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今週(3/19)の雑学大学は、早稲田大学名誉教授岩倉誠一さんの「コミュニケーション今むかし」でした。元早稲田大学総長小山宙丸先生のご推薦によるご登壇です。

 

●いま、吉祥寺村立雑学大学二十周年記念の本を戴いた。この歴史ある市民カルチャーにお招き戴き光栄に思う。さて、私がこれから申し上げる講義には、カタカナ言葉が沢山出てくる。これはお話することの内容からいって、仕方がないこととご承知願いたい。

先週の国会で、文部大臣が5分間の答弁の中に20以上のカタカナ語が出てきた、日本文化を守るべき立場の文部大臣としては、如何なものかと野党委員に噛み付かれていた。私はなるべくカタカナ語を使わないでお話しようと思ってはいる。

しかし、本日の講演テーマになっている「コミュニケーション」などは、無理に日本語でいうと「通信」となるが、これでは本来の意味が通じない。コミュニケーションとは、そもそも二人の、人間の間の会話ということを示すと理解して頂きたい。

 

コミュニケーション論では、送り手と受け手というが、AさんとBさんの間にメッセージの交換が行なわれている状況である。メッセージとは話の内容である。すなわち、送り手と受け手がいて、メッセージがある回路(チャンネル)を通じて伝達されることが、コミュニケーションが成立する条件である。

 

二人の人間の会話が行われている場合は、回路は音声である。

これが手紙になると、レターコミュニケーションで、回路は紙と筆ということになる。電話だったら回路は電話回線となる。と考えれば、コミュニケーションということの状況が理解しやすい。

 

コミュニケーションには以上の4つ、すなわち送り手、受け手、メッセージ、回路があって成り立つ。しかし、受け手から返事(反応)が返ってくることがある。この返事を、フィードバックという言葉で呼んでいる。これは、機械の動力の回転を自動制御する装置から、語源が出ている。

 

日本語では、送り返すという言葉が適合している。

フィードバックを、先輩たちは「饋還(きかん)」という、たべものを贈る意味の言葉に訳した。贈って返すという意味では正しいが、昨今、工業技術の進歩の速さでは、いちいち翻訳していては間に合わないので、そのままカタカナ語で使っている。

 

受け手から返事が返ったときは、先の送り手が受け手になる。つまりメッセージの交換という状況になる。

では、私たちがコミュニケーション活動を行なうときには、私たちの体の中にどのようなシステムが活動するのか、3つに分けて考えてみたい。

一つは、話したい内容を相手に分かりやすく伝えるために、文法上、主語はなにか、述語はなにかと工夫する。それは、人間の頭のメカニズムだから記号化機構と呼ぶ。次は、相手はなにをいって来たのかメッセージを解読する。その次の段階は、自分の経験や知識に基づいて、それを解釈する。

 

そして、相手の質問に対して返事を行なう。つまり再び受け手が記号化を行なう。この返事を元の発信人は解読する。そして解釈する。そして、再び相手の言葉にレスポンスする。それは主として言葉だが、場合によっては絵を描くこともある。このような形で、コミュニケーションは循環していく。

 

AとBの解読の仕方が異なると、当然メッセージは相手に伝わらない。

最近の例でいうと、アメリカが考えている人権と、中国が考えている人権は意味内容が違っている。だから行き違いになる。これをコミュニケーションギャップという。別の表現では、コミニュケーション断絶である。

 

身近な例では、電車の中で小耳に挟む若い娘の会話。何を話しているか、さっぱり分からない。私たちが持っている解読のシステムと、若い娘達がもつ記号化のシステムが異なっているのである。世代間のジェネレーションギャップも同様である。

 

こうした人間が集まって、社会をつくったらどうなるか。

人口が高々100人程度の集落の社会を考えると、理解がしやすい。例えばヨシノガリ遺跡程度の見張り台を持つ集落では野火に驚いた獣たちが暴走して集落に押し寄せてくるのを、見張りが発見したとする。

 

丁度、アメリカ映画の西部劇に出てくるインデアンの集落があると、小高い丘には、必ず馬に乗った見張りがいるが、それと同じ状況で、外側の環境では何が起こっているかを解読する人がいる。見張りの条件は、目が良くて、脚が速い人である必要がある。100人の中から、選ばれる人が出てくる筈である。それが、社会が行なう解読機構である。

次の、社会が行なう解釈とは、どういうことか。見張り人から知らされた情報を、村としてどう受け取るか、皆の意見を集めるために、会合を開かなければならない。

 すると、会議をリードするのは誰かという問題が起こる。

大昔なら、その役目はシャーマン(呪術師)である。今日でも、天皇の即位には、亀の甲を炙って吉凶を占う儀式が残っているくらいである。社会がもう少し進んでくると、村人から推されて人望の篤いリーダー(村長)が生れてくる。 つまり、会議が行なわれたときに、その会議をリードする役目の人である。

獣の暴走が始まったという報告を受けたとき、村人が集まってどうするかを相談する。防柵で防ぐか、村全体で逃げるかを決めなければならない。村全体がなっとく出来る決定をすることが、情報に対する解釈である。

それでは、村社会が持っている記号化とはどういうことか。

今日の社会状況とはまったく異なって、魚の獲り方であるとか、火の熾し方とか、鳥の捕まえ方とか、村が持っている生活技術が重要な地位にあるが、それらを次の世代に伝える役割を持った人物が、必要になってくる筈である。

 

すなわち、文化伝達の役割の人であるが、文字のない時代に文化伝達に最も適した人は、物覚えのいい人である。日本の歴史の中に、色々物覚えのいい人物の登場があった。語り部といわれる人たちがその任にあ当たっただろう。世代毎に文化を伝える役割の人がいないと、社会の運用がうまく行われない。

 

前段で述べた個人のコミュニケーションを司る三つのメカニズムが、人間が集まって形成された社会のコミュニケーションでも、やはり必要なのである。そうすると、大きな社会になったときは、誰の目がいいとか、脚が速いとかの情報で、人を選んで決めるわけにはいかない。

 

そこで、登場するのが、マス・メディアである。

見張り人の役割のどのメディアが適しているか、についてはラジオでもテレビでもいいが、放送に敵うものはない。次に解釈を行なうメディアであるが、それは印刷メディアである。新聞・雑誌の活字メディアにその資格がある。

 

つぎの記号化には、現在たくさんのメディアが存在する。

例えば、博物館。これ自体がメディアである。子供たちに祖先が創り上げた文化を伝達していく役割がある。もっとポピュラーなのは、教科書である。これらが記号化の役目で、平たくいえば先生である。

 

この基本的な図形を覚えておけば、今日のマス・メディアはすべて分析できると、学生達に云っている。すなわち、マス・メディアは見張り人(環境を監視する)の役割、防御を作り上げる(解釈=社会の合意を作る)役割。記号化(文化の伝達)の役割を持っている。

 

今日のマス・メディアは、夫々の特性に応じて役割を分担しあっている。付け加えるものがあるとすれば、社会を楽しませる「娯楽」であるが、基本的には前述の三つである。我々が行なっているコミュニケーションというものは、体の中に入っている三つのメカニズムを使って行なっていると考えればよい。

 

 

さて、ここで文字のない時代に、何が日本の社会を発展させて来たかを、歴史に沿って考えて見たいと思う。

 外界で何が起こるか分からないための不安がシャーマンを必要とした。

しかし、社会が進むにつれ、外界に対する情報も得られ、シャーマンのいうことが必ずしも当たらないと気づく。さらに自然環境に対する知識の蓄積は、もはや呪術師の存在を必要としない段階に至る。

 社会が進歩して、呪術師が不要になって放逐された場合、呪術師は一体どうなるのか。大方は芸能民となった。そして、社会の外側からこの社会にインパクトを与えるようになる。つまり、恐い話をすることによって、社会を脅かす。脅かされることによって、社会は益々防御を固めるようになっていく。その結果、わが国で最も顕著な例となるのは、鬼の伝説である。

全国各地、鬼の話は、実にしばしば出てくる。

村の周辺には、森がある。森と社会の間や、昼と夜の薄暗い境目などの隙間すきまに鬼がいるのだ、と信じられていた。それは話し言葉で、もと呪術師だった芸能民の口から社会に伝えられたものだ。(平安時代・・・・・)

 

社会は自衛するために、その人たちを社会の外側に置こうとする。私たちの社会の中で、ある特定な人を「排除」するとき、「排除」を作り出す人は常に政治である。社会に害のある人を社会の外に放逐(差別)する場合、人間の心の中には、鬼の性格が潜んでいる。

 

日本人の創造性が作り出した恐い話には、社会の外側から防御の壁を厚くする役割を担った人々の存在が見え隠れする。ところが、時間が経過すると、社会が芸能民を外側から内側に取り込むように変化する。

何故か?それは娯楽のためである。

 

室町時代を考えると、理解がしやすい。

室町時代は、打ち続く戦乱のために田畑を荒らされた農民が、食物を求めて国中を放浪し始めた時代でもあった。その中で、土地土地の特産品を市に持って行き、他のものと交換する人も現われ、ある種の商品経済が発生した。

 

もう一つ、お金が使われ始めたことも、重要なポイントである。商品経済の発達は、貨幣経済をもたらした。しかし、まだ世情不安の中で、それらの経済活動に必要な売り手と買い手の信用保持のために、芸能ということが見直されるようになった。

 

多くは音楽である。そして舞踊。お花。絵などの諸芸能である。

売り手も買い手も、信用を得るために相手を自宅に招いて、絵や花を飾った部屋で音曲を聴かせ、踊りを見せるなどの接待を行なう。社交のための道具立てとして芸能が発達したのである。

 

遊行者(ゆうぎょうしゃ)。すなわち田畑を失った放浪者の中から、音楽や舞踊の得意なものが、次第に芸能者としての頭角を現わす社会環境となった。自らを「阿弥(あみ)」と称し、僧の風体で芸能を行なった。世阿弥が能を創造した。曲舞(くせまい)も、念仏踊りから発している。

 

念仏踊りから、「出雲の阿国(いずものおくに)」というタレントが出て、これが歌舞伎の発祥となった。僧も旅に出て、仏法の修行をした。一遍(いっぺん)上人、空也など数多くの例を見ることができる。

若い僧の中には、修行のために遊行僧となるものも多かった。崖が崩れていたら、率先して土盛りをしたり、洪水で橋が落ちていたら、村人とともに丸太を担いだ。その献身的な行為によって、よそ者だった僧が村人たちの尊敬を勝ち得た。その僧が語る仏の教えは、真実、村人たちの心を打つ。

 

遊行僧は、困難を切り抜けるという行為の中で精神修行を行なうと同時に、仏の教えを民衆に流布するという役割を担う人物となった。

鎌倉幕府が成立した頃、武家社会が持つ規則的な暮らし方に、無常を感じる武士が、いわゆる遁世した。これを遁世(とんぜ)者という。

 

遊行僧にしても、遁世者にしても、今日の言葉ではリテラシー(識字能力)の保持者だったことに注目したい。つまり、「読み書き」ができる人たちであったことが重要である。遁世者は作品を書き始める。たとえば「徒然草」を書いた兼好法師は、占部兼好(うらべのかねよし)という武士の遁世である。

 

後世に残る戦記もの、太平記の小島法師、随筆の名作、方丈記の鴨長明など著作活動をする侍、禰宜などが多く現れた。遊行にしても遁世にしても、当時の言葉を使えば賎民(せんみん)である。めしが食えない。徒然草の中に出てくるが、黙って物を呉れる友が一番である。悪しきは、高く、やんごとなき人とある。

 

日本の文学史を顧ると、平安朝の文学は女房たちが、室町時代の文学は遁世者たちが担ったとも言える。すなわち、文字という存在が社会の中で、大きな価値を示し始めてきたのである。阿弥たちが行なったパフォーマンスの舞踊、生け花、音楽などの諸芸は、文字を持たない賎民の、文字に依らないコミュニケーションであったと言える。

 

鎌倉時代と室町時代を比べて、何が違っているかというと、遊行の姿が違っていることに気付く。鎌倉時代の遊行僧は、仏の教えを広めるために整理されていない街道を、鍋釜を背負って行かなければならなかった。室町時代の遊行者は商品経済がそこそこ発達しているので、道は整備されている、鍋釜を背負う

ことなく、金を懐にして旅をした。

 

遊行者は読み書きが出来るから、それらの文学作品を作ったのであるが、これらには、文学として重要な要因があった。それは口誦(こうしょう)文学と呼ばれるものである。一般には読み書きが普及していなかったために、遊行者が琵琶を弾きながら戦記物を語って聴かせた。その語りは、平家物語がそうであるように七五調である。日本人に最も親しみやすい音律が、七五調の中にある。

 

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・・

と言えば、日本人の記憶装置に、琵琶の伴奏により韻律として快く聞えるのである。そして、やがて遊行聖(ゆうぎょうひじり)とか、比丘尼(びくに)など旅をしながら口誦文学を語る聖職者たちが、文学を民衆に伝えるようになるのである。

当時の人々は、七五調の語りを娯楽として、受け止めていた筈である。

市(市庭−共同作業をする場=市場)が開かれる場所は、虹の立つところと、思われていた。物物交換のレートは、誰が決めるのかと言えば、それは神である。神は何処にいるかといえば、鬼と同様にものごとの境目にいる。

 

たとえば、神のいる処は海と陸の境目、夜と朝の境目、天と地の境目である。

虹は天と地の境目に立つ。したがって、虹の立つところに神がいて、物の交換の秤を司ると信じられていた。まさにアダム・スミスの、経済は神の見えざる手によって導かれるという経済原論と同じ思想である。

 

さて、その市とは流通経済の発達とともに、人が大勢往き来する場となった。

娯楽を生業とする遊行者は、客に道々の話を混ぜながら、人々に語りを聞かせたであろう。それが、今日の言葉でいうニュースである。文字の読み書きが、一部に限られていた当時では、ほとんどの情報は話し言葉で伝えられた。文字言葉が一般に普及するために最も有効であったのは、出版物であった。

ここで、改めて出版物の話をしてみたい。

古くからいえば奈良時代に、世界最古の出版物がある。孝謙天皇(女帝)の七六四年、勅願として全国の寺に百万塔を寄進した。百万塔という小さな厨子の中に、陀羅尼経が込められた。

その経は、銅版または木版による紙への印刷によるものである。しかし、わが国で出版物が発達するのは鎌倉時代以降である。僧たちが中国から入ってきた仏典を、そのまま木版復刻して使った。

 

宇治の万福寺に、膨大な数の大蔵経の版木が残されているのは、その名残である。すなわち、大量の出版活動は寺院を中心に広まった。天皇の勅命により、京都に五山が開かれたが、ここから五山版という経典が出版されている。

法然上人が、黒谷に集まる信徒たちに仏の道を説いたが、弟子たちがそれを書き留めて出版した。

 この「黒谷上人語答録」は、わが国最初の「かな混じり文」出版物である。それまで、出版物はすべて漢字によるものであった。以後、平仮名が入った出版活動が、盛んに行なわれるようになった。これらは、すべて木版印刷で行われたが、時代の推移とともに金属版による活版印刷に移っていく。

 

その時期は、秀吉による朝鮮戦争である。秀吉の軍が、戦利品として朝鮮から持ち帰った銅活字印刷機である。それが天皇に献上されて、天皇勅版の出版物も発行された。それとは別に、ヨーロッパ式の活版印刷機がわが国に入ってきた。ローマ法王に接見した、天正少年使節団のみやげがその印刷機である。

 

その印刷機は、使節団の帰りの船にポルトガル宣教師バリァヌが、キリスト教布教を目的に積み込んだものである。その印刷機で刷った印刷物は、キリシタン版と称し、今日現存するものが五十種類くらいあると言われている。

ところで、印刷機のことをなぜプレスというのだろうか?

 

 プレスとは、葡萄酒を作るときに葡萄の実からジュースを絞り取る機械のことである。葡萄を小穴のあいた板の上に置き、上からスパイラルのついた円形の板で押す。するとジュースが絞れて、下の壷に落ちる仕組みだ。さらに絞ろうとするときはスパイラルの頂上にある丸い取っ手を廻して、圧力をかける。

 圧力をかけること、すなわちプレス。活版印刷の場合は圧力をかけて、活字についているインクを紙に押し付けて印刷が行われるから、印刷機そのものをプレスというようになった。キリシタン版はまさしくプレスであった。しかし、間もなく発令されたキリシタン禁止令のために、市中から消えてしまう。

 朝鮮から分捕り品として持ち帰った印刷機は、秀吉のあとの天下人、家康の出版活動に用いられている。伏見で作った出版物は伏見版、静岡で作ったものは駿府版として今も残っている。出版活動は、金持ちにも及んだ。

 廻船業を営む住倉素庵(すみのくらそあん)は、朝鮮式の活版印刷機を作らせて、みずから出版活動を行なった。主に古典文学の印刷で、装丁に端切れを用い、本文には木版の絵図面が組み込まれるなど、美麗な本作りをした。紙も白だけではなく、色抄きの紙を使っている。それは嵯峨野版といわれ、現存する。

 

この朝鮮式印刷機も途中で挫折する。理由は活版材料となる銅の値段が高すぎたからである。「すみのくら」の財力をしても、わが国の漢字とかなのすべてを銅活字を製作し、保存をするのは難事業であった。このあと、日本の印刷術は再びコストの安い、伝統的な木版印刷に戻ってしまう。

 江戸時代にはいると、木版印刷を使った瓦版が出現する。これがわが国最初のニュースメディアである。コストが安いこと、持ち運び簡便なことが幸いして、江戸時代を通じて木版印刷が全盛となった。時代を経るにつれて、様々な出版物が出現する。当然町人向けの出版物も増えてくる。

 

瓦版自体、庶民向けの読み物で、半紙一枚または長いもので二枚の綴じ込みであった。題材は孝行美談、仇討ち物、天変地異などであったが、当然のこととして幕府は制限を加えるようになる。たとえは、近松門左衛門の心中ものが芝居で当りを取った場合、まず実際の事件の第一報は瓦版で伝えられる。

 

その内容が、意外性に富み劇的であればあるほど、戯作者の制作意欲を刺激して浄瑠璃化される。浄瑠璃ができれば舞台に直ぐかけられ、歌舞伎の世話物にるなる。これは連鎖報道そのものである。今日、テレビで報道されたものが、新聞で追っかけられ、週刊誌がさらに詳しくという連鎖報道が、江戸時代においてすでに見られたのである。

 近松物の芝居が当たって、その結果、市中に心中が流行することがあった。

当時の厳しい身分社会では、男女の愛情が身分の垣根を越えることが出来ず、あの世で添い遂げようとする道行きの芝居を見ては身につまされて心中することが、一種の流行現象を起す。ところが幕府は・・・・

  

世の中の秩序を維持するために築いた身分社会が、心中などの流行で否定されてはかなわないと、瓦版発行を禁止するという街ぶれを何度も出している。江戸の鞠つき唄「お千の茶屋」の娘、お千は評判の美人だった。錦絵に登場するほどの美形だから、錦絵に越後屋などのスポンサーがついた。

 

ほかの娘だって負けてはいない。競ってお洒落して、だんだんに度を越すと、幕府の奢侈禁止令に触れることになり、規制を受ける。このような推移で、町人階級にも文字、色、絵などの情報伝達や、服装のデザイン流行の形でコミュニケーションが高度にかつ複雑に発達してくるのである。

 

江戸で発行された草双紙は、イラストをふんだんに盛り込んだ物語の出版物である。大阪では西鶴の好色一代男、世間胸算用とかの町人向けの浮世草紙が出版されてくる。江戸では、読み物としての出版物「南総里見八犬伝」なども出て、町人階級の間にも文字言葉が次第に定着してくる。

 商品経済の発達ということが背景にあることは、言うまでもない。

これらの文化を支えた木版印刷は、明治になってもまだ続いた。東京日々新聞(明治5年創刊)は、瓦版の版木工を六人雇い、美濃判の版木を彫らせて、六つを平らに繋ぎ、タコ糸で縛った版に墨を塗り印刷した。判が大きかったから大新聞(おおしんぶん)と呼ばれた。

 

明治7年に誕生の読売新聞は、半紙の大きさであったので小新聞といわれた。江戸時代の瓦版の流れを受け止めて、市井のおかしな話、変わった出来事をおもしろ可笑しく伝えた。それに対して大新聞は、正論新聞ともいわれ、政治論議を行なった。東京横浜毎日も、東京日々も政治論議の大新聞であった。

 このように印刷物は、徐々に市民の間に広まっていった。それを最後に決定づけたのは、大衆社会の出現である。べつの言い方をすれば都市化の進展である。資本主義による工業化社会は、農村から工員を集めてくる。突然、農村から都会に出た青年は、新たな環境に戸惑い、不安定な心理に陥る。

 

その時に、精神的な慰めとして娯楽が必要となってくる。大正末期から昭和にかけて日本のマス・メディアは急速に発達している。たとえば、映画。日活は大正元年に設立された。大正半ばの株式の配当が2倍。昭和3年トーキーが生れる。始めてトーキーが紹介されたときの映画人口は2.5回/年だった。映画の制作本数は6百数十本/年。今日の邦画製作本数は約50本。

 

映画は労働者階級の娯楽の王様だった。そしてレコード。日本のレコード第1号はカチューシャの唄である。2000枚売れてベストセラーになったという。昭和のはじめにビクター、コロンビアなどの米国資本が進出して、音楽の流行は歌謡曲からジャズに変わる。日本的なジャズとして「君恋し」20,000枚売れた。

 ラジオ。NHKはラジオ75年と言っているが、都市労働者にラジオは大きな慰めを与えた。しかし、最も大きな変化を与えたのは出版である。

 

 

それは、文庫本の登場である。明治時代から小型本は出ていたが、あまり売れなかった。

はっきり文庫本として登場したのは、昭和2年の岩波文庫である。100ページ当り星一つ。星一つが20銭。岩波のあとに新潮社が続く。改造社が改造文庫を出す。円本というのは、500頁1冊1円。改造社刊現代日本文学全集がそれだ。

如何に安い出版が行われたか、分かって貰えるだろうか。

中でも昭和2年、平凡社から現代大衆文学全集が出版されたが、全60巻、平均頁数2000ページで値段は11円というのがあった。不景気の真っ只中、出版人が売上げを伸ばすために、どんなにか苦労したろうことが偲ばれるのである。

 ともあれ、このような状況を通じて人々に、文字言葉に慣れ親しむということが浸透していった。小学校令が明治5年に施行されたが、明治10年の就学率は約40%に止まっている。それに比べると昭和初期には、遥かに高い読み書き能力を持った大衆が誕生したのである。

 こうした活字文化があって、私たちはラジオ、テレビの時代を迎えているのであるが、「印刷メディアから映像メディア」の時代に移行したということである。テレビ時代を迎えてその結果、私たちはどうなったか?

申し上げたいことは、「新しいメディア現れる度に、メディアの性格が人間の性格を規制して行く」ということである。

カナダの学者マクルーハンは、「私たちの文明は、500年に渡って活字という牢獄に閉じ込められていた。すなわち、印刷文化は、目だけに依存した文化であった。テレビはそれを開放してくれた」と言った。活字の世界は、現実と虚構を明確に分けてメディアに接触することができた。ところが、「テレビはその境目を曖昧にしてしまった。バーチャルリアリティ(仮想現実)である」

活字の世界は、何を伝えていたか。理想を掲げ、人間の知性や創造力に、力点を置いたものが活字の世界であった。それに対して、映像メディアは私たちに「外見で判断する」習性を残した。つまり、活字文化の心の部分を失わせてしまった、という問題である。

 最後に、これからのメディアを考えた場合、どうしてもインターネットに触れておかねばならない。映画、レコード、印刷物にしてもインターネットは、それらをすべて吸収できる。これまでのマス・メデイァは、何のことはないインターネットのためにお膳立てをしてきたようなものである。

 

では、インターネットは一体何をもたらすのか。

それは、一般的には「グローバリゼーションですよ」というのが答えである。活字は我々に何を残したか?というと、それは「ナショナリズム」ではないか。つまり国民国家といわれるものである。

具体的に言うと、日本語が分からなければ外国人になってしまう訳だから、日本語で書かれた出版物によって培われた心情は、まさに「日本人こそ」というナショナリズムである。英語でも、ロシア語でも、中国語でも同じことである。

 

活字、文字言葉が作り上げてきたものは、ナショナリズムである。それに対して、インターネットとは、インターナショナル・ネットワークの略称が示すように、世界に広がった電話網のことであるから、地球規模のボーダーレスに広がる時代を、今や迎えようとしている。

活字にしても、インターネットにしても、人間の基本はコミュニケーションにあるのだから、その考え方をキチンと持っていないと、いたずらに新しい文明に人間が振り回されるようになる。コミュニケーションの道具として作ってきた印刷機、放送装置、映画上映装置、レコード装置などは、我々が道具として作ったものだ。

 

インターネットにしても、人間が作った道具である。道具の方が先に走って人間が後から走るというのではおかしい。インターネットは、人間がコミュニケーションの道具として作ったものだからである。

人間のコミュニケーション活動は、冒頭に述べた「送り手と受け手」の関係が基本なのだ、ということを結びの言葉として、この講座を終わりたい。

 

終わり

(文責 三上 卓治)

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