先週(12/3)の雑学大学は奥崎 喜久さんの「先祖は三内丸山の地主だった」でした。奥崎さんは二つの大学で非常勤講師を務めておられるほかに、日本経済新聞、社会教育などにも執筆する経済評論家であります。全国地域作り工房の代表。十年前から毎月地域作りのための、女性の勉強会「ミズ・アカデミー」の講師として山形へ出向いてお話をしておられます。またこの夏にオーストラリアで行われたスキー・マスターズ世界大会の日本代表で優勝したほか、数々の国際大会に出場するなど、全日本実業団スキー連盟理事長としても著名です。

 

●はじめに

私は高校まで、青森で過ごした。すでに60歳を越したが、50歳までは中央の官庁に勤めていた。リタイアして現在、評論家として活動を続けている。戦前、私の家は青森県でも数番目と言われた地主で、津軽家とは縁類だったと聞いてる。戦後の農地改革で、百数十ヘクタールの田畑が没収され、無一文となった。ただし、青森市内に6000坪ほどの庭つきの土地は残った。丸山遺跡は家から徒歩で十分ほどにある。祖母はこの土地で畑を耕していた。そしていつも「あの畑に鍬を入れると、土器にあたってしょうがない。刃が欠けたりする」と、こぼしていたことを覚えている。今にして思えば、その祖母が拾ってきた土偶や矢じりなどで遊んでいたものだった。

その後、私は東京へ出たので、そのことをすっかり忘れていたが、父が亡くなってから数億円という相続税がきて驚いた。結局は、現金が払えなかったため、土地を物納した。そこにこの三内丸山の土地も含まれていたのである。実際この土地に、これほどまでの縄文の大集落の遺跡があるとは、思いもよらなかった。今になって、ちょっと残念な思いがある。

ところで、この三内丸山遺跡とはどんな地域から成り立っている土地で、なぜこれほどまで世間から注目を集めているのか、このことからお話したい。まず、皆さんの理解をたすけるために、青森放送制作の三内丸山遺跡のビデオテープを上映する。

 

1 五千年前の歴史から目覚めた三内丸山遺跡

 

この三内丸山遺跡は調査の結果、5500年ほど前から約1500年間、少なくとも5600人近い人たちが、共同生活をしていたということが分かった。それにこの遺跡からは、考古学からいっても、他の遺跡とは類を見ないほど、ケタ違いに多くの土器が発掘された。

県の発表では、段ボール箱で4万箱にもなっている。そして、この発掘調査によって新潟県糸魚川やカラフトとの交流、また何と驚くなかれ、日本から6000キロも離れた南太平洋の島国とも交流があったという、夢のような事実も発見された。その外、発掘している間に、直径1メートル以上もある栗の木の土台が六箇所に見つかり、とにかく想像もできないような大きな建造物があったことも分かった。

この発見によって、マスコミなどが大騒ぎし、世間からも注目され始めた。

もともと青森県には、亀岡遺跡など考古学上、実に貴重な、また最初の発見と言われるような土偶が多くあるが、今までは脚光を浴びていなかった。それが今回のような大発見になったお陰で、見なおされた感があることも事実のようであるし、また青森県のイメージ全体も変わった。そこでこの遺跡から、どんなものが発見されたのか、またどんなものが注目されているのか、順序だててお話したいと思う。

 

2.南太平洋の島国との交流

 

まず円筒形の土器。この丸山の集落が栄えた縄文前期から中期は、バケツを細長くしたような円筒土器文化が栄えた時代である。北は北海道の石狩川河口、南は盛阿市と秋田県の八郎潟の内側が、同一の土器文化圏と言われているが、今回見つかった土器は、この範囲を越えている。たとえば、中国の内モンゴル白地区の興隆窪(こうりゅうわ)遺跡からも、丸山遺跡の円筒土器とよく似たものが出土している。興隆窪遺跡は、日本の縄文時代早期にあたる8000年〜7000年前に、集落が栄えたことが知られている。

そこには巨大な竪穴住居があり、大集落の形跡など三内丸山遺跡と、実に多くの共通点が数多く見受けられ、丸山遺跡には中国の考古学者なども調査に訪れている。 円筒土器ではないが、ロシア・サハリン州の中部、ポロナイスク近くにあるザパトナヤ遺跡からも縄文土器が見つかっていることを考えると、日本と大陸との交流が、現代人が思っている以上に活発だったのではないだろうか。

 

また驚嘆することに1960年代、日本から6000キロも離れている南太平洋の島国、バヌアツ共和国でも縄文土器がまとまって見つかり、関係者を驚かせた。これを分析した結果、製造法から粘土成分まで、丸山遺跡など、東北地方に多い円筒土器と同じことが分かった。その土器は縄文時代なのか、その後に持ち運ばれたものかは謎であるが、当時のものだとしたら交流の痕跡が大陸だけではないことを、ここで伺い知ることが出来る。

 

 

 

2.200人が入れる大型竪穴住居

 

発見された縦穴住居のうち、長さが10メートル以上ある大型の住居が20棟ほど出土

している。数年前、復元したのは、その中でも最も大型の建物で長さは32メートル、幅は9メートルで、面積は250平方メートル以上もある。この建物では200人以上が一堂に会することができるので、お祭りや、合議集会など、さまざまな想像がかき立てられるのである。

考古学では縄文時代の大型住宅は、東北や北陸地方に多く、特に日本海側に集中している

ため、雪など気侯と関係があるのではないかと推測もされている。この建物は集落の真ん中から見つかったことから、人々が集う集会場や共同の作業場だったことも考えられるが、これほど大きな建物を造るには当時、その技術や組織的な共同体社会があったことだけはは間違いなく、これにも関係者は驚いたとコメントしている。

 

 4. 集落の北の谷では                   

 

泥炭層に覆われたこの場所は水分が多いため、保有状態が非常によい動物や魚の骨、漆塗りの皿などが出土した。関係者はこの場所を、遺物の宝庫と呼んでいる。日本最古とも堆定される編んである布、ヒエやゴボウといった植物のタネ、人骨なども多数発見され、当時の生活を鮮やかによみがさせてくれる。

またこの時代の前期は、現在より平均温度が23度、高かったと推定されており、マグロの骨なども見つかっている。この調査は94年から始まったが、この集落には幅2メートル、長さ60メートルの道路も確認され、土留め用の坑を何本もたて、斜面には土器を張りつけて地盤を強化したところもあった。これは間違いなく人口の多さを物語っているほか、協同体がしっかりしていたのではと堆定される。この北の谷からは考古学からいっても想像以上のものが多数出土し、ここでも関係者を驚嘆させている。

5. 個人の住宅は高床建物             、

 

小型の掘立柱の建物跡は、遺跡の中央部から大型の建物を囲むように建てられ、100棟以上が発見されている。この建物は小型とはいえ、直径60センチの柱が3本づつ、2列に並ぶ格好になっており、この配置から6本柱の高床式建物と考えられる。北側の谷がある湿地帯の斜面からは、縄文時代中期後半(約4500年前)と推定される掘立柱の建物4棟跡も発見された。 当時、近くには川があったことも確認されており、そこでこの建物は、何かの形で水辺に必要な施設だったとの見方も出ている。このように推理すると、これまでの考古学では「高台が生活の場で低地は廃棄場所」という考え方が有力だったが、しかし低地でも建物が見つかったことで、これまでの集落跡の考え方が、見直される可能性も出てきた。またここからは、船の櫓や珍しい漆塗りも見つかり、考古学者を喜ばせている。

 

 

6. 盛土のところは土器のかけらが散乱

 

盛土というところは、土器や石器のほか、建物を造る際に出る残土など、生活するうえでの廃棄物を捨てた場所である。この土地が考古学では宝物の場所なのである。この場所を調査すると、推定1000年以上もこれらの廃棄物を捨て続け、周囲より小高くなっている。北側の盛土では、壊れた土器のかけらが敷き詰められたように出土し、関係者は土器のじゆうたん場所と話している。とにかく掘っても掘っても出てくるので、保管場所にも困るほど、と関係者は話している。実際、南側の盛土の高さは約3メートルもあり、ここからは土器のほか、コハクやヒスイ、土偶など、祭りに使われたと思われる遺物が、多数出土した。その後、この盛土をたたいて固めていることも確認されまた。これらのことを考え合わせると、その後ここは間違いなく意図的に作られ、神事や集などに使われた場所とも推定されている。.

 

 

7. 小型の竪穴住居跡は700棟以上

 

これまでの調査で竪穴住居は、約780棟ほどが確認された。これは一時(いっとき)に建っていたとは考えにくいが、推定では同じ時期に最大で100棟ほど、約5600人が集落をつくり、生活していたと考えられる。このことからして、この三内丸山遺跡は、日本では最大級と言われる由縁である。97年の調査では、集落の南側から縄文中期のちょうど中ごろの竪穴遺構が26基が見つかったが、一般的な竪穴住居の掘り込みは、大抵2080センチなのに対し、約1218メートルと深く、炉跡など生活の痕跡がないことから、大規模な地下貯蔵庫ではないかとする説も浮上している。 とにかく想像以上の集落だったことは間違いない。

 

 

8. 大型掘立柱建物の使用目的はいまだにナゾ

 

集落の中にそぴえ立つ大型の掘立柱建物は、三内丸山遺跡のシンボルになっている。

この建物は直径約1メートルもある粟の木柱からできており、42メートル間隔で規則正しく並んでいる。本來木柱は腐ってしまうものだが、発見された木柱には、建設時に周囲を焦がして腐りにくくしていたほか、地下水が土中の空気を遮断していたお陰で、下の方が完全な形で残っていた。これが発見されてからにわかに注目が集まった。今回これを再現するため、栗の木柱を全国から探したが結局、日本にはこれほど大きなものはなく、ロシアから取り寄せて再建した。この建物の建設方法や使用目的、またその形など、専門家でもはっきりした根拠を推定できず意見が別れている。そこで関係者は「よって用途も判明しない」とコメント、未だ多くのナゾに包まれている。

 

 9. 大人の基と子供の墓は別れていた

 

大人の墓は、地面に掘られた円形や小判形の穴で、土壙墓(どこうぼ)と呼ばれている。ここでは遺跡の東側に道を挟んで2列に並べ、土葬されていた。97年までの調査では、墓の長さが約420メートルも続いていたことが確認された。

 

しかし子供の場合は集落近くの北側にあり、遺体を土器に納めて埋葬したことが分かった。この場所からは、埋葬跡が約880基ほどが見つかり、お墓の総数約1200基の7割を占めていた。このことからしても当時は、乳幼児の死亡率が非常に高たったのではと推定される。  

 

10. 食料に栽培植物があった       

 

食料として三内丸山遺跡から、動物では他で見つかるイノシシやシカなどではなく、ムササビやウサギなどが8割ほど占めていた。また魚ではヒラメ、タイ、サバなどが多く、植物ではヒョウタン、ヒエ、ゴボウ、マメなど、木の実では栗が多くドングリも見つかっている。ところでこのヒョウタン、マメ、ゴボウなどは、人が手をかけなければ育たない栽培植物なのである。この発見によって縄文人は猟をするだけではなく、栽培で食料を確保する方法を知っていたことも分かった。中でもヒョウタンは、アフリカと東南アジアを原産地とする最古の栽培植物の一つといわれ、このことを考えると、想像以上に各地との交流があったのではとも考えられる。

現実にペルーでは、約15000年前の洞くつから、ヒョウタンのタネが見つかっている。果肉は苦くて食料にはならないが、中国では漢方薬として使用され、果皮はいまでも水や酒の容器として利用している。96年の調査では、このヒョウタンと果皮が発見され、縄文前期にはもう栽培されていた可能性が強まった。国内の遺跡から出土したヒョウタンのタネは、これまで福井県鳥浜貝塚の発見が北限だったが、今回はそれを一気に北進させた。

 また最近の調査では、麦と見られるイネ科のタネも見つかっており、年代が測定されれば国内最古の発見例となる可能性が高い。麦の原産地は西南アジアで、シリア北部のテル・ムレイビト遺跡から約1万年前、野性していた小麦や大麦の炭化したタネが出土し、この時代の人たちは食料にしていたことが分かっています。麦はその後、中央アジアから中国に伝播し、朝鮮半島やシベリアを経て日本に伝わったと考えられている.そこで丸山の人たちは、各地から伝わった多様な植物を自ら栽培しながら生活していたと思うと、食料は案外豊かだったのでは、とも想像される。

 

 

11.道路に使うアスファルトを使用していた

 

この縄文時代に私たちには思いもよらないものが、生活必需品として使用していたこと

が分かった。現代では道路などに使用するアスファルトである。これを何に使うかというと、狩りに使う矢じりと、柄をつなぎとめる接着剤などに使用したのである。アスファルトの原産地は北海道、東北・北陸の日本海側に見られるが、丸山遺跡に一番近いのは秋田県の昭和町である。これらを考えても、縄文時代の社会は狭い地域に閉じこめられていたと思われがちであるが、実際には驚くほど情報網が発達し、他の地域との交流が盛んだったことが分かってきた。

 

12 ヒスイ、黒曜石もあった

 

新潟県糸魚川市、ここはヒスイの産地である。緑が映えるこの石は、装飾品や祭祀(さいし)などの道具として使われていた。丸山遺跡から出土したヒスイは、この糸魚川市の青海産だったことが確認されている。これは日本海ルートを伝わり、長野県霧が峰産の黒曜石と一緒に移動してきたのではと、その可能性を指摘されている。ヒスイの中には穴の開いた完成品だけではなく、原石や穴を開ける途中のものも幾つか見つかっている。

 この辺から推定すると、このヒスイは単にここでの使用目的だけに集めたのではなく、製品を加工し、各地に送っていたとも考えられる。ヒスイは「緑のはがね」と言われるほど硬いので、それを加工する技術が縄文時代にあったとすれば、まさに驚きである。

 その他、天然のガラスと呼ばれ、実に美しい光沢を放つ黒曜石、この石は吹き出した熔岩が急激に冷やされてできるが、加工すると切れ味が鋭く、狩りの矢じりや獲物を解体するナイフなど、幅広く利用されていた。丸山遺跡から出土したものは、青森県産のほか、北は北海道から南は長野県霧ケ峰産まで、さまざまな地域から運ばれたことが分ったのである。とくに他県産の黒曜石は上質のものが多く、縄文前期は県産だったが、中期になると上質の北海道産や長野産などを使用するようになっている。

 

13 では、どんな人たちだったのか

 

5000年前、この集落をつくっていたこの人たちは、一体どんな人たちだったか。人類学から見ると、蒙古から回り回って波来してきた人たちには間違いないだろう。米国のアラスカ・イヌイットやアメリカインデアン、南米のインディオも結局は同人種である。またカナダの太平洋岸に住む先住民、クリンキットやハイダの人々も、間違いなく親戚だったということも分かってきた。この人たちは気侯など何らかの関係で、南下してきたとも考えられている。その他、北方民族といわれるアイヌは多数、住んでいたわけだが、それらの関係はどうなのか。最近、DNA鑑定したところでは、日本には朝鮮民族と同じ人種が数多くいることも分かってきた。とにかくこんなことがどんどん分かってくると、今後も想像される夢やロマンはつきない。

 

おわりに

 

この遺跡発掘に多いときには、数百人の人たちが関わった。今回先祖の土地にこれほどの宝物があったこと自体、私にとって驚きでであるが、県の関係者は「青森県にはこのような遺跡が見つかっているだけでも100箇所以上もあり、全国にこれほどの地域はないのです。こう考えると『倭の国』は、縄文中期に気侯からいっても非常に住みやすく、青森県あたりが日本の中心だったと言っても過言ではありません。この発見で他からは北の外れなどと揶揄されている津軽人のコンプレックスが、ようやくふっ切れたと思います。いままで遺跡では、主に関西方面が脚光を浴びていましたが、今回この地域から桁外れに大きな集落が発見されたことで、少なくとも対等になったことは間違いありません。それに青森県にはまだまだ眠っている遺跡が相当数ありますので、今後もどんな発見があるか分かりません。これからも夢とロマンが膨らみ実に楽しみです」と語っていた。これからも『縄文の都』青森から、何かが発信されることを期待したいものである。

                                          

以上

 

質問に答えて

. 三内丸山に暮らしていた縄文人は、どこへ行ってしまったのか?

A.これは誰も知らないことであるが、一説には疫病で全滅した可能性もある。すなわち

島国日本は、ある意味で無菌状態の中でみんながあ健康な生活をしていた。そこへ渡

来人が病菌を持ち込んだ。渡来人は病菌に免疫だが、縄文人は無抵抗にやられしまっ

たのではないか。

 

もう一つ考えられることは、気温の変化であろう。当時、地球は全体に温暖であり、

青森地方は温かく、快適な生活環境だったと思われる。それが千五百年に渡って生活

した最後の方で、急激に気温が下がった。住環境が悪化したので、縄文人は温かい南

の方に移動したという推定もある。

 

Q.魚の骨がたくさん出土したが、北の魚の代表である鮭の骨がないのは、なぜ?

A.これも気温との関係が深い。当時の温暖な気候によって、鮭の漁場はもっと北の方だ

ったのではないか。また、鮭の川への遡上ももっと北だったので、山内丸山では獲れ

なかったろう。その代わり、南で獲れるマグロなどの骨が出土している。

 

Q.奥崎家はいつ頃から三内丸山に住んでいるのか?

A.それは過去帳などで調べたが、判らない。180年から200年くらいまでは調査で判るが、

その先は判らない。

終わり

(文責 三上卓治)