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今週(9/23)の雑学大学は坂田純治さんの「映画で歴史を学ぼう」でした。

坂田さんは早稲田大学演劇集団「自由舞台」の代表をしておられ、舞台人でもありますが、早くから映画ビデオの収集をされており、その数は洋画、邦画合わせて7−8000作におよびます。ご子息のマンションの一室を借用して、ビデオ保管庫にしているというほどのコレクターであります。氏の名刺の肩書きには「映画史研究家」とありました。この企画は一度や二度では、語り尽くせない内容ですから、年内各月四回シリーズと致しました。

 

映画は、まず「天地創造」から始まる。1966年、ハリウッド、フォックス社。旧約聖書の中から五話を選んで、アダムとイブの誕生からストーリが展開する。ついで、1966年フォックス社の「恐竜百万年」。人類も恐竜も自然の変化とともに興亡する姿が創造力豊かに描かれている。恐竜映画の古典「ゴジラ」。コンピュータ・グラフィックスの傑作、「ジュラシック・パーク」などの系譜につながる。

 

人類の歴史を四百万年前から分類すると、四つの世代に分れるといわれる。旧石器時代(400万年前)。新石器時代(1万年前)。青銅器時代(6,000年前)。鉄器時代(3,800年前)。青銅器時代には、武器も日用品、美術品も装飾品も形をなしており、現在も遺物は発掘されている。鉄器時代までくると人類の「知」はほぼ完成に近いといわれる。

 

鉄器時代から世界の歴史を時代別に区分したある学者がいる。その学説は、歴史を五つの時代に分けている。上古史(太古―紀元375年=ゲルマン民族大移動)。中古史(375年―1517年宗教改革)。近古史(1517年―1789年フランス大革命)。近世史(1789年―1900年第一次世界大戦直前)。現代史(1900年―現代)という区分である。

 

上古史に興亡した幾多の民族、国家のなかに古代エジプトがある。古代エジプトは紀元前約3,000年前に成立している。政治、宗教(ミイラ)、建築(ピラミッド)、美術、学術(パピルス・文字の発明)などにより人類文明の基礎を作った。古代エジプトはシリアの蛮族に侵入されたり、盛衰を繰り返したのち紀元前525年には滅亡している。早稲田大学吉村作治教授は、この遺跡発掘で成果をあげた。

 

エジプトの誕生と同じ頃に、バビロニアという国が起り、エジプトに勝るとも劣らない文明を開いた。特筆すべきは天文学、太陽暦の発明であろう。しかし、このバビロニアも紀元前八世紀に、アッシリアに滅ぼされる。またメソポタミア地方に住む民族ヘブライ人は、紀元前2,000年ころに、パレスチナに移住した。しかし、パレスチナで大飢饉に会って、エジプトに渡る。

                               

ところが、エジプトはヘブライ民族に大迫害を加え、奴隷化するのである。

ヘブライ人は、予言者モーゼに率いられパレスチナに戻る。ヘブライ人はエレサレムを都とした。「出エジプト記」という民族の記録に、それが残っている。ヘブライ人はエホバを、唯一の神と崇めた。予言者モーゼは十戒という厳しい戒律を作った。ヘブライ民族の最盛期は、ソロモン王の時代である。

 

その後、ヘブライはイスラエルとユダヤの二王国に分裂する。さらにイスラエルはアッシリアに滅ぼされ、ユダヤはバビロンに滅ぼされる。まことに中東の歴史は、宗教がらみの極めて複雑なものがあり、理解に困難が伴う。しかし、現在の中東の紛争や、ニューヨークのテロ事件の深い根は、この時代からつづいているものである。

 

ヘブライ人が、モーゼに率いられてエジプトからパレスチナに向かうときに、奇跡が起った。それでは、1956年に作ったセシル・B・デビルの「十戒」を上映して奇跡の場面をご覧戴く。モーゼの祈りによって、紅海の海が二つに割れ、ヘブライ人は歩いて渡ることができた。渡り終えると、海は元に戻り、後を追跡していたエジプト軍は溺れて死ぬ。

 

「十戒」は、1923年と1956年の二度に渉って製作されたパラマウント社の作品で、今上映の作品の主人公モーゼにはチャールトン・ヘストンが扮して主演。対立するエジプト王にユル・ブリンナー。王妃にアン・バクスター。エジプト軍将軍にはエドワード・G・ロビンソンが扮するの豪華判で話題を呼んだ。

 

つぎは古代ギリシャに入る。

もともと、ギリシャ民族はドナウ側流域に住んでいた遊牧の蛮族であった。これが南に下って、十二世紀ころにはエーゲ海海岸に進出、諸々の島々を征服する。ギリシャ人は航海術に長け、貿易が巧みで多くの殖民市を作った。その数は千を越したという。これが都市国家となって発達し、その中でもスパルタとアテネの二市は突出していた。

 

スパルタは国家主義、鍛錬主義の国民法・リクルクス憲法を定めた。男子は出生後ただちに検査を受け、身体の弱い子は山野に捨てられた。丈夫な子は、七歳まで両親の元で育てられ、八歳から国家の教育訓練所に強制的に入れられる。そこで二十歳になると兵舎に入れられて、兵士となる。スパルタ教育という言葉が、今の世に残るほど鍛錬主義は激しいものだった。

                               

一方、アテネは対照的に学術、技芸を養成してギリシャ文明を創生する。

詩、文学、美術、歴史、建築、戯曲に秀いで、文明王国として繁栄をした。特にアテネは、オリンピアという競技大会で体育の向上にも注力したが、これぞ後世のオリンピックのルーツである。

                             

次ぎにローマ帝国。

ローマ民族は、イタリーのチベル河畔に興った部族であった。その建国は紀元前753年。王政であったものを、共和政に改め、民権も伸張した。イタリー全土を統一して、さらに海上を制覇しようとして挙兵。カルタゴ、シリヤ、ギリシャ、などを攻める。

 

しかし、国家が隆盛する反面、奢侈の風が蔓延して、質実剛健の気風が廃れてしまう。貧富の差が激し社会となり、奴隷制度がかえってローマ市民の失業者を増やすという皮肉な結果を招く。そのようなことからローマは一時衰退するが、やがて現れたのがジュリアス・シーザーである。

 

シーザーは国威を盛り返すべく、ブリタニア島(現イギリス)、エジプト、シリア。スペイン、アフリカ北岸など天下統一の偉業を達成する。しかし、紀元前44年、このシーザーも反対党のために暗殺される。シーザーの没後、反対党のリーダー、マーク・アントニゥスが、エジプトの女王クレオパトラに血迷い、結局、政敵オクタビアゥス(シーザーの養子)によって滅ぼされる。

 

「シーザーとクレオパトラ」という作品も、イギリス映画にある。バーナードショウの戯曲を映画化したものである。アメリカ映画「ジュリアス・シーザー」主演チャールトン・ヘストンによる、暗殺場面を描いた映画もあるが、今日は「クレオパトラ」を見て戴きたい。エリザベス・テーラーの最盛期の作品である。

 

ローマは紀元0027年、共和政からローマ帝政へ改められ、名君もいたが暴君ネロのような皇帝も出現した。キリスト教徒が帝政の中で圧迫を受け、大虐殺をされた。この辺りを描いた作品には、「聖衣」(シネマ・スコープ第一作)、「クオバデス」、「スパルタカス」、近年では「グラディエター」などがある。

 

「クレオパトラ」に続けて、ユダヤの青年の壮大な叙事詩「ベン・ハー」をご覧戴きたい。

キリストは、ユダヤのベツレヘムに生まれた。ユダヤ教に基づいた一神教をたて、自らを救世主として布教したが、果ては十字架の露と消える。ローマ帝国はキリスト教を圧迫したが、紀元0325年、キリスト教を見なおし、禁令を解いてローマの国教と定めた。

 

「クレオパトラ」は、1963年のフォックス社(米)の作品、監督はジョゥエル・L・マンキューツであるが、製作年月に4年もかかり、膨大な制作費を要した。その割りに、ドラマ展開が冗長であるとの不評を買った。日本でもヒットしなかった。ただし、この映画は最盛期のエリザベス・テーラーと、アントニュゥス役のリチャード・バートンの結婚というおまけがついた。

                               

次ぎの史劇は「ベン・ハー」である。

リュー・ウオーレスという軍人が書いた歴史小説がベストセラーになり、1907年、1926年と二度映画化されている。上映する映画は、三作目、1959年にウィリアムワイラーが監督した。ユダヤの青年ベン・バーは、数奇な運命に翻弄され苦労を重ねた後に、都ローマに着く。

 

幼馴染で、親友でもあったメッサラという騎士と、競技場で競馬で対決することになる。メッサラは出世するともに残忍な男となっていた。ベン・ハーの母や妹を土牢に幽閉したり、悪逆の限りを尽くすが、ベン・ハーは対決に勝って、仇を討つ。ワイラー監督は、「大いなる西部」冒頭の馬が走るシーンが傑出していると評価されたが、「ベン・ハー」の競技場の場面もスリリングで、手に汗を握る。

 

この競技場のシーンの撮影は、ハリウッドではない。戦後、復興したイタリア映画界製作現場、チネチッタの装置とエキストラを使って撮影したものである。史劇、特に古代史の映画は、一様にスペクタクルとなる。それを「十戒」、「ベン・ハー」で鑑賞して戴いた。

上古史、中古史、近古史時代は、あまり作品がない。

 

東アジアでは、中国の孔子(紀元前550年)、秦の始皇帝(前215年)をはじめ、前漢―後漢の間に三国志時代(前220-280)に幾多の逸材、英雄が現れている。その中では、中国映画「始皇帝」、「三国志」が映画化されており、紀元366年に造営された「莫高窟」を題材に、日本映画「敦煌」も製作されている。因みに、井上靖の小説に描かれた「敦煌」は、1028年の頃を物語ったものである。

 

モンゴル高原を八世紀頃から支配していたトルコ系のウイグル人国家が、9世紀後半には崩壊し、1206年、モンゴル部族は指導者ジンギスハンという英雄を指導者に仰ぎ建国。「ジンギスハーン」は、ジョン・ウエィーンなど何作かの作品がある。ジンギスハーンの孫・フビライハーンが、中国風に国名を「元」と改め、1264年開祖した。この辺りは、放映中のNHKの大河ドラマに詳しい。

 

ヨーロッパでは、歴史上特記すべきは十字軍である。異教徒のキリスト教徒への迫害、それに対抗して行なわれた復讐の繰り返し。これは1096年から1270年まで、約200年に渉って十字軍の遠征は七回行われた。映画化はセシルB.デビル監督の「十字軍」他、何作かある。

 

しかし、この十三世紀―十五世紀は、ヨーロッパのルネッサンス文化の時代でもあった。ボッティチエリ「ビーナスの誕生」、レオナルド・ダビンチ「最後の晩餐」、ミケランジェロ「最後の審判」など、人類最高の傑作が次々に開花した。この時代の日本は、鎌倉・室町時代に相当する。

                                 

文学の面でも、十五、六世紀はトーマス・モア、シェークスピア、セルバンテス、モンティーニュなどの文豪が輩出した時代である。映画的に面白いのは、英国の王室であろう。アーサー王、ヘンリー八世、メアリー女王、エリザベス一世、ビクトリア女王など、映画の素材としては事欠かないくらいスキャンダラスなテーマが多い。作品としては、「キャメロット」、「ヘンリー八世の私生活」、「冬のライオン」、「1000日のアン」、「わが命尽きるとも」、近年では「エリザベス」などがある。

特急で飛ばしてきたが、ここで近世史の時代に入る。

フランスでは、ルイ十四世以来専制政治によって民権が蹂躙され、貴族と僧侶の階級が国土の大半を領有して、免税の特権まで持っていた。一方人民は、過重な税に苦しみ、奴隷のような境遇であったため、常に王室や特権階級を恨んでいた。

 

1776年、アメリカ合衆国が独立した。フランスの人民は、このことに大変強い影響を受け、共和制を羨望するようになった。ルイ十六世の代に、さらに失政が重なり、ついに民衆が蜂起するに至る。まず、バスチーユ牢獄を襲って、囚人を解放。これがフランス革命の狼煙となった。1789年7月14日、クワトール・ジュイエ(革命記念日)とした。わが国では、この日をパリ祭と呼ぶ。

 

ルイ十六世と王妃マリー・アントワネットは処刑され、フランスの王政は終わった。フランス革命によって共和制となったが、王党派の残党、ジャコベン党が主になって反逆した。これを制圧したのが、青年将校ナポレオンである。その後のナポレオンは、まさに飛ぶ鳥落とす勢いでイタリー、オーストリーを屈服させ、エジプトまで征服した。

 

たまたまエジプトからの帰路、ネルソン率いるエギリス海軍によってトラファルガーの海戦で破れる。英国艦隊の目をかすめて帰国したナポレオンは、フランス国の体制を立て直すために王政を廃止し、帝政とした。1804年、自らナポレオン一世となる。ナポレオンの侵略的帝政に対し、イギリスのピット宰相、オーストリーのメッテルニヒ宰相などが欧州同盟を結んで対抗した。

 

ナポレオンは1812年、五十万の大軍を擁してロシアを攻める。しかし、冬将軍の威力と、ロシア国民の団結によって勇敢に戦い、ナポレオンは五十万の大軍の大半を失って、命からがらフランスへ逃げ帰った。そのあと、ナポレオンは流されていたエルバ島を脱出、再起する。最後の決戦、ワーテルローの戦いで欧州同盟軍に破れ、1815年、完全に敗北するのである。

以上、フランス革命、ナポレオンに関する四作の映画を上映する。

一作目は「ラ・マルセーユズ」、バスチューユ牢獄の攻撃から始まったフランス革命に際して、市民の誰からともなく歌い出した進軍歌である。のちにフランス国歌となった。この作品は日本では未公開である。1937年(昭和12年)の製作であるが、当時の日本で「革命」という言葉はタブーであったに違いなく、そのため輸入禁止となった代物である。

                                

ナポレオンの代の歴史物では「会議は踊る」をご覧戴きたい。

オーストリーのメッテルニヒ宰相が音頭をとり、フランスに対抗する欧州同盟を結ぶべく、各国の首脳をウイーンに呼ぶ。会議を開くが、メッテルニヒは会議の結論を自国に有利に運ぶために、酒と女で各国首脳を篭絡しようとする。

 

その姿を背景にしながら、ウイーンの町娘とロシアの皇帝のほのかなラブ・ロマンスが展開していく。ちょうど「ローマの休日」の裏返しのような筋書きである。「会議は踊る」の中で、オペレッタの女王リリアン・ハイヴェイによって唄われる歌は、昭和初期のわが国で「パリ祭」などと共に大流行した。

 

「美女ありき」は、トラファルガーでナポレオン艦隊を破ったネルソン提督の秘話である。ハミルトン夫人とネルソンが、ある時恋に落ちる。美女ビビアンリーと名優ローレンス・オリビエの競演であるが、結婚後の記念すべき第一作目の作品である。その次に上映するのは、トルストイ原作の「戦争と平和」である。

 

「戦争と平和」は、二度映画化されている。

1955年、ハリウッドはパラマウントの作品で、キング・ビダー監督。主役のナターシャはオードリー・ヘップバーン。ピエールはヘンリー・フォンダ。メル・ファラーなどの名優が勢ぞろいの大作である。

 

十年後の1965年、当時のソ連が国家を挙げて「戦争と平和」を作った。セルゲイ・ボンタルジェック監督。ナターシャはリュドミラ・サベーリェア。

 

これも超大作である。今日はハリウッド版を紹介しているが、ナポレオンを主人公にした映画は、多く存在する。

 

1927年フランス映画で長編、「ナポレオン」アベル・ガンス監督。1937年アメリカ映画、シャルル・ボワイエ主演「征服」。グレタ・ガルボ共演。1954年アメリカ映画、マーロン・ブランド主演「デジレー」。ともに、当時の戦争の戦闘の様相と、戦場のむごたらしさを余すことなく訴えている。

次いで、アメリカ映画の西部開拓時代を描いた作品。

では、「パトリオット」「遥かなる大地」を上映する。ともにわが国の幕末、ペリー提督が浦賀沖に来航し、開港を迫った時期のストーリーである。懐かしいセシルB・デミル監督の「大平原」、ジョン・フオード監督の「アパッチ砦」を続けてご覧戴く。

 

「パトリオット」では、英軍に対峙するアメリカ民兵軍。両翼に鉄砲を構えて広がる。号令とともに一斉射撃が始まると、両軍とも兵士がバタバタと倒れる。やがて、士官がサーベルを振って突撃!の合図。砲煙のなか、銃剣をもろ手に抱えて白兵戦。阿鼻叫喚。血みどろの瀕死の兵士。

                        

「遥かなる大地」。西部の大平原を疾走する幌馬車の群れ。土地獲得競争のために、土煙を上げて誰よりも速く、そして遠くへ、遠くへと突っ走る開拓者達。それを俯瞰するシーンから始まる。若いが優秀なロン・ハワード監督の作品である。着いた土地に、旗を立て、これが俺の土地だ!と宣言をする豪快な場面だ。幌馬車が走る。単騎で飛ばす人。中には自転車で駆ける人。

                                

つぎに、お馴染みのインディアンの襲撃。「大平原」1939年、パラマウント映画社。監督はセシルB・デミル。インディアンと白人の抗争については、「大平原」のほか、「駅馬車」、「騎兵隊三部作」、「第七騎兵隊」、「捜索者」「アパッチ」など、皆さんが若い頃にご覧になっている名作が多数ある。「第七騎兵隊」は、一人残らず全滅した。そのシーン。

 

アメリカ映画は、かくして西部開拓時代から、南北戦争時代へ。

当時のアメリカの南部と北部では、経済的構造が大きく異なり、次第に矛盾が顕在化する。南部はタバコ、麦、綿花の生産に黒人奴隷を労働力として使い、自由貿易制度をとっていた。北部は、1840年以降産業革命が本格的に進行し、生産力が向上した。そのため、保護主義によるイギリス製品を排除する動きが発生した。

 

さらに1820年、北緯3230分以北に生まれる新しい州は、奴隷制度を認めない自由州とする旨の、ミズウリー協定が南北で結ばれた。1852年、ストー夫人の「アンクル・トムの小屋」が出版され、大反響をもたらし、奴隷解放の世論は更に高まった。1860年、第16代選挙にあたり、共和党はリンカーン、民主党はブリキン・リッチを候補として擁立した。激しい選挙戦の後、奴隷解放論者リンカーンの共和党の勝利となった。

しかし、南部はこれを認めず、リッチモンドを首都としたアメリカ連合国を作って、ジェファーソンを大統領にした。リンカーンはアメリカの分裂を止める努力をするが実らず、ついに1661年、南北戦争の火蓋が切られた。戦争の終焉は1865年。北軍の勝利に終わった。

 

リンカーンは戦争のさ中、1863年一月、奴隷解放宣言を行った。戦況は当初、南軍が優勢であった。しかし、北軍は次第に盛り返して、最後の勝利を握った。ある学者は、そもそも南北の戦力を比較すると、南30%、北70%であった。

 

南軍は、戦わずして敗北が決まっていた、と分析する。根強い人種差別意識は、アーサー・キング牧師の暗殺など、二〇世紀の後半まで尾を引いている。         

 

南北戦争といえば、なんと云っても「風と共に去りぬ」である。南北戦争を背景とした壮大なロマン。マーガレット・ミッチュエル原作・1939年、監督はビクター・フレミングとなっているが、実質は製作のセルズニックが監督したと云われる。三場面をピック・アップして上映する。

 

主役のスカーレット・オハラは、アメリカ映画初登場のビビアン・リー。レット・パトラーは、原作者が書いた時からイメージしていたと云われるクラークケーブル。南部のアトランタ・シテイが舞台となって展開される超大作である。炎上する屋敷を背に、馬車で家族とともに脱出を計るレット・パトラー。

 

ちなみに、「風と共に去りぬ」の最初に撮影したのは、このシーンである。この時点では、スカーレット・オハラの配役が、まだ決まっていなかった。去っていくレット・パトラーに必死にすがるスカーレット。パトラーは、それを振りきって出て行く。夕焼けの大地に立ち尽くす、スカーレットのシェルエット。

 

 

ここで、十八・十九世紀のヨーロッパ文化に触れてみたい。

アメリカ大陸で内戦が続いていた頃、ヨーロッパでは芸術の世界がさらに興隆していた。文学では、ロマン主義文学のグリム、ハイム、ハーフトマン。フランスでは、ビクトル・ユーゴー、スタンダール、モーパッサン。英国ではワーズ・ワース。チャールス・ディケンス。ロシアではツルゲーネフ、プーシキン、ドスト・エフスキー、美術の世界でも、ロマン主義作風としてジェリコ、ドラクロワ。自然主義のコロー、ミレー。印象派としては、ルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ゴギャン、ロダンなど、綺羅星のごとく輝いている。

 

音楽では、モーツアルト、ベートーベン、ベルリオーズ、シューマン、シューベルト、ショパン、リスト、ワーグナー、ベルディ・・・…まさに絢爛たる芸術家の輩出した時代である。

映画としては、この溢れるばかりの素材からは、音楽を捉えたものが最も多い。「楽聖ベートーベン」「未完成交響樂」「愛の調べ」「わが恋は終わりぬ」「幻想交響楽」「アマデユース」エトセトラ・…。

 

今日は、「別れの曲」、ショパンとリストが初めて出会う感動的な場面と、絵画界からゴッホとゴーギャンのドラマ「炎の人」の一場面を続けて見ていただく。

 

「別れの曲」は1934年、なぜかドイツ語版とフランス語版とが作られた。このコレクションはドイツ語版である。ショパンがポーランドからパリに旅立つ前に、初恋の人コンスタンチノに贈ったといわれる曲である。映画は全編ショパンの名曲にちりばめられて展開する。

                               

ここまで、「映画で歴史を学ぼう」を、画面とともに有史三千年を特急解説で進めてきたが、ここで二十世紀の歴史を顧みることにしたい。

 

二十世紀こそは、映画そのものの歴史ある。少し脱線するが、映画の歴史を述べることをお許しいただきたい。

映画が誕生して、今年で106年目に当たる。1895年(明治28年)12月、フランスはパリで、ルミエール兄弟が発明したシネマト・グラフというシステムが世界で初めて公開された。それまで、写真ですら驚きの対象であったのに、動く写真に人々は圧倒され、たちまち大評判となった。

 

世界の国々は、ルミエール兄弟から特許を買い、続々と映画製作に乗り出した。日本では明治三十年(1897年)、大阪で初公開された。最初のうちはニュース・ドキュメントの実写であったが、だんだん演劇とか舞台の実写に移り変ってきた。さらにフィクションの世界に入ったドラマ映画も製作されるようになってきた。

 

フランスでは、当時の演劇界の大スター、サラ・ベルナールによる「椿姫」や、「クイーン・エリザベス」。世界最初のトリック映画「月世界探検」などが発表されている。アメリカでは、初めてストーリを持った映画といわれる「消防夫の生活」(1903年)、西部劇のはしりといわれる「大列車強盗」などが公開され、映画は大衆の娯楽として根付く。

 

やがて、映画に芸術性が加味された作品が発表され、1915年(大正4年)、アメリカ映画の父と称せられるデビット・グリフィスの超大作「国民の創生」が公開されている。チャールズ・チャップリンも1915年、第一作「成功争い」を発表した。日本では、九代目団十郎と五代目菊五郎の舞台の実写「紅葉狩り」が公開されている。

 

明治41年(1908年)には、日本映画の父・マキノ省三による「本能寺合戦」が製作され、そのあと、目玉の松ちゃんこと、尾上松之助によるチャンバラ映画の隆盛を迎えた。こうして、大正末期から昭和初期にかけて、今日鑑賞しても決して古さを感じさせない映画が、続々と登場し、大衆を感動させた。

各国の映画製作状況の中では、何といってもアメリカが傑出している。1927年には、トーキーという技術が誕生し、映画産業は新たな局面を迎えた。「アカデミー賞」という表彰の設定も、この頃に決まった。アメリカ映画は、そのスター・システム、金のかけ方、絢爛豪華さ、スケール大きさにおいて、全く他の追随を許さない発展を遂げた。

                            

しかし、その後はテレビの攻勢、独立プロの台頭その他の理由によって、ハリウッドは往時の面影を失っているが、それでも今日SFX(トリック)、CG(コンピューター・グラフィックス)の技術を結集して、アメリカ映画はやはり世界のマーケットに君臨している。

 

イギリス映画は、スリラーや歴史物、ホームドラマが得意分野であったが、名監督のアルフレッド・ヒチコックやデビット・リーンや、女優のグリア・ガースン、デボラ・カー、名優ローレンス・オリビエなどをハリウッドに引き抜かれ、弱体化してしまった。いま映っているのは、ヒチコックの「疑惑の影」である。

 

フランスでは、戦前、ルネ・クレール、ジュリアン・デヴィヴィエ、ジャック・フェーデルなどの名監督が芸術作品を次々に発表した。戦後は、ジャンルック・ゴダール、ルイ・マル、フランソワ・トリュフォーなど、フランス・ヌーベルバーグが台頭して、フランス映画の芸術性を高めた。

イタリア人は、映画が大好きである。

戦前は映画の製作本数も多かったが、ムッソリーニの映画製作統制によって、しぼんでしまった。戦後、ロベルト・ロッシリーニなどイタリアン・ネオリズムの活躍で復活、イタリア映画ここにありという隆盛を示した。

 

さらに、その後も芸術性豊かなミケランジェロ・アントニオーニとか、フェデリコ・フェリーニ、ルキノ・ビスコンテイなど、世界のトップレベルといわれる映像作家が開花して、製作本数は減ったものの、質の高い、よき時代を迎えた。

 

ドイツも、戦前は盛んであったが、ナチスの統制に会って、監督や俳優がどんどんアメリカへ逃れていった。辛うじて、いまはヴィム・ベンダースや、シューレンドルフなどの若手の活動家が製作を続けている。

ロシアは、モンタージュ理論を画面で確立したエーゼンシュタインの国である。戦前、「戦艦ポチョムキン」という歴史的映画を作成した。これは、その時代のシリーズに上映する予定にしている。いま映っている画面はスランス映画、ジュリアン・デヴィヴィエの「ペペル・モコ」の名ラスト・シーンである。

 

北欧からは、グレタ・ガルボ、イングリット・バーグマンなどが、ハリウッドに流出した。戦前、戦後を通じてこれといった作品は見当たらないが、しかし、スエーデンが誇れるイングマル・ヴェルイマン監督は、優れた芸術作品をたくさん残している。東欧では、ポーランドの映画界が最も盛んである。アンジェ・ワイダ監督が活躍している。以上、各国の二十世紀における映画製作状況を、駆け足でお話申し上げた。

 

いまや、「地に落ちた」といっても過言ではない映画産業であるが、映画観客の盛衰をご参考に申し上げたい。

日本の映画人口のピークは1958年(昭和33年)の113千万人である。それが昨年の統計では、1億5千万人。最盛期の13%となった。

なぜ、映画人口が減ったか。

これはテレビの影響、他のレジャーの台頭とか、近年ではITメディアの発達などがあるが、映画を見ようとしたら、なにも映画館まで行かなくてもいいという時代になったということである。他から与えられた影響の外に、つきつめて見ると、繁栄の時代に溺れて、自らがその繁栄を妨げたと云えなくもない。

 

例えば、1947年のアメリカ上院議員マッカーシーによって行なわれた「赤狩り」のため、どれだけの逸材が失われたか、いかに阻害されたかは筆舌に尽くし難い。いま、映っているのは「ローマの休日」。この映画のドルトン・トランポという名脚本家が、マッカーシー旋風のためにクレジット(タイトル)に名前を載せられなかったことを、お話するために上映した。

チャールス・チャップリンは、ハリウッドに嫌気がさして、スイスに逃げた。

「欲望という名の電車」のキム・ハンターも、17年もの長い年月、ハリウッドの映画に出ることができなかった。監督のエリア・カザンは逆に裏切り派(密告者)だった。その後何作か映画を作ったが、人望は凋落の一途を辿った。

今回のテーマは、名場面を楽しみながら歴史に想いを馳せよう、という企画である。次回(来月)は、二十世紀のうち、およその年代に従って歴史を顧みながら名場面を楽しむことに致したい。

                                 終わり

                            (文責 三上卓治)

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