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今週(8/6)の雑学大学は石田喜久子さんの「私の伝えておきたい八月」でした。石田さんは、昭和208月には女学校の3年生でした。太平洋戦争は大きな傷跡を日本に残したのに、昨今はあの忌わしい記憶が風化しつつあります。石田さんは、歴史を正しく認識するための何かとして、「私の伝えておきたい8月」のための朗読をしながら、皆さんと意見交換の口火を切りました。

 

『…・…ごめんなさい。あつ子、りょう子。どうぞ、この母を恨まないで頂戴。私は一瞬、この火の海の中で、喜一も一緒に親子揃って死んだ方がどんなに楽だろうかと思った。そのとき喜一が

「おかあちゃん!熱いよ。赤ちゃん、もっと熱いだろうね。大丈夫?」

と声をかけてきた。

 

私はギョッとした。

「喜一。大丈夫。赤ちゃんおとなしくしているから。

あなた男だもの。もうちょっと我慢してね」

「うん。赤ちゃん大丈夫ならいいんだ。どこへもやらないでね」

喜一は苦しいげに私に訴えている。

 

力も尽き果て、私は喜一の声を神の声のように聞いたのです。

私には喜一がいる。この子を何としても助けよう。

学校に移った火の手は、もう目も開けられぬほど私たちの頭の上から襲ってくる。

もし、このプールに飛び込むことがもう少し遅かったら、私と子供はもう既に焼け爛れていたことだろう』

 

これが昭和203月10日、東京大空襲の記録の一つである。

森川さんは、火が収まる前に、背中が急に重くなって8ヶ月の子供が二人死んだことを悟る。せめて、喜一だけでも助けなければと、やっとプールから這い上がって、死んだ子供を降ろそうとすると、背中をぎゅうっと掴んだ子供の指が離れない。

 

死んだ子二人を地べたに寝かせ、黒焦げになったねんねこ半纏をかけたのち、喜一くんのために近くの救護所に救いを求めた。しかし、手当ての甲斐もなく喜一くんもその夜、息絶えた。子供三人を連れて、大空襲の中を逃げまどった母親の記録は、ここで終わっている。あまりに残酷さに、私は胸が詰まって読み続けることもできない。

この東京大空襲を指揮した、米空軍ルーメィ司令官は後日の報告書で次のように語っている

(東京大空襲・参考資料)。

1945310日。東京への夜間焼夷弾攻撃に先立って、あらゆる条件が高度に、科学的に計画された。これまでのところ、きわめて不利な気象条件が有視界爆撃を妨げる例が多く、望んだような結果が得られなかった。そこで全く異質な作戦の研究の上で、低空焼夷弾攻撃が計画された。

 

同報告書によれば、低空焼夷弾攻撃の利点は気象条件よし。(2)レーダーよし。(3)ガソリンの節約ができる。(4)エンジン負担軽減。(5)爆撃精度向上。高度1500mから3000mまでの超低空で東京上空に侵入し、1平方マイルあたり少なくとも25トンの集中密度で焼夷弾攻撃を決行する。

 

目標の重要性については、700万人の人口を持つ世界三大都市の一つである東京は、日本の商業工業の中心地で、重工業を除けば、ありとあらゆる日本の企業の中心地であり、機械工具、電子工学、機密計器、石油、航空機部品のような重要軍需産業が都市として許されるかぎり集中している。

 

また交通・通信の中枢部でもあり、本土の、主要鉄道線路の大多数の始発駅でもある。さらにまた政府の行政所在地で、日本の軍需機械を含む大工業団地のかなめになっている。この東京を爆撃するために4つの目標地点が選ばれ、主力部隊よりも1時間半まえに無線誘導機2機を先行させて、誘導信号を送るようにする。

 

爆撃に先立ち、9日夜1030分、2機のB29が房総沖をのんびりと旋回し、都民の注意を釘付けにしておいて退去し、ほっと一安心させたところに大編隊の奇襲爆撃だった。日本側は、この2機のB29は米空軍の囮機だとばかり思っていたが、実は後続の主力部隊に正確な航路を教える誘導機であったのである。

 

そして、合計325機のB29がサイパン・テニアン・ガムの3つの島から2時間45分かかって飛び上がった。ただし、このうち実弾を積んでいたのは、同報告書によれば279機で、総計1665トンの各種高性能焼夷弾を投下した。まず最初の動きは、先導機の指示にしたがって125機は有視界爆撃で、つぎの149機はレーダーによって予め計画されていたように、目標地点に焼夷弾を投下した。

 

実弾を投下しなかった他のB29は、新聞記者やカメラマンなど大勢の軍事要員が同乗して、撮影やら報道などの任務についていた。報告書のページをさらに繰ってみると、爆撃と同時に房総半島、東京東部、南部、中部から数機のサーチライトが先発機を捉えたが、これに対して約500回の掃射を浴びせた他は、この作戦で敵に対する砲撃は行われなかった。

 

2、3の編隊は様々な対空砲火を受けたが、自動兵器の砲火は一般に低すぎ、重高射砲は高すぎ、その砲火の量も火災と熱風が対空砲火地を襲うとともに急激に衰えてしまった。敵機の抗戦は思ったより低かった。戦闘機は40回の攻撃をかけられたが、B29は1機も失われることなく、対空砲火により2機が失われたものの、その威力は中程度でやがて弱まった。

 

こうして15.8平方マイルの地域が焼き尽くされた。これには工場地帯18%、商業地域の63%、密集住宅の中心部が含まれ、破壊率は82%にも達した。B29の損害は14機だったが日本の戦闘機の攻撃によるものはゼロだった。高射砲によって2機、故障にによるもの1機、不時着水による4機、行方不明7機である。他に42機が多少の損害を受けたが、不時着水によるB29から40名の乗員が救出された。

 

ルーメイ将軍はこの輝かしい大戦果に対して、以上のようは経過報告を克明に行っている。ルーメイ司令官が部下の生命をどんなに尊重していたかが良く分かる。アメリカ軍においては、ルーメイ司令官に限らず誰もが納得できる救助計画がなければ、作戦任務そのものが成りたたなかったのだろう。

 

しかし、それほど一人ひとりの人間の命が大切だというなら、その兵士たちの無差別絨毯爆撃によって、一夜にして失われた10万人の生命はどういうことになるのだろう。小さなアリや虫けら類と同じなのか。虫けらだって10万匹を焼き殺すということは、普通の神経の人間にはできることではない。

 

「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工業を破壊したのだ。日本の都市の家屋はすべてこれ軍需工場なのだ。鈴木家ボルトを作れば、お隣の近藤家はナットを作る。お向いの田中家はワッシャーを作るといった具合いに、東京や名古屋の木と紙でできた家屋の一軒一軒が、すべて我々を攻撃する武器の製造工場になっていたのだ。

 

これをやっつけて何が悪い。日本では、女も子供までもが軍需産業に携わっていることは以上の通りだが、残虐さは戦争そのものに帰せられるべきものである」とルーメイ司令官は自伝の中に書き記している。すべての責任は戦争にあって、人間にはないのだろうか。(東京大空襲・早乙女勝元)

朗読を終えて、私はおかしいと思うことがある。

それは、日本政府からあとでルーメイ将軍に、勲一等旭日大授章が贈られているのである。それは何故かというと、日本の自衛隊を創設するときに功績があったという理由である。ときの首相は佐藤栄作である。

 

戦争とは、不思議なものである。平和な時代には、人を殺すと犯罪になる。ところが、戦争になると、たくさん人を殺すことが手柄になって勲章が贈られる。戦争そのものが、凶器なのではないか。

 

たとえ、どんな苦しいことがあっても、戦争だけはやってはならない。ということを、私たちの世代においても確認したいし、次の世代にも伝えていきたいことである。私はそのために、今の時期、若い人たちには楽しい夏休みであるが、いつもそれを思わずにはいられない。

 

つたない私の朗読であったが、いま読んだようなことが一番風化されやすいことなので、口から口へ伝えておきたいのである。私たちの世代がいなくなったら、このような戦禍があったことを、誰も思い出さなくなってしまう。国のため、家族のためと死んでいった人たちの思いを忘れると、私たちにバチが当たると思う。

 

私は、戦争が終わったときは十三歳であったから、本当の戦争の痛ましさというものは経験していない。しかし、私たちがいなくなる前に、繰り返すが、若い人たちに戦争の悲惨さを絶対に伝えておかなければならない。今日、朗読のチャンスを戴いたことをご縁に、皆さんとお話し合いを交わしたいと思っている。

 

 

『妹たちのかがり火』 仁木悦子編

「比島観音とチョコレート」 佐藤チエ

山岸昇氏について

 

山岸 昇氏は大正12年山形県鶴岡市生まれ、妹一人、弟二人の長男。尋常高等小学校を卒業、大工を職業としていた。昭和20年3月5日、ヒリッピン・ルソン島マンテンガリア付近で戦死。享年22歳、独身、陸軍兵長。筆者はすぐ下の妹。

 

戦争が終わって大分経った今日、2月14日はバレンタインディ。昭和19年2月14日は、庄内は大雪で一日中吹雪が荒れ狂っていました。この日、ただ一人の兄が入営しました。早く父親を亡くし弟妹のために一家の柱となって、入営の前日まで働いてくれた兄でした。

 

いよいよ出発の日、裏口に私を呼んで、明日からどうやって暮らしていく。弟二人も戦争が長引けば、必ず俺に続いて兵隊に取られるぞ。お袋はお前に頼んだぞ。と、私の手を握って頼む兄の目に涙が光っていました。

「兄さん、泣いていちゃ出征できないよ」

 

私は持っていた一升瓶を出しました。兄はラッパのみにあおり、赤い顔で元気を取り戻して家を出たのでした。逞しい甲種合格の体に武運長久の日の丸のたすきをかけ、猛吹雪の中に消えていった兄は、フィリッピン・ルソン島で20年3月、戦死を遂げたのです。

 

入営した兄に代わって、母や弟のためになりふりかまわず働き続けたあのころ、葬式をする金もなく、私の着物を売ってやっと兄の葬式を出した悲しい思い出も、2月14日のバレンタインディになると思い出すのです。結婚はもちろん、恋愛ひとつなかった兄のために、私は何時の頃からか仏壇の写真にチョコレートを上げてやるようになりました。

 

そして、小学生と幼稚園の孫にチョコレートを分けてやりながら、兄の戦死や戦争の恐ろしさ、悲しさ、ひもじさなどを少しずつ語ってやるのです。この「戦死した兄にチョコレート」という題の私の投書は、昭和57年2月11日の朝日新聞のひととき欄に載りました。

 

意外に反響が大きく、多数の方から共通のお便りを戴きました。生還なさった兄の戦友のことも分かって、兄への追慕の思いもかきたてられました。兄と最後に別れたのは指定された面会日でした。山形32連隊の桜は散り、すっかり葉桜になって、暖かく、良く晴れた一日でした。

 

母と二人で鶴岡から一番の汽車に乗り、何カ月もかかってためた配給の砂糖と、サッカリンを少し足して甘く作った、兄の大好きなおはぎと、長い行列をしてやっと買った何日分ものパンとがお土産でした。兄は同じ庄内の賀茂出身の戦友を連れて来て、この人には誰も面会に来てくれる人がいないそうだから、俺の分も分けてやってくれといいました。

 

兄とその戦友は大喜びで、ズボンのベルトをゆるめながら食べてくれました。そして機関銃の射撃で一番になったことや、馬になど一度も触ったことがなかったのに馬の世話もしている、馬は人懐こくってメンコイいものだなどと色々話してくれました。私は、軍隊は何かにつけてピンタを張るそうだから、と聞いてみたら、昔のように殴ることはなくなったというので安心したりしました。

 

食べきれないパンを平べったくして、ズボンや上着のポケットに隠してやったのです。兄より前に面会が済んだ人は、衛兵所で身体検査をされ、隠していたものを取り上げられていました。いよいよ兄の番だと思ったとき、「山岸 昇、母親と妹を門まで送れ」と命じられたのです。母と私は、びっくりしました。

 

 

「体に気をつけて、がんばってね」といいながら、門の内と外に別れました。「山岸 昇。面会終わりました」と大きな声が聞こえてきました。心配した身体検査もなく、兵舎に入るまで、何遍も何遍も振返って手を振り、こぶしで涙をふいているみたいでした。

 

兄の入営した山形32連隊の跡は、いま霞町公園になっています。桜は昔のままですが、軍隊を思わせるものは何もありません。ただ西側の土手の前に、日露戦役の凱旋記念碑が残っています。兄は南方に発つときに、戦友の皆さんとその前で記念写真を撮っています。写真の真ん中、石碑の前に兄は腰を下ろしています。

 

それが私には、お墓の前に坐っているように見えて、ドキッとしたものでした。母は今年82歳になりました。そして山形に行くたびに、いつもこの記念碑の前で手を合わせ、兄が坐っていたそこに坐ってみるのです。母には兄の体の温もりが、伝わるのかも知れません。

 

奥の細道で有名な山寺の、立石寺の境内の、奥の院に向かう参道の途中に、比島派遣の靄部隊の慰霊碑が建立されたのは、もう十何年か前のことです。昨年の春、夫とともにお参りしましたら、そのわきにイフ部隊の地蔵尊が建っていました。碑文によりますと、両部隊とも兄たちの部隊よりも2カ月ほど遅く編成されて、フィリッピンに派遣されたものと判りました。

 

そのことから、兄たちにも何か供養してやらなければと、色々調べました。そして愛知県の三ガ根山に比島観音が設立されていることが判りました。病身の私に代わって、夫がそこにお参りしてくれました。比島観音が、第一回比島遺骨収集団がフィリッピンから持ち帰った鉄兜を熔かして作った観音様であることが判ったのです。

 

遺族には、小さく模造した観音様が渡されることを聞き、夫は郷里の母にも観音様を届けてくれました。母は「昇が観音様になって帰ってきた」と、涙を浮かべて喜んでくれました。私も同じ気持ちで、仏壇にお祭りしています。

「比島観音とチョコレート」朗読終了

 

参加者との話し合いの中から

慶文さん 71歳)画家 高校教師

 

私は広島市の出身である。

今日はくしくも8月6日。太平洋戦争の終末近く、広島に世界最初の原爆が投下された日である。その日、私は自宅にいたのであるが、一瞬の閃光のあとに、ドーンという爆裂音がしたので、驚いて空を見上げると、巨大な入道雲が目に入った。

 

しばらくして、雨が降り出した。私は街の様子を見に出た。街は、火の海に焼け落ち、瓦礫の山となっていた。

雨は、なぜか黒い雨だった。道端に死体がごろごろと転がっていた。死体がうめき声を発していた。水、みず…水をくれ。その人の体からは、ボロ切れのように焼け爛れた皮膚がはがれて、血肉が露出していた。

 

これは、地獄だ。母親が、赤ん坊を抱いて死んでいる。兵隊は銃を抱いたままの姿勢で息絶えている。その横に馬も、黒焦げになったまま。ラジオは米軍の新型爆弾が広島に投下されたと、報じていた。

 

私は、呆然としたまま、街を歩き回った。地獄絵図は私の脳裏に焼き付く。

私の記憶から、あのときの惨状は今も消えない。

戦争だからといって、非戦闘員市民の大量殺戮は許されるのか。

私は画家である。焦熱に悶える人を救う術はなかったが、絵筆によって後世に残すことはできる。

 

私は、ペン画によって広島に展開された、灼熱地獄を書き続けている。あの日の惨状は、いかなる画聖によっても再現できるものではないが、私の画を見る人に少しでも伝えることができれば、戦争抑止の力になると思う。つたない作品だが、講演終了のあとにご覧いただきたい。

 

終わり

(文責 三上卓治)

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