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今週(9/3)の雑学大学は田中知子さんの「ほんとうのやさしさってなあに」でした。田中さんは家族相談士・ヘルスケアカウンセラーです。またむさしのヒューマン・ネットワークの運営協議会委員をしています。現代社会の中で複雑化している人間関係の悩みを、わかりあえるコミュニケーションによって解決する 【「カウンセリング講座」むさしの】の講師でもあります。生涯にわたって豊かな人生を送るために、どうしたらよいかのお話でした。

 

 

講師には、武蔵野市で活躍している女性議員とか、身近な方々をお招きした。親が心豊かに生きていくことによって、子供も健全に心も体も発達していくという思いからである。昭和58年から親子映画会を催した。親と子が一緒に映画を見ることで、子供たちの心に、視覚的な面から情緒的に好影響を与えられるのではないかと考え、映画会毎月開催していた。

 

昭和62年、子供のいじめが多くなり、ある種の社会現象のようになった。武蔵野市民文化会館で、いじめの問題を取り上げた「やがて春」という映画を上映した。いじめをする側といじめられる側の、両方の家族と子供の置かれた立場を通して、見る者に感動を与えた映画であった。親子の問題をずっと考えてきた私にとって、それは実に意義深いものであった。

 

平成元年、ミハエル・エンデというドイツの児童作家が来日したが、武蔵野市の芸能劇場で「糸あやつり人形」を見て、非常に興味を示したことがある。これがきっかけで、エンデ原作の「モモ」という映画を、武蔵野公会堂で三回上映した。「モモ」はカウンセリングの基礎を勉強するのに、最適な題材の内容であった。エンデ原作の著書「モモ」も同時に読んだことが、私の人生を大きく転換させた。

 

たまたま、その時期に、いい家庭の娘さんが不登校児に陥り、苦しんでいたお母さんがいた。私は映画「モモ」を上映するだけではなく、「モモ」を深く理解するために講演会を企画した。青梅線、福生に「タメ塾」という不登校児を預かる私塾がある。「タメ塾」の工藤先生の講演には、その不登校児のお母さんの心を揺さ振るものがあった。

 

その後その娘さんが「タメ塾」に三年間通うことによって内面を回復し、短大へ進み一流会社に就職することができた。以上のような「モモ」と「タメ塾」の母子との出会いが、私をカウンセリングの仕事に導かせてくれた。

 

今年は、異常に暑い夏である。

その気温の異常よりも、青少年の残虐な犯罪が多発したということでも、異常な年で、ニュースを聞くたびに心が痛む。一つの大事件が終わらないうちに、次の事件が発生している昨今である。

 

ニュースを聞くたびに、何かせずにはいられない気持ちから、【「カウンセリング講座」むさしの】で、メィンテーマ「優しさと自分らしさ〜家族・家庭で本当の優しさを表現していますか?〜」を問い掛ける講演会を9月2日(土)に開いた。

第一回は「現代の若者と家族・家庭」講師 成田 諭氏(亜細亜大学・臨床心理士)

武蔵野市に「0123」という施設がある。当初は、「0123」が吉祥寺に出来たのだというだけの受け止め方をしていた。私は家族相談士とヘルスケアカウンセラーという二つの資格をもっているが、今年5月、家族心理学会の大会が東京・府中で行われたのに参加した。その時のこと。

日本社会事業大学の先生が講演の中で、武蔵野市吉祥寺には「0123」という施設があることを披露された。そして「あそこでは、非常にいい取り組みをしているので、ぜひ、いいモデルとして全国に広がっていくことを期待します」と、結ばれた。その評価に、私は改めて「0123」の重みを感じた。

先日、その「0123」を見学した。私は、ここには、やさしさ があると思った。心理学の観点から申し上げると、人間の一生のなかで情緒は、いつ最も育つかという議論があるが、その「いつ」は、赤ちゃんが生まれて育つ、零歳から3歳までの間の母親と接触する期間であるといわれている。三つ子の魂百までの所以である。

カウンセリングの中で「交流分析」という分野があるが、その中でも同じ理論が見受けられる。武蔵野市は「0123」を第二の家として、地域のお母さんと子供の遊びの場、集いの場として開放している。館長さんにもお目にかかることができ、地域のやさしさのモデルとして、全国に情報発信するに相応しい設備であることを認識した。ここでは、午前10時から午後5時まで、3歳以下の子供を連れたお母さん方は自由に出入りができるし、そこで育児の講座があれば、随時参加することもできる。

 

私は子供に映画を見せることを長く行ってきたが、その映画会のなかで心の触れ合いを、どのようにしてきたかという反省もある。私たちが育った時代は、どの家庭も大家族で、家族の目が子供に注がれている環境があった。今の核家族のなかで、お母さん方は自分の母親も経験していない子育てをしているのである。つくづく大変だなあと思う。

今のお母さんたちは、子供の情緒面も育てなければならない大変さがあるからである。

赤ちゃんはオムツが濡れたという不快感を泣くことで発信する。オムツを替えるとき、体に触る。肌に触れる手の感触で、赤ちゃんの心は満たされる。オッパイをあげるときも同じである。「ヨシヨシオッパイね」と声をかけてあげる。

 

赤ちゃんは言葉がわからなくても気持ちを感じ取ることができるのである。泣いたとき抱いてもらったり、微笑や発声に応答してもらったりという毎日のかかわりにによってアタッチメント・心の結びつきが形成されていく。

 

言葉をかけることの大切さを、カウンセリングの勉強をすればするほど、実感する。

そういうものもなく、この子はいい学校へ入って、一流会社に就職して欲しいという目を親から注がれたとしたら、子供の情緒の部分は置き去りになってしまう。

 

子供が、受け入れて貰った経験がないままに外に出た場合、相手を受け入れていこうとする気持ちが湧いてこない。受け入れることを沢山してあげることの必要性は、子供が成長してから反映されるからである。それを意識しながら、若いお母さんたちを見てあげることが、カウンセラーとしては大切なことと思っている。

 

92日の講演「現代の若者と家族・家庭」の中で成田先生も、同じく「情緒を育てるのはやはり家族が中心である」ことを力説されていた。

「なぜ、若者たちは直ぐキレルのか?」

成田先生も臨床の場面で、このような質問をよく受けるという。

 

「カウンセリングは一対一で行うものであるから、総体的に判断することは難しい。臨床心理士としての答えとしては次の通りである。現代の若者は家庭においても、保育園、幼稚園においても、みんなが「良い子」であることを要求され、そして、「みんな一緒」を常に上から与えられている。

 

その影響なのか、今の若者はつながりを求めている。うながっていないと不安を感じるらしい。携帯電話でやりとりする光景を見てもそうである。つねにつながりを求める、つながっていることで安心する。一人でもいいんじゃないかと思ったりする。

 

いい子、いい学校、いい大学、いい会社が目標として与えられてしまうと、子供個人として生きることができなくなる。そんな状況の息苦しさ、負担をいつも抱えている。ところが、人間のエネルギーは、大体一定になっているから、人により何かの拍子で耐え切れずにキレルのではないか」と答えている。やはり、「個の尊重」ということが言葉だけではなく、大切なのである。

 

では、ここで本題の「やさしさってなんだろう」に入る。

現代社会においては人間関係が非常に複雑化して、幼児虐待とかドメステックバイオレンスとか、若者の異常な犯罪とかが社会問題化している。20世紀最後の年である今年、ニュヨークで「男女平等」をテーマとする国連の女性会議が開かれた。

 

そこで、女性に対する男性の暴力も問題にされた。「男女平等」が様々な角度から論議されたが、日本における課題は「家庭内暴力」ということだった。暴力の実態調査や、被害者のための対策作りが急務であるとされたと報道されている。

 

私は「ドメステック バイオレンス」についても、2年前から相談を受けている。分かりあえないご夫婦で、主人はキレルと直ぐ暴力を振るうことで、奥さんと子供がいつも脅えていた。この問題に関わりながら思うことは、いまの若い夫婦には、夫たるべき主人とその母親との密着関係が結婚しても、続いている人が多いということである。この関係に悩む人も多い。

カウンセリングとはカウンセラーの考えで引っ張っていくのではなく、当事者がもっている内面的な力に信頼をおいて、それを援助しながら一緒に問題を解決していく。

 

個人とは、まさしく個人であって、その人の悩みは、その人しか知りえない。しかし、それを共感的に理解していくのがカウンセラーの役目である。

 

その人の心に近づいていったところで、一緒に考えるチャンスが生まれる。その際にカウンセラーが見せ掛けの態度をとったり、うわべを飾ったりしたら、相談者はすぐ見破る。カウンセラーも、ありのままの姿で取組むことが求められるのである。

 

ある幼稚園の園長先生をお訪ねしたことがある。

いま感じることは、子供の気持ちに接しようとしても、上滑りしてしまう。子供自身が自分をさらけ出さない、という。

では、私たち大人自身が、分かり会えるコミュニケーションに近づいていくためにはどうしたらいいのだろうか。私たち日本語の会話で、「私は…こう思う」という表現はあまりしない。子供に対しても「ああしなさい」「こうしなさい」ではなく、「お母さんはこう思うけど…」とした方が、もっと気持ちが伝わり易くなる。

大人同士の「私はこう思う…」の場合でも、ある部分を隠していたのでは相手に心が伝わらない。会話においても自己開示をしておくことが、相手とコミュニケーションをとるために、もっとも必要なことではないだろうか。

交流分析の中に「過去と相手は変えることができない。自分が変わることの方がはるかに生産的である」という言葉がある。エネルギーを他者の変化と過去に注ぐのではなく、自分が変わってみようとするとき、今までと違った自分に出合うことができる。

 

私たちは、いつも現実の理想の中に生きている。理想と現実の違いを感じたとき、理想に近づけようと頑張るだけでなく、現実に目を向け「あきらめる心」の余裕があった方が人間らしい。また、自分は誰にも負けない有能な人間であると信じ込んでいる人が、無能な自分を意識させられたときは、そこに葛藤が生じる。

 

人間誰しも、有能な部分と無能な部分の、二つの側面があってもいいのだと、視点を変えて見る。己を知り、それを受け入れる作業は大変難しいが、実はそれが大切なのである。人から攻撃を受けた場合でもそうである。自分も一緒になって相手を攻撃していたら、相手に巻き込まれていることになる。自分の位置で立っていることが重要である。

 

三つのタイプの自己表現。

人間の行動には、三つのパターンがある。

  1. 自分のことは二の次にして、相手を優先
  2. する。非主張的(ノンアーサティブ)

  3. 自分のことは優先するが、相手を考慮せ
  4. ずに踏みにじったりする。攻撃的な人

    (アグレッシブ)。

  5. 自分も大切にし、相手も大切にする。

(アサーティブ)

 

アサーションは、自分も相手もともに尊重していこうとする自己表現を言う。

臨床心理学、人間性心理学の視点から、参加者の皆さんとともに探り合おうとするのが、成田 諭先生の924日の講演である。武蔵野スイングホール(武蔵境駅)で午前10時〜12時に行われる。さわやかな自己表現・アサーションの学習である。時間のあるかたは、ぜひ参加して欲しい。きっと、日常生活を送る上での人間関係に活かせると思う。

 

私は家族相談士だが、家族をシステムとして捉え、援助していく。家族心理療法は、心理療法の中でも最も新しい分野だ。一番小さな社会、家族の関係が円環的に機能し、大きな社会につながっていくことを望んでいる。

第一部終わり

 

第二部

参加者の話し合いの中から 近藤公枝さん

『私は78歳になる。大腿部に満州国でソ連兵に銃剣で刺された傷があり、加えて持病は狭心症である。電車に乗るとシルバーシートに坐ろうとしても、そこには若い人がすでに坐っており、知らん顔をしている。かといって、席を譲って戴けませんかという気にもなれない。

 

そんなときは、外の景色を眺めて、知っている景勝地を思い浮かべながら、見える景色をそこの景色だと思って見ると、心がすっきりする。

もう一つの気分転換法は、私はかなりの老人だけど、年よりずいぶん若く見えているに違いない、と思うことにしている。すると、むしろ嬉しくなる。

(これは、素晴らしい自己カウンセリングではありませんかの声)

 

次の場合、私は間違っているのでしょうか。

私の妹から、自分の畑でとれるサツマイモが送られてきます。それがすこぶる美味しいのです。マンションのお向いの私よりは若い婦人に、おすそ分けに1本あげました。そして「とっても美味しかったわ」といって、お返しにシクラメンの鉢を戴きました。鉢には金色の短冊が立ててあり、それはそれは立派なシクラメンでした。

 

近鉄百貨店の花売り場で聞いてみたら、そのシクラメンは金賞もので、当店では一鉢16千円の値段をつけていましたという大変なものと分かりました。私の部屋は北向きで日も当たらないし、そんな立派なものをすぐ枯らしては、却って申し訳ないことになると思い「立派なお花を有難うございました。しかし、私の部屋は陽も当たりませんし、もし、枯らしでもしたら申し訳がないので、お気持ちだけを戴くということで、お返ししたいのですが・・・…」といいました。

 

すると、そのご婦人、はっと血相を変えて

「そんなら、返して頂戴!すぐ返して!」と叫ぶようにいうのです。

私は、その方にシクラメンの鉢を返しました。

それからあと、口もきいてくれません。また、お向いですから外出するとき、同時にドアを開けることもあります。その方はそんな時、サッとドアを閉めるのです。

私は、間違ったことをしたのでしょうか。』

 

これには、席上さまざまな意見が交わされた。その一つ、安田真理子さんの言葉。

「近隣の生活者としてシクラメンを返したのは、まずかった。むしろ、サツマイモがあまりに美味しかったので、お向かいさんは一鉢1万6千円もの価値を感じたとお返しと受け取る方がよかったと思う。相手も自分も救われる」

 

田中知子講師のまとめ

雑学大学にお伺いしてよかったと思った。サツマイモとシクラメンの話しや、攻撃を受けた時の自分について、参加者と一緒に問題解決に向かって話し合うことができた。雑学大学がグループカウンセリングの場となって、「ほんとうのやさしさってなあに」を、皆さんと共有できたからである。

 

先ほどカウンセリングの話しに触れたが、カウンセリングの理論や技法を並べたてるのではなく、私は、カウセリングの心を人と人との関係に活かすことを願っている。「カウンセリング講座むさしの」では、一人ひとり違った価値の存在を、カウンセリングの学習や話し合いを通して共有している。「人間らしさ」の表現として、自分を肯定した他者を肯定する。そのために、まず「自分を好きになる」ことをお勧めしたい。

ありがとうございました。

おわり

(文責 三上卓治)

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