折々の雑文 第44回

奥歯に潜む悪意

折々の雑文 #44

 黒河さん、と呼ばれた時、私は歯科医の待合室で少し前のフライデーを読んでいた。如何にグラビアの井川遙が微笑もうとも、私の心は一向に癒されなかった。いよいよ最後の審判が訪れた、私はそう観念した。ドアのノブを捻る。歯科医は、またあんたかというふうな顔で私を見た。椅子に座ると、お世辞にも綺麗とは言えない歯科助手が前掛けをしてくれた。

「今日はどうしました?」
 大柄の歯医者はいつもの口調だった。
「右の奥歯の真ん中に小さな黒い点が」
「ああ、ありますね」
「やはり虫歯でしょうか?」
 お願いだ、否定してくれ。抜歯は痛そうだから嫌だ。
「虫歯ですね」
 希望はうち砕かれた。
「どうします?」
「まだ軽い状態ですが、取りあえず処置しますね。木村さん。用意して」
「はーい、失礼しまーす」
 キュイーンと耳障りな音がする。口の中で工事が始まった。止めてくれ、俺が悪かったごめんなさい、もう金輪際風俗遊びはいたしません。それでも虫歯自体が軽い為か、それほど掘削時間は長くなかった。しかし、次は変な味のする粘土のようなものをくわえさせられた。型を取るのだ。さらには削ったところは石膏で仮の補修をされた。
「詰め物の型を取ったんで、金曜に出来ますから、また来て下さい」
 口の中の突貫工事は終わり、呆然とした私だった。それでもなにか不安になってきた。 「あの、いいんでしょうか」
「何が?」
「虫歯があったところ、親知らずですよね」
「そうですよ」
「……抜かなくていいんですか?」
「いや、大丈夫ですよ。まだ症状も軽かったし。では、次の人」
 ツナギを着たバイク屋の親父が次の患者だった。「お疲れさま」と歯科助手は言った。

 歯科医院から出るとき、私は煮え切らない気持ちがした。確かに、親知らずの虫歯を早い状態で処置したことは良いことである。しかし、親知らずは京橋のピンクサロンのように抜くものと相場が決まっている。正常に生えた親知らずすら、花びら回転で抜歯するのが良いとされている。抜いて当たり前のものに、銀の詰め物がされるのだ。そんな話聞いたことがない。私は目眩がした。この歯科医は腕も確かで私の信頼は深いが、恐ろしいことに今後就職等で違う土地に住み違う歯科医のご厄介になるであろう。その時には、
(うわーこいつ、右親知らずを詰めてやがる。きっと抜歯を嫌がったんだろうな。餓鬼かてめえは。こいつ、歯を削るぐらいでおびえてるしな。いい年した大人がざまーねえな)
 とその歯科医は冷笑を浴びせるに違いない。なんということしやがるんだ。違うんだ、誤解だ。冤罪だ。

 他にも危機は考えられる。例えば、私が大欠伸をしたときだ。その時、一流ホテルのツインルームで、如何に私が酒と煙草で鍛え上げた肉体で、素晴らしい一時を女性に提供しようとも結果は同じである。
「ふぁーあ……、あっマリちゃん起きてた?」
「あれ、黒河君、もう一度口を開けて」
「えっ、どうして?」
「早く、大きく開けて。……ほーら、どうして右の親知らずに銀の詰め物があるのかしら?」
「……」
「ふーん、そうなんだ。大人の癖に、歯医者でグズったんだ……」
 ああ考えただけで恐ろしい。おそらく実は、あの歯医者は女性に野外露出プレイを強要する変態サディストに違いない。それに、チンポコが仮性包茎ならパンツを脱がないとバレないが、これはあくびなどで大口を開けたら、簡単にバレるではないか。しかも、仮性包茎よりも断然恥ずかしいぞ。私が仮性包茎かそうでないかは別としてもだ。

(2002/3/5)

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