* 霊 界 3 *
宣 言
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審 判
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破 滅
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自己中心
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孤 独
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不 信
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自己表現
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自己顕示
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物質文明
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受 信
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助 力
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神 理
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神 波
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神 愛
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良 心
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平 等
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知 性
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固定概念
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神 智
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真
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智 慧
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自 己
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無 償
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幸 せ
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忠 告
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宗 教
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宣 言
「大自然も神の子」思い上がり、威張り散らし、気ままに振る舞うなら大自然は不調和を現す。
本当の恰好良さ「思いやり」「愛する心」「慈愛」「慈悲」「勇気」は格好悪く目立たない。
審 判
恨みや妬みというのは物凄いエネルギーです。これを断ち切るには本人の自覚しかありません。人は周りに対し格好良く、良く見られたいが為に偽りに満ちた振る舞いを行いがちです。しかし霊界からは丸見えです。本当に信用できる人かどうかと云うことは霊界からは一目瞭然なのです。いくら表面意識を飾り立てても潜在意識の中では隠すことは出来ません。この様な行動は地獄の霊たちの波動に同調してしまいます。地獄の霊は苦しみから助けを求めていますから同じ波動を持った無知な人間にとりつきます。地獄に堕ちた霊は肉体から解放されていますからこの世の表面意識にとらわれ狭い考えに支配された考えが無駄なことを十分に知っています。この世の中で慈愛に満ち一生懸命に生きる姿を素晴らしいと感じています。それが故に近づけないのです。この様な生き方は慈愛の光に満ち地獄の霊達にとっては眩しすぎ身を焼かれるような想念になります。地獄からも霊界からも人の心は丸裸になっていますからいくら表面意識を飾り立てても意味がありません。この事を十分に理解することが大切です。嘘をつかない心で居なければなりません。人として人らしく生きて行くことが大切です。
破 滅
人の想念はとても大きなエネルギーです。恨みや妬みのマイナスエネルギーが沢山集合するととてつもないエネルギーになってしまいます。それらは地場にも影響を及ぼします。ある思想や想念に惑わされた思想の集合は周りをも巻き込んでしまいます。意志薄弱であればひとたまりもありません。それが「洗脳」と言われるモノです。表面意識の中で支配されている人は物質世界に執着しあらぬ方向に思念が走り出すとその思念に触れた人は「洗脳」されて行きます。最初は「まさか」と思ってもその内「もしかしたら」となりその内「そうに違いない」という思念に支配されて行きます。これらが集まると破壊的な思念に発展してしまいます。このために滅びたものも多数あります。昔ではアトランティス、ナチス等々の紛争や戦争です。破滅の道筋には人のおごりがあります。自我自欲。自己保存。自分中心の利己主義なエゴや欲望です。人を顧みない心の集合です。物質世界のみを信じる心は危険です。現在の社会には多くの思念が渦巻いています。それらに洗脳されることなく生きることが大切です。世間には恨みや妬みが充満しています。国際社会の国同士の争い。個人的には不満や欲求不満が溢れ破壊的エネルギーになっています。人間不信に満ちた社会です。これらの想念は地球破壊をもたらすかも知れませんし、人類の崩壊に繋がるかも知れません。それら人に慈愛を解くのも心開かれた人の勤めです。 *Top*
自己中心
人が知恵を忘れ知識のみを求めだしたときそれは自己中心的になり排他的になります。形式的な知識で判断する社会では優越感と劣等感を生み恨みと妬みが溢れてしまいます。人は固定観念に支配されてしまいます。社会常識というものもその範疇でしょう。固定概念に支配されてしまうと新しいことを受け入れることを拒みます。そしてそれを検討することさえ拒みます。蓄えた知識のみが正しいという概念が支配してしまうからです。その基準から外れるものを排除しようとします。多くの人に受け入れられている知識をくつがえすことは今までの価値観を変えることになりますから拒絶感を強めます。大きな心で真理を見つめることが大切なのです。大きな愛を受ければその愛に大きな愛と慈しみで答えることが大切です。人は生まれた環境や教育、育った思想や環境で自分と全く同じ人は居ません。その為に誤解や曲解が生まれてしまいます。その為誰に自分を理解してくれないと言う思いを何時も持っています。誤解や曲解とは全ての解釈を自分の基準判断で行うから起こってしまいます。自身の過去の経験の中から理解しようとしているからです。自身の理解範囲を超えた言動は理解の範囲を超えてしまっているのです。表面意識の中ではそうなのですが、ぜんざい意識の中では完全理解も可能です。ならば心での解釈をすればどうでしょう。心で解釈、理解すると云う事はとりもなおさず相手の立場で考えることです。自分の範疇でいくら考えても理解できないものをいくら努力しても無理です。それなら自分の範疇ではなく相手の範疇に立って考え理解しようとすれば心の繋がりが出来ると思います。自己本位な考えではなく相互作用を考えることです。人は誤解されたり曲解されると怒りますが、その前に理解されるように自身で努力することも大切だと思います。そして自分の判断や基準が全て正しいと考えないことが大切です。えてして固定概念に凝り固まっている場合が往々にしてあります。そうなっては新しい理念や考えを受け入れられなくなります。
孤 独
誤解と曲解は自分の物差しだけで人を判断しようとすることです。正しく物事を見ようとしない心は自身を孤独に追い込んでしまいます。誤解が曲解を呼び、曲解は益々解釈をねじ曲げてしまいます。もpの碁との真理を見ようとせず既成概念だけで判断しようとしているとこんな事になります。又こうなると新たな事象を受け入れることが出来ず新しい輪に加わることを拒絶してしまいます。ただ遠くから見つめているだけでは何も解決しません。もっと広い心で広い視野で物事の真理を探るようにしないと益々孤独になってしまいます。お互いの心が離れれば離れるほどかたくなに拒み続けようとするものです。そして自分が正しいと思いこんでしまっていることが原因です。正義とは自己満足ではなく他を生かすことが出来るかどうかと云うことが問題になります。自己満足の正義は本当の正義ではありません。 *Top*
不 信
現状社会は信頼が稀薄です。地位や財産、名誉が幅を利かし権力者になっています。金銭的なものが全ての基準になっています。人がこの世を去るときに地位や財産ハモって行けませんが、経験や知恵は何処にでも持って行けます。人は社会の中で人同士の調和で社会をつくる目的があります。袖振れ合うも何かの縁と言われます。輪廻転生の中で沢山の人と知り合っています。僅かは表面意識にとらわれ悩むことはつまらないことです。人の生活環境や考え方で同じ人など居ません。考え方も行動も一人一人違って当然です。人を信じることが大切です。人が信じられないと云うことは自分自身を信じられないと云うことだと思います。自身の行動と相手の行動の微妙なかねあいです。相手からの温かい手も拒んでしまえば相手は裏切りと感じ、もし逆ならあなたが裏切りと感じてしまいます。相手を理解することです。もし相手の性格や欠点を知っていたなら裏切りとは感じないで済みます。まず事らから人を信じなければ相手も信じてくれません。不信はお互いの不信を呼び、暗い悲しい世界になってしまいます。 人のコミュニケーションは言葉や文字に頼っています。しかしこれらは人が作り上げたもので表面的な平たいもので、心を伝えるにはとても不自由します。心の本質を言葉や文字から察する力を養うことが大切です。これこそ潜在意識のなせる技と言うべきかも知れません。第六感、インスピレーション、第一印象などです。
自己表現
現在の社会で云う自己表現とは人に見せるためのものです。物質社会に支配された中で人に見せるために人生だと思います。今の社会で幸せとは受験戦争に打ち勝ちエリートコースに乗り支配階級に登り詰めることが幸せの基準になっています。これは人に見せるための人生です。それに比べ人としての目的はなおざりにされています。
自己顕示
これらの自己表現はとりもなおさず自己顕示欲に他なりません。自分を飾るために自己表現でしかありません。自身の内面を磨くことには全く無頓着で人生の目的は支配階層に上がることに終始しています。コンピューターが浸透しインターネットで世界が繋がっています。情報収集にも手間がかからず瞬時に手に入りますが、ただその事だけに終始しているようです。その反面人生の目的に対しては無頓着です。 自己顕示欲に為の自己表現は自己を正当化するための言葉になっています。 本来自己表現という言葉は自分の個性を表現することであって人を蹴落として自分を見せることではありません。社会の名声を得ても虚無にならざるを得ません。表面的な事柄に拘らず自己の内面を見つめなおして自身の個性を発見発掘すればそれが自然と自己表現になります。 *Top*
物質文明
物質文明には限りがあります。ある時点にまではすごい勢いで発展しますがそれ以上にはどうしてもスピードが緩み限界が近づきます。山を登っている物質文明は頂点まで昇ってしまうともう先がないのです。しかし、この物質文明に埋没してしまっているとそれが判りません。 それに引き換え精神的文明は人のエネルギーですからあらゆる力を持って変化を起こします。精神はこの世だけが全てでないと云うことを教え新たな世界の存在を教えます。
受 信
社会の中に霊的な能力を持った人がいらっしゃいます。自身に霊的現象を起こしたり、変わった言葉や現象を起こしたりします。これは特殊な力ではありません。誰でも持っている潜在的な力です。神や守護霊様達は常に我々に多くの助言や助けを下さっています。我々とは時間的観念が全く違っていてテレパシーのようなかたちで意識の中に語りかけてきます。これらの言葉は何らかの形で現れます。インスピレーションや夢や第六感というかたちです。誰でも経験しているはずです。人が寄れば何らかの新しい智慧が浮かんだりします。これもそれらの語りかけですが人が集まればそれらの語りかけを受けやすい環境になります。地場が同調し易くなります。 人の住んで居る現世と霊界との時間的経過は全く違います。時間的拘束が全くなく過去未来が混在しています。我々の本質も霊です。心のエネルギーですからこれらの領域に入り込むことがあります。以前この場所に来たことがあるとか、何時か会ったことがある人とか感じることがあります。学者さん達は色々とこじつけの理屈で解明を試みていますが、これらのことを感じ得る心を我々は持っていると言えます。
助 力
神や守護霊様は常に我々を守って下さっています。事故を寸前で回避できたり、事故に遭遇しないで済んだりタイミング良く出会ったりと。これらは助けて下さった結果です。しかし、これらの助けも受けやすい心の状態でないと受けることが出来ません。いくら助けの言葉や救いがあってもそれを受け取る心が出来ていなければ無駄になってしまいます。しかし神や守護霊様はそれにも懲りず一生懸命に助けて下さっています。これらの心の状態は地獄界や悪い霊の影響を受けてしまいます。事故の多発する場所や自殺の名所と云われる場所には怨念の地場が渦巻いています。それらの地場と心が同調してしまうと憑依や自縛霊に吸い込まれてしまいます。しかしシッカリとした心であればそれらの地場を跳ね返し吸い込まれることがありません。 *Top*
神 理
人の価値観や概念は今まで育ってきた環境や経験に基づいています。それらの範疇でないと判断できないのです。それは一人一人全て違います。その為に考え方の違いが生まれて来ます。しかし誰の心の中にも同じく平等にあるのは神の心です。姿やかたちは違えど真理は同じです。人は限られた知識しか持っていませんからその知識が全てではないことを知り、広い範囲で思考し理解に務めることが必要です。 もし、過去を思い起こし反省をするならこれから同じ過ちを起こさないようにすればよいことです。今までの歴史の中で人は戦争やいさかいを繰り返してきました。破壊の中に自由を見つけだそうとしましたが、何もありませんでした。物質の中には自由はあり得ません。自由は心の中にあるのです。自由とは歓びを求める心であり安らぎを求める心です。過去の人々はそれを外が物質に求め虚しい虚無だけを知りました。しかし未だいさかいを繰り返しています。もし幸せを求めるなら、物質文明や現象に拘り自由を求めるのではなく己の心を生かすことに務めることです。今の時を大切に生きることです。急ぐことはありません。自身の心の中に神の心があります。その心を見いだすことです。 神や守護霊を信ずると云う事は、自分の心、良心を信ずることでもあり、他人の信ずることでもあります。神は人全てを平等にされています。そして自由にされています。心の中に全ての自由を持っています。我々は神によって生かされ神の慈愛の中で生きていることを知ることです。これらのことは我々が長い輪廻転生を繰り返しその度に教わっていることです。我々は神の思念を心に受け入れ人同士お互いに生き、生かし合うことを目的としています。それの積み重ねがより大きな神の心を育ってます。仏前や神前に出向くことだけが信ずることではありません。形式に拘るならそれは信じることではないからです。日々の生活に感謝し慈愛の心に感謝することです。
神 波
我々の心はいつも波動を放っています。神の心も波動です。波動のエネルギーです。人それぞれ色々な個性を持った波動です。オーラのようなものです。人と会った時に第一印象として感じるのはこれらの波動のエネルギーです。その感じ方によってその人の本質を知るわけです。言葉では判らない、又隠された本質を感じてしまいます。この様に我々は人の波動エネルギーを受信しています。と云うことは我々は同時にはどうエネルギーを発信しているわけでもあります。自己の思いや考え方、全てを包み隠さず発信しています。言葉やイメージだけが人に与える感覚ではありません。自己の心から発信されているエネルギーは多くの人に拾われているのです。神は絶対神で実態を持たない慈愛の光です。守護霊様や天使はそれぞれの個性を持った神のお手伝いをされています。守護霊様や指導霊様は我々の心の卒業者でもあります。神の意志を実行するのは我々に他なりません。我々の心ので慈愛を実行することが真の目的です。 *Top*
神 愛
神の愛は全てにわたっています。ただ人の五感では察知できません。神から分け与えられた心で感じることが出来ます。我々の心は神の心です。我々の住む物質世界の三次元は大きな精神世界のほんの一部にしか過ぎません。肉体はこの世で生きるために必要ですが、滅びれば終わりです。しかし魂は永遠です。神に近づくことが我々の目的ですが、近づくことは赤ちゃんのような純情無垢な心が必要です。人を疑わず信じる心です。地位や名誉と云った物質社会の象徴を持ってい状態は自己の安楽を求め得た地位や名誉を失うことを恐れています。物質に支配された心や他を恐怖する心は神の心を受け付けません。神の愛に授かるには自分の良心に忠実に生きることです。貧しさや幼さはたやすく神の愛に恵まれます。既成概念や曲がった真理が心を歪ませてしまいます。偏見を捨てることです。
良 心
人々は自身の生き安さや欲望からいさかいや闘争を繰り返しています。これは自分の自由しか認めていないからです。自分の思い通りに進まないと邪魔者を排除しようとします。これらは自己顕示欲のなせることです。自己顕示欲は肉体があって初めて成立します。肉体の欲望は表面意識の中での出来事です。人は自己判断力を持っていますからその行動がある欲望に突き動かされていることは承知しています。自分の心を偽ることは人には出来ません。自己の行動は自己の良心によって裁かれます。 人の心には神が宿っています。それが良心です。悪い行動を起こせば必ず良心の呵責を受けます。神の心は誰の心にも平等にあります。人は誰しも恥ずかしい部分を持っています。過去を振り返り反省し同じ過ちを犯さないようにすることです。
平 等
神の愛は誰にも平等です。誰それに大きな愛が与えられ違う人には小さな愛と云う事はあり得ません。心の中の良心は誰の慈愛も同じです。そして、地獄界に落ちた人にも同じ愛が注がれています。ただ、それに気づくか気づかないかです。また、人の努力に対しても何もされないことはありません。見守って下さっています。
知 性
我々は普通「教養」とか「知的」とか云う言葉を使います。それは、この世界に於いてのTPOをわきまえ多くの学識を備え合理的に暮らしていると云うことをさしています。この世界で生きていくためにはこの様な知性や教養は必要です。しかしこの様な能力主義に偏じた教養や知性は人が本来人らしく生きて行くための知性や教養を差してはいません。よく云われる物知りとか博学、学識です。これは単に記憶力や暗記の力に他なりません。必要なことは人として生きて行くための「知性」と「教養」です。人として幸せな生活を送るためには「愛の心」「他人を愛する慈愛の心」が必要です。人はただ一人で生きているわけではありません。多くの人とのコミュニケーションを持ちバラエティに富んだ人々と関わっています。これらの集団の中で生きているわけです。この物質社会の中での固定概念に縛られず広い範囲で物事を思考する知性が求められます。 *Top*
固定概念
人々はこの僅かな表面意識の物質社会の出来事や物事に気を取られ固定概念をつくってしまいます。人の持つ五感だけが唯一の感覚と勘違いしてしまいます。不可思議なことがらにも理由や証拠を求めます。 狭義の感覚が固定概念を作り上げてしまいます。一旦この固定概念が作り上げられてしまうと人はその中に閉じこもってしまいます。そして他をいけ入れなくなってしまいます。単一で一定方向しか見れない状態なら一度信じた事柄から他の違う考えや事柄を受け入れなくなります。それは独善的であり自分だけが満足する自己満足に過ぎません。全ての人を愛し、受け入れ、それを自身の生活に行かせる幅の広いものの見方が「知性」と思います。「固定概念」と「知性」は両極に位置していると思います。
神 智
固定概念に支配されてしまうと唯一正しいのは自分だけと云う観念に縛られます。知識の詰め込みは多くの学問や学識を得られます。しかしそれらに執着するあまりに微笑みを忘れ思いやりがなくなり調和を乱すのであればしれは「知性」とは呼ばれません。通常知識のみに執着し知識を詰め込むことに一生懸命になってしまうと世間で云われる「一般常識」「一般概念」にとらわれてしまいます。この「常識」や「概念」がいかに虚しいものか。この世のこの時代の一瞬にしか通用しないものなのです。知性とは時代を超え次元を越え同じものです。神の下さった心の知性はそんな狭義なものではありません。全てを受け入れ全てを受容する大きな心です。しかしこの世には知識を知性と勘違いし自己顕示欲にかられ巧みに世渡りをしようとしている人がいかに多いことか。これらの人の心には安らぎがありません。本当の「知性」は心に安らぎを与える愛によって支えられています。
真
人の心には悪魔の心と神の心が混在しています。知識を用いて自己顕示欲に走り利益だけを追求して行こうとする心と全てを受け止め包含し無償の愛で人々を包み込む心です。自分だけを生きやすくする知性は悪魔の知性です。人々の生活を考えて行くのが神の心です。知識は新しい発明や発展を遂げますがその利用の仕方を左右するのが知性です。自分だけの利益や限られた人の利益を通窮する自己中心的な知性は反感や恨みや怒りを誘発します。しかし正しい知性が使われればそれは人々から絶賛され優しい愛に満ちあふれます。本当の「真」を見つめて欲しいと思います。本当の愛を受ければ愛で返す心が大切です。愛する心は「本当に他人の幸せを望み熱望する心」です。親が我が子の幸せを願うように。 *Top*
智 慧
この世の中には「批判」と「愚痴」に溢れています。批判するのであればそれを治そうとすればよいのですがその力がないために愚痴をこぼします。今の教育は教育そのものが目的になり真の教育をしていません。人を観察し自身の知識のみの正義を振りかざしてもそれはただの「偽善」でしかないのです。人を信ずること、人に感謝することが判らない人が多い。我々人はみんな本当に未熟です。ですから学ばなければなりません。物質文化の中で溢れる「愛」の消費者になってはいけません。それは自己顕示欲に繋がり自らを滅ぼします。消費からは何も生まれません。人に与える愛から新しい愛が生まれます。「愛」は転生輪廻を繰り返し大きく成長して行きます。人を愛せる大きな心の持ち主になることです。人の批判ばかりやっていては何も始まりません。
自分より他人を
「愛」を求める前に他人を愛しましょう。他人を信じましょう。愛を求めていることは自己主義の消費者です。権力や財力を求める狭義な愛です。そんなものを求め手に入れたとしてもその後からは失ってしまうのでは?蹴落とされるのでは?と云う猜疑心や不安ばかりがつきまといます。そんなものは長続きしません。愛は心安らぐものです。本当の幸せは心安らぎ慈愛に満ちた心に溢れているときです。まず人を愛し、人を信じなくては自身に愛は返ってきません。そのような心がなければ本当の「愛」を受け取れないからです。
無償行為
通常我々の行動はどうなっているでしょうか?自己中心ではないでしょうか?こういう結果になりたい、こういう地位になりたい、これだけ財力が欲しい・・・と云うように結果が先にあるのではないでしょうか。その為にこれをする、その為にこれだけのことをする・・・と云うように結果から行動が導き出されていませんか?その動機は何でも無理矢理こじつけられます。根本は全ての行動は全て「良心」から出発しなければなりません。我々は逆のコースで行動をしているのです。「良心」の出発は神の心であり愛の心です。それらの心には利己主義や自己中心と云った心は存在しません。そしてその過程で一番用意方法を選択すればよいのです。その為の知識です。何にしても「良いこと」と「悪いこと」は交互に訪れます。一時良かったことも後になれば悪い状況になったりその逆であったり。良心からの出発の結果が一時悪くとも、その中から幸福が生まれることだってあります。それは人の考え方です。物質世界にとらわれた見方しかできなければ悲しい結果なのかも知れませんが、考え方によってはその法が幸せだった結果もあるでしょう。自己顕示欲からは幸せは訪れません。自己顕示欲の自慢話などはばかばかしくて聞く気にもなりません。とても「愛」は感じられないからです。 *Top*
幸せと安らぎ
人は共に「生き」「生かされ」ています。人を「信ずる」事が出来なければ「思いやり」の心は生まれません。人が信じられないと云うことは相手の人格をも否定しています。人は皆周りとの共同集団の中にいます。一人っきりになる「孤独」が怖いのです。その為に集まり群れます。しかし、それは人を信じているからでしょうか?何となく皆と居る方が楽しいから、みんな同類の井の中の蛙的感覚だと思います。会社でも社会でも惰性での付き合いだと思います。真に人を愛し幸せを願っている人がどれだけ居るでしょうか?それぞれ目的が無い、見つけられない、向かうべき道筋が見えない。その為に日々を惰性で何となく生きている。その目的とは結果的目的ではありません。「人類愛」です。みんなが生きやすい暮らしやすい社会にすることが目的です。自分だけでなく周りの人全員の幸せを願うなら周りの人を信じなければ何も始まりません。信じると云う事は周りの人の立場に立って物事を判断すると云う事です。周りが心に安らぎが溢れればその安らぎはあなたの心に大きな愛となってかえってきます。 一番大切なのはあなたは周りによって生かされていると感じることです。自分一人ではないのです。
忠 告
人に愛されたいと熱望している人で努力をしなければ愛されることはありません。結果人を愛する心も育ちません。人を愛するなら自身を犠牲にしても人の為に重水無きもちが必要です。打算的なボランティアや愛や親切は自身の「良心」が一番良く知っています。自分の心には嘘がつけません。我々人は愛や欲望を熱望し、他力本願に頼っています。愛されないとか・・・。それは自己保存とか自己顕示欲、自我自欲にとらわれた欲望だけです。その為に人を注意したり中傷したり批判したりします。本当に相手の気持ちになって心から善意に考えれば判りあえます。これは人が本来持っている愛の心です。 口先だけの偽善者も第一印象とかフィーリングで何となく判ります。それは心のはどうを我々の心が受け取っているからです。最初は表面意識の五感に頼っていてもだんだんと先税意識の働きによって判断できるようになります。これらは我々が本来持っている力です。この力を強化することが良い判断力を下します。 *Top*
宗 教
「真の宗教」に宗派などあり得ません。宗教の教えなどと云うものは人の口によって語り継がれてきたものです。それはその時々の人の都合によって湾曲され曲解されてしまっています。真の宗教は我々の心の中になります。ちっとも難しいことではありません。神は我々共に心の中で歩み、素直な心の中にいらっしゃいます。自己中心ではなく他人を生かす知恵が真の宗教です。神は交換条件は出しません。宗教団体のように金銭や帰依によっての信仰に交換条件は決して出されません。本当の宗教は地位や財産と云った金銭をむさぼるのではなく人の心に安らぎを与えるものです。真の教えは「無償」です。減るものではなく与えることにより増えるものなのです。 宗教とは自分の欲望を叶えてくれるものではありません。しかし、宗教を信じ、帰依している殆どは「幸せになりたい」とか自身の不幸を訴える、また、不幸から天界への帰依を願います。不幸を取り去って貰いたいと願ったり。この様な他力本願な願いはこの物質世界の五感に縛られた狭義な感覚です。我々は肉体という殻に縛られて一寸先が見えないが為に極楽浄土を願い現世からの逃避を願います。しかし神は常にあなたの共にいるのです。本当に神を信じるなら自身の心の中にいらっしゃることに気づくべきです。今を一生懸命に生きることです。現状を嘆き他力本願に頼っていては何も成就しません。人を信じ人の幸福が自身の幸福になることに気づくべきです。自己中心的な考えは人々を迷わせ苦しめます。宗教に区別はありません。全て平等なのです。表面意識の僅かは感覚しかない我々は盲目のメクラかもしれません。しかし隠れた潜在意識が大きく存在していることに気づき全ての根元は同一なのだと感じることです。その事であらゆる人類を愛せます。
人は誰でも「悩み」「苦しみ」を抱えています。じっと自分の心に留めないで誰かに話すことで心のつかえが和らぐものです。
世の中には同じ悩みで苦しんでいる方も沢山いらっしゃいます。同じ悩みに共感し、少しでも孤立や孤独感から解放されることが大切だと思います。
ここに「匿名投稿掲示板」と「匿名極秘メール」を設けています。何らかの形で悩みから解放されたいと思われる方はご利用下さい。
最後までお読みいただき有り難うございました。皆様のより良い人生生活を心から願っています。
最後に今お悩みの方に何らかのお手伝いが出来ればと思い、私の【前世】と【トラウマ】について告白します。
何らかの形で御共鳴なり御批判なり有るとは思いますが、私の告白により何らかのお力になれるのであれば幸いです。
* 霊 界 1 * 霊 界 2 *