
東海道起点 『朝之景』 |
⇒ 第1宿 品川まで 7.8 km |
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| 東海道53次の基点で |
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| 江戸⇒京都約500kmはここから始まります。 |
| 『お江戸日本橋七つ立ち』 現在では午前4時です。 |
| 千葉県在住、PCでの知人から見送りに行くとの |
| 申し入れがありましたが、早朝なので気持だけを戴き |
| 2002年7月17日午前4時出発しました。 |
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| 日本橋は400年後の現在、上を高速道路が走り当時の面影は何も残ってはいません。 |
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銀座と言う地名は全国の繁華街や人で賑わう場所として |
| 用いられていますが、当初はこの地名では無く、 |
| 駿府の銀貨鋳造役所が移転して来た事により、 |
| 両替商が多数集まり両替町と呼ばれていそうです。 |
| 明治時代になると銀貨の鋳造・鑑定・封印等が |
| 廃止となり、それまで通称であった【銀座】に |
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| 改名されたそうです。柳の街路樹は関東大震災後切られてしまったとの事、一筋入ると柳が植えられていました。 |
| 西条八十と中山晋平が往時の並木道を懐かしんで作った『昔恋しい銀座の柳〜』に成長するのは何時になるであろうか? |
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| 増上寺は家康後、将軍家の菩提寺です。 |
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| 秀忠・家宣・家継・家重・家慶・家茂が埋葬されています。 |
| 旧東海道を暫く進むと石垣とこんもりとした盛り土 |
| があります。是が高輪大木戸跡です。 |
| 江戸市中への出入り口であったそうです。 |
| 『高輪夜明けてちょうちん消す、こちゃえ、こちゃえ』 |
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| この辺りで大名行列も夜が明けて、ちょうちんの火を消した様です。 |
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高輪大木戸を過ぎると近くに泉岳寺があります。 |
| ここには仇討を果たした大石内蔵助を始め義士達に |
| 囲まれた浅野内匠頭の墓があります。 |
| 47義士と言われていますが、実際には48の墓があります。 |
| 父親に反対され仇討に参加出来ず、自害した |
| 萱野三平の墓とも言われていますし、 |
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| 仇討後、内蔵介の命で遺族達に顛末の報告して廻り、後に江戸に帰り自首したものの釈放された |
| 寺坂吉右衛門の墓との説もあり定かではありません。映画では雪の降り積った街道を吉良上野介の首を抱えて |
| 主君浅野内匠頭の墓のある泉岳寺へ向かう場面がありますが、吉良邸のある本所からここ泉岳寺へは |
| 大変遠く、昔の人達は健脚だったんだなあ! とつくづく思いました。 |
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日本橋から 7.8 km
⇒ 第2宿 川崎まで 9.8 km |

第1宿 品川 『日之出』 |
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第1宿の品川宿は目と鼻の先で、正月の箱根駅伝に |
| 登場する八ツ山橋は品川宿の入り口です。 |
| 遥か遠くまで埋め立てられ海は見えません。 |
| 現在、マンションやオフィスビルで昔の面影は全くありません。 |
| 江戸へ入る大名行列はここで休憩して、 |
| 身支度を整えたと言われています。 |
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| 江戸時代の旅は命懸けで、親類・縁者達はここまで送迎に来て、どんちゃん騒ぎをしていた様で、 |
| 品川の遊郭は吉原同様繁盛していたと言われています。 |
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| 一筋奥の京浜急行沿いの裏通りが旧東海道です。 |
| 宿場の面影は消え、細長い商店街となっています。 |
| 当時はこのすぐ傍から海岸であったとの事、 |
| この商店街に有名な問答河岸の碑がありました。 |
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近くに東海寺があり、沢庵漬を作った沢庵和尚を |
| 住職として招く為に家光が建立したと言われています。 |
| 或時家光が東海寺を尋ね、 |
| 和尚がここまで見送りに来た時 |
| 家光 『海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に』 |
| 和尚 『大軍を率いて将(小)軍と言うが如し』 |
| と返したそうです。 |
| 有名な問答です。 |
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| 街道を進むと涙橋に出ます。 処刑される罪人は |
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| 裸馬に乗せられ江戸市中から護送されます。 |
| 親族達が密かに見送りに来てこの橋で共に涙を |
| 流しながら別れたそうです。 |
| いつしか涙橋と呼ばれる様になったとの事です。 |
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事前調査によると、 |
| 処刑は見せしめ的、威嚇的効果を狙っていて、 |
| 処刑後晒された死体や首が夜には野犬が群がり |
| 大変恐ろしい場所であったそうです。 |
| スケジュールの都合で早朝にここを通過する。 |
| どうも気乗りがしなっかったが、行って見ると |
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| 直ぐ傍まで住宅が建て込み、町中の児童公園と言う感じで早朝散歩をしている人にも会いほっとしました。 |
| 八百屋お七が火焙りの刑にされた様に犯した罪の方法で、刑が決まると直ちに処刑されたそうです。 |
| 代表的な罪人として丸橋忠弥・八百屋お七・白井権八・鼠小僧らが処刑されています。 |
| 家光死後の混乱期に由比正雪と倒幕計画を立てた宝蔵院流の槍の使い手、 |
| 丸橋忠弥は母親・女房・子供等総勢25人が処刑されたと記されています。 |
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| 街道の磐井神社にはこんこんと湧き出す霊水があり、 |
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| 旅人の喉を潤したそうです。 |
| この霊水には心の正しい者が飲めば清水となり、 |
| 心の邪な者が飲めば塩水になると言う伝説があります。 |
| 因みに飲んで見たところ、普通の水でした。 |
| どうやら小生は大丈夫の様です。 |
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街道を進むと右手に梅屋敷公園があります。 |
| 旅人の常備薬『和中散』を販売していた山本家が |
| 屋敷内に多くの梅を植え、茶屋を開いたのが始まりで、 |
| 家康も鷹狩の際、立ち寄っていたと言われています。 |
| この『和中散』の名付け親は家康で、実際に腹痛が治り |
| 喜んで命名したと伝えられています。 |
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| この和中散の製造元は草津宿の近くにあり、販売していた山本家は今風に言えば代理店です。 |
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日本橋から 17.6 km
⇒ 第3宿 神奈川まで 9.8 km |

第2宿 川崎 『六郷渡船』 |
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広重の絵は川崎宿へ向かう渡し舟です。 |
| 川を渡れば弥次さん・喜多さんも食べた名物奈良茶飯の |
| 万年屋があったそうです。 |
| 『お江戸日本橋』の2番の歌詞に出て来ます。 |
| 六郷渡れば川崎の万年屋・・・ |
| 鶴と亀との、よねまんじゅう、コチャ |
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| 神奈川急いで保土ヶ谷へ、コチャエ、コチャエ・・・ 万年屋は跡地に説明板があるだけでした。 |
| 六郷大橋は度々洪水で流され、架け替えや補修が頻繁に行われていて、負担は大変であったと言われています。 |
| 1688年の大洪水で流失後は渡し船になったとの事、今では橋の欄干に昔を偲ぶ渡し舟があるだけでした。 |
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| 街道を外れて暫く行くと、川崎大師です。 |
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| 川崎大師は通称で真言宗金剛山金乗院平間寺と言われ、 |
| 漁民の網に弘法大師像かかり、 |
| 1127年平間兼乗が夢のお告げで、 |
| この像を得て寺を建立したのが始まりで、 |
| 平間氏にちなんで平間寺と呼ばれているそうです。 |
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| 当時から厄年の難を除くと信じられていて、江戸から近く、交通の便も良いので、 |
| 旅行を兼ねての参詣者は多かったそうです。現在でも全国ベスト3に入る指折りの参詣者で賑わっています。 |
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英国商人、リチャードソン他3名は馬で川崎大師見物に |
| 行く途中、島津久光の大名行列の前を横切り、 |
| 藩士に無礼討ちにされ、リチャードソンは死亡、他は |
| 重傷を負ってしまったと言う事件です。 |
| 英国の逆襲を恐れて、久光一行は次の神奈川泊まりを |
| 変更して保土谷泊まりとし、本陣を避けて別の旅館に |
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| 泊まったそうです。幕府は10万ポンド、分割払いの賠償金で合意しましたが、2万5千ポンドの賠償金に合意しなかった |
| 薩摩とは戦争になってしまい、最終的には薩摩は幕府から借金して賠償金を払い落着しました。その後リチャードソンを |
| 斬った藩士は県知事の要職に着き、一方怪我を負った三名は横浜で暮らして、日本の近代化に尽力して現在は |
| 横浜の外人墓地に永眠しているそうです。習慣の違いから起きた事件でその後の関係者を知り何だか嬉しくなりました。 |
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日本橋から 27.4 km
⇒ 第4宿 保土ヶ谷まで 4.9 km |

第3宿 神奈川 『台之景』 |
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この道が広重の描いた街道です。 |
| よく見ると、広重の絵にはさくらやと言う看板があります。 |
| 文久3年に田中屋がさくらやを買取って |
| 旅篭を創業したとの事、現在は高台の住宅地で |
| マンションが連なっています。海岸は遥か遠いが |
| 田中屋の下には高い段差があり、絵の様に |
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| 海であったと頷けます。幕末の安政元年〔1854年)神奈川沖に碇泊する黒船見物の人々で連日賑わったそうです。 |
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| 街道を少し戻り、京浜急行神奈川駅前の |
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| 青木橋を渡ると高台に本覚寺があります。 |
| 開港時にアメリカ領事館になった寺です。 |
| 公使ハリスの命で、庭の松は切られ、 |
| 山門は白いペンキで塗られたとの事。 |
| 今でもペンキの跡が僅かに残っています。 |
| 当時の文化の違いは凄かったなあ!・・・と |
| つくづく思いました。 |
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第4宿 保土ヶ谷 『新町橋』 |
日本橋から 32.3 km
⇒ 第5宿 戸塚まで 8.8 km |
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| この橋を渡ると保土谷宿です。昔の面影は何も無く、 |
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| 天王町駅前商店街になっていて、今にも留め女が出て |
| 来そうな雰囲気です。この先にあの権太坂があります。 |
| 慶安元年(1648年)通行量の増加により、 |
| 旧道の東側に新道が造られ、 |
| 旧道と新道の2ルートがあったと記されています。 |
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| 丁度第1日めの宿泊地となる保土ヶ谷宿にはしつっこい留め女が沢山いたそうです。 |
| 東海道中膝栗毛でも旅人に群がる留め女を弥次さん・喜多さんが面白がって見ています。 |
| 旅人 『これ手がもげらあ!・・・』 留め女 『手がもげてもよう御座います、お泊りなさいませ』 |
| 旅人 『手がなくちゃあ、おまんまが食えねえ』 留め女 『おまんまあがらねえ方が、こっちは楽でいいさ』 |
| 弥次さん・喜多さんは笑いながら次の戸塚の宿まで急ぎます。小生もこんな光景を思いつつ通過しました。 |
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保土ヶ谷宿を通り抜け暫く行くと、権太坂にさしかかります。 |
| 箱根駅伝に出て来る権太坂は国道1号線です。 |
| 旧東海道の権太坂は国道より更に激しい登り坂で、 |
| 住宅街の中を約1.5kmも登ります。 |
| この坂で行き倒れになる旅人も多かったそうです。 |
| 上りきった所に投込塚跡があります。 |
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| 権太坂で行き倒れた人を埋めたとの事、近年土地造成で多数の人骨が発見されたそうです。 |
| 当時の旅はその位命掛けであった様です。 或時旅人が老人に坂の名前を尋ねところ、 |
| 自分の名前を聞かれたと勘違いして『権太』と答えたのが始まりと言われています。 |
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| 投込塚跡近くに境木地蔵があります。 |
| ここが武蔵の国と相模の国の国境です。 |
| この先は木立の中の下り坂で戸塚宿へと向います。 |
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第5宿 戸塚 『元町別道』 |
日本橋から 41.1 km
⇒ 第6宿 藤沢まで 7.8 km |
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| こめやの前の橋のたもとに『左かまくら道』の道標があり、作者広重は『元町別道』と名付けています。 |
| 江戸を発った旅人が最初に泊まったと言う宿場です。江戸から約40km当時の旅人の健脚は凄い。 |
| 全く当時の面影は無く、橋の欄干には広重の絵があり、街灯は大名行列の様であり、 |
| 案内板だけが広重の描いた茶店の場所である事を示しいました。 |
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| 当時人気の赤穂浪士を参考に書き下ろされたのが |
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| 歌舞伎や人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』です。 |
| 主君塩冶判官が刃傷騒ぎを起こした時、 |
| 家臣、早野勘平は腰元お軽と逢引をしていました。 |
| お家の一大事に間に合わなかった我が身を恥じて |
| 切腹しようとするが、お軽の説得で思い留まり、 |
| お軽の両親の住む京都へ落ち延びて行くと言う |
| 名場面です。 |
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第6宿 藤沢 『遊行寺』 |
日本橋から 48.9 km
⇒ 第7宿 平塚まで 13.7 km |
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| 現在鳥居は無いが,、前方の森が遊行寺です。 |
| 方角から考えると広重はこの地点から描いています。 |
| 遊行寺が山の中腹に書かれているが |
| これは広重の誇張描写と思われます。 |
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| 時宗の総本山で、小栗判官と照手姫の墓があります。 |
| 鎌倉の足利持氏との戦いに敗れ逃走生活、 |
| 遊女の照手姫や太空上人の助けを借りて家名を |
| 再興すると言う話は歌舞伎で創作されています。 |
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| 奥州平泉で敗死した義経が首実検後 |
湘南海岸の片瀬の浜に捨てられ,
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| 境川を遡って流れ着き |
| この神社に埋められたと言われています。 |
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この井戸は白旗神社から300m程離れた |
| 街道沿いの場所にあり、義経の首を |
| 里人が洗い清めたと記されていました。 |
| この伝説には続きがあり、相模川に橋が |
| 架けられた折、その落成供養に参列した頼朝は |
| 帰途この付近で義経一行の亡霊が現れ、 |
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| 驚いて落馬し、その怪我が元で翌年死亡したと言われています。本当かな?・・・ |
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| 平塚駅前の公園の片隅にお菊塚があります。 |
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| 奉公先の主人、旗本青山主膳の家宝の皿を割って |
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| 折檻され井戸に飛び込んで自殺した女中が夜な夜な |
| 皿を数えると言う。 1まーい・・・ 2まーい・・・ |
| これは物語で、真壁源右衛門の娘、 |
| 真壁菊は江戸の旗本屋敷に上がり奉公していました。 |
| 大変気立ての良い娘であった様です。 |
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| 奉公先の中間がお菊に言い寄ったが相手にされず、逆恨みしてある事無い事を告げ口して、 |
| 家宝の皿を割りお菊のせいにし、主人に斬られてしまったと言う。これがモデルとなって |
| 脚色され、怪談番町皿屋敷になったそうです。本当にあった怖ーいお話です。 |
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第7宿 平塚 『縄手道』 |
日本橋から 62.6 km
⇒ 第8宿 大磯まで 2.9 km |
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| 高麗山(170m)の独特の姿は今でも変わっていません。 |
| きっと当時の旅人はこの山を目印に歩いたと思う。 |
| 高句麗の王族、高麗若光が移り住んでいたと言う |
| 伝説があります。 |
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第8宿 大磯 虎ヶ雨 |
日本橋から 65.5 km
⇒ 第9宿 小田原まで 15.6 km |
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| 緑の松並木は旧街道らしい雰囲気があります。 |
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| 広重は曽我兄弟の仇討『曽我物語』で兄十郎の |
| 恋人として登場する遊女、虎御前の涙を思い |
| 雨の大磯を描いたとの事。現在住宅が邪魔して |
| 海は見えないが何処か似ていると思います。 |
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| 化粧坂の上り口に虎御前が何時も化粧に使用していたと言う井戸が今でも残っています。 |
| 鎌倉時代、化粧坂は御家人達の遊興地でかなり賑わっていたそうで、化粧坂の白拍子である |
| 虎御前は兄十郎の愛人であった。曽我十郎・五郎兄弟は富士裾野の狩場で父の仇、工藤祐経を討ち、 |
| 同時に兄弟とも命を落としてしまう。兄弟亡き後、19歳で尼となり菩提を弔って諸国を巡ったと言われています。 |
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『こころなき身にも、あわれは知られけり、 |
| 鴫立沢の秋の夕暮れ』 |
| これは西行がこの地で詠んだとの事、 |
| 京都の落柿舎・大津の無名庵と |
| 並ぶ日本三大俳諧道場といわれています。 |
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| 島崎藤村が72歳で永眠するまでの晩年2年間を過ごした家です。 |
| 地福寺には実に質素な藤村の墓と隣には一回り小さな妻静子の墓がありました。 |
| 昭和18年の葬儀の参列者は少なく寂しいものであったそうです。 |
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日本橋から 81.1 km
⇒ 第10宿 箱根まで 16.5 km |

第9宿 小田原 『酒匂川』 |
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| ここからの箱根山はなだらかな稜線が続いています。 |
| 広重は同じ場所から見て描いているが |
| 険しい箱根山を表現したものと思います。 |
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| 江戸を発って始めての城下町です。 |
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| 大森氏が本拠としたのが始まりです。 |
| 秀吉の来攻に備えて築造して戦国時代屈指の要塞に |
| したが15万の大軍の前に3ヶ月の篭城の末落城しました。 |
| 以来関東の入り口を押さえる城として重要視 |
| されていたそうです。 |
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小田原城の隣に二宮尊徳(金次郎)が |
| 奉られている報徳二宮神社があります。 |
| 昔、何処の小学校にも薪を背負い本を読んでいる |
| 銅像がありました。江戸初期に小田原に生まれ、 |
| 酒匂川の氾濫で全てを失い、どん底から努力を |
| 重ねて立ち直り、小田原藩主の大久保忠真に認められ、 |
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| 富国安民の思想を説き、農村復興運動や藩財政の立て直しに手腕を発揮したそうです。 |
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| 閑静な住宅街に小田原文学館があります。北村透谷・ |
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| 北原白秋・谷崎潤一郎・三好達治・尾崎一雄等が |
| 住んでいたそうです。谷崎潤一郎は大正8年12月に |
| 西海子小路に移り住んだとの事、そこへ佐藤春夫が |
| しばしば訪ねて来る。谷崎には千代夫人がいたが、 |
| 夫人の妹(『痴人の愛』のモデル)との関係が元で、 |
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| 夫婦関係が不仲になり、これに同情した佐藤が夫人に心を寄せる様になる。夫人と谷崎が離婚して |
| 佐藤と再婚した事で解決したが、夫人譲渡に関する三者連署の書状が出て話題となったのは有名です。 |
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| 愈々箱根八里(小田原⇒三島)です。小田原⇒箱根峠を東坂、箱根峠⇒三島を西坂と呼ばれていたそうです。 |
| 早川の三枚橋を渡り、箱根新道を進むと北条早雲が晩年に好んで訪れたと言う早雲寺があります。 |
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| 北条早雲の遺言により、子の氏綱が建立した禅寺です。境内には北条氏五代の墓が並んでいます。 |
| 秀吉は小田原城が強固で中々落城しないのに腹を立て焼き払らってしまい、その後再建されたそうです。 |
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| 旅の疲れも出始めたので奥湯元で1泊、明日は早朝出発して箱根旧街道を歩く事にしました。 |
| 風景は露天風呂からの光景で、微風が心地よく顔に当たり、実に気分爽快でした。 |
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| 翌早朝6時、おにぎりの弁当を頼み、車を旅館に |
| 預けて出発しました。 |
| 約30分で曽我兄弟ゆかりの正眼寺に到着、 |
| 兄弟の供養塔にお参りする。 |
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| ここから旧街道の石畳が続き、1時間程上がると歌舞伎で有名な初花・勝五郎の『初花の滝』があります。 |
| 夫の仇討の為に初花が死んで亡霊となって滝に打たれる名場面です。この歌舞伎は実話に基づいて |
| 書き下ろされたそうで近くの鎖雲寺には並んだ二人の墓がありました。 |
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| ここから更に坂道が続き、関東大震災で崩壊して通行不能になっている女性が落馬して死んでしまったと言う |
| 『女転坂』を横目に通過して、曽我五郎が刀で石を断ち割ったと言う『割石坂』から『大沢坂』の石畳を過ぎて |
| 10時頃寄木細工で有名な畑宿に到着しました。 |
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| 畑宿の寄木細工の技法は江戸後期に静岡から持ち帰ったのが始まりとの事です。 |
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| 畑宿から甘酒茶屋までが『箱根八里』に唄われた天下の険です。 |
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| 一歩間違えば千尋の谷に落ちると言われた西海子坂、唱歌 『箱根ハ里』 の羊腸の小径と唄われ |
| 急な七曲がりが続き、ドングリ程の涙を溢した檀木坂、更に猿も滑ったと言う猿滑坂を登り、 |
| くねくねと1km程続く緩い坂の追込坂を登り、やっとの思いで甘酒茶屋に到着しました。 |
| 羊腸の小径とは羊の腸の様にくねくねと曲がりくねった小道である事を始めて実感しました。 |
| 石畳の道は見た目と異なり、実に歩き難く、実際転んで死ぬ人もしばしばあったそうです。 |
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| この茶屋は江戸初期からの創業で |
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| 今でも甘酒と力餅を売っています。 |
| 『東海道中膝栗毛』でも弥次さん・喜多さんは |
| ここの甘酒を飲んでいるので、 |
| 小生も一杯戴く事にしました。 |
| 疲れた体にとって、この甘酒は実に美味かったです。 |
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| 又赤穂47士の大高源吾が討ち入りに向かう途中ここで馬子に絡まれ、 |
| じっと堪えて詫状を書いて謝ったと言う。映画忠臣蔵の名場面でもあります。 |
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| 茶屋の隣には街道資料館があり、 |
| 当時の旅人の携帯品や籠等々が展示されていました。 |
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| 甘酒茶屋の裏から石畳道に入り、お玉坂⇒白水坂ときつい登り坂が続き |
| 箱根馬子唄歌碑に出ます。ここから下りとなり芦ノ湖と富士山が見える様になります。 |
| ここから甘酒茶屋まで引き返してバスで旅館まで戻ったのが3時頃でした。 |
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| 箱根新道沿いにお玉ヶ池があります。 |
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| 故郷が恋しくて、お玉は奉公先から帰ろうとしていたが |
| 手形が無い為、夜陰に紛れて関所を避けて |
| 山越えをしようとして捕まり、獄門に掛けられたそうです。 |
| お玉の首を洗ったので何時しかお玉ヶ池と |
| 呼ばれる様になったとの事です。 |
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| 風雪に耐えて来た杉並木の中に身を置くと、 |
| 当時の旅人が見えて来ます。 |
| 突き当たりの曲がり角から弥次さん・喜多さんが |
| 旅姿で出て来る様な気がするから不思議です。 |
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| 当時関所破りは非常な重罪であった様です。 |
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| 『入り鉄砲に出女』即ち銃器の江戸への持ち込みと |
| 西国大名子女の江戸脱出防止が任務であったとの事、 |
| 通過には身分証である往来手形が必要で |
| 事前の申請印と手形印が不一致だと |
| 通行が許可されなかったそうです。 |
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第10宿 箱根 『湖水図』 |
日本橋から 97.6 km
⇒ 第11宿 三島まで 14.8 km |
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| 広重の絵は芦ノ湖・富士山の位置から判断して、 |
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| 箱根峠(846m)からの景観と思われます。 |
| ここからはずーっと左に富士山が見えます。 |
| 急峻な山肌は何処にも見当たらない。 |
| 広重は辛かった箱根の山道を思い出して、 |
| 天下の険を描いたのでは? と思います。 |
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| 箱根峠を越えると下りの箱根西坂です。 |
| 東坂に比べて日当たりが良く、 |
| 時々富士山の眺望が出来る様になります。 |
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| およそ1km続く松並木は素晴らしい景観で |
| 富士山が大きく見えて来ます。 |
| 最後の愛宕坂を下ると三島宿です。 |
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第11宿 三島 『朝霧』 |
日本橋から 112.4 km
⇒ 第12宿 沼津まで 5.9 km |
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| 灯篭が鳥居の内側にある位で当時の情景が残っています。 |
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| 樹齢400年の天然記念物の金木犀が見事でした。 |
| 過酷な箱根越えから気持の緩んだ旅人目当ての |
| 遊女が多かったそうです。 |
| 弥次さん、喜多さんは道中十吉と言う旅人と懇意になり、 |
| 子供達が遊んでいるスッポンを今夜鍋にしようと買い、 |
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| 日も暮れて来たので一緒に三島の宿に投宿します。弥次さん・喜多さんもすっかり気持が |
| 緩んで器量が十人並と言う飯盛り女(女郎)を呼ぶ。二枚折の小屏風で間を仕切る。 |
| 夜着をすっぽりかぶり暫く無言、いろいろあったがくだくだしいので略す。その夜もふけて |
| 行燈の油もつきて、何時の間にか真っ暗闇、すっかり忘れていたスッポンが這い出て |
| 弥次さんの指に噛み付いた。大騒ぎとなり、この隙に護摩の灰の十吉は弥次さんが |
| 布団の下に入れておいた胴巻きを持ってドロンしてしまう。膝栗毛の一節です。 |
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頼朝がこの三島大社で源氏再興を祈願して |
| 挙兵したと言われています。 |
| 厳粛で、重厚な造りの大社では歴史を感じます。 |
| この雰囲気は頼朝好みなんだなあ!と |
| 去年西国33箇所観音霊場の巡礼で訪ねた |
| 頼朝が寄進した京都善峯寺の山門を思い出しました。 |
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| 本陣の近くの三石神社境内に時の鐘があります。 |
| 江戸時代宿場の人達に木戸を開閉する |
| 明け六つと暮れ六つの時を知らせていたとの事です。 |
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この本陣では悲しい事件が起きています。 |
| 元禄が始まる1年前、明石藩主松平若狭守(25歳)の |
| 大名行列の共先を4歳の女の子が横切ってしまい、 |
| 泣いて許しを乞う子は本陣前に引き立てられ、 |
| 町中騒然たる中で切り捨てられてしまう。 |
| 人々はその死を悼み、お地蔵様を造り供養したそうです。 |
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| これが言成地蔵です。 |
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| 三島と言えば、ノーエ節で知られている。『富士の白雪やノーエ、三島女郎衆はノーエ』です。 |
| 至る所で雪解け水が湧き出しています。 |
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| 東洋一の涌き水で1日の水量は約100万トンと |
| 言われています。水面下の砂が舞い、清みきった水中の |
| 水草は可憐な花を咲かせています。 |
| 実に美しい光景です。 |
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富士川で平家軍に大勝した頼朝が黄瀬川の宿に |
| 陣取っていた。 |
| そこへ源氏旗揚げの報を受けて |
| 奥州から弟の義経が馳せ参じた。 |
| 八幡神社境内の裏手に頼朝と義経が |
| 座ったと言う伝説の大小2つの石があります。 |
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| 兄弟が涙の対面をした場所との事、義経22歳の時であったと言う。 |
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日本橋から 118.3 km
⇒ 第13宿 原まで 5.9 km |

第12宿 沼津 『黄昏図』 |
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| 遠くに見える橋が三園橋です。 |
| 日暮れ近くになり旅人が沼津宿に向って急いでいます。 |
| 過っての宿場は沼津市の中心街となり、 |
| ビルが立ち並び昔の面影は何一つありません。 |
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| 三園橋を渡り街道を進むと左手に乗運寺があります。その先に松林が続く、これが千本松原です。 |
| 戦国時代武田氏と北条氏の戦いで武田氏により松が伐採されてしまい長い間、住民は潮風による |
| 風害に苦しめられていたそうです。住民の困っている様子を見て増誉上人は1本ずづお経を唱えながら松を植え |
| 1000本の松を植える悲願を達成しました。人々は増誉上人に感謝して庵を建立、これが乗運寺の開祖となったそうです。 |
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| 山門を入り正面右側にこの千本松原をこよなく愛し、この地に没した若山牧水の墓があります。 |
| 牧水は住民と共に千本松原の保存に尽力したそうです。大磯にある藤村の墓とは雲泥の差であった。 |
| 両者の晩年の様子が見えて来る思いがしました。 |
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| 駿河湾沿いに千本松原が何処までも続いています。若山牧水もこの素晴らしい光景を見ていたと思う。 |
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| 六代とは平維盛の長男で、壇ノ浦の合戦後 |
| 京都の寺に隠れている所を捕えられ、鎌倉への |
| 護送途中の千本松原で処刑されそうになる。 |
| 以前より頼朝と知り合いの文覚上人の |
| 直接の助命嘆願で助けられる。 |
| 結局六代は鎌倉で処刑されてしまう。 |
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| 殺された六代の首を家臣が持ち帰り、ここに弔ったと言われています。これは『平家物語』に登場します。 |
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| 駿河には過ぎたるものが二つある、富士のお山と原の白隠と言われているとの事、 |
| 白隠は江戸中期の名僧で、或時岡山藩主の池田継政が立ち寄った際、備前焼のすり鉢が贈られ、 |
| 白隠は台風で折れた傷口に雨除けにすり鉢を乗せて遣った。年月が経ち松が大木になり、 |
| 昔からここを訪れた人々から落ちはしないかと心配されて来たそうですが、がっちり松脂で |
| くっ付いているそうで安全との事、因みにこのスリバチは二代目だそうです。 |
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この風景には言葉は不要です。 |
| 何と言ってもここでの景観は万葉集の山部赤人の |
| 名歌に尽きます。 |
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| 『 田子の浦ゆ |
| うち出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける 』 |
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日本橋から 124.2 km
⇒ 第14宿 吉原まで 11.7 km |

第13宿 原 『朝之富士』 |
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| 愛鷹山の麓に広がる浮島ヶ原から富士さんを望む。 |
| 光景は現在でも広重の絵にそっくりです。 |
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日本橋から 135.9 km
⇒ 第15宿 蒲原まで 11.1 km |

第14宿 吉原 『左富士』 |
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| 東海道は右手に富士、左手に海がずーっと続いて来る。 |
| ここでは一瞬道が北東へ向かう為、 |
| 左側に富士山が見える。 |
| 現在街道には松の老木が一本あるだけであった。 |
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| 1180年源氏軍と対峙し、富士川と浮島沼の間に |
| 陣取った平家の大軍は水鳥の羽ばたきに驚いて |
| 戦わずに退却したのは有名な話です。 |
| この時から平家滅亡が始まったのでは?街道を進み |
| 富士市を過ぎるとやがて富士川に突き当たります。 |
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富士川橋を渡った袂に岩淵の渡船場跡があります。 |
| 富士川は甲州方面との物資の流通を担う重要なルートで、 |
| 岩淵は船の発着場となり東海道の旅人を渡し、 |
| 船便では主に甲州からは年貢米が運ばれ、 |
| 又逆に甲州へは瀬戸内産や蒲原産の塩が |
| 運ばれて当時は大変活気があったそうです。 |
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| 富士川と平行に海に向って街道を進むと蒲原宿の手前に浄瑠璃姫の墓があります。 |
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| 義経は鞍馬の山を下りて奥州へ向う途中、 |
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| 三河の長者の娘浄瑠璃姫と恋に落ちた。 |
| その後義経はこの蒲原で病に倒れるが |
| 掛け付けた姫の看病で回復し、 |
| 義経は奥州へ、姫は故郷へと別れる。 |
| この時あの有名な名笛『薄墨』が渡されたそうです。 |
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| 姫は義経を慕って再び奥州へ旅立つが思い出の蒲原で倒れ其の侭世を去ってしまう。 |
| この悲恋物語を織田信長の前で節を付けて語られたのが浄瑠璃の始まりと言われています。 |
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第15宿 蒲原 『夜之雪』 |
日本橋から 147.0 km
⇒ 第16宿 由比まで 3.9 km
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| 蒲原 『夜の雪』 は広重の53次で一番の傑作と言われているが広重が書いたと言う場所から |
| 『蒲原夜の雪』 の景色は見えて来ない。蒲原は東海道で一番温暖な場所で雪は降らないと言われているし、 |
| 広重が蒲原宿を通ったのは夏であり、広重空想の絵と言われています。 |
| 蒲原宿の古い町並みが殆ど残っていないのが残念であった。 |
| 膝栗毛では蒲原宿で大名行列の宿泊に鉢合わせ、喜多さんはどさくさに紛れて本陣へ上がりこみ、 |
| ちゃっかり膳に有り付き、おまけに弥次さんへお土産まで持ちかえると書かれています。 |
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| 街道を進みやがて由比宿に入ると正雪紺屋があります。 |
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| 一節には由井正雪の生家と言われています。 |
| 由井正雪は軍学者で旗本・大名の家来・浪人等 |
| およそ3000人の弟子がいたそうです。 |
| 三代将軍家光没後の混乱期、慶安4年(1651年) |
| 同士の丸橋忠弥・金井半兵衛らと幕府転覆を企てたが |
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事前に発覚して悉く捕らえられてしまう。 |
| 由井正雪は府中宿の梅屋と言う旅篭でこの露見を知り自刃、 |
| 安倍川河原に首が晒されたそうです。 |
| これが慶安事件です。 |
| 当時民衆に大変な人気があり、 |
| 後に墓石が建立されたとの事です。 |
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| 正雪紺屋の前に由比本陣公園があり、 |
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| その中に東海道広重美術館があります。 |
| ここには『東海道五十三次之内』始め広重の版画が |
| 約1200点展示されています。 |
| 印刷物と違って実物の作品は素晴らしいの |
| 一語に尽きる思いがしました。 |
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| 1832年広重は幕府が毎年8月に朝廷へ馬を献上する為に上洛する公式行事の一行に加わって東海道の旅をした。 |
| この時の道中スケッチをもとに翌年から『東海道53次』を発表してベストセラーになった。しかしそれより約30年前の |
| 1802年に十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が大ベストセラーになっている。 広重はこれを大変意識していた様で |
| よく見ると東海道53次に時々弥次さん、喜多さんらしき人物が描かれています。 面白いですね!・・・ |
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由比宿を過ぎて暫く行くと、さった峠の手前に |
| 望獄亭藤屋がある。山岡鉄舟は薩睡峠で官軍に追われて |
| 望嶽亭に逃げ込み、座敷の地下から |
| 海路清水港に逃れ、望嶽亭主人と旧知の侠客、 |
| 清水次郎長に助けられる。西郷隆盛と会見して |
| 江戸城無血開城の素地を作った事は知られています。 |
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日本橋から 150.9 km
⇒ 第17宿 興津まで 9.1 km |

第16宿 由比 『さった峠』 |
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望獄亭からは山道となり、さった峠にさしかかります。 |
| 現在では平行して1号線が走っていますが |
| 好天に恵まれたのでさった峠へは街道を歩く事にしました。 |
| 左手に駿河湾を望みながらミカン畑の中を登る。 |
| 広重の絵では旅人が恐る恐る覗いているが |
| 現在でも断崖の下には駿河湾が広がり、 |
| 湾越しに富士山が望めます。 |
| 東名高速と国道1号線を除けば広重の絵その侭であった。 |
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日本橋から 160.0 km
⇒ 第18宿 江尻まで 4.1 km |

第17宿 興津 『興津川』 |
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峠を越すと興津宿です。興津川は水量は少なく |
| 3〜10月は板が掛けられて旅人はタダで渡れたが |
| それ以外はどんなに浅くても、宿場の財政を確保する為に |
| 人足に賃銭を払わねば成らなかったそうです。 |
| 広重の絵と構図的には似ているが現在は |
| 国道と鉄橋により遮ぎられて三保の松原は見えません。 |
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| 興津川を渡り街道をおよそ5km程進むと東海道線沿いに清見寺があります。 |
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| 東海最高の名刹と言われています。大化の改新後東国への道として整備され清見関と言う関所が設置されたそうです。 |
| その関所を護る為に建てられた仏堂が清見寺の始まりとの事、徳川家康が今川義元の人質になった幼少の時 |
| この寺に預けられたと言われています。家康が学んだ手習いの間や接木した臥龍梅があります。 |
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日本橋から 164.1 km
⇒ 第19宿 府中まで 10.5 km |

第18宿 江尻 『三保遠望』 |
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| 清水港越しに伊豆半島の山々が見え、右手から |
| 三保の松原が突き出ています。 |
| この構図は日本平からの景観です。 |
| 広重は正面の一番目立つ富士山を何故か描いていません。 |
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| 清水と言えば街道一の大親分の次郎長です。 |
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| 浪曲、広沢寅蔵の名調子が出て来ます。 |
| 『旅行かば、駿河の国に茶の香り』です。 |
| 街道から外れて江尻宿から清水湊へ向うと |
| 梅蔭寺があります。そこには次郎長始め女房のお蝶 |
| ・大政・小政・石松等一家の墓がありました。 |
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| 次郎長は現在でも人気があり観光地化した梅蔭寺は大変繁盛していました。 |
| 次郎長は侠客ではあったが山岡鉄舟と知り合った後富士の裾野を開墾したりして晩年は善行が多かったと言われています。 |
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江尻宿を過ぎ街道を進むと |
| 都田吉兵衛の供養塔があります。 |
| 吉兵衛は通称都鳥と呼ばれていた侠客で |
| 次郎長の子分の森の石松を賭場の金銭の行き違えから |
| 騙まし討ちにしてしまう。 |
| その報復でここで討ち取られたと言われています。 |
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| 街道から少し外れて名勝の三保の松原に寄りました。 |
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| ここには羽衣伝説があります。十五夜の月明かりの |
| 美しい宵の事、三保村の漁師がふと見上げると松の木の枝に、 |
| 美しい衣がかかっていました。あたりに人影が無いので、 |
| 誰かの忘れ物だろうと持ち帰ろうとした時、天女があらわれて |
| 「その羽衣がないと、天に帰ることができません」と |
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| 泣き始めた。天女を哀れに思い「では天上の舞いを見せてくださるならば、この衣はお返ししましょう。」 |
| 返してもらった羽衣を身にまとって、天上の舞いをひとしきり舞ったあと、空高く天に昇って行ったとの事。 |
| 因みにこの松は二代目だそうです。 |
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三保から海岸伝いに進むと一面石垣苺畑となり、 |
| やがて久能山が現われます。江戸時代には興津から船で |
| 三保へ渡り、三保の松原・久能山を経由して |
| 駿府へ入る旅人も多かったそうです。 |
| 久能山(270m)へは1159段の急な石段が続きます。 |
| 振り返ると山の麓には石垣苺の畑が広がり |
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| 真っ青な駿河湾と御前崎や伊豆半島が望めます。家康もここが好きでよく来たそうです。 |
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| 二代将軍秀忠の命により、家康没後1年7ヶ月の |
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| 短期間に造営されたとの事。 |
| 日光よりかなり地味であるが彫刻・模様には |
| 桃山時代の技法が取り入れられていると言う。 |
| この本殿を50m程上ると家康の墓があります。 |
| 因みに日光東照宮はこの19年後に建立されています。 |
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| 平成元年、二の丸東御門が復元されましたが新しくて歴史の重さを感じなかったのは残念でした。 |
| 将軍職を辞めても実権を握る徳川家康は世を去る1616年迄、ここで大御所政治を展開した。 |
| 『人の人生は重荷を負て遠き道を行くが如し、急ぐべからず不自由を常と思えば不足なし、 |
| 心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし、堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、 |
| 勝事ばかり知りて、負くる事を知らざれば害その身に至る。 己を責て、人をせむるな。 |
| 及ばざるは過ぎるより勝れり。』 これは現在でも通用する家康の遺訓である。 |
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第19宿 府中 『安部川』 |
日本橋から 174.6 km
⇒ 第20宿 丸子まで 5.6 km |
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| 安倍川渡しの風景ですがどこか似ていて、 |
| 今にも渡し人足が出てきそうです。 |
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第20宿 丸子 『名物茶店』 |
日本橋から 180.2 km
⇒ 第21宿 岡部まで 7.8 km |
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| 現在もそっくりな姿で営業中です。 |
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| 膝栗毛では弥次さん・喜多さんは子供を背負った |
| 女房と主人が喧嘩を始め、名物のとろろ汁を |
| 食べさせて貰えなかった。広重の思い遣りか |
| 弥次さん・喜多さんとおぼしき人物がとろろ汁を |
| 食べている。良く見ると面白い光景です。 |
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| 私も江戸時代にタイムスリップして名物の『とろろ汁』を注文、現在でも中々繁盛している様でした。 |
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第21宿 岡部 『宇津之山』 |
日本橋から 188.0 km
⇒ 第22宿 藤枝まで 6.7 km |
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| 在原業平は蔦楓の生い茂る寂しい宇津の谷峠で |
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| 京の女に宛てた歌を詠んだ。『駿河なる宇津の山辺の |
| うつつにも、夢にも人に逢わぬなりけり』 |
| 以降『蔦の細道』は伊勢物語を始め多くの和歌や |
| 紀行文の歌枕になっています。 |
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| 街道正面が宇津の谷峠です。 |
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| 秀吉は北条攻めの際ここで休憩し、勝利に気を良くして |
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| 帰路に立ち寄りお礼に朱色の羽織を手渡したと言う。 |
| 其れ以降『お羽織屋』と名乗る様になったとの事。 |
| 江戸時代に入ってからもここを通る大名は縁起のいい |
| 羽織を一目見ようと立ち寄ったとの事、大岡越前守も |
| 立ち寄ったと記されていました。 |
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第22宿 藤枝 『人馬継立』 |
日本橋から 194.7 km
⇒ 第23宿 島田まで 8.7 km |
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| 広重の描いた問屋場風景です。 |
| なんだか雰囲気が似ているので驚いた。 |
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日本で唯一の円形の城で、その形から亀城と |
| 呼ばれていたとの事、 |
| しかし現在残っているものはこれだけで、 |
| 昔の城内は中学校になっていました。 |
| 家康がこの城で食べた鯛の天麩羅に当たって |
| 75歳の生涯を閉じたと記されていました。 |
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日本橋から 203.4 km
⇒ 第24宿 金谷まで 3.9 km |

第23宿 島田 『大井川駿岸』 |
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| 東海道一の急流『越すも越されぬ大井川』の渡場で、 |
| 尾張藩の大名行列では約100両(1千万円)も |
| 掛かったと言う記述が残っています。 |
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| 人足が何処まで水に浸るかで料金が決まっていたそうです。 |
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| 現在の価格で |
| 股通し:700円、帯下通し:800円、帯上通し:1000円 |
| 乳通し:1200円、脇通し:1500円程度と決まっていて |
| それ以上の水かさの時は川留となったそうです。 |
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| 膝栗毛でも弥次さん・喜多さんは川越賃を値切ってやっとの思いで越した事になっています。 |
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宿場の鵜田寺門前に島田髷にちなんだ髪の塚がありました。 |
| 島田宿は日本髪の代表的な結い方の |
| 『島田髷』発祥の地です。 |
| 宿場の遊女が考案したと言われていますが |
| この地で生まれた曽我十郎の恋人である |
| 虎御前が島田髷を創始したと言う説もあります。 |
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| 大井川を渡ると直に金谷宿です。広重は続けて大井川を両岸から書いています。 |
| 余程川越えに苦労したものと思われます。 |
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日本橋から 207.3 km
⇒ 第25宿 日坂まで 6.5 km |

第24宿 金谷 『大井川遠岸』 |
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渡し場の近くにギネスブックにも認定されている |
| 長さ900mの歩行者専用世界最長の木造橋があります。 |
| 大井川の渡し舟解禁で失職した人足などによって |
| お茶畑として開拓された牧之原台地と島田を結ぶ |
| 貴重な橋として明治12年に架けられたそうです。 |
| 今後車の走れない長い橋は造られないと言われています。 |
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| 宿場には 『問われて名乗るもをこがましいが、・・・』 の |
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| 天下の大泥棒 日本左衛門 の首塚があります。 |
| 京都で自首して護送され、泥棒を働いていた |
| 見付宿で処刑されとの事。 |
| 情婦のお万が晒し首を盗み出し |
| この地に葬ったと伝えられています。 |
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| 宿場の外れに金谷坂の石畳が復元されています。 |
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| 石畳の金谷坂を登り詰めると牧之原台地の |
| 広大な茶畑に出ます。 |
| 大規模な茶畑は明治以降で当時は |
| 細々と栽培されている程度の荒地だった様です。 |
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| 街道を進み佐夜の中山を登り詰めた所に久延寺があり、ここに伝説の 『夜鳴き石』 があります。 |
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| 日坂に向かう一人の妊婦が山賊に切り殺されてしまう。 |
| お腹の赤子は無事助け出されたが母親の霊が |
| 乗り移った石と共に毎晩泣き続け、寺に運び |
| 住職が読経して静めたと言う伝説です。 |
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| 近くに西行が若き日にこの地を通った思い出が去来して詠んだ歌碑がありました。 |
| 『歳たけて越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山』 |
| 更に佐夜の中山を下って行くと道端に『夜泣き石』の碑がありました。 |
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日本橋から 213.8 km
⇒ 第26宿 掛川まで 7.1 km |

第25宿 日坂 『佐夜ノ中山』 |
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| 広重の絵では 『夜泣き石』 を旅人が見ている。 |
| 交通の邪魔になっていたが、実際に明治まで、 |
| この道の曲がり角の真中にあったそうです。 |
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| 坂を下り切ると日坂宿です。格子戸の家並みと |
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| 屋号を示す看板が宿場の雰囲気を残しています。 |
| 小さい宿場ですが大井川の川留めや |
| 大名の参勤交代などで |
| かなり賑わっていたそうです。 |
| 現在本陣跡は幼稚園になっていました。 |
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| 昔の面影を残している旅篭が二件あり、 |
| その先に高札場が再現されていました。 |
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| 坂上田村麻呂ゆかりの古社であす。 |
| 願い事が其の侭適う神社として有名で |
| 清少納言も『ことのままの明神、いとたのもし』 |
| と記しているとの事です。 |
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第26宿 掛川 『秋葉山遠望』 |
日本橋から 220.9 km
⇒ 第27宿 袋井まで 9.5 km |
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| 大池橋は東海道と秋葉詣での道との文岐点です。 |
| 広重は秋葉山を描いていますが、ここから35kmも |
| 先にあり、秋葉山は低い山なので |
| 実際には見えないと思われます。 |
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山内一豊の出世城です。 |
| 妻のへそくりで名馬を購入して世に出るきっかけを |
| 掴んだ話は有名ですが、それは掛川城主になる |
| 以前の話です。 |
| 過って一豊は秀吉の重臣であった為、大阪方からの |
| 誘いがあり、家康からは灰色に見られていたそうです。 |
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| 一豊の妻のもう一つの内助の功『笠の緒の文』の逸話があります。関が原の合戦前家康と共に上杉攻めの陣中にいた |
| 一豊の元へ妻から笠の紐に編み込んだ密書が届いた。密書には石田光成ら大阪方の動きが記されていました。 |
| 又掛川城を家康に差し出して二心の無い証を立て、一豊は関が原ではあまり戦功を上げませんが |
| 関が原の合戦後、土佐24万石に栄転しました。 |
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