今週
(3/12)の雑学大学は、石川 潔さんの「ヘボンさんてどんな人?」でした。石川さんは、別名「辛子家八いろ」という八色唐辛子の研究家でありまして、1991年12月8日に「とうがらし」のお話をして戴きました。石川さんは、母校、明治学院の初代院長ドクトル・ヘボン来日140年を記念して関連年表をこの程自費出版しました。そこで「ヘボンさんてどんな人」とは。
●ヘボン式ローマ字で有名なヘボン。
本名は、ジェームズ・カーティス・ヘップバーンだが、「ヘップバーン」が日本人には「ヘボン」と聞こえ、「ヘボン先生」と親しみを込めて呼ばれていた。そして自らも「平文」と称していた。
ヘボンは、1815年に米国で生れ、1859年に、キリスト教伝道のためその年に開港したばかりの横浜に上陸する。約
33年間、幕末から明治にかけての激動の時代の日本に滞在した。ヘボンが日本へ渡ることになったときアメリカのヘボンを取り巻く全員が反対した。
日本には五十万人の二本差しのサムライがいる。刀の数は百万本もある。何を好んで、そんな危険な国へ行こうとするのか。しかし、ただ一人賛成してくれたのは、クララ夫人であった。そのときヘボンはニューヨークの医を処分をした金(恐らく全不動産を処分した金)、一万ドルを上海銀行に預けた。
一万ドルとは、当時の金でどの位の価値だったろうか。
1859
年に徳川日本と英米の為替ルートが決まった。1ドルは銀三分である。この時代は四進法だったので、一両は四分、一分は四朱、文は四千文で一両である。(かけそば、風呂の価格は十六文との記録あり)
1ドル銀三分とは当時の為替レートでは、
0.75両となる。一万ドルとは七千五百両に相当する。一両を十万円の現在価値とすれば、七億五千万円ということになる。これだけの資産があれば、危険な国へ行って何かをしようとしても、心強い経済的な裏付けになったのではあるまいか。
これが、ヘボンが日本でいろいろなボランティア活動を行なうにあたっての、基礎になったと思われる。明治の初めに為替レートは1ドル一両になったから、ヘボンの資産は7億5千万円から10億円となった。これだけの資産がありながらヘボンは、危険な百万本の刀がある国日本へ、何故行こうとしたのか。
ヘボンはキリスト教宣教医という身分である。宣教師とは異なる。
宣教医として最も大切なことは、外科的な技術であるといわれる。たとえば、軍医の場合、必要とされるのは外科技術である。内科の問診では急な場合に間に合わない。未開の国に赴く医師も、同様に外科的技術を要求された。
宣教医のヘボンは、アメリカの教会からは給料が出ていない自給宣教医。
家賃、医師備品などの必要経費は出るが、生活費は出さないという約束ごとでヘボンは日本の土を踏んだ。その時ヘボンは44歳であった。
ヘボンがニューヨークを出発したのは1859年4月24日、100日目に香港、8月29日には上海につき、10月1日いよいよ目的地日本に向かった。長崎に立ち寄る。長崎は当時、唯一の国際都市であったがオランダが中心であった。さらに
10月17日夜、イギリス船で神奈川湊に到着。翌18日、横浜に上陸した。
先に述べた神奈川とは、神奈川県という意味ではなく、神奈川宿である。
横浜とは横浜湾内に、長崎の出島のように作った居留地のことである。その前からあった横浜村は小さな漁村であるが、住民は居留地建設のために強制的に移転を命じられた。そして、その村の名前は「元横浜」の意味で「元村」と名づけられた。それが、いまの「元町」となった。
幕末のころの神奈川とは、現在の京浜東北線の東神奈川と横浜の間あたりを指し、新しく作った居留区を横浜と呼んでいた。幕府は、交通の要衝である神奈川宿あたりで問題が起きても困るので、外人を全部居留区にまとめる政策をとったのである。
埋立地は、湾がわは海、陸がわに堀割を設け、三ヶ所の関所を作った。今の伊勢崎町の入り口あたりと、元町寄りあたりになる。関所の内を関内といった。現在の「関内」
(京浜東北線)がその名残りである。ヘボンが横浜についたのは、日米修交条約が結ばれたあと、横浜居留地に商館などが出来はじめていた。この居留地は現在の山下町あたりである。
アメリカ領事の手配で、神奈川宿の成仏寺の本堂を改造したのが、ヘボンの住居になった。42フィート四方の広さであったという。家賃月16ドル。当時の為替レートで換算するとほぼ十二両。一両十万円換算ですると現在貨幣で百二十万円となる。幕府が斡旋して、ヘボンが家賃を成仏寺に支払う仕組みであった。
のちに来た宣教師バラー夫人の手紙によると、寺には夜、鼠が天井を駆け巡って騒がしく、そのすごさは猫でさえ逃げるほどである。お供物を狙って、日中は烏が墓地を飛び回る…とある。ヘボンは本堂が広すぎるので、襖や障子で八つに仕切って生活した。
アメリカ人はペンキを塗るのが好きだが、ヘボンは住居をきれいに使っていた。
しかし、時代はまだキリシタン禁制の世の中である。
宣教医(牧師ではなく一信徒の医師)ヘボンに対しても、幕府の監視の目は光る。
キリシタン禁制は明治6年2月24日まで続いたから、ヘボン夫人が持っていた聖画が役人の目にとまって、大騒ぎになったこともある。
ヘボンは渡航中に船の中で「日本文法書」を読んでいる。しかし、船中に日本人は一人もいなかったので、日本語会話を学ぶことができなかった。ヘボンは神奈川の土を踏んで、積極的に会話を学ぼうとした。ヘボンは街を歩くと工事現場を見かけたので、近寄って眺めようとすると人夫に注意された。「危ない!」
「アブナイ」。これが、ヘボンが最初に覚えた日本語だ。
その次の言葉は「コラ!」だった。
次に覚えた言葉は「シカタナイ」であった。
この三つが、来日すぐに覚えた日本の言葉である。
ヘボンは同じ外国人のために、日本語の辞書を作ることを思い立った。
船中で覚えた言葉は「コレワナンデスカ?」だけだったが、神奈川宿の街に出ては「コレワナンデスカ?」を連発して、日本人の答えを書きとめる作業をする。
異人さんを見たさに後をついてくる子供たちが、ヘボンの最高の教師になった。
神奈川の成仏寺では、近くの寺を借りて診療所を開いた。当時の日本人は眼を患う人が多かった。次に多かったのはアバタ面(疱瘡)だったという。異人さんの医者が、片言の日本語を喋り、しかも西洋医学による施療(無償診療)である。患者がどんどん集まったのは当然であった。
特に、目薬はよく効いた。漢方では、目薬は膏薬しかない。つまり目の縁に貼るという処方である。ヘボンの目薬は点眼液(硫酸亜鉛希釈450液)であって、結膜炎などには即効がある。ヘボンの患者の60%は眼科患者だった。すぐ直るという評判は評判を呼び、しかもタダ。診療所は、門前市をなした。
眼科以外の患者は、コレラ、ハンセン氏病、性感染症、外科手術など多岐に渡っている。ヘボンが成仏寺に滞在したのは3年3ヶ月である。その間に、生麦事件が起きている。薩摩藩士に切られたイギリス人が、アメリカ領事館に担ぎ込まれた。幕府の役人は切られた異人の処置を考えたとき、イギリス領事を探すより、とにかく異人の医者で片言の日本語を話すヘボンさんへと、走ったに違いない。
ヘボンの施療は、ますます繁盛した。
ヘボンは宣教医であるから、キリストの話を患者にしたいのに、キリシタン禁止令のためにそれが出来ない。また、異人への殺傷事件が頻発する時期でもあったので、ついに幕府はヘボン診療所・住居の周囲を矢来で囲み、番人を置き、出入りをチェックした。そして横浜に移転させた。
ヘボンの住所は、横浜居留地39番となった。(現在の山下町・テレビ神奈川の隣あたり)ここで、ヘボンは本格的に施療をはじめた。特に関所内で、不良浪士も入り込まず、安心して医療行為ができた。患者はさらに増加し、一日平均50人を診察し、薬を調合して渡し本格的な外科手術も行う。
さて、徳川幕府が政令を下々に通達する場合は、高札制度をとった。
街の辻に立てられる板に、墨で文言を書いて示すお触れである。これは明治政府に引き継がれ、廃止になった明治6年2月24日まで続いた(キリシタン禁止令も含め、すべての高札が廃止された)。
ヘボンの布教活動は、ようやく陽の目を見た。
外国人居留地にはハウスナンバーがついていた。ヘボンの住居ナンバーは
39番であった。外国人居留地は今の山下町であることは前に述べたが、のちに山手も居留地が増え山手居留地のハウスナンバーは今でも地番になって生きている。ただし、当時のナンバーのままなので、5の次は6などの順番ではなく、とんでもない飛び地になっている。
ヘボンの無料診療所が繁盛したということは、日本人が大勢くることである。患者と言
葉を交わす度に、ヘボンの語彙は豊富になっていく。ヘボンは外国人のためにも日本語の辞書が必要と、前から考えていたが、いよいよ実行に移すことにした。
元々、目的としていた新旧の聖書の翻訳にも、日本語の辞書は必要となるのだ。
居留地
39番の時代のヘボンは、診療所と日本語辞書編纂のため多忙を極めた。その辞書は「和英語林集成」といって、日本最初の和英・英和辞典である。日本では印刷ができないので、上海で印刷をした。しかし、上海には当然、漢字の活字はあるが片カナ文字の活字はない。
そこで、日本から岸田吟香なる人物を上海へ連れて行って片カナ文字を書かせ、それを裏返して木彫りにしたものを母型に活字を作った。しかし、中国人の文選工は慣れない文字に戸惑い、シとツ、ソとン、テとラの誤植が多発した。この校正に時間を取られ、予定より
3倍もの時間を要した。
「和英語林集成」は、大変な苦労の末に遂に完成した。改版ごとに語彙を補充して、
3版までは上海で印刷し、以後は横浜の丸善に任せた。丸善は丸屋善八商店の略で、後に東京・日本橋に移転する。俗説では八人の善人が集まって丸く商売しようと、丸屋善八商店と名乗ったと伝えられている。
丸善設立のメンバーは、ヘボンの元で医学を学んでいた人たちである。本来は見学者であったが、ヘボンさんの超多忙に手伝うようになった。その中の一人が、早矢仕有的といって丸善創設者である。早矢仕は蘭法医でもあったが、ヘボン診療所でアメリカ医療器具を見て、これを輸入することを考え、丸屋善八商店を作った。
医療器具の輸入にあたっては、器具を店に並べることができないので、まず自分たちが持っている洋書を並べたとのこと。これが、今日の丸善が洋書に強い理由にもなっている。平行して衣服の輸入も行なった。丸善の3階フロアに輸入の高級ブランド衣服が置かれている理由である。早矢仕有的は医師でもあったので、丸屋善八商店の隣に医院を開業した。
早矢仕医院は、面白いことに医薬分業をこのとき実施している。早矢仕医院で診察をして処方箋を患者に渡す。患者は医院の隣の薬局で薬を受け取る。明治
2年のことであった。丸善はヘボンから版権を買い取り、九版まで出版した。ある出版社が「和英語林集成」1,2,3版までの復刻版を、今年出版している。
「和英語林集成」の素晴らしいところは、和英・英和辞書に止まらず、和英、英和ともに例文が出ていることである。この場合、日本語をアルファベットで表現したのが、ローマ字である。それまで、ポルトガル語やスペイン語の日甫、日西辞典はないでもなかったが、これほど外国人に日本語を読ませるために、システム化された辞典はなかった。
「ローマ字」の本当の意味は、ローマの字であるからラテン文字である。
すなわちアルファベットである。私たちが何気なくローマ字といっているのは、日本語をラテン文字で表記するシステムのことである。このシステムを作ったのは、外国人のために「和英語林集成」を作成したヘボンである。
現在、わが国のローマ字には、「日本式ローマ字」、「訓令式ローマ字」、「標準式ローマ字」の
3種類がある。統一されないまま、使われているが、ヘボンのローマ字は俗に「標準式ローマ字」という。昭和39年内閣告示で「訓令式ローマ字」を正式のローマ字とすることになったが、たたし「国際的慣例上、外国人などに対しては標準式を使用しても宜しい」となっている。
そこで現状を見ると、外務省は国際間の慣習上ヘボンの流れを汲む標準式、文部省は訓令式、運輸省はむかしから駅表示は標準式を使用している。私が見て疑問に思うのは、建設省関係である。訓令式でもなければ標準式でもないゴッチャマゼである。
たとえば、本間さんは「HONMA」と普通は訓令式では表記するが、外務省の標準式(ヘボン式)ではHOMMAとなる。ヘボン式のルールではBとMとPの前のンはMで表す約束事がある。新橋駅は「SHIMBASHI」となっている。ところが駅前の信号に下がる表示は「SHINBASHI」。
ともあれ、「和英語林集成」が出来たので、外国人が日本語を勉強するのに役立ったのは当然として、日本人が英語を勉強するのにもっと役立ったのである。幕末の時点で外国語といえば、それはオランダ語のことであった。蘭学こそはヨーロッパ諸国の情報を知るための唯一の手段だった。
ところが、ペルー黒船来襲から開国となり、わが国は英語を必要とする時代に急速に変わっていった。蘭学を修めた福沢諭吉が横浜へ来たときに、商店の看板の横文字が、何一つ読むことが出来なかった。そのショックが諭吉をして英語の勉強をせしむる、キッカケになったといわれる。
アメリカへ行きたくて英語を勉強した諭吉は、咸臨丸に乗り込んだ。
しかし、正式の派遣員ではなく、偉い人の従僕としてであったが、なんとかアメリカに行くことが出来た。帰ってからの諭吉の活躍はご承知の通りである。
英学塾が盛んになると、「和英語林集成」はどんどん売れた。
「和英語林集成」は、日本人の目を世界に向ける大きな役割を果たした。
へボンは「和英語林集成」に七年間を費やしたが、次の大仕事は聖書の翻訳である。日本においてキリスト教の教義は、日本語でなければ伝えることはできないという事情もあった。ヘボンより前に、聖書の和訳をした人は外国人に何人かいる。しかし、日本語訳をするには日本人のスタッフが必要である。
外国人で、当時日本語翻訳スタッフにした人のほとんどは漂流者として救われた日本人漁民であった。しかし、翻訳に携わるには基礎的な教養に欠けていたり、あるいは言葉が方言だったりで、問題が多かった。ちょうど明治政府が東京に移り、日本の言葉の標準語化を実施しようとした時期でもあった。
ヘボンは辞書作成をプロテスタントの各派閥から選び、チームで作業することを考えた。しかし、日本語の意味を正しく理解する人がいなければ、正しい聖書はできない。ヘボンは一流の国漢学者に協力を求めた。日本人の参考になったのは、そのときすでに完成していた漢訳聖書であった。
こつこつ始めて完成したのは、新約聖書が
1880年4月、旧約聖書は1887年12月であった。まさしく20年間を要した。この20年の翻訳作業に、最後まで関わったのはヘボンただ一人であった。昭和28年に日本人だけで作った口語訳聖書ができるまで、日本の新・旧訳聖書の基はヘボンを中心とした翻訳委員会の訳書であった。
ヘボンの施療行為は、ボランテイア活動としては、例を見ないくらい画期的であった。居留地に米人や英国人の医者もいた。しかし、それらの医者は職業としての医療行為であって、日本語を喋らないから通訳を必要とし、高くつくので限られた人しか利用できない。
貧しい人が掛かれたのは、ヘボンの診療所である。日本語で問い掛け、親切で薬まで調合してくれる。「完治せざるもの無し」という評判であった。診療所は午前中という取り決めだが、患者が多くて、いつも午前中には終わらなかった。ヘボンの述懐に、私の患者のカルテは、一万枚以上に及ぶとあった。
前に述べたように、患者には目を患う人が多かった。「下は乞食から上は老中まで施療した」とヘボンは語っている。最初の頃はほとんどが武士だったらしい。医者が外国人でキリシタンと警戒されたいたが、高級官僚である武士などが「つて」を求めてヘボンの診療を受けることができたから。
しかし、キリシタン禁制が解けてからは、庶民が診療所に出入り自由となった。
施療を受けた農民の中には、タダでは申し訳ないと卵を届けたり、野菜を持参するものもいたが、ヘボンは誰かれの分け隔てなく親切に診察し、薬を与えた。まさしく、ヘボンは行動で人格を証明したのである。
さて、最後にヘボンの愛したものの話をしたい。
サラリーマンの転勤で、新しい任地での挨拶は大体決まっている。
「私はこの土地に骨を埋める気持ちで頑張ります」。これはウソで、こう言わないと、部下がついてこないと思うからそう云う。しかし、ヘボンは「私は日本にキリスト教を伝えるためにやって来た。その役目が終わったら、アメリカへ帰ります」。そして「INKYO(隠居)します」と云っていた。
44歳で日本へきて、33年滞在したヘボンは77歳になっていた。ヘボンは日本で施療はじめ「和英語林集成」の出版、キリスト教伝道など数々の功績を残したにも拘わらず、自ら多くを語らなかったために、資料はあまり残っていない。しかし、調べてみると、日本の文化に色々な形で貢献しているのである。
ヘボンは旅行が好きだった。中でも日光は特に好きで、よく出かけた。だが、最初は異人さんは四つ足を食うから汚いという理由で、旅館では食事を出さなかった。ヘボンはそこで、夫人と日光へ行くときはコック夫婦を連れて行った。泊まった宿屋は、ヘボンの助言で出来た外国人用ホテルの金谷コッテージイン。後の金谷ホテルである。
ヘボンはこのことについては何も語っていないが、金谷ホテル「森と湖の120年」に書いてある。中川牛肉店の製氷会社も、これからの食品衛生上、氷が必要になるとのアドバイスで設立されたと云う。
横浜の英学塾、ヘボン塾を始めたとき、幕府の高官、旗本、佐幕派の子弟が明治になってから、新しい時代のために競って入学した。ヘボン夫人が中心になった事業であるが、月謝の記録は調べても出てこない。おそらく無償で行なっていたと思われる。その塾は次第に発展し、(他の宣教師の塾と合併し)東京へ移転して明治学院になった。
明治学院の最初の総理(院長)は、推されてヘボンが就任した。やむを得ず総理に就任したが、二代目の総理には日本人がなるべきであると主張して、それを条件として就任した。
さて、ヘボンはそのように、日本文化に数々の貢献をしてきたが、では日本人を「愛して」いたかといえば、私の答えは「NO」である。
ヘボンが最も愛したものは、「神」である。ヘボンの行動は、日本にキリスト教を伝えるためにしたことで、必ずしも日本人が好きでやったこととは云えない。と私は考えている。大好きな神様のことを、日本に伝えたいための行動であった。
ヘボンが存命中に伝記を書きたいという人が現れたときは、頑強に断った。
私はヘボンの「年表」を昨年、自費出版した。その理由は、伝記を書くと作者の主観が入り、どうしても誉めてしまうことになる。事実のみを時間的経過に従って記述して、ヘボンへの評価は、読者自身に任せることにした。その時の日本はどうだったかを併記し、また横浜はどういう状況だったかも記録した。
ヘボンは確かに偉大な、非凡な人であった。
しかし、自ら名乗った名前は、どういうわけか「平文(ヘイボン)」であった。
終わり
(文責
三上 卓治) [ホームページに戻る]