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の雑学大学は長谷川順音(ヤスオ)さんの講座「先祖探しに生き甲斐を」でした。長谷川さんは昭和4年、東京生まれ。苦学しながら幾多の職業を経験、その間に系譜学を独学でマスター、現在は家系調査を業としている。日本民族系譜学会 副理事長。日本音楽著作権協会会員。
●私は間もなく、誕生日がきて
71歳になる。自分でも歳にしては若いと思うが、生活信条は『顔に小じわを作っても、心に「しわ」を作らない』である。今日のメインテーマは「先祖探しに生きがいを」である。私は日本家系協会の調査部長を勤めたのち独立した。二十数年の経験をもとに家系調査の方法を具体的にお話したい。
二年前に、ある出版社から家系調査の本を書かないかとの打診を受けた。現在執筆中であるが、今日はその本が出版される前に、皆さんにお話をする。
まず、詳しい自己紹介をすると、父方の家系は武州埼玉郡若小玉村(現在の埼玉県行田市藤原町若小玉)の江戸中期の庄屋、長谷川氏の出である。
元禄年間の文書や墓碑に「長谷川」と記録が残っている。元禄時代において、農民でも苗字があった証拠である。明治になって武士階級以外に苗字が出来たと言われるが、実際は古くから苗字が農民にもあったのだ。しかし、当時公称してはならなかったというのが系譜学界の定説である。
さて、長谷川に関しては、そのルーツは藤原秀郷流足利氏族、若小玉党の別流である。母方は清和源氏源義光の七男、市川十郎を祖とする市川氏である。遠い先祖としては、新田義興家臣で「矢口の渡し」の戦いで戦死した市川五郎忠光がいる。大田区矢口の渡しにある「新田十騎の墓」に名前が刻まれている。
私の市川家は総本家から見れば、分家の分家のまた分家であるが、市川鶴鳴(儒学者)市川一学(兵学者)、市川十郎(幕府昌平坂学問所教授)などの学者を輩出した。母は市川十郎の孫である。私は系図上市川一学五代目にあたる。市川一学は松前城を設計した人だが、
18年後に松前城は、完全に復元することが決まっており、私が生きていれば、ご招待にあずかることになっている。
私、長谷川順音(はせがわやすお)は、筆名を市川香舟というが、実は去年、正式に長谷川順音になった。十年ほど前からペンネームにこの名前を使っていたが、野末陳平氏が、本名の雅彦より有名になったために陳平と改名したことを知って、自分も正式に改名した。改名する名前をが書かれた、8年間分の自分宛てのハガキ各
5枚を裁判所に提出することで、改名は簡単に認められる。
ニコヨン作家の須田寅夫氏の紹介で、(株)日本家系協会に入社、調査部長を勤め、約
500件の家系調査を行なった経験を持つ。ある大学教授(45歳)は、1万件の家系調査をしたと豪語するが、物理的にいって、とても出来ることではない。戸籍謄本の取り寄せだけでも、四〜五日はかかるから、毎日この仕事だけしても、1万件なら30年はかかる勘定だ。ウソはすぐバレる。
東京・本郷の東大赤門の右横に、小さいビルがある。
そこは、学士会館の分館であるが、私は六年間ばかり系譜学会教授として年一回乃至二回講義をしたことがある。当時は学会も活発に運営され、私が書いた家系調査私論などを連載した機関紙も発行していたが、昨今は休眠状態に近い。
どなたでもご先祖はある。
父と母がいるから、皆さんが存在している。父と母には、さらに父と母がいる。
そうして溯って調べることを、遡上調査という。アメリカの場合は、逆に元から下がってくる。同じ事だが、それをルーツという。ルーツとは根っこという意味である。
わが国の天皇家は万世一系ということになっているが、はっきりしたことは判らないままである。むりやり辻褄を合わせるため、100歳以上生きた天皇が13人もいたことになってしまう。自分の先祖を確認するためには、ちゃんとした証拠がなければならない。ただ清和源氏の出であると言っても、しょうがない。
先祖を確かめる方法を、これからお教えする。
まず、第一は自分の父の戸籍謄本を入手することである。ついで、祖父の戸籍謄本も手に入れる。除籍謄本は、死後
80年経ったら廃棄処分することが法律で決まっている。たった1日違いで入手できないことあるから、要注意だ。
戸籍謄本は、
4代から5代くらいまでは大体取れるだろう。短命な祖先の場合は、
3代から4代。長命な祖先の場合は、5代から6代まで取れる。お手元の、壬申戸籍は市川家の系譜を調べるにあたって、山形県へ出向き、期限切れになったものを、手蔓を使って入手したものだ。
明治時代の戸籍だから、本人名の上に士族とあり、巻末に菩提寺名と氏神様の名前まで書かれている。さらに詳しいのは、江戸時代に庄屋をやった家のもので、主人の名前はもちろん、妻、長男、二男、長女、二女、馬が何頭、牛が何頭などの情報が詳細に記録されているものもある。
さて、現代の人は、現在のことには極めて強い関心があるが、遠い先祖のことになるとあまり関心を示さない。しかし、よく考えて戴きたい。私たちはご先祖あっての私たちではないだろうか。この原点を何処かに忘れてはいないだろうか。昏迷する現代社会。先行き不安の人生である。
人々はみな、迷路の中にいる。
迷ったら原点に還れという、先人の教えがある。
その原点というのが、先祖探しである。そこから明日へのスタートがあり、そこから展望が開けてゆくのだと、私は考える。
帰趨本能という言葉がある。若い時には、そのことを余り思わないが、ある年齢に達すると、自分のルーツを意識するようになる。自分の場合は、市川家の祖先を調べた。それが基で先祖探しを商売とするようになった。そろそろ
71歳になる。後継者を育成したい心境である。ところで、皆さんはご自分の先祖を何代先までご存知だろうか。
参加者の答え。・・・・
5代先。全然判らない。3代先。4代先・・・・・など。では、日本人の苗字はどのくらいあるか。
参加者
?・・・・・・・・・・・・・・ 。
日本人の苗字は、
139,163種類(昭和58年調べ)ある。字が同じでも、読み方が違う場合、音が同じでも字が違う場合があることも含めると、
291,531種類となる。この苗字を分析することは、コンピュータを駆使してもなかなか困難である。
「日本姓氏家系大辞典」大田亮氏編纂によれば、大体の姓の由来を知ることができるが、日本人の姓の
8割は、地名に由来している。ここに、日本人の苗字「1番−1,000番までのランキング」を持参している。1番の鈴木さんから1000番の熊沢さんまでの人の数を合計すると、大体6300万人になる。
日本の人口の半分は、この中にあるということである。試みに、本日の参加者の、苗字のランキングをお知らせしよう。「北原さん」
438番。「山田さん」12番、私の推定では498,000人である。「加藤さん」11番、613,000人と推定。「山名さん」(1873番)。
「田中さん」
3番目、1,246,000人。「大田さん」496番。「太田さん」は36番。「熊谷さん」302番。「李さん」ランキング外。「大竹さん」は174番。「富永さん」富に点のある方が347番。ない方は番外。「中原さん」は413番。「小久保さん」は659番。「国分さん」は781番。「三上さん」は、408番目、特に東北地方に多く、青森県内ランクでは11番目である。
と、参加者全員の苗字のランキングをチェック。
これは、第一生命の姓に関する情報だが、厳密にいうとこれにも若干問題がある。たとえば、斎藤の斎の字は4種あるが、これの区別まではしていない。渡辺の辺の字も区別していない。
私は、先程の紹介にあったように、市川姓を調査した。これらのランキングはすべて市川姓を調べる課程で、得た情報である。家紋も市川姓だけで、
345種類あることが分かって、驚いた。
皆さんも自分の姓を調べると、多分数多くの家紋を発見するに違いない。
ついでながら、家紋は約
24,000種類ある。家紋は少し違っていても、1種類と数える。たとえば、NHKの大河ドラマに出てくる徳川一門の「葵」の紋所は、何種類あるとお思いだろうか?
葵のご紋は
30種以上ある。徳川家康ご本家の葵の紋と、そのあとの、各将軍の葵の紋は、大きさや角度、小さな飾りなどが、微妙に違っている。尾張や紀州、水戸の御三家においても然り。「この紋所が目に入らぬか」と助さんに言われても、違いが分かる人はめったにいない。
前述の大田亮先生の言葉に「有名な人の名前は残るが、無名の人の名は残らない。だから、誰にでも有名人の子孫である可能性はある」というのがある。家系調査は下から順番に、まず戸籍謄本で
4代5代前を調べる。あとは自分の守備範囲の、菩提寺の過去帳とかお墓などを調査する。元禄時代ぐらいまでは、この方法でなんとかいける。
他の先生は、家系調査は苗字、地名、家紋の知識を習得せよと言われる。
私は、そう思わない。なぜなら、たった
1日違いでも情報入手ができなくなる可能性のある戸籍謄本をとることがまず最初である。戸籍謄本を入手するのに、手配してから二、三週間はかかるから、その間に苗字、地名、家紋の勉強をすればいい。
謄本には、現戸籍謄本、除籍謄本、改正原戸籍謄本と3種類あるが、これを溯っていくと、色々なことが判ってくる。しかし、戸籍謄本の取り寄せも東京・日本橋方面はちょっと難しい。理由は太平洋戦争の空襲で区役所が燃えてしまい、戸籍原本も副本も存在しないからである。
それでも、調べれば何とかなる。
それは池袋の会社社長の、
23年前に行なった系譜調査だった。自分の先祖の資料は、戸籍謄本をはじめ全く残っていない。ただ仙台の出身だとは聞いている。父は戦前からの、超一流会社の社員だったとの手掛かりのみ。
私は、たった一つの手掛かりの一流会社を知っていたので、そこの総務部を訪問した。この会社は地下倉庫があり、そこに社員の履歴書が保管してあったのだ。目的の人物の履歴書から、詳細な所番地を知ることができた。調査に必要なことは、会話の中から得た情報分析力と、それを手掛かりにする推理力である。
将棋の名人がよくいう言葉に、「人間の直感力は右脳、思考は左脳」がある。
家系調査は、点から線につなぐ直感と推理がものをいう。ご自分で家系を調査されて、この先がどうしても判らないということがあれば、どうぞ、FAXで、
0471-87-1409まで連絡を戴きたい。必ずご返事を申し上げる。
戸籍謄本には、前本籍地が冒頭に記載されている。
旧地名が記されていることが多いが、これは図書館にある全国市町村要覧を見れば、現在地名がすぐ分かる。その町役場、市役所に依頼をすれば、
530円の手数料で謄本を送ってくれる。べつにその場所へ出かけなくても入手できる。
ただし、戸籍謄本交付申請書を便箋に書かなければいけない。
申請書には、戸籍の所在地、筆頭者名、使用目的を書き、交付手数料
450円郵送料80円の合計530円の小為替を同封して、当該役所へ郵送するのである。この方法で4、5代先までは、先に言ったようにすぐ分かる。
自分で市川家の系譜を調査した経験で言うと、家系には必ず本家や分家が出てくる。この調査で、わが市川家は総本家から
350年前に分かれたことが分かった。秋葉原の「石丸電機」の重役をしている本家の子孫と、現在、親しくお付き合いをしている。4代前に分かれた分家市川 安司氏は元東京大学教授である。
さて、実際の家系調査に話を戻して、戸籍謄本の次は何を調べるか。文献調査である。それは、自分の調べたいところから調べる。姓の種類には、地名によるものが80%であるから、現地調査は欠かせない。仮に三上姓ならば、三上という地名が滋賀県にあるから、そこから始める。
私の知識では、
800年ほど前に源義家が奥羽征伐に赴いたとき、三上一族が同行したのではないかと思う。関東地方の熊谷とか千葉などの名族も、三上と同様に源頼朝に同行して、東北地方に土着したと思われる。南部は甲州から出でいる。
このように、日本人の先祖は色々な理由から、広範囲に動いている。むしろ一ヵ所に止まっているほうが珍しい。もし、先祖が武士であった場合は、主君の国替えがあれば同行している筈だから、移動は当然である。主君の領地替えがあっても、百姓はそのまま土地に残る。
日本には、天正
18年(1590年)徳川家康が関東に下ってから、明治4年(1871年)の廃藩置県まで存在した藩は、大小併せて545藩に上る。もっとも藩の多い県は、千葉県の49藩である。次が福島県の31藩。出来てすぐ消えてしまった藩もあるが、藩の動き方を家系調査の中で勉強する必要がある。
日本人の姓の基は賜姓皇族、すなわち「源平藤橘」などから発している。源氏、平氏、藤原氏、橘氏である。その中で、藤原氏から分かれた苗字が最も多い(佐藤、加藤、近藤など藤のつく字はみなそうである)。
もともと、日本人にはそれぞれ呼び名があった筈である。字ではないヤマトコトバである。漢字が中国から文化輸入されて、呼び名に漢字を当てはめたところから、姓、名が出来て、種類が多くなった。寺杣さんという方からの依頼の系譜調査には、和歌山まで出向いて調べたが、想像以上の時間がかかった。
今は残っていないが、江戸時代に寺杣という地名は和歌山県にあった。依頼主の先祖の話では、平家の落ち武者だったふしがある。そこで、和歌山県の電話帳から寺杣さんを拾い出して、片っ端からアンケート用紙を送り、電話インタービューをした。
その情報の中から、菩提寺を探し出したが、過去帳で元禄時代までは溯れた。それ以上の系譜は、半ば諦めかけていたら、和歌山大学図書館にもっと古い関連系図類があることが判り、その判読と周辺の聞き込みを総合調査して、系譜を合成することができた。何と
2年以上の年月がかかった。私の場合は、この仕事を商売としているが、もともと、儲かる商売ではない。さらに、一つの調査に
2年もかかったのでは、いくら金を貰っても合わない。最初に決めた金額しか貰わず、出張旅費、通信費などは自己負担であるから、実質は赤字でほとんど、趣味。自分の研究のためにやっているようなものだ。
最後に「家系図殺人事件」を紹介しよう。
事件は江戸城内、時は天明四年(
1784年)三月二四日。権勢ならぶ者なき老中田沼意次の長男、若年寄田沼意知は、殿中において新番士佐野善左衛門政言に切られ、この傷がもとで死亡した。佐野善左衛門は捕らえられた。
田沼意次は、六百石の小身旗本から五万七千石の大名になり、さらに老中にまでのし上がった。その積極政策は、商人との結託による賄賂政治の横行を必然化した。しかし、政治センスは相当なもので、政策には見るべきものがあったが、子の意知は親の七光りで若年寄になった凡庸な人物である。
さて、飛ぶ鳥落とす勢いの田沼親子にも、泣き所があった。意次の父は紀州藩の下級武士ではあるが、出生は曖昧だし、先祖がはっきりしていないことである。そして、先祖探しの結果、田沼姓の発祥地は下野国安蘇郡田沼村だと判明した。平将門を破った藤原秀郷が築いたという唐沢山城がある所だ。
そこで田沼父子は早速に、藤原秀郷の末裔と言い出した。しかし、これだけでは証拠として弱い。なにかよい考えはないかと考えた末に、あることを思い出した。新番士佐野善左衛門から出世を願って賄賂とともに送られてきた家系図を取り上げることである。
この佐野善左衛門は正真正銘の藤原秀郷の末裔であり、ゆえに家系図も立派なものである。金も着服し、家系図も取り上げたが、頼まれた出世の糸口については、知らぬ顔の田沼意知。これでは佐野善左衛門、怒らぬほうがおかしい。田沼意知を殿中で見た途端、さっと一振り斬りつけた。
田沼意知は、この傷が原因で四月二日に死亡、佐野善左衛門は四月三日に切腹した。その頃の江戸は、物価は上がり、生活は苦しく、その上天災地変が相次いで、江戸の町民たちは田沼の政治が悪いからだと思っていた。この事件に、江戸の町民たちは喝采した。
そして、偶然か、米の値段も下がってきたのである。世人はみな佐野善左衛門を「世直し大明神」とたたえ、その墓地・浅草の徳本寺には参詣人が絶えなかったという。権力者・田沼意次も、この事件がきっかけで俄かに権力の座から追い落とされてゆく。天明六年、遂に老中を退任した。
まさに、「家系図殺人事件」であり、政権交代の縁になった「佐野家系図」であった・・・・・・・。
終わり
(文責
三上 卓治)
家系調査
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東京都千代田区神田佐久間町4-6 斎田ビル303TEL 03-3866-5407
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