ボビー・フイッシャーを探して
折々の雑文 #47
「ということは」レナは素っ気ない口調でいった。
「この机の中にはボビー・フィッシャーが入っていると?」――瀬名秀明「メンツェルのチェスプレイヤー」
フィッシャーが雲隠れして、もう十年も年月が経ったが、未だに彼の伝説は終わることがない。ロバート・フィッシャーという人物は、チェス界ではまさに伝説の人物である。彼は、世界チャンピオンとなり、防衛戦を拒否した一九七五年に失踪した人物だ。それ以来、一九九二年にユーゴスラビアでのリターンマッチで約二〇年振りに顔を出した。そしてまた質の悪いことに、そのリターンマッチを勝つと、またとしても世間から姿を消した。以来、殆ど消息は知られていない。フィッシャーが再びチェスをすることを望んでいるチェスキチも多い。
そんな人物が、昨年の春にICC(Internet Chess Club)というインターネットのチェス対局サイトに現れたというウワサがある。ICCは有料制のサイトでだが、guestという形なら無料で対局ができる。そんなあるゲストがプロの棋士であるIM(International Masater)相手に対局を挑んだものがいる。しかも、数局対局してもゲストがほぼ完勝であったというのだ。そして、その対局の棋譜を見ると、僕は少しチェスを知るものとしてぶったまげる。フィッシャーであると目されるゲスト氏は、後手で1. d4 f6 2. c4 c6 3. Nc3 Kf7?と三手目と指す(八局目の棋譜より)。3... Kf7?とキングをいきなり前面に出しているのだ。チェスでは、キングはなるべく動かさずキャスリングしてきっちりと守るのがよいとされている。駒が尽く盤面を去ったたエンドゲームではじめて戦力とする見方が多い。もちろん、このような差し方は、どんなチェスの入門書にも書いていない。ところがこれでも勝ったのだ。
このあとも凄い。 家にチェス盤のある方は押入から掘り出してでも並べてほしい。4. e4 Ke6 5. Nf3 Kd6 6. Bf4+(check=王手) Ke6 7. d5+ Kf7とキングを前線に出して挑発する。念のためにいうとチェスは将棋と同じく、王様を詰まれたら負けのゲームだ。丁度、アタマのおかしいた王様――差詰め風雲たけし殿が前面にで「コマネチ!」とやらかして慌てて自陣に戻るようで有様である。そのあいだに白は、前線に理想的な陣形を築いている。つまり、ゲスト氏はハンディキャップのため数手遊んであげているのだ。繰り返すが、これでも黒が勝った。いくら持ち時間三分の超早差し戦でも、これは素人の仕業ではない。こんなやり方で勝つのは、世界広しといえどもあの男しかいない。あのロバート・フイッシャーしかいない。もちろん、ゲスト氏がフィッシャーである何の証拠はない。しかし、ウワサはネット世界を駆けめぐり、挙げ句の果てには、チェス初心者の極東の雑文書きがネタにする有様である。ちなみに、フイッシャーに文字通りもてあそばれたIM氏は、かなりの棋力の持ち主であることも彼の名誉のために記しておきたい。
ICCに現れたのが、本当にフィッシャーだったとして、対局を申し込まれたIMはどう思ったことだろうか。
「なんだこいつ、俺と対局するだと……笑わすな」
1. e4 f6 2. f4 c6 3. c4 Kf7
「……舐めやがってこいつ、三手目にキングだと、シロウトじゃねえか」
しかし、1局目52手、白のIM氏投了。
「……いまのは、練習だ。もう一回」
2局目、37手黒(IM)投了。
「れれれ」
3局目、34手白(もちろん、IM)投了。
「あうあう」
4局目……ってもういいですか。こんな調子で全敗だった。僕はこのIM氏には心から同情する。おそらくチェス指しとしてのプライドがことごとく崩壊させられただろう。このIM氏は、この一件で人間不信に陥れ、新興宗教にハマったりしていないことを切に祈りたい。さて、このような一般的でないチェスのお話をわざわざ紹介したのには、理由がある。別にネタに困ったわけではない。そんなもん、僕の恥の多い生涯にはお笑いの連続である。でも、このようなシチュエーションはかなり面白くはないか。本邦ではこのIM氏のような状態をこう表す。
「藪から棒」
この場合はさじずめ、
「藪からフイッシャー」であろうか。
ちなみにフィッシャーは、若い頃の写真はそれなりの好青年であった。ところが、雲隠れ後の一九九二年のリマッチに現れたフィッシャーは少し太り、頭髪も禿げ、いい年したオッサンとなっていた。年月の流れは何とやらである。雲隠れしたまま姿を出さなかったら、「ああフィッシャー様」と恋い焦がれる娘たちもたくさんいたことだろう。しかし、彼女たちも写真を見れば夢から覚めるだろう。
「……なにこれ、フィッシャー様って結構オッサン」
これ以上書くと全世界ウン千万のフィッシャーファンに抹殺されるかもしれないので、この辺で止めておこう。それと、幻想を抱くむしゅめたちよ、フィッシャーは一九四五年生まれで、今年五七歳だから勘弁してやれ。そういうわけで、ボビー・フィッシャーを探しても、良い結果が待っているとは限らない。
(2002/5/6)
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