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10/8の雑学大学は、大平拓也(76歳)さんの「東海道新幹線建設秘話」でした。

大平さんは旧国鉄入社以来、一貫して建設技術畑を歩んで東海道新幹線建設に、日本鉄道建設公団に移ったのちは上越新幹線建設の総指揮を取った経歴があります。リタイヤごの余技として、板紙による25分の1の機関車模型ほかを作成、今回はその一部(C-62E-10、1号機関車)を持参、講演の前に展示披露されました。

 

 

 

東海道新幹線というのは、考えてみれば「鉄道に大革命」を起こした鉄道といえる。私が入社した昭和22年は、太平洋戦争の敗戦で日本国中が打ちひしがれ、国鉄も爆撃で散々に痛めつけられており、老朽と荒廃で目も当てられない惨状を呈しており、列車は動いているものの、とても復興などもおぼつかない状況であった。

 

しかし、ようやく痛手から立ち直って、復興に向って歩みが始まった。

私が入社したころは、私は土木屋なのに、まったく工事の仕事がないのである。何をやってもよいことになっていたが、事務所に出て、新聞を読んでから何かをして帰る(何もせずに帰る)毎日だったが、2−3年経ってようやく復興の土木工事が始まった。

 

昭和30年近くなると、復興工事もかなりピッチが上がってきて、戦前の国鉄に戻りつつある状態にまでなってきた。東海道線などは全線電化ができたが、それまでは蒸気機関車C−62(模型参照)が「つばめ号」を引っ張って走っていた。30年以降は、蒸気機関車に代わって電気機関車や、電車が東海道を走るようになった。特筆すべきことは、30年前後に湘南電車が湘南地域に走るようなったことである。

 

当時の電車は68車輌編成が技術的に限界であったが、湘南電車は12車輌から15車輌編成で走った。機関車で引っ張るのではなく、全車両電車という電車列車で走るという、コントロール技術が進んだ、画期的なものであった。湘南地区に走ったかっての列車のような形の湘南電車が、電車列車である東海道新幹線の、ある意味では原形といってもよい。

 

東海道新幹線を語るなら、どうしても戦前の弾丸列車構想に話しが及ぶ。それは、東京から下関まで、日本の鉄道は狭軌の1,067mm線路であるのにに対し、標準軌道の1,423mm(広軌)で結び、朝鮮鉄道・満鉄(標準軌道)と連結して弾丸列車を走らすという、大東亜戦争以前の構想である。

 

これは、単に構想があるだけではなく、実際に建設が始まっていた。用地も買収し、トンネルも掘り進められらた。特に丹那トンネルは上下双方から1kmほど、掘られていた。名古屋地区では二本ばかりトンネルが完成していた。平塚付近は用地買収が進み、田んぼの中にまっすぐな線路用地ができていた。しかし、戦局は不利に展開して、ついに敗戦となり、弾丸列車構想も瓦解した。

 

敗戦は日本全体をどん底に落とし込み、弾丸列車構想があったことすら、忘れさられようとしていた時代が続いた。しかし、東海道全線が電化され、経済復興も目覚しくなった昭和30年頃には、東海道全線は満杯の様相を呈していた。ものすごい量の貨物と人間の動きが始まって、東海道本線は限界に達して、これは遠からずパンクするのではないか、との心配も出てきた。

 

東海道本線のパンクを救うために、もう一本の複線を併設するいわゆる線増案が提案され、その気運が高まった。それは実際に始まりかけ、東京から小田原あたりまでは、工事が行われた。昭和32-33年頃の話である。そのときに、たまたま東海道新幹線構想が持ち上がってきたのである。

 

先日、NHKのビッグプロジェクトXという番組で、技術研究所の三人の、九十歳以上の技術者の対談が放映されたが、ご覧の方もおられるだろう。確かに一つのドラマではあったが、三人はそれぞれ陸海軍の技術者であって、研究面での貢献者には違いないが、この方たちが新幹線を考え出したわけではない。

 

敗戦によって、職を失った軍隊の大量の技術者を引き受けたのは、国鉄である。当時、国鉄は東京・浜松町の海側に研究所があり、ここにこれらの技術者たちを収容した。みんな素晴らしい研究者で、特に先日のテレビに出演された松平氏はゼロ戦の、高速における振動問題(空中分解に至る)を解決した経歴がある優れた技術者である。

 

この研究所には私も二三度訪れているが、将にバラックで、碌な研究設備もなく、優秀な研究者だけがゴロゴロいるという状態だったが、活力が付くにつれ国鉄もこれではいかんということで、東京・国立市に素晴らしい鉄道研究所を昭和32年に建設した。研究者も全員そこに移り、腰を据えて研究し出した。

 

もちろん、鉄道研究所であるから、高速運転、振動抑止、信号方式など、各専門分野に分かれて研究が始まる。そして、鉄道研究所が国立に移った、記念事業を行うことになった。篠原研究所長(現在九十五歳)は、銀座ヤマハホールを借り切って「東京・大阪三時間の可能性」というテーマで、各研究者が発表するという大講演会を記念行事として企画し、実施した。

 

国鉄が、世の中に向ってセレモニーをすることは、これまで考えられなかったことだった。この日は雨が降って客足が心配されたが、しかし400人定員の講堂が一杯になる盛況となった。その中で六人の講師が、それぞれの専門分野の中で、当時の鉄道の一般であった高速度100kmを250kmにすることが可能であり、東京―大阪間が3時間で走れるという構想を、熱っぽく披露した。これが、大反響を呼んだのである。

 

しかし、この行事は国鉄本社の許可を得ないままに行ったものである。当然、国鉄本社は怒った。一般公衆に向って「東京―大阪3時間」をぶつとは何事であるか、というお叱りである。しかし、十河総裁がこの話に飛びついたのである。なぜ飛びついたかというと、満鉄の総裁の十河さんは、広軌(スタンダードゲージ)論者だったからである。

 

本社の各局長が怒るなか、十河総裁からは「よくやった!」というお褒めの言葉を戴いたのである。その上、ヤマハホールで行った講演を、御前会議でやってくれという。そこで本社の総裁の前で、六人の講師と技術研究所の所長を呼んで、ヤマハホールでの講演とまったく同じ講演を行い、総裁が一人でその講演を聞いた。

 

それが、第一のエポックである。

結果的に、十河総裁の鶴の一声で、東海道新幹線がはじまったといっても過言ではない。当時の国鉄首脳陣の考えは、東京―大阪間に広軌の別線を引くなどは、まったくの論外なことであった。東海道の満杯現象は、線増(複々線)によって解決できると考えられていたのである。

 

国鉄の部内は、新幹線論者と線増論者に分かれ対立したが、総裁を頂く新幹線論者の勢い断然優勢であった。今にして思うことは、十河総裁の鶴の一声がなければ、あのような早いタイミングでの新幹線着工はなかったと思う。十河総裁の命令で、新幹線調査室や関連組織ができあがり、34年には各部から選りすぐりの人材を集め、新幹線総局作られた。

 

私も本社課長補佐として、そのときから総局に加わった。当時の国鉄には各局、建設局、施設局、電気局、運転局・…から人材を引き抜き、8階の大講堂を占拠して新幹線総局のメンバーを集めた。毎日、喧々諤々の議論のうちに一歩一歩具体的な構想を固めて行った。

 

私は、三十四歳、血気にはやる、いわゆる青年将校だった。日々、使命感に燃えて問題に取組んだ。東京―大阪の間の線路建設の基本になること、例えていうと、カーブ半径は何千メーターにするとか、最急の勾配はどうするとか、車輌限界、建築限界、全線の荷重体系はどうするとか、必要なことの大半を私が原案を決めて行った。最高速度は250km/hにしよう。カーブの半径は東海道線でも600mが基準であったが、新幹線は2500mにしよう。(現在の整備新幹線でも半径は4000mになっている)

 

250km/hで列車が走ると、半径2500mでも車体を内側に傾けなければならない。これをカントというが、左右のレール片側を持ち上げる。あまり持ち上げると、列車が止まったときに倒れるから、限界が難しい。荷重体系も線路、橋梁、高架橋の設計の基礎になるものである。

 

新幹線の車輌は電車列車で、各車輌の各車輪の各車軸には全部モーターを入れる。この場合、従来の電車と違って、GOのスィッチで各車輪が一斉に動き出すから、加速が容易になる。しかし、これまで最高速度100km/hというのが鉄道の速度であったのが、果たして研究者が可能性として言った通りに、現実に250km/hで走れるかどうか。

 

では、実際に試験をして確認する必要がある。

ところが、実験のための線路がない。車輌もない。

そこで、目をつけたのが小田急電鉄のSE車(ロマンスカー)である。

この電車は160km/hの最高スピードを出すことができる。しかし、小田急の線路はカーブが多いので、実際にはそのスピードでは走っていなかった。

 

小田急としては、髀肉の嘆をかこっていた状態であったから、国鉄がロマンスカーを借りて、小田原付近の直線線路で速度に対する走行試験をする話が、うまい具合にまとまった。小田原駅付近で国鉄と交叉するポイントを作り、ロマンスカーを国鉄線路に引き込み、160km/hの走行試験が始まった。私も何度が実験車に乗ったが、160km/hのすごい速いさには驚いた。

 

丹那トンネルが途中まで出来ているし、名古屋近辺ではトンネルが二つ完成していたので、これらトンネルの断面を活かさなければ勿体ないということになり、このトンネル断面に合わせて車輌限界、建築限界などが押え込まれた。

 

国鉄は東京、新橋、岐阜、大阪に工事局がある。各工事局も復興工事が継続しており、多忙であった。新幹線工事を始めるについて、各工事局から人員を割いてもらったのであるが、各工事局は、「新幹線工事などは知らん」という態度だった。「あいつら関東軍だ」つまり、大本営の命令を聞かずに勝手にやっているという意味だ。

 

実際に、最初の2年間は本局の援助を得られない感じであった。そこで工事の進め方としては、東京、静岡、名古屋、大阪に新幹線建設局を新設した。しかし、それでも思うようには展開しない。昭和39年夏の「東京オリンピックに間に合わせる」、「東京―大阪3時間」、「予算1780億円」。というのが大命題であった。

 

ところが、「東京―大阪3時間」はともかくとして、作業の進行、予算の面では、まったく見通しが暗い。特に予算1780億円というのが問題で、この金額で収まらないことは、最初から分かっていた。当時の国鉄は、法律上はすべて自分判断でできる仕組みになっていたが、大きな事業は運輸大臣(政府)の許可が必要である。そのための1780億円であった。

 

金と時間と組織の面で、もたついた新幹線工事であったが、このままでは国鉄の威信にかかわると、全体の気運が盛り上がったのは、完成の2年前くらいといってよい。国鉄の総力を挙げて取組む体制が、昭和37年頃にようやく出来上がったような気がする。そして、無事東京オリンピックに間に合うタイミングで完成したのである。

 

東海道新幹線は、国鉄が独自にやった事業だった。新しい鉄道、すなわち新線を作ることは、全て鉄道敷設法に定められているのであるが、東海道新幹線は新しい鉄道であるのに、国鉄は、これは東海道本線の別線線増(現在線の線路を増やす)ということにつき法律には関係ないとして、単に巨大事業ということで運輸大臣の認可を取ったものである。

 

山陽新幹線もその伝でいった。この場合も別線線増ということで、政府は口出しが出来なかった。新幹線は国の政治の根幹にも関わる大事業なのに、容喙できないとは問題だから法律的に抑えようと、このあと新幹線整備法ができた。

 

最近、整備新幹線という言葉を聞くが、この根拠になる法律は新幹線整備法である。東北・上越は新幹線整備法による新幹線である。この法律によって、新幹線の建設は国の発注によって鉄道建設公団がが行い、国鉄はその運営だけをするという風に、役割分担がきまった。

 

しかし、東北・上越新幹線時代は、まだ国鉄も健在だったので、その建設を巡って鉄道建設公団と対立したこともあった。整備法は出来ていたが、施工主体は鉄道建設公団と、国有鉄道がそれぞれ作ると明記されていた。私が担当した上越新幹線は鉄道建設公団、東北新幹線は国鉄の仕事となった。現在は鉄道建設公団が一手に作っている。

 

私は、技術研究所の優秀な技術者たちが、それぞれ新幹線建設に貢献したと思う。しかし、新幹線の生みの親となると、十河国鉄総裁の老いの一念、およびそれに従い大同集結、総力を挙げて新幹線を作り上げた国鉄である。当時の新幹線についての経緯を話しができるのは、私七十六歳が最低の限界で、大半の方が故人になっている。

 

私はその後、鉄道建設公団でいろいろな鉄道建設に携わった。東京近郊では、東京外環状線(通称武蔵野線)を担当した。最後の仕事は上越新幹線の建設の総指揮をとった。東海道新幹線と上越新幹線と二度の大事業に携われたことは、技術者冥利につきる。

 

私は東海道新幹線で、技術的にこれはまずかったと思うことが二点ある。

その一つは、関ヶ原付近の雪対策である。ルートとしては名古屋から鈴鹿山脈をトンネルで抜いて、大阪へ直行することも考えたのであるが、技術上と費用面で断念した。結局、米原を回って京都を通るという本来のルートに落ち着いた。

 

200km/hの猛スピードで走る新幹線の雪の問題については、いろいろ討論したが、大した問題ではないという結論であった。結果的には、それが大失敗となった。しかし、この大失敗の経験を、次の上越新幹線の雪対策に生かすことができた。上越地方は全世界の中で、最も鉄道が雪に悩まされている処といっても、決して過言ではない。上越新幹線建設の総指揮者として、米原の雪害の二の舞にならないようにと、私は固く心に誓った。

 

しかし、速度100km/hの鉄道と200km/h鉄道とでは、まったく予想もしなかった現象が発生した。100km/hの速度で列車が走ると、雪が車体にまとわり付く。冬になると上野駅に到着した東北、上越線の上り列車でよく見かける光景だ。つまり雪の状態で車輌に引っ付く。それが200km/hの新幹線では、米原あたりで巻き上がって引っ付いた雪が、速度が速いため完全な氷になってしまうのである。

 

そして、浜松あたりの温暖地にさしかかると氷が溶けて、車輌から剥がれる。その剥がれ落ちた氷は、200km/hのスピードによって、ものすごい破壊力となる。バラスを跳ねて民家の窓ガラスを割る、対向列車の窓ガラスを割るなどの事故が発生する。100km/h時代には予想もしなかったことだ。

 

名古屋駅などでは、多くの作業員がこん棒で叩いて氷を剥がすという作業が必要となり、事故を未然に防いだが、新幹線らしからぬぶざまな光景であった。結果として米原付近では、200km/hで走れるのに走れず、徐行運転せざるを得ないジレンマとなった。

もう一つの失敗は、騒音振動対策である。これも事前に色々議論をした。

 

レールはロングレールで調整密に引いたレールである。空気バネで支えた最高の車輌が、その上を200km/hで風を切って走る。理論上、騒音も振動も大して起こらないだろうという予測であった。しかし結果は、認識が甘かった。開業当時は列車本数も1時間1本と少なかったので、あまり問題にならなかったが、万博が始まった頃、列車本数が1時間78本に激増してから、騒音振動が顕在化した。

 

新幹線設計当初は、そんな列車本数が走るとは予想もしていなかったので、振動騒音対策は後手ごてになってしまった。社会問題化してから、慌てて防音壁を作ったりした。騒音と振動という問題も、技術者として軽視し過ぎたという反省を持っている。実はそのほかに反省点がもう一つある。

 

山陽、東北、上越などの新しい新幹線の線路は、砂利を使わない5m長さのスラブ軌道というコンクリートの板を引いて、その上にゴムパッキングをおいてレールを乗せ、しっかり締め付ける固定軌道という、保守をしないで済むものになっている。

 

昔の線路は、今でも大半の鉄道がそうであるが、枕木を砂利でつき固める方式である。砂利が砕石になり、枕木がコンクリートに変わって進歩したが、これが最高の線路だという、常識が軌道屋にあった。軌道屋としては、200km/hで走る新幹線の軌道は超精密に保守が必要であるとの意見であり、そのためには保守し易い砕石道床が絶対であるという。

 

私の意見は、常時保守をして道床の超精密を保つ作業をするくらいなら、最初から超精密に道床を作って、それを頑丈に固めて保守をしないで済むという軌道を作るべきだという考えであった。その立場で議論が交わされたが、軌道屋はがんとして譲らず、そのために東海道新幹線は全線砂利道床で作られた。

 

しかし、いまや、東海道新幹線で一番金がかかって困っているのは、砂利道床の保守である。東海道新幹線の乗り心地は確かに悪くないが、毎晩毎晩、千数百人の保線夫が保守にかかり、毎日一番電車が通る前に、試験電車が走ってチェックしているのである。そんな実体験から、スラブ軌道という新しい方式が山陽新幹線から以降の整備新幹線に採用されている。

 

新幹線に駅をどれだけ作るか、時間をかけて議論がされた。

「東京―大阪3時間」が大命題であるから、それを達成するには駅をあまり増やせない。当初は「東京―名古屋―大阪」くらいが有力であった。京都も最初はなかった。しかし、現実に仕事を始めると、横浜、小田原、浜松、静岡、岐阜、豊橋…・などにも止まることになった。後になって請願駅という地元が駅建設費を負担する駅も出来たりして、相当数の駅となった。

 

東海道新幹線建設の反省が、次の山陽新幹線に生き、東北・上越新幹線にも生かされていった。東京―大阪間は1780億円の予算で、結果的に4000億円を要したが、我々現場は、いかに安く作るかに苦心惨澹したものだった。高架橋などの構造も限度一杯のぎりぎりの倹約費用で設計している3S主義を掲げた。「スマート」「スピード」「スタンダード」である。

 

昭和34年当時を振り返ってみると、国鉄の土木技術は戦前の技術の継承であった。

一言でいうなら「ださい」感じである。東京―大阪540km3時間で走るために新幹線建設局を四つ作ったが、各建設局のカラーを統一する必要が生じた。なんとかスマートな出来上がりを願って、得意の紙細工の模型を作り説得の助けに使った。これが意外に効果を発揮して、設計図より説得力があった。

(紙製模型はE-10=5動輪・後ろ向きに走るトンネル用)

 

東海道新幹線の車輌、橋梁、高架橋、駅舎などが、従来の国鉄の殻を破って東京―大阪間を統一したデザイン感覚の、スマートなものに仕上がったのは、ひとえに紙細工の模型によるものと、ひそかに自負している。以来、高速道路などの橋梁デザインにも影響し、全体として交通上の景観が向上した。

 

上越新幹線の総指揮を担当することになって、一番腐心をしたのは、豪雪対策である。豪雪地帯だと分かっていながら新幹線を作って、ダウンするようなことは絶対に許されないのだ。現在、冬でも上越線は雪のために止まったことはない。ニュースにならないから、あまりお気づきにならないと思うが、しかし、豪雪にもびくともしないで定時運転をするために、大変な設備を設けている。これには巨額の工費を使った。

 

清水トンネルを抜けて新潟まで約70kmは、すべて豪雪地帯である。トンネルを抜けてからの「アカリ」(トンネル以外の明るいところ)は、全部高架で走る。雪は高架橋の上にも、放置すれば山のように積もる。それを除雪列車で撒き散らせば、沿線地帯に迷惑がかかるし、迷惑がかからないように用地を確保すれば費用がかかる。

 

上越地方の雪は温度が高く、湿った雪だから、水を掛けると消えやすい。現実に、上越地方の都市は、道路に積もる雪は水を流して消している。これぞ地方独自の生活の知恵だと感心して、高架橋に積もる雪も水を撒いて消すことを考えた。ところがこの着想は、総裁と意見が対立した。

 

総裁は札幌出張の際に、地下鉄が真駒内あたりから地上に出ると、雪よけのプラスチックのカバーの中を走るのを見た。そこで総裁の意見は、清水トンネルを出てから新潟まで、「アカリ」の高架橋に全部防雪カバーをかけよ、となったのである。

 

この意見を実施すると、高架橋も大きく設計し直す必要があり、カバーの建設とその保守費用もかかってきて不経済である上、カバー内はトンネル化するから空気抵抗が増してスピードが低下し…・…いいところは一つもない。私は、総裁の意見とは反対に、高架橋上の雪はすべて水を撒いて消してしまうことを考えた。

 

高架橋というのは、見た目には水平でも、実際はアップダウンがある。その一番低いところに散水の拠点を設け、3-4kmに一ヶ所、雪を融かす大設備のボイラープラントを計30ヵ所ほど作った。雪は温度の低い水をかけても、なかなか消えない。12℃―13℃の水が融雪に最適である。

 

その水は使用後回収するが、温度が零度近く下がっている水を温めて再利用する仕組みになっている。雪を消す判断は、すべて機械が行う。融雪プラントに雪の検知器があって、雪の強度を測り、必要に応じてボイラーに点火を指令する。準備、散水などの判断も行う自動運転である。新潟には、そのマシンの中央制御室があり、ここでは人間が機械をチェックしている。

 

これだけの設備をして、ボイラーの燃料は灯油である。ところが、運転開始時期の昭和59年に第二次石油ショックが始まった。雪は、連続して二昼夜も降り続くことがある。すると途中で燃料切れになる恐れもある。そのために、灯油貯蔵のタンクを設備し、都市近くでは、都市ガスを使用することも併用した。

 

また、雪を融かす水は回収するが、雪も融けて水の量が増えると思いきや、回収量は3%程度減少するのである。高架橋から水が漏れるからであるが、すると灯油と同様に長時間降雪が続くと、水切れになることも心配しなければならない。

 

そこで各プラントの地下に、1,000トンくらいの水が貯水できる水槽を据え付けた。回収する水はゴミを拾ってくるので、水槽に入る前にスクリーンを通してゴミを除去するようにした。以上のように、雪対策としては完璧に近い設備をした。一ヶ所に約20億円、合計三十数ヵ所でシステム全体として建設費700億円を要した。

 

鉄道建設公団が、金を使い過ぎるという批判が、国鉄サイドから当然のように出た。しかし、上越新幹線開業の年は、ひそかに願ったような大雪であった。上越新幹線は、どんな雪が降っても止まらなかった。止まらないことが当然だから、ニュースにもならなかったが、国鉄サイドの批判はピタリと止まった。

 

総裁を新潟に招待した。上越新幹線の先頭車に乗せて、スプリンクラーが雪を融かす様を、実際に見て戴いた。新潟で一杯やったあとに訪れたバーのマダムが、上越新幹線の開通を手放しで喜んでいた。

 

「スプリンクラーが、キラキラ回って雪を融かすのを見ると、わたし達新潟県民は涙が出てきます」といったマダムの言葉に総裁も、さすがに感動の面持ちで、私を指して「コイツが考えたんじゃ」といった。

上越新幹線の完璧な雪対策は、雪のない東京側から見ればなんでもないことかも知れないが、豪雪に悩まされている新潟地方の人には、大変感謝されている。

終わり

(文責 三上 卓治)

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