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今週(
7/16)の雑学大学は、佐々木 明さんの講座「鬼平を歩く・実録長谷川平蔵の生涯」でした。佐々木 明さんは97年10月に「暮らしの中のニセモノ考」で、わが国に蔓延するニセブランド品の流通の実態を次々にあばいて見せましたが、今回は池波正太郎のベストセラー・鬼平の実像に迫る実録を、豊富な史料によって展開されました。
「あの有名な鬼平こと長谷川平蔵のホームグランドは、まさに江戸の下町だ。錦糸町駅のすぐそばの場所に役宅があったのだ。ここに来たことを幸せとしなさい。彼の足跡を調べて、新聞に連載しなさい」とアドバイスを戴いた。それ以来、実在の人物・鬼平を足で歩いて調べた読み物を朝日新聞に連載した。
その資料をベースに、江戸の犯罪に詳しい中央学院大学教授重松
一義先生と共著の「鬼平を歩く・実録長谷川平蔵の生涯」を出版した。私の、鬼平についてのノンフィクションの記録に、重松先生が江戸の犯罪の史料で肉付けしたもので、下町タイムス社(電話03-3634-4721)の刊行である。
鬼平こと長谷川平蔵は、江戸時代の警察と消防を一緒にしたような組織、「火付け盗賊改」の最高幹部として実在した。今でも、鬼平に心酔している警察官が多い。三代前の警視総監
吉野 順氏も鬼平のファンで、自分の視点から見た鬼平論を出版している。鬼平はなぜ有名になったかというと、池波正太郎という下町に根ざした作家がいて、素晴らしい空想力で「鬼平犯科帳」という小説を発表したからである。
これが長期のベストセラーになった。そして、意外にもファンには若い女性が多い。やはり、「鬼平犯科帳」が映画、テレビ、舞台になり、そのなかでもはまり役、中村吉右衛門の強く、優しい、かっこいい鬼平が人気を集めている。しかし、吉右衛門の鬼平は男前だが、実在の鬼平がいい男だったかどうかは、肖像が残っていないから判らない。
池波正太郎の鬼平犯科帳は、完全なフィクションの世界で構成されている小説である。したがって、小説の中に出てくる有名な店は、軍鶏鍋屋の「五鉄」、船宿の「鶴や」をはじめとして、調べてみると一軒もない。私と重松先生は、長谷川平蔵の実録という、小説とは全く違う路線で出発したのである。
朝日新聞の十回連載のなかで、鬼平は港、江東、墨田、文京、新宿の六区にわたって活躍している。鬼平生誕の
250年前の、江戸の人口は五十万人程度であったと推定される。長谷川平蔵の役割分担は江戸全域と関東にまたがっているが、生誕から没するまでの足跡は、著書「鬼平を歩く・長谷川平蔵の生涯」にもとづいて話したい。
長谷川平蔵と言う名は本名である。諱(いみな)は宣以(のぶため)という。諱とは身分の高い人が持つ二つ目の名前である。本来は死後に贈られる名前であるが、武士の身分によって、生前に名乗ることが許されていた。父親は長谷川平蔵宣雄という。
なぜ、長谷川平蔵は鬼平なのか。
当時から長谷川平蔵が鬼平といわれていたか、どうかは、判らない。多分、池波正太郎の絶妙のネーミングではないだろうか。「鬼のように怖い」平蔵さんという人物を、ひとことでいい現している。
彼は大きな事件をたくさん手がけているが、100%の検挙率で、しかも誤認逮捕は一つもなかったといわれる探偵だった。探偵といったが、平蔵の職は分類が困難で、刑事でもなければ、警視総監でもない。特別機動捜査隊の最高責任者とでもいおうか。ある意味での犯罪捜査のスーパースターだったことは、記録を見れば、よく分かる。
平蔵は延享三年(
1746年)に生まれ、五十歳で没している。江戸時代の平均寿命としては、長く生きたともいえる。火付け盗賊改めを四十二歳から八年間にわたって勤めあげた。過去、火付け盗賊改めという激務を八年間も努めた旗本はいない。それだけ「出来る男」として、将軍からも頼りにされていた。
池波正太郎は、長谷川平蔵という人物をフィクションの世界で、面白おかしく創造した。勧善懲悪で小気味よい主人公が活躍するからといはいえ、
250年前の人物がこれだけの人気を保ち続けることも、不思議である。24巻の鬼平犯科帳は、夫々24刷以上の再版を重ねている。本の売れ行きが落ちたかと思うと映画が当たり、テレビが高視聴率を得るという循環が繰り返される。最近はコミックにも鬼平が登場している。
西尾忠久氏や、重松
一義氏のような鬼平研究家の講演とか、朝日新聞の連載物などが、それらの人気を増幅しているかも知れない。私は毎日文化センターの企画で、「鬼平を歩く」ツアーを組んだり、他でも講演をしたりしているが、どの講座も参加者の熱心なことには驚かされる。
小説の鬼平を、実によく知っているが、実在の長谷川平蔵はそういうことまでしたのかと、参加者に感心される。長谷川平蔵はフィクションよりもっともっと素晴らしい人物である。教科書に取り上げてもいいくらいに、立派な業績を残している。しかし、鬼平史跡には碑なども立っているが、何か及び腰である。
長谷川平蔵の父は、旗本長谷川宣雄である。「火付け盗賊改」の職から、最後は京都町奉行になった。宣雄は優秀な能吏であったが、どちらかというと僧侶の犯罪のような、知能犯の摘発に活躍した。
「東京市史稿」によれば、父
長谷川平蔵宣雄は四百石の旗本であった。
四百石の旗本といえば、さほど位の高い方ではない。当時の旗本は、石高が九十九石までが圧倒的に多く、千五百九十九人。九十九石から二千石までが百四十三人。九千九百九十九石は二人という構成になっていた。合計千七百四十四人の旗本は江戸及び周辺に居住し、将軍の警備を勤めとした。
旗本は将軍直属であるため、屋敷は将軍から拝領する。賜る面積も石高によって差がある。三百石から九百石くらいの旗本は五百坪の土地を拝領した。四百石の長谷川家は赤坂築地の五百坪の屋敷である。平均的な石高の割には、江戸の一等地を拝領したのは、長谷川家の先祖は三方ガ原の合戦で戦功をたてたのち、討死している家臣であるからであろう。場所は現在の港区赤坂六丁目、TBSのすぐ前。平蔵は、そこで生まれた。
しかし、これには異論もある。平蔵の母親は、武家の娘ではなかったらしい(日本近世行刑史稿によると「家女(かじょ)」と記されている)。知行地をもつ旗本の屋敷には、領地の大百姓の娘たちが行儀見習いのためやってくるのが常だった。平蔵は正妻から生まれた子ではなく、女中奉公の女性の子だったと思われる。
当時は、母方の実家でお産をしたから、出生地は母方の実家のある下総の国大網白里と見る説もある。平蔵は大事に育てられ、幼名を銕三郎(てつさぶろう)と名乗っていた。五歳の時、父の正妻が死亡しており、後妻の家女の子として成長する。物心つくまで赤坂で過ごしたあと、五歳ころになって、屋敷替で隅田川べりの築地鉄砲洲湊町に移った。
長谷川家の家紋というのは、「左三つ藤巴」である。平蔵が捕物に際してかぶって出てくる陣笠や、装束につく紋所がそれだ。また、平蔵が好んだ「色」は柿色である。平蔵配下が使う十手の房も柿色であった。映画の時代考証は、そのあたりを忠実に守っている。
父親の屋敷替によって移った築地鉄砲洲湊町は、現在の築地明石町の聖露加病院あたりである。坪数が少し減って四百七十坪となった。この地に移ったことが、後年平蔵の最大の功績として称えられる「人足寄せ場」という刑務所機能を、隅田川を挟んで反対側の佃島に作るきっかけとなるのである。
さて、平蔵は少年時代を築地鉄砲洲で過ごすのであるが、十代の行動を示す記録は一切残っていない。鬼平犯科帳を読むと、剣は一刀流を高杉銀平道場に学ぶとあるから、本当にそうかと思う。しかし、その記録は全くない。一刀流であったかどうかも判らない。当時の旗本は合戦がなかったとはいえ、剣術、弓馬、槍を武士の務めとして練磨をしたことは間違いない。
十九歳のとき、二度目の屋敷替えで本所二ツ目に変わる。現在の墨田区菊川三丁目十六番地である。この二度目の屋敷替えで、鬼平は長く活躍する舞台を得た。場所はJR錦糸町駅から徒歩十数分のところにあるが、屋敷も千二百坪に広がっている。
なぜ、広がったかは定かではないが、父宣雄の政治力ではないかと想像される。千二百坪の周辺を歩いて見ると、数十軒の家に相当する広さがあり、驚く。
これは本屋敷である。
あるじの宣雄一家の住居、住み込みの女中、下僕などの部屋、火盗改めの部下の詰め所、取り調べの「お白洲」、牢屋、拷問部屋などがあり、さらには畑まであった。鬼平は、ここで修行して逞しく成長する。本所二ッ目の近くには富岡八幡宮があり、門前町には幕府公認の一大遊郭であった。
鬼平が若いときに、日本全国に五大遊郭というのがあった。江戸の吉原。駿河の府中。京都の島原。大阪の新町。長崎の丸山である。江戸は当時五十万人の人口を抱え、なかでも単身赴任者が多く、吉原の遊郭だけでは需要をまかないきれないと、幕府は公認の本所門前仲町に大きな遊郭を作った。
この遊郭がまた大繁昌した。
それは、木場という大貯木場があったからである。木場は日本を代表する材木市場で、貯木場には金廻りのいい旦那衆が集まった。その上、当時の建築物はすべて木材であったために、火事があれば隣接家屋に延焼して、すぐ大火になった。木材相場は高騰し、木材問屋は儲かった。旦那衆は、門前仲町の遊郭で大盤振る舞いをしたという。いまでもいるが、伝統ある辰巳芸者は、木場の旦那衆に支えられて芸を磨いた。
鬼平は青年時代に、ここら辺りに出没して放蕩の限りを尽くしている。多感な青年時代に、底辺にまで落ちた生活をしたことが、裏世界の世情に通じる結果をもたらし、在任中の犯罪捜査に大きく寄与したのである。
平蔵は犯罪者の探索に、密偵を多く起用した。密偵はまた、かっての犯罪者であるものからの起用であった。犯罪者であるからといって、社会から排除せずに再生を試みたところに平蔵の、広い心を見ることができる。密偵に起用された男女は感激し、命を惜しまずに働いた。
深川の江戸資料館に、江戸時代の古地図に沿った町並みが再現されている。ここに佐賀町の街が忠実に模型で作られており、当時の庶民の暮らしぶりが窺えるようになっている。ここが平蔵の活躍の舞台であって、裏長屋、井戸端、火の見やぐら、船宿、漁師街などの様子がよくわかる。
富岡八幡宮は、応神天皇などにゆかりの由緒をもつが、門前仲町の中核にあって当時、六万坪の土地を幕府から拝領していた。江戸時代は八幡宮の境内で相撲の興行が行われた。ここは江戸相撲の原点であって、横綱力士の碑や、巨人力士の名が刻まれた碑もある。有名力士の手形、足型も残っている。
平蔵がしばしば、富岡八幡宮に足を運んだことも、記録に残っている。当時の江戸の娯楽には、歌舞伎の中村座、市村座、森田座とかの芝居小屋があり、軽業、相撲、見世物、寄席、花火などがあり、遊郭の他にも酒色を供する料理屋、船宿などがあった。そのような遊興の巷で平蔵は、「本所の銕」、「本所の鬼」とも呼ばれた。
「此の人、闊達の生まれつきゆえ、父備中守貯えおきし金銀も遣い果たし、遊里へかよい、あまつさえ悪友と席をおなじうして、不相応のことなどいたし、大通といわれる身持ちをしける。その屋敷本所二ッ目なりければ、本所の銕とあだ名せられ、いわゆる通りものなりける」(京兆府尹記事)との記録もある。
旗本は将軍直属の親衛隊であるから、将軍の拝謁ということが必要であった。将軍に「お目見え」してお言葉を戴くことが、幕臣としての格式が認められるための儀式であったが、平蔵には、いつまでも拝謁のお声がかからなかった。旗本の子息で早いものは、七、八歳で呼ばれるものがあったが、平蔵には二十歳過ぎてもお呼びがなかった。
そのいらいらが、放蕩の原因とも考えられる。もう一つは、母親が武家の娘ではなく、下総の百姓の出であることのコンプレックスもあったのではないかと想像される。放蕩が、またさらに拝謁を遅らせた。将軍家治にお目見えすることができたのは、平蔵二十三歳の時であった。
平蔵は、二十四歳で旗本の娘、久恵と結婚をした。翌年一子辰蔵が誕生する。たまたま、父親の宣雄が京都町奉行に起用されたので、平蔵も妻子共々京都に移った。京都町奉行は、戦国時代から問題の多い寺社訴訟を裁く役目が多かった。宣雄海は千山千の弁舌爽やかな僧侶を相手に的確に仕事をこなし、名を挙げた。
平蔵は、快刀乱麻を地で行く父を模範に、与力、同心の使い方から、民生、刑獄の執務などのすべてを、至近距離から学んだ。しかし、父宣雄は、激務もたたって在職わずか八ヵ月で世を去った。平蔵はやむなく江戸菊川町に戻り、四百石の当主に収まった。しかし、平旗本の平蔵には役もなく、旗本退屈男さながらに、再び放蕩に明け暮れるのである。
平蔵が、禄高の割に暮らし向きが豊かだったのは、千二百坪という広大な敷地の一部を他人に貸して地代収入をあげていたから、ともいわれる。時の幕府は、平蔵の地代収入を黙認していたらしい。おそらく、父親宣雄が考え出した収入源をそのまま引き継いでいたものと考えられる。放蕩三昧の平蔵にも、やがて運が向いてくる。
安永三年
(1774年)、西の丸後書院番士に、さらに翌年には進物番になった。書院は江戸城における将軍の居室で、番士はいわば護衛役。旗本としては名誉ある役職である。御書院番士は将軍が外出する際の先払い役で、目立つ存在だった。武道に通じ、律義で容姿端麗でなれば勤まらない職務とされる。それを三十歳ころにつかんでしまった。
さらに、西城御書院番御徒士頭へ、御先手弓頭へと出世する。そして、火付盗賊改に任ぜられる。世相、政情ともに騒然とするなかでの出世であった。火付盗賊改の長官になった平蔵は江戸市中を巡回し、主として町奉行では手に負えない放火や殺人、強盗などの凶悪犯罪を担当した。被疑者を捕えて取り調べ、裁判する権限まで与えられていた。
平蔵は御千手弓頭でもあり、部下の与力、同心たちも御先手組のうちの一組で、「長谷川組」に出向して火付盗賊改の専従になったような格好であった。
ところで、平蔵に仕える部下たちの住む組屋敷は、どのあたりにあったのだろうか。
旗本の系譜や家紋などを記した「改定大武鑑」の長谷川平蔵の項目によると、「与力十、同心三十、目白台」と記されている。現在の文京区というわけだ。ちなみに「鬼平犯科帳」では「四谷坂町」(新宿区)となっている。「復元・江戸情報地図」で見ると、護国寺近くの「御手先与力同心大縄地」と記された現在の文京区目白台三丁目、東大病院分院のあたりが組屋敷があった場所とみられる。
組屋敷というのは、平蔵の手下である大勢の与力、同心たちが住んでいた社宅のような存在だったのだろうか。周辺は雑司が谷村の広大な田畑が広がり、江戸の外れといった風情だ。いまは、中・高・大学、女子大・盲学校などが並ぶ文教地区でもあるが、与力、同心たちが目白台の組屋敷から、本所菊川町の平蔵の役宅まで、どのように通っていたのであろうか。
万歩計をつけて歩いてみた。
音羽通りから江戸川橋を渡り、飯田橋、九段を経て神田神保町まで、早足で
1時間。さらに淡路町、岩本町を経て両国橋へ。江戸時代のこの沿道は、大名と旗本屋敷ばかりげ目立ち、昼なお閑散としていたに違いない。大川といわれた隅田川にかかる両国橋を渡って、目指す菊川三丁目までの所要時間は1時間50分だった。
平蔵が火付盗賊改に起用された年は、天明の飢饉の影響による暴動や米騒動などが続いた。江戸の各地では酒屋や米屋などの商店の打ち壊しや放火が相次いだ。どさくさに付け込み、凶悪事件も発生した。幕府は、「手に余れば切り捨て無用」と取り締まりを当局に指示した。平蔵は手下を使って、町奉行では手に負えない犯罪者を捕え、町奉行に突き出す前に厳しく取り調べた。
平蔵の屋敷内にも、白洲と仮の牢屋も備えられていた。役宅の取り調べが済むと本牢である伝馬町の牢屋へと送り込んだ。入牢者たちにとって、平蔵の存在は鬼のように恐れられ、なかには「鬼平」と呼ぶものもいたのではないかと想像される。中央区日本橋小伝馬町。江戸通りと人形町通りの交差点に近い安楽寺には、「江戸伝馬町処刑場跡」の石柱が立っている。
伝馬町の牢屋敷の敷地は、約九千九百平方メートルもあった。長年間から明治
8年(1876年)に市ヶ谷監獄ができるまでの約270年間、入牢した者は十万人を超えるといわれる。記録によると、大牢、百姓牢など、身分に応じて収容していたらしい。処刑されたり、ここから島流しにされたりした者もあった。平蔵が手がけた全事件の記録は、さだかではない。だが、主な事件の判決例を記した「御仕置例類集」から滝川政次郎氏が引き出した目ぼしいものだけでも七十六件が残されている。幕府役人の御用道中を装い、関八州を荒しまわった武装強盗集団の首領・神道徳次郎
(神稲小僧)や、徳川家の紋章を悪用して豪商を襲った強盗集団の首領・大松五郎らを緻密な捜査で捕えている。
平蔵は近代の事件捜査のように、張り込みや尾行を重視する一方、大胆かつ慎重だったようで、いまでいう誤認逮捕がまずなかったといわれている。江戸の随筆『わすれのこり』は、「賞罰正しく、慈悲心深く、頓智の裁き多し。人々今の大岡様と称し、本所の平蔵さまとして世にかくれなし」という表現で、その働きぶりを賞賛している。
中央区佃一丁目の豪華高層マンション群が、隅田川を挟んで都心部を見下ろしている。このあたり一帯の約十万平方メートルが、その昔、人足寄場のあった石川島である。わずかの間隔で佃島と離れていたが、いまでは橋や道路でつながり、ともに島の面影は見られない。区立佃公園の一角に、古式灯台を模して作ったという石川島灯台がある。灯台脇の看板に、江戸時代の地図入りで人足寄場の由来が記されている。
平蔵最大の功績といわれる人足寄場は、寛政二年(
1790年)に開設された。平蔵四十二歳の時である。自ら老中松平定信に建議、火付盗賊改に加えて寄場の責任者も兼務した。単なる無宿人の収容施設にとどまらず、強制労役ではあったが、手仕事を指導し、精神講話も採り入れて社会復帰させるという独特な施設だった。
町奉行や火付盗賊改などが扱った犯罪者のうち、入れ墨や敲刑(たたき)などの軽い刑罰で刑期を終え、引き取り手のないものや再犯の恐れのあるものを寄場で取り扱った。江戸時代の刑罰は重いものは死刑だった。死刑にも、磔(はりつけ)、獄門などがあった。
その他は遠島、重追放と様々で、軽いものは敲という刑が一般的だった。敲にも、百たたきと五十たたきがあった。さらに、百日手鎖、五十日手鎖もあった。窃盗犯の場合、初犯は敲だが、再犯になると入墨。入墨が三度にわたると死刑になった。
寄場に送られてきた無宿者や犯罪者に覚えさせた職業は、紙すき、鍛冶屋、大工、左官、篭作り、屋根ふき、竹笠作り、彫刻、元結作り、草履作り、縄細工で、そのなかから好きな仕事を教えた。
賃金は、働きのよい者と悪い者とでは差があり、作った品物の売上から二割を道具代その他の経費として差し引き、残りの八割の三分の一は貯金させて、三分の二は十日目ごとに本人に渡した。労働時間は、朝の八時から午後の四時まで、時には残業もあった。手に職のない者たちには炭づくりや蛤の殻を砕いて胡粉を作らせた。また、貯金が一定額に達した者は模範囚として、釈放された。
人足寄場になったのは、石川島の一部である。埋め立てに必要な土砂は、隅田川の中州にあった歓楽街を撤去し、その土で石川島と佃島の間の湿地帯を埋め立てた。東京湾の河口部だけに作業は難航した。建設費として与えられた五百両と米五百俵だけでは足りず、自ら銭相場に手を出して、予算不足を補った。
寄場には、各種の作業小屋を設け、大工、建具、指し物、草履作りなどの技術を重視した。原則として働き賃を蓄えさせ、自らの労働で得た金で社会復帰を目指した。罪を憎んで人を憎まず。自分自身、放蕩無頼の体験を積んでいただけに、社会からはみ出した無宿人や無法者に同情し、弾圧や取締りだけでは、ことは解決しないと考えていたからだろうか。同施設への収容者は、初期の百三十人から急速に増え、天保十五年
(1844年)には、六百人に達している。
寄場での油しぼりと紙すきの収益金はドル箱だった。紙は石川島で作られたことから「島紙」と呼ばれ評判になった。原料には勘定方の反故紙が使われたが、これは今日でいう再生紙である。作業の合間には、各界の著名人を呼んで講話を聞かせた。また、月のうち三日は作業を休ませた。
寄場での盗み、徒党、博打は死罪と厳しい定めがあったが、とにかく職業に精を出し、渡世の見込みが立てば手当てを与え、赦免し、身元引受人に引き渡すというもので、これまでの”罪人は牢屋でお坐り”という通念とまったく異なる幕府直営の新方式の発足を見たのである。事実、平蔵が人足寄場に尽力している間は、江戸の犯罪と無宿人は減り、治安回復に貢献したといわれる。
幕府財政破綻のための、当初の予算不足を平蔵が銭相場にまで手を出して埋めたことは、当時の武家の才覚としては驚きであり、「無宿場は、長くは続くまい」との噂や批判があったが、ともかくこれが突破口となり、寄場の財政の見通しが立つとともに、まがりなりも軌道に乗ったのである。
しかしあっけなくも、この銭相場の上がりが長谷川平蔵の晩年の大仕事「置き土産」となって、翌年解任、翌々年の寛政七年
(1795年)五月十日、病により忽然と世を去るのである。明治初期の東京の地図を見ると、寄場は「懲役場」と記されている。懲役場はその後、石川島監獄署となり、明治28年(1895年)、巣鴨に新監獄署が完成したのを機に、その大事な役割を終えている。終わり
(
文責 三上 卓治) [ホームページに戻る]