津軽弁から推理する古代史 [ホームページに戻る]

今週(12/23)の雑学大学は、三上卓治の「津軽弁から推理する古代史」でした。

私、三上卓治は、吉祥寺村立雑学大学の世話人として長らく勤めましたが、平成13年末をもち引退することに致しました。この講座は、設定した講師が何かの都合で急に来られなくなった場合に備えて、ひそかに準備していたテーマであります。しかし、今日まで講座に穴があくこともなく推移してまいりましたので、この講座を最後に勤め上げて、世話人の役目を終えることに致します。

津軽というところは、本州の北端にある青森県の中央から、日本海よりの地域を指す。西に岩木山という富士山と姿の似た美しい山がそびえており、裾野に津軽平野が広がる。米作りも盛んだが、なんといっても津軽はリンゴの産地である。五能線というリンゴ畑の中を走るローカル線の駅「板柳」という町で、1929年に私は生まれた。

私は八人兄弟の末っ子であった。家業は呉服屋である。小学校までは歩いて5分くらいの距離であったので、昼食は家に帰って取っていたと思う。小学校3年の頃の学級集合写真を見ると、大半が金ボタンの学生服(児童服)を着ているが、23人の子は着物に草履ばきで写っている。みんな貧しくて、登校は下駄ばきが普通で、生徒入り口の下駄箱でズック靴に履き替えて校舎に入った。

春に、桜が咲いて、桃の花が散ったころに、リンゴの花が咲く。肩まで雪を頂く岩木山を背景に、咲き乱れるリンゴの白い花は、こうして見るとなかなか美しい。わが郷土も捨て難いものだと、改めて思う。私の郷土の言葉は「津軽弁」である。この津軽弁が講座のメーンテーマである。

 

●津軽弁

小学校の先生が、小学一年の国語の時間に教えることは、まず「アイウエオ」である。先生が「アイウエオ」といったつもりで、津軽弁で「アエウエオ」と読む。子どもは、その通りに発音する。津軽弁には、イとエの区別はなく、ともに「エ」という。したがってヒとヘも、「へ」。また、シとスの場合も区別なく「ス」となる。

 

旧制中学の場合も、先生も生徒もともに津軽弁であるから、発音については全く同様で、特に違和感なく過ごした。たまに標準語で話す先生もいたが、言葉としては標準語でも、発音とアクセントは津軽弁風のものである。

 

私が、自分の言葉に疑問を持ったのは、早稲田大学に入学してからである。

東京の、東京弁を話す学生と会話をする。暫くして、相手の学生は「君、東北?」と聞いてくる。その僅かな質問に、やや蔑みのようなニュアンスを感じながらも、「そう」と答えると、「やっぱりね」とか、「そうだろうと思った」とくる。

 

いつの間にか、私は無口な男になっていた。故郷の先輩をよく観察すると、どの人も言葉に津軽なまりが残っている。私は、こう思った。なまりを直そうと思うから治らない。イとエ、ヒとヘ、シとスが言葉に出てきた場合に、瞬間的に判断して正しく直さなければならない。

 

その上、言葉のアクセントの矯正となると、まさに人知を超える技となる。だからほとんどの津軽人は、なまりが取れない。東北弁のなかでも津軽弁は独特の難しさがあるから、なおさらである。と、私は判断した。では、どうするか。私は、改めて日本語を勉強することにした。

 

日本語の読み書き、文法はこれまでの学校教育のなかで、すでにマスターしている。問題は発音とイントネーションである。しかし、これらに関する教科書などは、あるはずがない。言葉に、慣れて身につけるしかないのである。私はラジオを一生懸命に聞いた。特に徳川無声の朗読「宮本武蔵」は、出版本を広げて、一緒に声を出して読んだこともある。

 

私の日本語の勉強は、大体一年間で終了した。すなわち、大学二年となった時には、完全な標準語で話ができるようになった。その瞬間、私は無口な男から変身して、おしゃべりになっていた。その結果、私の母国語は津軽弁で、標準語=共通語が第二外国語となった。だから、故郷を離れてから55年くらいになるが、今でも完全な津軽弁で会話ができる。

 

雑学大学に出入りしてから、草村礼子という役者に巡り合った。彼女は、「じょんがら民宿こぼれ話」という一人芝居に挑戦していた。聞いてみると、芝居は津軽弁で上演するという。色々話をしているうちに方言のチェックをすることになり、芝居のカタログに方言指導三上卓治と、名前が載った。私の純正津軽弁が思わぬことで役立った。余談だが、この芝居は1990年の文化庁芸術祭賞を受賞した。

 

●津軽弁に残る古語

大学の国語の時間に、時に古語が出て来ることがある。何気なく津軽弁で使っている言葉が、古語であることに気づいたときには、ある種の感動を覚えた。

たとえば、津軽弁で「いどんど」という言葉がある。これはアクセントと音の濁りを修正すると古語の「いとど」=(非常に)という形容詞である。また津軽弁の「うだで」は古語の「うたて」=(意外な展開・手がつけられない状態)という形容詞である。津軽弁の「かなし」は古語の「かなし」=(愛しい・可愛い)とまったく同じでである。「あずまし」は「あがつましく」という大和言葉である。

 

このほか、「べし」「へ」=古語の命令形や、「け」「く」など食に関する古語や、「わ」=我、「な」=汝などの古語が、津軽弁の日常会話に現在も残っている。さらに特徴的なのは、独特の感嘆詞である。「わいは」「あっぁ」「あろー」「びょん」に至っては、中国語かフランス語の響きすら感じる。

●疑問。その一

わが国の歴史を紐どくと、中世の北奥羽の情報が少ないことが判る。端的にいえば歴史地図にそれが現れている。南部と秋田の一部と、津軽の全地域はほとんど空白である。特に津軽に関しては、完全に白地図である。それでは、その地域には誰もいなかったのか。あるいは、当時の支配者である大和と、まったく隔絶していた別の国ではなかったか、というのが第一の疑問である。

 

ところが、津軽弁に残る古語は、まさしく大和古語に違いない。それでは津軽地方になぜ大和言葉が残っているのか。それは大和と津軽が深い関係を持っていたからと、いうことがあとあと判ってくるのである。しかし、これまでの歴史書からは知ることができない。それを証明するものが、なかったからである。

●疑問。その二

津軽弁について、私は子どものころから不思議に思う言葉があった。

まず、最初は人をののしる場合に使う「つぼけ」という言葉である。

「このつぼけ」、「あのつぼけ」、または「つぼけ」という。標準語としては「ばかやろう」とか、「このやろう」、「ばか」と同様語感である。

津軽では「ばかやろう」ではなく、「つぼけ」というのは何故か、と親、兄貴、先生、そのほか物知りといわれる人などに訊ねたが、誰からも答えはなかった。ちなみに「つぼけ」は、秋田県や岩手県の一部でも使われているが、津軽と同じ「ばかやろう」のニューアンスである。

●疑問。その三

それは、津軽の子守り唄である。津軽で歌われる子守り唄の歌詞は、地域によって少しづつ違っているが、ほぼこのような内容である。

   ♪  ねーろじゃ  ねーろじゃ  ねーろじゃぇ

    寝ねば 山がらもこくらねぇ 

   寝れば海がらじょじょくらねぇ

   ねーろじゃ  ねーろじゃぇ

翻訳すれば、 「寝なさい 寝なさい 寝なさい

        寝ないと 山から もこ が来るぞ

        寝れば  海から 魚が来る

        寝なさい 寝なさい」

私の疑問は、子守唄の歌詞の二行目「寝ねば山がらもこくらね」の「もこ」である。これは訊ねると答えが返ってくる。「もこ」は「蒙古」で、怖いものという意味だという。しかし、なぜ「蒙古」が山から来るのか。「蒙古」は海から船で攻めてくるのではないか、というと聞かれた人は返答ができない。 

●四つ目の疑問。

私は早稲田大学に入学したとき、第二外国語は中国語を選択した。授業が始まって三週間目の中国語の時間に、A先生が私を指して

「三上君、君は中国人ですか?」と聞いてきた。

「えっ。僕は日本人です!。何故ですか?」

「やぁ、それは君の中国語の発音は、本格的だから、そう思ったのです。それに雰囲気が中国人風だ。特に歩き方などがよく似ているね」

私は、戸惑った。先生に誉められたのはいいけれど、中国人に似ていることは喜んでいいのか、どうか。それにしても、私はなぜ中国人に似ているのか。ひょっとして、これは津軽弁の発音と関係があるのか。

●東日流外三郡誌の発見

1975年、青森県西津軽郡市浦村から、市浦村史として「東日流外三郡誌」が発行された。同県五所川原市飯詰の和田喜八郎氏宅から発見された古文書の「東日流外三郡誌」は、これまでの日本の歴史を根底から覆す内容の記述に溢れていたため、衝撃的な話題となった。

 

この古文書は、和田家の天井裏に隠されていたのが、ある日天井が破けて梱ごと落ちることで陽の目を見たという。しかし、古文書にはまず、他見無用、門外不出、死罪は免れずとあった。それは、津軽藩はもとより、幕府に対しても批判意見を述べ、日本の歴史観への異説の記述であるためであった。

 

編者は、秋田孝季と門人和田長三郎・妻りく。江戸時代中期(1793年―)に津軽安東氏の後胤・三春藩の秋田孝季が、わが国八十余州を行脚して安東一族に関わる記録や、伝承を書き取ったものという。

「東日流外三郡誌」は発刊後、様々な反響があった。

その主なるものは、偽書説である。

 

外三郡誌によれば、縄文末期から弥生にかけて、群雄割拠の状態を緩やかな連合体の山間処(やまと)に統一したのは安日彦、長髄彦の兄弟であった。二人を盟主にした連合体五畿七道五十七ヵ国を、当時の人は「耶馬台」国と呼んだという。この連合体に加わらないものに、北の荒覇吐族と西の日向族があった。日向族の族長は五瀬命(いつせのみこと)。四男に神倭伊波礼昆古命(かむやまといわれひこのみこと)がいた。

 

日向族の東征(侵略)に山間処軍は激しく抵抗する。族長五瀬命は戦死し、二人の兄は捕らわれる。そこで神倭伊波礼毘古命は海路熊野から上陸して、険しい山を越え、長髄彦軍の背後をつく。この作戦は奏効し日向軍の大勝利となった。神倭伊波礼毘古命は長髄彦を滅ぼし、橿原神宮において天皇即位する。後世、この天皇は「神武天皇」と呼ばれた。

 

しかし、長髄彦は兄安日彦とともに敗走し、はるばる津軽に落ち着く。そこは荒覇吐(あらはばき)族が支配する地域である。もともと、津軽には岩木山の麓に生活する阿蘇部(あそべ)族と、海辺に生活する津保化(つぼけ)族がおり、両者は抗争を繰り返していた。

 

中国、伏羲(上古の皇)時代に革命があって、破れた側の人間が漂着民として十三湊に流れついた。この漂着民は鉄器、陶器を作成することと、稲の栽培をする方法など高度な文化を持っていたため、津保化族と容易に合流することができた。ある時、岩木山が大噴火して、その火砕流に呑込まれ阿蘇部族は全滅する。以来、津軽全域は荒覇吐族のものとなった。

 

統率力に優れた安日彦、長髄彦は、たちまち頭角を現し、荒覇吐族の長となり、漂着民の子孫の白蘭、秀蘭をそれぞれ娶る。荒覇吐族は次第に勢いをつけ、領域を広げ、安日彦、長髄彦の故地回復のため南下し、大和まで攻めこむ。その勢いは天皇の即位にまで及び、孝元天皇などは荒覇吐族から推挙した・・・…。

 

しかし、大和廷は反撃して中部、関東、東北南辺にまで支配領域を広げる。

そして、止めを刺したのは、前九年の役、後三年の役である。安東軍は本拠地岩手・閉伊郡厨川から安倍貞任の遺児高星丸を抱いて、津軽・藤崎に落ちる。さらに追討を受け、津軽十三湊に逃れる。興国庚辰元年、白髭の大津波あり、十三湊壊滅し、安東水軍も諸国に散らばる・・・・…。

以上が大まかな概要である。

 

東日流外三郡誌は、発見された時点で三百数十巻といわれているが、出版され全六冊、東日流六郡誌大要一冊、計七冊の頁数は、約七千頁におよぶ。発見者の和田喜八郎氏は古代史研究の権威者古田武彦氏(当時昭和薬科大学教授)に元資料を持ちこんで、研究の依頼をした。

 

古田氏の研究による発表がされるにしたがい、反論も続々と続き、真贋論争が盛んに行なわれ、裁判沙汰にまでなった。これまで発見された古文書で偽書といわれなかったものはない、といわれる。あの古事記ですら、富士山と琵琶湖の記述がないことを理由に、偽書説ではないかといわれているそうだが、それにしても反対論者の東日流外三郡誌偽書バッシングは、異常な熱意を持って行なわれている。

●疑問点解決

さて、私は真偽のことにはあまり関心がない。ただ常識的に七千頁に渉る大著述を、偽書として書く人間が存在するだろうかと思うだけある。しかし、私の約六十余年間に渡る疑問を氷解してくれたのは、あとにも先にも東日流外三郡誌だけである。

 

第一の疑問の、歴史地図の上では白地図同然であって、大和勢力とまったく接触がないかのごとき津軽に、なぜ大和古語が残っているかについては、安日彦・長髄彦兄弟の軍勢が津軽荒覇吐族に合流し、生活したのであれば、容易に推定できる。

 

第二の疑問「つぼけ」は、東日流外三郡誌の叙述による、津軽創生のころから阿蘇辺族が抗争する相手、津保化族をののしる言葉であることが判った。阿蘇辺族は岩木山が火山爆発した時の火砕流で全滅したが、後世、本当の意味が判らないまま「つぼけ」という言葉だけが、津軽地方に残ったと考えられる。

 

第三点の「もこ」は、東日流外三郡誌大要の766頁の記述によって「蒙古」であることが証明された。すなわち

「弘安庚辰四年五月、元兵十萬大船団を連ねて筑紫を襲う。時に安東水軍対馬にて百四十艘戦殉、沈没す。・・・中略…元船またことごとく遭難して、故地に帰るもの三人とぞ曰ふ。…中略・…

これぞその真心、神に通じ、神風起こりて国難を除きけるは、人をして上下を造らず睦ぶ心に神ぞ救済すと曰ふ。この年東日流にては、元船十二艘漂着し、元兵、山にこもれるも、安東一族に誅され、また救われたり。・…中略・・…

正応壬辰五年、東日流に元寇の子守唄流行す」。

やはりモウコは山から来たのである。当時の子守り唄の歌詞は以下の通りだった。

  おら家のめご子ぁ  泣くなじゃよー

    泣けば山からモウコ来るね

    泣かねば海からアヤキどる(父が戻るの意か?)

    泣くなじゃ泣くなー

第四の疑問は、私が中国人の雰囲気を持っているということである。

 

日向族が東征して大和を侵略したが、長髄彦は左脚に矢を受け、安日彦とともに敗走して、東日流(津軽)十三湊で荒覇吐族と合流する。そして、安日彦が王、長髄彦が副王となって、中国漂着民の姉妹、白蘭、秀蘭をそれぞれ娶ったことは、前項で述べた。当然、子孫が生まれ、津軽地方に分布していく。その末裔が私の両親であろう。ちなみに、我が父親は入り婿であるが、姓は一文字「神(じん)」という。

 

実は、私自身、自分の父親を中国人に似ていると思ったことがある。それはテレビで「南京手妻」という中国人兄弟の、手品番組を見た青年時代のことだ。たしか、横浜か、神戸か、長崎の中華街に住む手品師だった。品がいいとは云えない二人が「○○アルヨ・・…」と、演技する場面を今でも思い出す。連想はやや強引だが、その父の子である私は、中国人に似ていても決して不思議ではない。東日流外三郡誌による、白蘭、秀蘭の血筋かも知れないとも思うのだ。

 

●真偽論争

私は、先に真偽はどちらでもいいと述べた。だが、津軽人としては、日本の歴史を覆すほどの古文書があったことは、誇りに思いたいところだ。しかし、この東日流外三郡誌は、厳密にいって元資料から書き写し、または聞き書きによる第二次資料である。しかも、三春・秋田藩主及び五所川原・飯詰の大光院に納めた元本は、いずれも火災で焼失してまった。

 

いま、話題の東日流外三郡誌は副本(明治写本)といわれるものである。この写本であることが、歴史資料としては少々価値が低いといわざるを得ない。また、この写本を実際に手にした人は、ごく限られた人数しかいない。ところが、写本を見たこともないのに、偽書説を唱える研究者は数十人に及ぶという。

その偽書説の主なものを拾うと

  1. 愛媛県製紙研究所で分析した結果、紙が現代のものである。
  2. これは、分析に持ちこんだ資料が、五所川原市のホテルサンルートで開かれた東日流外三郡誌展示会の宣伝用に作ったレプリカ(ポスター)であることが判明した。現代の印刷物であるから、紙が現在のものであるのは当然である。

  3. 福沢諭吉の、学問のススメの「天は人の上に人を造らず」は、東日流外三郡誌から引用した。
  4. 和田長三郎宛に使用許可を願う手紙が本文中にある。これは福沢諭吉の真実の手紙とは考えられず、逆に福沢諭吉の言葉を東日流外三郡誌偽作者が剽窃したものである。諭吉が言葉を使用する許可願いの手紙を大阪から出したことは、郵便制度が設定された明治五年にはありえない。

    「天は人の・・…」の言葉は、東日流外三郡誌に七十二度も使用されている。

    福沢諭吉は「天は・・…と云えり」と明らかに引用として語っている。また、東日流外三郡誌では、その後の福沢諭吉の「脱亜入欧」こそ、「天は・・…」に矛盾していることを嘆いている。「天は・・…」の言葉フランス革命にも、アメリカの民主主義宣言にも使われいない。東日流外三郡誌からの借り物である。

  5. そのほか、

東日流外三郡誌の叙述には、現代かな遣いをしている部分がある。

歴史絵巻が、明治歴史画と人物構図がそっくりだ。

筆跡鑑定をすると、寛永時代文書の文字が発見者の和田喜三郎氏の筆跡と同じ。

秋田孝季が実在の人物である証拠がない。

和田喜三郎氏の経歴に問題がある・・・・・…等々。限りなく疑問が寄せられている。

それらの疑問には、古田武彦氏が一々答えているが、それに対しても再び反論が殺到するなどして、現在のところ公平に見て、古田氏サイドの旗色が悪い。しかし、未発表の「寛永本」には三内丸山遺跡の「六本の木柱」についての記述、「雲抜けることき石神殿」があるという。

 

「石神殿」とは、一見「石で出来た神殿」のように読み取れるが、古田氏の分析では、「石神」の「殿」という意味で、三種の石神を各階に祭った塔が、「六本の木柱」であるという。であるならば、「寛永本」の発表によって、すべての偽書説が間もなく氷解するのではないだろうか。

 

どの国の歴史がそうであるように、わが国の歴史も勝者の歴史である。日本の歴史の著述は、ほとんど皇国史観で塗り固められているのが実情である。その点、東日流外三郡誌は、非常に珍しい敗者の歴史書である。たまには、日本の歴史に別の角度から光を当てて見たら、如何であろうか。

以上が、私の「津軽弁から推理する古代史」である。

                                  終わり

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