今日(
1/14)の雑学大学は大松騏一さんの「神田川と芭蕉」でした。大松さんは神田川と芭蕉の関係を歴史的に検証する「神田川芭蕉の会」の事務局長をしておられます。古代史とそばの話を毎年して下さる「ほしひかる」さんのご紹介で、昨年秋、神田雑学大学でお話をして戴きましたが、神田川の源流の地吉祥寺での講演は一段と意義深いものとなりました。
●私は文京区に住んでいるが、文京区と武蔵野市吉祥寺とは、ご縁が深い関係にある。今日はJRの水道橋から乗ってきたが、昔の吉祥寺は水道橋あたりにあった。明歴三年(
1657年)の振り袖火事で、門前町は武蔵野に引っ越して吉祥寺と名乗り、お寺は駒込に移転をした。駒込吉祥寺にはお七吉三の比翼塚が建てられている。そんなご縁もあるが、もう一つのご縁は神田川である。神田川は井の頭の弁天池を源泉にして、関口、水道橋を通り、隅田川に注いでいる。むかしこの流れは「神田上水」として利用されたが、それがいつつくられたか、はっきりしていない。
通説としては、小田原攻めに功績があったとして、豊臣秀吉から関八州を任されるという名目で、徳川家康が江戸に入った天正十八年(
1590年)、軍勢の水を確保するために開削させたのが神田上水(当初は小石川上水と呼ばれた)だといわれている。それを掘った家来の大久保主水(本来もんどと読むが、水は濁りを嫌うのでモントと読めと云われたとか)が、井の頭から神田辺まで掘り進むのに、わずか三ヵ月しか掛からなかったとされ、これが記録された文献「天正日記」は偽書ではないかともいわれている。
天正十八年説のほかに寛永六年(
1629年)、家光が小石川上水を改修させて、神田上水と改称させた記録が残っており、この時をもって神田上水の誕生とする説が有力である。それは家光の弟、頼房が小石川に水戸藩邸を構えた時に、その屋敷を通して上水が、神田・日本橋・丸の内方面に流れるようにしたからである。
少し詳しく説明すると、神田上水は単に水戸屋敷を通って流れるのではなく、屋敷内の池に分流させて、池の鯉などに異常のないことを確かめたのである。毒の混入などを防ぐための、安全確認装置とも云える。これが完成したところで、神田上水としたものであろう。
それから五十年経った延宝五年(
1677年)から八年にかけて大修理が行われている。神田上水の水道橋付近などを石組化したり、掛樋を大型化したり、水上でも工事が行われた。その時に松尾芭蕉が工事に加わったのではないかと思われる。ただし、確かな証拠はない。「神田川芭蕉の会」は、そうした神田上水と芭蕉の関係を研究するとともに、それを縁(よすが)として神田川を綺麗にすることが、私たちの暮らしや、よい景観、街づくりなどに役立つのではないか、として活動する団体である。
レジメの一部に絵図を用意したが、これは元禄六年の図である。神田川は関口から飯田橋に通じるが、それと平行してかつての神田上水があり(いまの巻石通り)、水戸屋敷に引き込まれていた。
神田上水は明治四十三年まで使われ、近代水道が普及した後は、水戸邸跡につくられた東京砲兵工廠(後楽園の地)で工業用水として用いられたが、関東大震災で大被害を受けた砲兵工廠が小倉に移転して、神田上水も役割を終えて廃止されたという歴史がある。
ところで、昭和30年代の地図を見ると、井の頭から関口までを神田上水としてあり、関口から飯田橋までを江戸川としている。そして、飯田橋より下流が神田川となっている。そこでは神田川と呼ばれたり、外堀と呼ばれたりしているが、元々人工の堀である。江戸城の北の、備えの役割である。
ここで、そろそろ芭蕉の話に入っていきたい。
松尾芭蕉は、俳聖と呼ばれている。名前からの印象は、侘び、さびの暮らしを続けた、偉いお坊さんのようである。しかし、若い頃はそうでもなかったらしいことが、だんだん判ってきた。
松尾芭蕉が神田上水の工事を終えたのは、延宝八年(1
680)である。それまで芭蕉は日本橋に住んでいたが、工事の完了とともに深川の芭蕉庵に移っている。深川芭蕉庵に住むころには、芭蕉はすっかり有名になってしまい、芭蕉といえば深川という風になり、芭蕉が関口で水道工事に携わっていたと主張している我々はちょっと寂しい。
芭蕉は寛文十二年(
1672年)二十八歳のとき、俳諧の道をめざして京都から江戸へ下向。日本橋の魚問屋・小沢ト尺(ぼくせき)の貸家(日本橋・小田原町)に住んだ。日本橋三越本店の前を入った、室町の商店街にある佃煮「鮒佐」の店先に、昨年十月、新たに芭蕉の句碑が作られたが、その辺りが旧小田原町である。芭蕉が日本橋小田原町に住んでいたころ、関口(文京区)大洗堰の近くにあった水番屋に通って、上水の仕事をしていたと伝えられている。だが、上水の仕事とは何だったかというと、これが実はよくわからない。
芭蕉が、水道工事に携わったことを裏付ける文献に、次のようなものがある。
弟子の森川許六の「風俗文選」(宝永三年刊)に「…世に功を残さんが為、小石川の水道を修め、四年にして成る」とある。この頃は、小石川上水とも呼ばれていたが、大体四年間は水道工事に携わって、工事が終わってから深川の芭蕉庵に入って出家したのが三十七歳である。これが芭蕉と神田上水に関するもっとも古い資料である。
また江戸中期に、蓑笠庵梨一がト尺の二代目に会って聞いた話として書いた日記「奥の細道菅菰抄」のなかで、「…しばしがほどのたつきにと、縁を求めて水方の官吏とせしに、風人の習い俗事にうとく、その任にたえざるにや、職を捨て深川という所に隠れ…」とある。
ト尺は、京都へ行ったとき芭蕉と知り合って、江戸へ連れて帰ったといっている。ト尺がなぜ芭蕉と知り合ったかというと、京都では二人とも北村季吟という俳人の弟子であったからである。江戸へ来た芭蕉はその後「桃青」を号としたが、まだ俳句で食べていける状態ではなかった。そこで、「しばしがほどのたつきに…」と水方の官吏になったと思われる。
それは多分、水方の現場仕事であったのではないだろうか。小沢ト尺は日本橋の名主であったが、町奉行所から神田、玉川両水道の管理を任されていた町年寄(町人の最高位)に知り合いがいて、その縁で水方の仕事を世話したものだろう。
そこで、芭蕉は四年間働き、そのあと「…職を捨て深川という所に隠れる」のだが、これには異説がある。当時の江戸は、三年に一度は大火があって、江東区の芭蕉資料舘の横浜先生は「日本橋の家が火事で焼けて、仕方なく深川へ移った」という仮説をたてている。
芭蕉は弟子の杉風(さんぷう)に提供された深川の別荘(生け簀の跡地ともいわれる)に庵を建てて住んだが、そこに芭蕉の木を植えたことから、みんなが「芭蕉の庵」と呼ぶようになったので、「桃青」を「芭蕉」に改めたという。
喜多村信節(きたむらのぶよ)は、江戸三年寄りのひとつ喜多村家の子孫であるが、その著『いん庭雑録』(文政期頃)に「…水道普請にかかれる事見へたり。…彼者さようの事に工夫者なりしかば、試みに差図を計はせなるべし」とある。試みにとさせた水方仕事が四年間も続いたわけである。
「彼者さようの事に工夫者なり」というのも、芭蕉が俳句の先生であることを思うと、少し変である。松尾芭蕉は伊賀の郷士で藤堂藩に使えていたことがあるが、一説にはそのときに西島八兵衛という旗本から治水の方法を教わったともいわれ、治水の知識があったのかもしれない。しかし、これも本当のところは判らない。芭蕉に関しては判らないことが多いので、「忍者説」なども出てくるのである。
斎藤月岑「武江年表」(嘉永三年刊)によれば「神田上水御再修のとき藤堂家から御手伝いとして、松尾忠左衛門、掘割の普請奉行となる。」とある。芭蕉が伊賀にいたときに、藤堂藩の藩主の弟、新七郎の息子良忠の小姓役をしていた。しかし、良忠が夭折したので仕事がなくなり、しばらく伊賀の兄のもとで畑仕事などを手伝っていた。
芭蕉は俳句の手ほどきを、この良忠から受けていたのである。
良忠が亡くなり、俳諧師を目指してと京都へ出て学んだが、京都は古い伝統の街である。あとからきた者が、いまさら俳句で身を立てようとしても、なかなか出来ない。その頃の江戸は、にぎやかに発展さなかの街で、かなり自由な気風があったに違いない。芭蕉は、ト尺に出会い江戸に向かった。
芭蕉が「桃青」といっていた頃に水道の工事が始まったのであるが、なぜその仕事についたのだろうか。俳句の宗匠とは、当時の文化人である。日本橋の金持ちの商人を相手に俳句を教えておれば、相応の暮らしができたものを、わざわざ水方の仕事についたのは、芭蕉が当時の風潮を嫌ったからといわれている。
その背景に、その頃の俳諧は堕落していたということがある。
宗匠のもとに、弟子が俳句を習いに通うのであるが、宗匠は弟子の作品に点をつける(点者)。いい点をつけてもらうためには、金持ちの旦那衆は先生にご馳走したり、贈り物をしたりもする。点者も、だんだん迎合するようになる。
そのような堕落した俳句のあり方を、芭蕉は嫌った。弟子の俳句を添削指導しなければ収入は少なくなる。上水工事に携わったのは、そのような俳句から脱して自ら生活費を得るためであったと考えられる。これにも色々な説があるが、当時、日本橋に住んで生活に馴れてきた芭蕉が、寿貞(ステ、
ジュテイ)という名の妻を迎えている。
この女性は、妾とも、女中ともいわれる。
その女性との間に「二郎兵衛」という子供が生まれている。そういう環境もパトロンまかせの生活から脱皮して、上水の仕事をしなければならないことに繋がったのではないか、という説である。
さて、芭蕉は深川の芭蕉庵に住みつく直前の四年間、上水の仕事にかかわりながら、関口の龍隠庵という寺をしばしば訪れたようである。没後、弟子たちが芭蕉句「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて芭蕉の墓とした。俳人などがよく集まる場所となったことから、関口の芭蕉庵と呼ばれるようになった。大正十五年、東京府はこれを関口芭蕉庵と呼んで指定史跡に編入している。
芭蕉は、この頃は日本橋に自宅があった。水道工事は一年中しているわけではないから、仕事があるときだけ水番所に通って寝泊りして、仕事がないときは、日本橋で俳句の先生をしていた、と見るほうが自然である。
手元の絵図で、この頃(元禄六年)の関口の堰の位置と、江戸末期の堰の位置が違っていることにお気づきだろうか。後世の絵図では大洗堰が上流に動いている。もう一つの絵図の、上水の水上と呼ばれていた辺りに水神社、そして龍隠庵があった。同時にこの辺りに水番所があって、芭蕉はそこに通っていた、と私たちは考えている。
つぎに、延宝期に行われた上水工事を見てみよう。
神田上水ができたのは、徳川幕府の始まりのころである。おそらく神田川の水を関口あたりで取って小さな流れをつくり、そのまま市中に流していた。それから万治三年、世の中平和になっているが、北に対する防備として外堀を掘った。
外堀を掘ったために、神田上水は地下を流すことができず、外堀と立体交差せざるを得なくなった。そのためにつくられたのが、掛樋(かけひ・かけとい)である。これはすべて木造であるから、何年か経つと老朽化する。その修理の時期に当たっていたことと、延宝期というのは元禄の直前で、一種のバブル期の前段階であったと考えられ、それらが水道の改修工事につながったのではないか。(絵は水道歴史観資料より)
江戸の人口はどんどん増え、神田川の北へ街は伸びていた。神田・日本橋辺りも人口が増えて、水が不足してきた。玉川上水は、芭蕉の工事の時期より二十年前に完成している。すなわち、江戸は神田上水だけでは足りなくなって、玉川上水を作り、青山上水に分水し、三田上水に分け、北の方では玉川上水から取水した千川上水をつくったりした。こうした際、徳川幕府はきめ細かく、飲み水と灌漑用水を区別して、水争いの元を断っている。
ここ水道橋近辺で行われた工事の入札の資料(町触)がある。たとえば、延宝五年三月には、「元吉祥寺前の上水道御普請、入札に仰せつけられ候間、望之者は印判を持ち、奈良屋所へ参じ・・」とし、さらに同四月には「元吉祥寺下の上水道、大吐樋ならびに桝、このたび石樋に仰せ付けられ候間…」とある。(東京市史稿・上水篇一より)
元吉祥寺とは、むかし吉祥寺があった場所で、水道橋の東北角に当たる。その辺りで水道工事が行われたのである。
ちなみに江戸時代、神田上水の管理は町年寄三家に任されていた。町年寄とは、町人階級の中では一番上位にあり、町奉行と町人たちのパイプ役を行っていた存在である。奈良屋はそのひとつで、「奈良屋所」とされているのは、奈良屋の町年寄役所の意である。ほかには樽屋、喜多村があった。(図は江戸の井戸。中に魚が泳いでいることもあった)
これを見ると、幕府は町年寄を通じて、民間活力を公平に利用していたことがわかる。また江戸の街に、土木工事をする組織がすでに存在したことも示している。
現在、水道橋のとんかつ店「かつ吉」の入口にある壁板は、むかしの木樋の一部を使っているといわれる。本郷の水道歴史館には、上水の木樋や桝などが展示され、また掛樋の直前の石組が移設されている。石組は間知石(面が約
40cm四方、長さ60〜100cmほどで、四角錐状に加工した石)を四段に積み上げ、粘土で固めて頑丈にできている。工事は、木樋を石樋にして恒久化、大容量化を図ったということである。
延宝五年五月の町触には、「このたび、元吉祥寺下の上水大渡樋御普請、入札に仰せ付けられ候間・…」とある。これは掛樋の改修工事が行われたことを示すが、わざわざ大渡樋と「大」をつけているのは、水の流量を従来より大きく増やしたことを意味している。
江戸末期の嘉永三年に行われた掛樋修理の仕様書によれば、板の厚さは何寸以上、柱は何寸角、そして銅葺きとなっており、当時の民家などより余ほど立派なのに驚く。
水道橋のたもとには「大吐樋」があるが、これは余った水を捨てる目的の装置である。当時の水道は、自然の水の流れであるから、大雨が降ったりすれば水量が増える。掛樋とは木製のパイプであるから、水が入りきれずに溢れることもある。それを事前に防ぐために、水を神田川に捨てる装置である。これも石組にしている。
余談だが、「水道橋」の名の由来はどうか?
一般には水道を通した橋だからといわれている。ところが水道を通したのは、もっと下流の掛樋である。では、なぜ水道橋なのか。
実は、水道橋はかつては吉祥寺橋と呼ばれていたが、その橋の欄干の外側に、屋根の雨樋のようなものを渡して水道を通した。それが掛樋の始まりで、江戸図屏風という寛永時代の絵に残っている。それが名前の由来であると思うが、ほかに水道(掛樋)が見える橋だからという説もある。
さて、同六年四月には、水戸邸の上流部で石垣工事が行われている。場所は、町触では「水上金杉村」となっているが、金杉水道町のことであろう。大洗堰から水戸邸までは、関口水道町、小日向水道町、金杉水道町の三町で管理していた。
町触によれば、「・…神田上水の水上、石垣の丁場相渡し申し候間、その町々の名主月行事
(がちぎょうじ)衆、かけや杭木もたせ、早天より水上金杉村まで遣わさるべく…」とある。
なぜ石垣の丁場にしたかというと、この辺りの北側は崖であるため、上水路の補強の意味が一つあった。「かけや杭木もたせ・…」とは、工事そのものを指しているのではなく、石垣工事をする各町の受持ち区間の目印として、杭木をかけやで打つために持ってこさせたと推測できる。
同年九月の町触には「神田上水道の水上、下水樋十ヶ所ならびに石垣を御修復・…」がある。神田上水の北にお寺や屋敷ができてきて、そこから出る下水をどうするかの問題が出てきたのだろう。人があまり住んでいないころは、屋敷内に穴を掘って流せば自然に地面にしみこむことで問題解決だったが、人口が多くなるにつれ下水装置が必要になる。
そこで、下水の樋を神田上水の上に渡して、南側に沿って流れている神田川に捨てたのである。下水と上水が立体交差するとは、かなり危険な構図であるが、当時において、危険をさけるための技術がすでに存在していたと思われる。
ところで、水道メーターのない時代である。この頃の水道料金は、町人は道路に面している家の間口で算定され、大名や旗本は石高で算定された。町人と武家はそれぞれ利用者の組合をつくっていて、そこを通して徴収された。使用量に応じて支払うものではなかったから、いまの感覚では税金のようなものではないか。
工事が始まって四年後の、延宝八年の七月の町触は、工事の完了を伝えている。この期間は、芭蕉が水道工事に携わったとされる期間とぴたり一致するが、実際にどう携わったのか、記録された資料は見つかっていない。いろいろな書物には、帳面つけが一番多く、水方の役人とか、普請奉行(信じ難いが)とかがある。人足説もある。
惣払いのマネージメントという説もある。当時の上水は自然の流れだから、ごみや汚れが堆積する。これらを除去する作業が惣払いで、当然必要になる。
喜多村信節の「いん庭雑録」に、その打ち合わせに「桃青方へ行って、相談するように」とした町触が記録されている。とすれば、芭蕉は惣払いのマネージメント、どの区間はどの町が受け持つというような調整や管理などをしていたのではないか。
「桃青」の家は日本橋にあった。関口あたりで惣払いをするのに、日本橋まで打ち合わせに行けというのは不自然である。やはり芭蕉は、関口の水番所あたりに寝起きしていたのではないか、と思うのである。
芭蕉は、この工事を終えて、なぜ辞めたのか。
・竣工したので、速やかに功を捨てた。(風俗文選)
・風人の習いで俗事にうとく、任に耐えられなかった。(菅菰抄)
・宗匠としての地位が確立した。(頴原退蔵『芭蕉』)
・杉風に深川の別荘を提供され、隠棲した。(天生目杜南『評伝芭蕉』)
などの説がある。
江戸名所図会(長谷川雪旦画)の「目白下大洗堰」には、立派な石組の堰が描かれている。
そして「天明六年(
1786)の大洪水によって堰が崩れ、一尺ばかり低くして堅固に築き直したとた」との文が添えられている。名所図会の刊行は、この洪水の五十年ほど後のことなので、雪旦の絵はそのとき修復された姿のものであろう。
また、明治東京名所図会(山本松谷画)の「目白台下駒塚橋の景」には、芭蕉庵が描かれているが、このたりは実に鄙びた、風景の美しいところであった。芭蕉庵のすぐ前を流れるのが神田上水で、神田川は堤を挟んだ右側を流れている。
江戸名所図会「牛天神・諏訪明神と神田上水」の絵。(省略)
いまも大曲の近くにある牛天神の崖下を神田上水が流れ、ここから水戸邸に入った。一部を邸内の池に流し込み、水戸邸から木樋で出て掛樋に向かうのである。今でも後楽園の北西の隅には、昭和初期に廃止されたころの神田上水の石組みが残されている。しかし、見
る影もないくらいに、荒れ果てている。
(写真は水道歴史館展示物資料) 終わり
質問に答えて。
『椿山荘』
文京区神社誌に、「水神社は上水道関口水門の守護神として祀られる。この辺り古くは椿の名所で椿山とも呼ばれた・…」とある。水神社の辺りは椿が群生していた名所だったようで、水神社とともに椿山八幡宮も祀られていた。だが、江戸名所図会が書かれた時代には、もう椿は見る影もなかったといわれている。
ずっと遡って、太田道灌の挿話にこんな話がある。
太田道灌は江戸城を築いたが、自分の居城は川越の方である。北に本城があり、江戸に鎌倉への中継地を持ったわけだ。太田道灌の敵は豊島氏(現在の豊島区・練馬区を支配)であった。道灌が豊島氏を攻める時に、この椿山を通ったといわれる。
椿が鬱蒼と茂っていて、兵を隠すのに適した場所だから、気をつけろと皆に注意したという資料が残っている。椿は余程茂っていたと思われる。
徳川幕府が参勤交代制を定めてから、各大名は江戸に屋敷を設けることになった。大名屋敷を置くためには、広大な敷地を要する。その結果、江戸の宅地開発が急激に進み、町屋も圧迫された。その上、明暦の大火のあとは、屋敷が一つだと火事で焼失したときに困まるので、別邸を持った。これが下屋敷の始まりである。
下屋敷や中屋敷とかが、神田川の北側に多く設けられ、とくに台地上は絶好の屋敷地とされた。
この辺りは黒田豊前守の下屋敷であった。近くに細川家の下屋敷がある(現在、その一部が新江戸川公園)。黒田豊前守の屋敷は、明治維新によって上げ地された後、山県有朋に払い下げられて別邸となり、「椿山荘」と命名された。それが大正六年(
1917)に藤田観光の創始者・藤田平太郎に譲られたが、由緒ある名前は継承された。終わり
(文責 三上卓治)
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