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☆今日(平成1356日)は、雑学大学の新キャンパスとなった、夢屋グループ「旅の学校・のまど」の教室で最初の講義、「旅の学校・のまど」校長、石丸治さんの「旅は人生、そして出会い」でした。新教室には二小間に仕切られた一方を使用する構えになっており、人数によっては仕切りを外して拡大することも出来る。拡声器、スライド、パソコン、ビデオ装置、映写 スクリーン等の設備が整っていて、素晴らしい環境でした。なによりも良いのは、エレベーター完備のバリアフリーになっていることです。

 

☆私は昭和13年、愛媛県の宇和島に生まれた。小、中、高時代まで過ごして上京、東京での大学の卒業が昭和36年である。岸内閣の終わりの頃で、大学の講義は安保反対騒動で休講が続出、全学連の国会周辺デモで、東大生の樺さんが亡くなったり(昭和35615日夜)、騒がしい学生生活を経験した。卒業後の就職事情も、大変厳しい状況下にあった。

 

 少年時代から飛行機が大好きで、出きることなら飛行機乗りになりたかったが、就職先は、近畿日本ツーリスト(KNT)という旅行会社に決まった。入社後の配属先としては、本社スタッフ、国内旅行、海外旅行、航空貨物があった。当時海外旅行は自由化されていなかったが、運良く希望する海外旅行部門に配属された。

 

以来、平成1012月に定年退職するまでの38年間に、KNTの現地法人、近鉄インターナショナル(オランダ・アムステルダム)に5年、同ハワイ(ホノルル)に10年の計15年間は家族とともに、海外駐在員生活を経験した。ハワイより帰国後、本社、ホリデイツアーズミクロネシア(KNTの子会社)での勤務を経て定年となり、以後、年金生活者となる。ここから後が、出会いの話になる。

 

私たち夫婦の仲人をしてくれた叔母が、永年吉祥寺東町に住んでいたが、昨年11月に他界した。妻とともに、八王子から葬儀に参列すべく、式場に赴くにあたり、式場のコミセンに駐車施設の有無を尋ねたら、係りの人から親切なアドバイスがあった。いわく「コミセンの近くに、サイデリアというファーストフードの店があります。そこに車を停めて、お茶でも召し上がったら如何ですか。そのあたりは比較的おおらかにやっておられるみたいですよ」とのことだった。

 

そこで、お言葉どうり、そこに駐車し、2人でお茶を飲んでいた時、ワイフがお店に置いてある、タウン誌のページを指さした。「海外旅行業務や海外生活の経験を生かして、新しい仕事に挑戦してみたい人、募集!」…‥それは、夢屋の求人募集の広告だった。

葬儀への参列を終え、再度、応募要領を見たが、年齢制限についての項目がない。早速パソコンでの問い合わせをしたところ、「当社には、年齢、性別、国籍などの制限は一切ありません」とのことだったので、そのあとすぐに履歴書を送付した。しかし、1週間が何の音沙汰も無く過ぎた。やはりダメか、求人側にも選ぶ権利はあるし、昨今の経済事情では高齢者の再就職は難しいのだ…と落ち込みかけた時に、野々山さんという人から自宅に電話がかかってきた。

 

野々山氏は、夢屋グループの代表者で、今年42歳のバリバリの実業家である。どうやら先に述べた、音沙汰なしの1週間は、自分の履歴書調査にかかったらしい。電話の内容は、明日からでも出社して下さいとのこと。話を聞けば、野々山社長が親しくしている、元KNTの幹部が、かっての自分の元上司であったこと、他にも現役のKNTのスタッフの知人がいること等が幸いして、話がトントン拍子で進んだのである。自分は社内結婚で、先に述べた、元KNTの幹部が、実質的な仲人であったことなど。まったく、この世の中、どこで何がどう結びつくか解らない。

 

結婚後、住んだ場所が、三鷹の中原にあった一軒家の社宅で,通勤駅は吉祥寺、それに仲人をしてくれた叔父・叔母が吉祥寺東町に住まい、その叔母の葬儀参列がきっかけとなって、自分にとっては、新世紀の始まりとともに巡ってきた再就職のチャンス…と、つくづく世の中の巡りあわせというものに、我ながら感動にちかいものを覚えた。

 

自分の近畿日本ツーリストでの38年間は、専ら海外旅行の仕事に終始、国内旅行のことは全くちんぷんかんぷん…。それに、定年退職後2年余のブランク、旅行業界の様変わり等を考えると正直のところ、果たして私ごときが・…の気持ちもないではなかった。

 

しかし、野々山社長の温かい、対高齢者再雇用のご配慮で、この2月から顧問としての勤務条件、待遇なども決まり、「旅の学校・のまど」の開校準備の作業に入った。そして5月連休明けの新学期から、柄にも無く「校長」という役目を仰せつかり、正式に開校の運びとなった。

 

いよいよ開校も迫り、地元のタウン情報誌である「週刊きちじょうじ」にニュースとしてとりあげて頂くべく、宣伝と広告のお願いをするために、同誌編集長の大橋一範氏に面会した。すると、どういう訳か、大橋氏は、自分が勤務していたKNTのことに、やたらとにお詳しい。その会話の中で「松本さん」という名前が出てきた。

 

松本さんは、自分のハワイ在勤時代の、ニューヨーク本社の社長で、当時の直属の上司であった人だ。大橋さんがその松本さんと親しい間柄と判って、話がさらにトントン拍子の展開となり、同誌46日号誌上にて、「旅の学校・のまど」開校の記事を大きくとりあげて戴くことになった。全く人との出会いは、有難いというか不思議というか・…。

 

このたび自分が、夢屋グループにお世話にになるにあたり、どうしたものかと、迷っていた時に、妻が言った言葉がある。

「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」

「チャンスの神様には、後ろ髪がない」。

 

何処から仕入れてきたのか、晩酌をしている自分に向かって、偉そうにのたまうのである。永年連れ添ったワイフだが、セカンドステージを決めるにあったての、この意外に知的な警句としての一言の効果は大きかった。

 

「旅の学校・のまど」は学校といっても、所謂、学校法人のかたちの学校ではない。昨今は、カルチャー、なになに教室がどこの街にもあり、それらの優れた運営組織やノウハウと競合していかなければならない。新規参入者としては、学生さんにとって魅力ある先生をお呼びし、内容の豊かなカリキュラムを組まないと生き残れない。しかも、「旅の学校・のまど」は有料である。

(注)のまど は、英語のNomad=遊牧民 の意味。

 

学校の将来展望の中には、大きな夢がある。旅の好きな方々に集まって戴いて、講師の先生がたのお力を借りながら、仲間同士のオリジナルな旅を企画したい。そのような旅行が1日も早く実現することを願っている。      

 

自分はまもなく、63歳になろうとしているが、酒もタバコも大好き人間にしては、今のところ極めて健康である。しかし、祖父も父も脳溢血で倒れている。これまで毎年、誕生日前後に健康診断のために12日コースの人間ドックに入っている。現在どこにも、これといった異常はないし、裸眼視力は1.51.2 である。しかし、医者から毎回注意されるのは、肝機能についてである。

 

医者は、「あなたの肝臓はフォアグラ状態の脂肪肝、酒をやめれば数値は下がる、毎年データが変わらないということは、私の忠告を聞いていない。これを自業自得という。それと太りすぎ、しかし、痩せるための苦労やアルコール抜きの生活によるイライラがストレスとなって、また酒量が増える、タバコ(ピースの両切り)をプカブカ吸うという、悪循環に陥るよりは、現在ピンピンしているのであれば、それもひとつの生き方かな」と多少無責任な診断をもらっている。

 

先に申し上げたように、自分は昭和13年の生まれある。年表によれば、同年5月に国家総動員法が施行された。東京の市バスがガソリンから木炭になった。巷では、上原謙と田中絹代の映画、「愛染かつら」が大ヒット、主題歌「旅の夜風」が120万枚も売れた。

 

昭和20年、終戦の年は小学校1年生だった。見知らぬ土地への疎開と空腹が強烈な印象として忘れられない。最近亡くなった、並木路子の「リンゴの唄」が大流行。当時の流行語として、「一億総懺悔」とか、広島・長崎の「ピカドン」、「進駐軍」などがあった。第1回の宝くじが発売され、110円、1等が10万円、5等が50円だったそうである。

 

今は亡き母親に感謝しなければならないが、親が丈夫に生んでくれたお陰で、大正15年生まれの兄を筆頭に、6人兄弟姉妹が全員元気でいる。兄弟の決めごととして、年に1回は全員が必ず集まるようにしている。今年は長姉が幹事で、伊勢志摩方面への旅行が決まっている。

 

大学には入り、成人となったのが昭和33年。今上陛下(当時は皇太子)が、正田美智子さんと婚約され、「ミッチープーム」となった年。東京タワーが完成、広範囲への電波送信が可能となり、テレビの普及に貢献した。当時のTVはまだ白黒、「月光仮面」が大当たりした。日本中で「フラフープ」が大流行、どえらい売れ行きで、1秒間に2個ずつ売れたというデータがある。親からの仕送りを受けての貧乏学生の下宿生活、米10kg845円、床屋さんが150円、ラーメンが40円、もりそばが35円、コペパンが10円の時代だった。

 

飛行機に乗って実際に空を飛びたい!

明治大学ではクラブ活動として、航空部に入った。当時、都下の調布飛行場に、サンケイ新聞の軽飛行機(セスナ150型など)が駐機しており、教官とともに操縦訓練をするのだが、飛行機に乗る…いうことは、お金がかかる(飛行時間10分で1000円位)ことで、当然、親からの仕送りの金では足りるわけが無く、やれゼミの参考書がどうのこうの、航空部の合宿がどうの…ともっともらしいウソをついて、仕送り金増額の方策を考えたのも懐かしい思い出である。

大学卒業は昭和36年。就職先は、夢むなしく、飛行機関係ではなく、旅行会社の近畿日本ツーリスト。以来15年の海外勤務を含む38年間のサラリーマン生活が始まった。

さて、お手元にお配りした資料、「日本の海外旅行者数推移」をご覧戴くと、過去36年間推移がよくお分かり戴けると思う。

 

海外渡航の自由化は昭和39年に始まった。その年のエポックメーキング的な出来事としては、東京オリンピック、新幹線の開通(東京〜新大阪聞)などがある。海外への渡航は自由化されたものの、持ち出し外貨が$500、それ以上は日銀経由で大蔵省に申請し、一般外貨枠から外貨(ドル)を取得するなど、いろいろと制限があった。

128,000人というのが、昭和39年の日本人海外渡航者数である。平成12年の渡航者数は、1,700万人を超えた。今年もこのまま推移すると、1,800万人を超えることが予測される。

 

128千人から1,700万人…約140倍の数字となるが、この間、グラフの示すとうり毎年、その数は右肩上がりで、わずかに数字が落ちたのは、第1次、第2次のオイルショックと湾岸戦争の時だけである。

 

しかし、このグラフは渡航者数のだけの推移であって、旅行者が外国でつかう金額、滞在日数などと併せての分析が必要である。日本人にとって、海外でのお買い物は旅の楽しみの重要な部分であり、その消費額も多いことから、海外旅行が貿易収支上のドル減らしに側面的に貢献していることになる。

 

滞在日数の点では、他国に比べ短く、ハワイの例で言えば、滞在日数の平均パターンは46日がまだまだ大多数を占めている。ハワイへのアメリカ本土、カナダからの観光客は最低でも2週間とか、他島での滞在を含めると一ヶ月以上の滞在になることも多くみられる。但し、お土産などへの個人支出は、日本人に較べれば問題にならないくらい小額である。

 

以下は自分の個人的な意見であるが、現在の日本の観光行政にも種々問題があるように思う。規制緩和が叫ばれるかたわら、成田と羽田の使用制限、航空運賃の設定に関わる問題、企業間における有給休暇の取り方など・…もっともっと、消費者重視の諸施策が望まれる。

 

空港問題ひとつとっても、世界の民間空港であれほど評判の悪い成田にしても、開港以来ようやらやっと2本日の滑走路工事が始まりそうだとか、羽田を国際線に使うのは、東京都と千葉県との約束事に反するとか、なんとかいいながら、政府要人、諸外国からの賓客対応は羽田。 

 

関西新空港にしても、実際に使用が始まったら、予想以上に地盤沈下が激しいとか。かと思うと、お向かいの神戸に、もうひとつ新しい空港をつくる話が進んでいるとか。それでも足りないのか、名古屋にも新空港をとか……。

何かオカシイというか、ちぐはぐしているというか、一貫性に欠ける…と思う。

 

東京地域の2番目の空港として、石原都知事の、横田基地返還の主張がある。アイデアとしてはともかく、実際上は、日米安保協定とのからみ等があって、難しいことであろうと想像がつくが、それならいっそのこと、成田と横田を交換して貰ったら余程すっきりするのにと思う。そうなったら、関東に横田や厚木の基地があるための制限空域も緩和され、過日発生した、日航機どうしの危機一発ニアミスなども起こらなくなる。

 

先に、今年の海外渡航者数は、1,800万人を超えると申し上げた。次のステップは2,000万人である。その日がくるのは、そう遠くはないと思う。

しかし、旅行業界も多聞にもれず、厳しい経営環境と業者間の競争が続いている。KNT、日本旅行、JR関西との合併など業界の寡占化、トリプルJJTBJALJR)の業務提携などが業界内外での話題になっているが、はたして、何でもかんでも、大きいことがイイコトなのだろうか?

 

政府はかねてより、IT産業の促進、新しい産業の創出等を呼びかけている。労働時間の短縮、連休を増やす、ハッピーマンデーの増加、1WEEK休暇制度の具現化…これらは旅行業界にとっては明るい材料である。かって、「地域振興券」というのがあった。

 

いまは誰も話題にしないが、支給対象の公平さを図る意味からすれば、あれは「旅行振興券」にすべきであったと、自分は考える。なぜなら、「旅行」というものは、そのものが「かたち」としては見えないが、人それぞれの目的達成感、経斉全体に対する総合プラス効果が大きい。

勝手なことばかり申し上げたが、そろそろ結びの話に入りたい。

 

「旅の学校・のまど」の目的として、旅の好きな人々に集まっていただき、それぞれの出会いから、旅の要素について楽しく学び、新しい旅の開発、創造をして行きたい。2年間の空白から、ご縁があって、再び、毎日目的を持って生活するように、ライフスタイルが変わった。先日、電車の中で、若い青年に席を譲られた。一瞬の戸惑いの後、有難う…と言ってその好意に甘んじたが、自分も、席を譲られる・…そのような歳になったことを実感した。

確かに身体にとってきつい事もあるし、仕事に対する責任や使命感も感じる。しかし、これまでの怠惰な生活では味わえない「疲れ甲斐」というものがあり、そして、仕事の後「家路に着く」という楽しみがある。家を一歩出たら、会社のその日の仕事のことだけに考えを集中し、会社を一歩出たら、仕事の事はすべて忘れ、家族のこと、趣味のことなど考えるように努力している。歳を経るごとに、一年という時間の経過が早く感じられる。

 

「時の刻みは、命の刻み」という。一日が24時間であることは、万人共通である。そこで、誰にとっても、「人生、今この瞬間が一番若い!」ということを意識すれば、日々の生活の中に、一味ちがった新鮮さを見つけることが出来たり、アクセントがついてくるのではないでしょうか・・・・…。

                                     終わり

                               (文責 三上卓治)

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