『野立て』 をしたとありました。 |
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| 中山道は畑の中を進みます。 |
| 塩名田宿の入口に駒形神社がありました。 |
| 鞘堂に覆われた本堂は文明18年(1486年)の建築で、 |
| 重要文化財に指定されています。 |
| 街道を往来する人々がお参りしていたそうです。 |
| こんな小さい神社の本堂が鞘堂に納められている。 |
| 驚きでした。 |
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| 【塩名田宿(23次)】 |
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| 広重は塩名田側の船渡し場風景を描いています。 |
| 客を対岸へ渡して帰ってきた舟人足3人が |
| 何か話を交わしています。 |
| 欅の大木の脇には休み茶屋が建っていて、 |
| 火の周りで舟人足3人が身体を温めています。 |
| 大欅の根元から湧き水があり、 |
| 旅人の喉を潤していたそうですが、 |
| 今は大欅は枯れ根だけになり、水も涸れていました。 |
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| 塩名田宿に入ると直ぐ本陣がありました。 |
| 川止めに備えて二軒の本陣があったそうです。 |
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| 千曲川に下りると舟繋ぎ石がありました。 |
| これに舟を繋ぎ、板を敷いて人馬を渡していたそうです。 |
| 当時の千曲川は急流で、大雨の時旅人は川留めで |
| 難儀したそうです。 |
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| 広重の画と同じ場所です。遠くの山は浅間山です。 |
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| 信濃なる千曲の川の細石も |
| 君し踏みてば玉と拾わむ |
| (万葉集) |
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| 街道を行くと、畑の中に江戸初期に造られたと言う |
| 御馬寄の大日像がありました。 |
| 素直な優しさの滲む表情の石仏でした。 |
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| 【八幡宿(24次)】 |
| 竹藪の背後には浅間山が聳えていて、 |
| その右背後に見えるのは確氷峠です。 |
| 川岸には杭が何本も打ち込まれて |
| 岸辺が洗い流されるのを防いでいます。 |
| 橋を渡って宿場へ辿り着こうとしている老いた旅人は |
| 休憩用の茣蓙を背負っています。 |
| 手拭を被り、鍬を担いだ農夫・竹籠を背負った子供が |
| 家路を辿っています。 |
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| 八幡宿の入口に八幡神社がありました。 |
| 宿名の由来となった歴史ある古社で、 |
| 旧本殿の高良社をはじめ、本殿、拝殿、端籬門 |
| 随身門があり、重要文化財に指定されています。 |
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| 本陣には皇女和宮が宿泊、 |
| 本陣門が往時の姿を残しています。 |
| 錦の小物等々の記念品が保管されていました。 |
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| 望月宿への街道筋に |
| 大きな村おこし道祖神のモニュメントがありました。 |
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| 更に中山道を進み、 |
| 瓜生坂を越して坂を下ると望月宿です。 |
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| 【望月宿(25次)】 |
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| この画は瓜生坂を描いた事になっていますが、 |
| ここには松並木が有りません。 |
| どうやら広重は次ぎの宿場、芦田宿の笠取峠の松並木を |
| 借りてきて描いたのではないかと思われます。 |
| 2頭の馬が描かれていて、1頭は茶箱を、 |
| 他の一頭に油の樽を積み1人の馬子が引いています。 |
| 坂の途中で老人の旅人が樹間を通して |
| 満月を見ながら休んでいます。 |
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| 瓜生坂を越すと望月宿です。 |
| 再建された本陣は歴史民俗資料館になっていました。 |
| 奈良時代末期、朝廷に献上する料馬を育てていて、 |
| 名馬・月毛の駒を産し、『望月の駒』 を持つ事が |
| 王朝人の憧れだったそうです。8月の満月に朝廷へ |
| 名馬を納めたのが宿名になった とありました。 |
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| 逢坂の関の清水に影見えて |
| いまや牽くらむ望月の駒 |
| (紀貫之) |
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| 望月宿の外れに大伴神社がありました。 |
| 毎年8月15日に行われる江戸時代以前から続く |
| 伝統的な火祭りで、豊作と無病息災を祈願し、 |
| 燃え盛る松明を次々に鹿曲川に投げ込む |
| 『榊祭り』 は奇祭として知られているそうです。 |
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| 車の擦れ違いに苦労しながら街道を進むと |
| 間の宿、茂田井に出ます。 |
| 茂田井は信州の酒処です。 |
| 白壁の土蔵が続く細い坂道が続きます。 |
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| 酒を愛した歌人若山牧水は幾度かこの地を訪れ、 |
| 土地のうま酒に酔いしれたそうです。 |
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| 白珠の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり |
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| わか竹の伸びゆくごとく子どもらよ 真すぐのばせ身をもたましひを |
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| ひとの世に楽しみ多し然れども 酒なしにしてなにのたのしみ |
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| 【芦田宿(26次)】 |
| 中山道最大規模の笠取峠の松並木を描いたものですが |
| 画を良く見ると松では無く杉が描かれています。 |
| 広重の洒落と思われます。 |
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| 中山道沿いの立科町役場の前が芦田宿です。 |
| 芦田宿本陣は,土屋家住宅として保存され、 |
| 1800年に作られた本陣内の客殿は |
| 中山道で一番古い建物との事でした。 |
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| 国道142号線の脇に |
| 中山道で最大の笠取峠松並木が保存されていました。 |
| 慶長7年(1602年)徳川幕府が小諸藩に |
| 赤松753本を渡して、芦田宿はづれから頂上まで、 |
| 風よけ、日除けのために、植えさせたそうです。 |
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| やがて中山道は笠取峠になります。 |
| 峠を吹き抜ける微風が心地良いので昼食としました。 |
| 今日の昼食は焼き餅です。切り餅を焼き、 |
| 海苔を巻いて6個も食べてしまいました。 |
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| 【長久保宿(27次)】 |
| 長久保宿を過ぎ依田川に架かる落合橋を渡り、 |
| これから渡る和田橋を描いています。 |
| 手前の街道だけが月に照らされて明るく |
| その他は影絵風に描かれています。 |
| 橋上には疲れて首を前に垂れた旅人を乗せた馬と |
| 腰の曲がった馬子、荷物を天秤で運ぶ濃夫が |
| 急いでいます。 |
| 手前の街道を帰り馬を引いて馬子が美しい月に |
| 見とれながら歩いている情景が描かれています。 |
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≪長久保≫ |
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| 峠を一気に下ると、街道沿いに松尾神社がありました。 |
| 本殿は諏訪の宮大工の建築で、総欅高床造りで、 |
| 欄間に見事な彫刻がありました。 |
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| 峠を下り切ると、そこは長久保宿でした。 |
| 本陣(石合家)は,江戸時代を通じて本陣をつとめ, |
| 大名や公家が宿泊した御殿の間などが保存 され、 |
| 四代・石合十蔵道定のもとには,「大阪の陣」で名を馳せた |
| 真田信繁(幸村)の娘が嫁いでいるとありました。 |
| この本陣は未公開で見学が出来ませんでした。 |
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| 宿場の追分です。 |
| 左が上田道、右が和田宿への中山道です。 |
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| 中山道左手に三千僧接待碑と色々な石碑がありました。 |
| 此処を通った僧侶に食事で接待したとの事、 |
| 1000人の予定が3000人になってしまい、 |
| 石碑を一から三に書き換えたそうです。 |
| その位通行人が多かったそうです。 |
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| 【和田宿(28次)】 |
| 中山道中最大の難所と言われた標高1600メートルの |
| 和田峠の雪景色です。 |
| 実際にはこれ程急峻な山ではありません。 |
| 旅人達の峠越えは難渋を極めたそうで、 |
| その思いを描いたものと思います。 |
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| 和田宿の手前で国道142号線に別れて |
| 中山道に入ると和田八幡宮がありました。 |
| 茅葺屋根の珍しい本殿でした。 |
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| 宿場に入ると直ぐに本陣がありました。 |
| 和宮降嫁の時、幕府の助成金で再建され |
| その後村役場として使われて来たそうです。 |
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| 近くに江戸時代は旅籠だったと言う河内屋が |
| ≪中山道歴史の道資料館≫ になっていました。 |
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| 中山道から離れてビーナスラインを目指す事にしました。 |
| 宿場の外れに信定寺がありました。 |
| 武田信玄が信濃を攻めた時、城主大井信定が討ち死、 |
| その菩提を弔うため建立され、徳川時代に例幣使日光 |
| 参詣のさい和田宿に泊った際、京都二条城祈願寺となり、 |
| 諸大名が参詣するようになったそうです。 |
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| 急カーブの連続で美ヶ原落合でビーナスラインに合流、以前はやたら料金徴収がありましたが |
| 有料道路が廃止され快適なドライブで扉峠を経由して和田峠に到着しました。 |
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| ここからは徒歩で中山道の和田古峠を往復する事にしました。往復約2km、1時間半の行程です。 |
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| ビーナスラインを3度横切って頂上を目指します。 |
| 山道は峠頂上手前で広くなり、空が大きく開けました。 |
| 頂上には馬頭観世音碑・中山道の道標、 |
| 古峠の説明板などがあり、 |
| 眼下にはこれから行く、諏訪の市街地が見えました。 |
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| 【下諏訪宿(29次)】 |
| 国道142号線まで下り、和田峠をトンネルで通過すると、 |
| 右手に浪人塚がありました。 |
| 1864年、尊王攘夷嘆願のため京に向かう水戸浪士と、 |
| これを阻止せよとの幕命を受けた高島、松本両藩の藩士 |
| とが戦い、戦死した水戸浪士を祀った とありました。 |
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| 更に中山道を下ると |
| 七年毎の御柱祭りの見せ場、木落とし坂に出ました。 |
| 斜度40度、約100mの急坂です。 |
| 御柱に命知らずの若衆が乗って坂を滑りおります。 |
| 加速の付いた御柱から振り落とされる人、 |
| 跳び乗ろうと群がる人、人、人、 |
| 見ている全ての人達が興奮する奇祭です。 |
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| 下諏訪宿で中山道は甲州街道と合流します。 |
| 和田峠と塩尻峠の中間で温泉があり、 |
| 商人や旅人達で非常に賑わっていたそうです。 |
| 広重は旅篭屋の内部を絵にしています。 |
| 湯殿では1人の客が五右衛門風呂に浸り、 |
| すでに風呂を済ませ手拭を掛竿に掛けた |
| 旅人六人が下女の給仕で夕飯をとっています。 |
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≪下諏訪≫ |
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| 峠を下ると、諏訪大社春宮にでます。 |
| 祭神は2月から7月まで春宮に、8/1の御舟祭で |
| 秋宮に遷座し翌2/1に春宮に帰座されるそうです。 |
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| 春宮と街道を挟んで左手に慈雲寺がありました。 |
| 春宮の鬼門除けに建てられたそうです。 |
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| 春宮の鳥居を過ぎ、川沿いの公園の奥に |
| 万治の石仏がありました。 |
| 大きな自然石に仏頭を乗せた石仏です。 |
| この石仏には伝説があります。 |
| 明暦3年(1657)の下社(春宮)の改修工事の際 |
| 神社の大鳥居を作ることになり、 |
| その裏手の水田の中に居座る巨大な石を |
| 掘り起こし、石材として使おうとしました。 |
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| 石工がその巨石にノミを打ち込んだとたん、一筋の血が流れ出したそうです。 |
| 恐れをなした石工は仕事をやめそのまま逃げ帰ります。その夜、石工の夢枕に諏訪明神が立って、 |
| 石材として適当な石が他にあることを告げた。お告げがあった石を使い無事に鳥居が完成した後 |
| 石工は仏頭を刻んで巨石の上に乗せ、手厚く供養したそうです。これが万治の石仏との事です。 |
| 実際良く見ると巨石にはノミの切傷がありました。 |
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| 中山道を進むと、やがて下諏訪宿です。 |
| 中山道で唯一温泉の湧く宿場であり、甲州街道の |
| 終着でもあり、多くの旅人で賑わっていたそうです。 |
| 宿場には諏訪大社の秋宮がありました。 |
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| 秋宮の近くに問屋場跡がありました。 |
| ここで甲州街道と中山道が合流します。 |
| 現在は駐車場になっていました。 |
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| 駐車場の隣が下諏訪宿本陣です。中山道随一の京風庭園と数寄屋造りの客殿があるとの事、 |
| 早速見学、納得でした。 |
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| 本陣の隣の隣が江戸時代から続く、 |
| 和泉式部ゆかりの共同浴場、遊泉ハウス児湯です。 |
| 早速一汗流す事にしまいた。 |
| ¥220なり、豊富な湯量にびっくりでした。 |
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| 【塩尻宿(30次)】 |

≪塩尻嶺諏訪ノ湖水眺望≫ |
| 下諏訪を出て、塩尻峠へ登る坂道を少し行くと、 |
| 諏訪湖越しに、八ヶ岳連峰と富士山を望む事が出来ます。 |
| 凍結した諏訪湖の湖面に見えるひびは 『御神渡』 です。 |
| 塩尻峠へ向かう坂道では、荷物とともに馬に乗った旅人と |
| 馬子が素晴らしい景色にみとれています。 |
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| 諏訪大社秋宮から中山道は国道20号線になります。 |
| 街道は岡谷ICを経て、塩尻峠に到着です。 |
| 峠には歩道橋があり、塩尻方面に向かう駐車場が無く、 |
| 仕方ないのでUターンして再度挑戦です。 |
| 歩道橋を渡った所に展望台がありました。 |
| 英泉の画と同じ場所からの風景です。 |
| 富士山が見えなかったのが残念でした。 |
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| 本陣の前の道路、142号線が中山道です。 |
| 集落の外れにある立派な門構えの元茶屋本陣で、 |
| 塩尻峠越えの休み場所として賑わったそうです。 |
| ここより登り坂となり塩尻峠に向かいます。 |
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| 峠でラーメン・ライスの夕食を取り、 |
| 塩尻峠を下ると、道の駅、小坂田公園に出ました。 |
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| 5日目はここで車中泊です。 |
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| 公園近くに首塚がありました。 |
| この辺りは武田信玄が信濃平定の足掛かりとなった |
| 塩尻峠の合戦跡です。 |
| 武田軍がここで首実検をした後、放置された遺体を |
| 村人が埋葬したそうです。 |
| 小笠原長時の諏訪侵攻に触発され各地で反武田の |
| 勢力が蜂起、小笠原長時は中信への進入口にあたる |
| 塩尻峠を守るべくその頂きに布陣した。 |
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| 諏訪大社で戦勝祈願した武田軍はその夜のうちに下諏訪まで進軍、夜明けと同時に塩尻峠の小笠原軍へ |
| 総攻撃を開始、寝込みを襲われ小笠原軍は為すすべも無く敗れ、多数の死傷者をだした。 とありました。 |
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