隠蔽される言葉
折々の雑文 #45
セックスを婉曲に表現する場合の「エッチ」と言う言葉はどうも気に入らない。普通にセックスと言うよりも、余計恥かしくはないか。いい年したオッサンが「ねえ、あやちゅんエッチ好き?」とルーズソックスを穿いた小娘に言っていると、もう日本はダメなんじゃないかとすら思ってしまう。私は基本的に「エッチ」という語を使わない。多感な中学時代から普通に「セックス」と表現することにしている。今まで不便に感じたこともない。さすがの私も人前で「セックス」とか言ったことがないからだ。
文献によると、この「エッチ」言葉を編み出したのは、明石屋さんまとされている。テレビでおおっぴらに「セックス」と発言するのは大きな問題があるからだ。それを「エッチ」という隠語で隠蔽しても、視聴者もそれほど馬鹿ではないから、会話の前後でセックスを表現していると容易に理解できる。つまり、我々が使う「エッチ」という語は、その行為自体に潜む疚しさを隠蔽するために使用されている。だからこそ人口に膾炙したと考えられ、また言語の役割として何ら不思議な事ではない。しかし、このようなパターンで今後新たな言葉が出来ることが予想される。というか、何個も既に存在し、また若者たちには十分浸透している。一つ例を挙げてみよう。
「コクる」
告白という単語の略称であるが、これもまた行為自体に潜むものを隠蔽している。告白といえば、私のような信仰と理性の人間は主に「神に信仰を告白する」いうような使い方をするものだが、実務ではそうではない。例えばこうだ。
「あたし、あいつにコクられたの」
「えー、あたしも。ってことは、あいつゼミの女の子全員にコクったことになるね。ひどいよねえ」
と使う。いや私がそんな無粋な真似をしたわけではありませんが。つまり、「俺とつき合ってくれ」とかいうコトバを告白したことを「コクる」と呼称する。別に神父様に自分の犯した罪を告白しても、コクることにはなりはしない。それが例え、ゼミ全員を口説いて総スカンを食った罪であっても。いやだから、私の話ではないって。この「コクる」という言葉を否定的に見る向きもあるだろう。しかし、この言語感覚は大事だと思う。我々は概ねキリスト教徒ではないから、告白という行為に感じる後ろめたさを防御する手段が必要だろう。それが日本語のさらなる発展に繋がると信じたい。ちょうど日本人がアレとアレを隠蔽するためにボカシではなく、モザイクという見えそで見えないとんでもない映像技術を発明した快挙に近い。それが、現代では技術革新によって、ウスケシというたいへんありがたいものと進化したのは、学友諸君もご承知の通りである。これに私はいくら銭を注ぐことになったのか……。ところで、人生において、全くコクられずに人生を終える人もいるだろう。それは大変悲しい。もしあなたが異性に全くモテナイ人であって、また自分から「俺とつきあってくれ」とか告白できない人でも、大丈夫である。モテナイ君も簡単にコクられる方法を伝授しよう。まず、意中の人に電話で無言電話すればいい。それから、意中の人の宅前で、夜の数時間を過ごせばよい。何もする必要はない。すると、意中の人がどんなに鈍感な人であっても、あなたを注目する。少し頭の回る意中の人なら、あなたの全発言をミニマイクロホンで録音し始めるかもしれない。それもその筈、意中の人にとっては、あなたの声すべてが大切なのである。ああ、あなたって罪作りな人。この色男!
こうすれば、もうあなたと意中の人には距離など存在しない。意中の人はあなたのことしか考られない。いづれ意中の人はあなたをコクるだろう。それも他の連中のような口約束ではなく、行政を介した立派なものだ。また、法的な根拠があり、その効果は絶大だ。もしあなたが卒業間際の高校三年生なら、意中の人はこんな手紙をよこすかもしれない。
「卒業式の後、あなたを体育館裏の桜の木の下で待っています」
ほら、ついにコクられるぞ。約束のあなたは勇んでいくだろう。しかし、そこには意中の人はいない。いるのは大柄の兇悪な顔をした公務員たちだった。そう、意中の人はあなたを「告訴」するだろう。(2002/3/19)
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