吉野山へは桜だけでなく、南朝時代の歴史探訪も楽しみの一つでした。

【吉野山】

道の駅、吉野路大淀iセンターから1kmで
吉野川に出ます。
川沿いに5kmで柳の渡し跡です。吉野川北岸と南岸をつなぐ渡し場の跡で宿場町としても賑わい、
この柳の渡しのあたりは、万葉の昔から詠まれ、よく知られていたそうです。
美吉野橋を渡り3kmで吉野神宮です。
後醍醐天皇の偉業を偲び
明治天皇が建立したとありました。
吉野の山中で一際目立つ洗練された神社でした。
3kmで千本口の吉野山駐車場です。
隣に村上義光の墓がありました。
護良親王に従い各地で戦い、
奪われた錦旗を奪い返したと言う
鎌倉後期の武士です。
墓を掃除しているお年寄りがいました。
末裔の方の様です。
駐車場周辺、千本口の風景です。
ここに駐車して吉野山散策へ出発です。
商店の並ぶ坂道を上り、吉野山ロープウエイを
過ぎると1kmで、吉野山入口の黒門です。
黒門からの急坂を上ると銅の鳥居です。
1348(正平3)年に高師直の兵火で焼失した後、
室町時代に再建されたとありました。
別名発心門と呼ばれ、山上ヶ岳までの間に
発心・修行・等覚・妙覚の四門があり、
これが最初の門です。
行者たちはここから向こうを冥土と見たて、
ひとつ門をくぐるごとに俗界を離れて、
修行する決心を強めて行ったそうです。
銅の鳥居から200m程坂を上ると、
石段の上に建っている国宝の金峯山寺仁王門です。
南向きの本堂が
山上ヶ岳からの巡礼を迎えるのに対し、
この門は北を向いています。
大阪や京都から逆峯入りする信者を迎える為、
と言われています。
国宝、本堂の蔵王堂です。
役行者により白鳳年間(7世紀後半)に開創、
吉野の桜の全てをご神木とするお寺で、
安土桃山時代に再建されたとの事です。
木造建築では東大寺大佛殿に次ぐ大きさ
とありました。
四本桜 - 本堂前の広場に石柵で囲まれた一廓があり、
4本の桜が植わっています。
ここで元弘3年(1333年)、北条軍に攻められた
大塔宮護良親王が落城前に
最後の酒宴を催したとされています。
本堂(蔵王堂)の南正面には現在は門がないが、
かつてはここに二天門があったそうです。
村上義光は、
元弘3年(1333年)、護良親王の身代わりとして
この二天門の楼上で自害したと伝えられ、
門跡には
「村上義光公忠死之所」と記した石柱が立っています。
蔵王堂の西にある吉野朝宮跡です。
南北朝時代、後醍醐天皇から4代にわたって
南朝の拠点となった皇居跡で、
現在はこの妙法殿だけが残っています。
茶店や土産の間の坂道を100m程で
右手には東南院があります。
役行者が開基した寺院で大峯山の護持院一つです。
美しい朱塗りの多宝塔が一際鮮やかでした。
東南院は大峯修験の行者や一般人の宿坊で、
貞享元年(1684)の秋に、
芭蕉もここに泊まったそうです。
境内に句碑がありました。

ある坊に一夜をかりて碪打て
我にきかせよや坊が妻
(芭蕉)
左手の坂を下ると吉水神社です。
京都花山院を抜け出し、吉野に入った
後醍醐天皇は始めここ吉水神社を行宮としたが
手狭になったので蔵王堂の西下の実城寺を
皇居にされたとありました。
秀吉もここ吉水神社で桜を楽しんだとの事、眼下に見えるのは中千本の桜です。
晩年に吉野の桜を京都醍醐寺に移植して、醍醐の花見を催したのは有名です。
義経が馬に乗って岩に駆け登った時に出来たという馬の足跡の義経の馬蹄跡と
弁慶が力試しのために指先で岩に釘を二本押し込んだといわれている弁慶力釘がありました。
勝手神社は直ぐ傍です。
境内の舞塚です。
1185年(文治元年)暮れ、義経と雪の吉野山で
別れた静御前が従者の雑色男に金銀を奪われ
山中をさ迷っている処を追っ手に捕まり、
雅な姿で法楽の舞を舞い、居並ぶ荒法師達を
感嘆させたと言う伝説があるとありました。
村上義隆の墓へは桜満開の山道を2km、
往復50分の行程です。
義隆は大塔宮が熊野へ逃れられる際、
父義光が敵を制す間にここでしんがりをつとめ
18歳で討死したとありました。
来た山道を勝手神社迄戻り、
急坂の宮坂を上がりきって10分で喜蔵院です。
現在はユースホステルになっています。
由比正雪の乱の時、陽明学者の熊沢蕃山が
身を隠した場所とありました。
更に5分程で竹林院です。
千利休が作庭、細川幽際斎が改修した池泉回遊式の借景庭園の群芳園は大和三庭園に数えられています。
群芳園は枝垂れ桜が満開でした。
背景の山には散策路があり、上った見晴台のあばら屋からはそれはそれは見事な桜でした。
ここで暫しの休憩をしながら朝食です。大好きな葡萄入りクロワッサン・白桃の缶詰です。
竹林院前からバスで30分、奥千本口到着です。急坂を5分程上ると金峯神社です。
銅の鳥居が発心門で、次いでこの鳥居が修行門です。気抜けの行を行い、空の境地に入る準備を行うそうです。
熊野古道の奥駈道はこの社から本格的な修行の道になります。
社の左を少し下ると義経隠れ塔です。
弁慶や佐藤忠信達と隠れたと伝わる蹴抜けの塔で、
行者が真っ暗な塔内で俗気を抜くと言われている
簡素なお堂です。
社の西側山道を300m程登って、
尾根上から奧の千本の桜林の急坂を下ると苔清水です。
芭蕉の笈の小文、苔清水に登場します。

春雨の こしたにつたふ
清水 哉
(芭蕉)
その右手に西行法師がしばらく隠棲したといわれる小さな庵の西行庵があり、中には西行の木造がありました。
奥千本の桜はまだ蕾状態でした。
来た印に叔母ちゃん達一行が入れ替わり写真撮影、
仕方なくパチリでした。
上の千本からは桜を観ながら下りの連続です。
徒歩20分程で吉野水分神社です。
桃山建築の本殿は豊臣秀頼の再建と言われています。
桜門・本殿は重要文化財に指定されています。
上千本の花矢倉を経て暫く下ると桜本坊です。
大海人皇子(天武天皇)が冬の夜に桜の夢を見て、
翌朝、吉野山でこの桜1本だけが咲いていたとの事、
これは吉兆と占い、その後壬申の乱に勝利した。
天武天皇がこの桜木の下に寺を建立したのが始まり
とありました。
谷を隔てて反対側にある寺で下って上るので中々大変であった。約30分で如意臨寺に到着です。
後醍醐天皇の勅願寺で、創建は901〜22(延喜年間)年と伝えられています。
楠木正行が大阪四条畷の戦いに出陣前、鏃で記した辞世の歌が堂の扉に残っているとの事、
境内には正行一行の髪を埋めた鬢塚がありました。

かゑらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞとゞむる
延元四年(1339)後醍醐天皇は病床に、

身はたとへ南山の苔に埋むるとも
魂魄は常に北闕に天を望まん

と都にあこがれつつ、ついにに崩御され、
御遺骸はそのまま当時の裏山に京都に向けて
葬られたそうです。これが塔尾陵との事です。
再び桜本坊まで戻ると、
流石桜の時期、吉野山です。
まるで歩行者天国状態でした。
人並みを掻き分けやっとの思いで駐車場まで
12時50分に帰路につき、
15:30大津自宅に到着しました。

2日目
走行距離:130km、歩行数:35,108歩
【あとがき】
奈良は2010年の平城京遷都1300年に向けて、唐招提寺金堂の大修理・平城京跡の大極殿の復元工事が進んでいます。
奈良薬師寺・斑鳩の法隆寺と共に平城京遷都1300年に再訪したいと考えています。
飛鳥の高松塚古墳の壁画はカビの繁殖で原形を留めていません。
レプリカとは言え高松塚壁画館での発見当時の色鮮やかな女子群像の壁画は一見の価値はありました。
吉野山は桜だけでなく、南朝時代の歴史探訪も出来て内容のある楽しい旅になりました。
『日本の旅』近畿編 は思い付いた時に出掛ける小旅行です。これも又楽しいものです。
ではでは・・・又。

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