第二次世界大戦敗戦に思う               平成14819

美斎津尚文

 

第二次世界大戦が終結した、昭和20815日から早くも半世紀以上経った。私たちは、この屈辱と反省を忘れてはならない。それと共に敗戦後の日本の社会・経済・産業の復興に尽力された先輩たちに感謝しなければならない。また、今日の繁栄に奢ることなく、世界の各民族の平和・期待される先進技術の開発・社会の安定・宗教の自由などに力を尽くすべきだと思う。

 身近なことで振りかえると、敗戦が間近に迫った昭和19619日、日本海軍はマリアナ沖の史上空前の大海戦で大敗し、さらに1024日レイテ沖海戦でも神風特別攻撃隊の初出撃もむなしく、壊滅的大敗北を喫した。615日、米軍がサイパン島に上陸し、日本軍は77日には玉砕した。軍人31,700人、民間人11,000人が戦死。米軍も14,000人が戦死した。引き続きテニアン・ガム島も陥落した。

 

 サイパン島は、私の出身地である。あの緑の多い美しい島が戦場となったと思うだけで、胸が締め付けられる。当時サイパン島に向かう便は、日本郵船の船便しかなく、速い船で56日、遅い船では78日を要した。南洋群島の最北端にサイパン島がある。チャランガに降りるときは、本船から艀に乗り換えて桟橋へ上陸した。(本年826日午後10時より「緑の島は戦場になった・サイパン島」がNHK3チャンネルで放映。必見)

1954年に訪問したときは、飛行機で2時間半。上空からサイパン島を見下ろしたときは、緑が青々として、何という美しい島だろうと感動した。その頃は、サイパン島も観光地化してなかった。飛行場の入国管理局の役人が、パスポートの美斉津の名前を見て、やはりすぐ判ったようで、「ドクター・ミサイヅ?」と訊いてきた。「いや、私は伜だ」と答えると、そのニュースは飛行場内にすぐ広まった。しかし、その噂は「ドクター・ミサイヅが帰った」という伝わり方で、全島に伝わった。

←(ガラパンの月見島。現地の人はバードアイランドと呼ぶ)

 現地人と結婚した看護婦さんたちが中心になって、関係者を集めて歓迎会を開くなど、大歓待を受けた。現地の人たちは、日本の委任統治で受けた差別のない教育を非常に感謝していた。しかし、「働く」ことに関しては、強制されたことを不愉快に思っているふしがあった。それは南の島という働く習慣のない環境で育った人たちだから、止むを得ない。同じように、日本の植民地であった朝鮮、台湾などの総督・行政官の質によって、結果に大きな差が生じたのではないだろうか。

 

さて、私が作成した昭和の歴史年表によれば、戦争は負けるべくして負けたの印象が濃いが、昭和20214日近衛文麿元首相が、天皇陛下に上奏文を提出していることに注目したい。その内容は「敗戦による共産革命を防ぎ、国体の護持を計るため、早期和平が必要」と奏上したものであった。文民内閣としては、やるべき立場で行動していたことが窺える。しかし、この時期には「一億総玉砕」という雰囲気が陸海軍ともに横溢し、和平には至らなかった。

 

昭和20815日、敗戦。

この日のことは、日本国民として決して忘れることができない。負ける筈のない神国日本が敗れたという悔しさの反面、もう戦争が終わったという安堵感が同居する気持ちが生じたことを鮮明に記憶している。この歳になると、最近の出来事はすぐ忘れてしまうのに、昔のことは実によく覚えていることも不思議だ。

戦時中の大学受験は、医師である父の薦めで召集免除となる理工系の学部を選んだが、敗戦を期に文系に転部した。

 

830日、連合軍最高司令長官マッカーサー元帥が厚木の飛行場に降り立った。この新聞写真を見て、日本は負けたのだと実感した。ついで、927日、天皇裕仁がマッカーサーを訪問したが、このことは我々日本人にとっては、極めてショッキングな出来事であった。これまで、恐れ多くも天皇は国民の目の前に姿を見せることはなかった。

 

神に等しい天皇が、アメリカ軍人マッカーサー元帥と並んで写真をとり、戦争の全責任は自分にあると表明されたという。マッカーサーの回顧録によっても、戦争の全責任を表明された天皇裕仁の人格には、多大の敬意を払っている。戦後の日本に対するアメリカの復興援助も、天皇の人柄に帰するとことが多いと言われている。

 

 戦争終結とともに、軍人たちも帰還してきた。学校から出征した兵士も、もとの学生に帰った。大学生の年齢もまちまちで、中には先生と見まがう元軍人もいた。学校は復員した学生で膨れ上がっていた。月謝を納めてさえすれば、学校は、ほとんど授業の出席をチェックすることはなかった。

 

2111日、年頭の詔勅で、天皇は神格を否定し「人間宣言」をし、219日から、戦渦で荒廃した全国を巡行した。同年5月には、復興の槌音が響くなか、東京通信工業鰍ェスタートした。今日の世界の潟\ニーである。同じころ本田工業鰍熕ン立された。優れた指導者のもと、企業も育つ。21年には、産業界では労働組合総同盟が結成され、メーデーが復活した。

 

またアメリカ軍行政のなかで、農地改革と財閥解体が本格的に実施され、日本再生が着々と進行する。自分の関連では王子製紙鰍ェあり、戦前の日本の紙需要の95%のシェアをもっていた。この会社は、当然集中排除法の対象となり、苫小牧製紙、十条製紙、本州製紙の三社に分割された。

そして113日、戦争放棄をうたった日本国新憲法が公布された。

 

社会が革命的に変革していく。私自身不勉強であったので、世の中の見通しも持てず、不安な毎日であった。不勉強の原因となったものに、学生アルバイトがあった。GHQの管理下にあるOSS(Overseas Shopping Store)という米軍家族の日常品販売所が銀座松屋、和光、京橋明治屋にあったが、そこで仕事をしているうちにアルバイトではなく、正業のようになり、ほとんど学校へ行かなくなった。

 

私は明治屋のOSSで働いていた。当時はまだアルバイトという表現はなく、学生間でも「俺はOSSへ行っている。何でもあるから、欲しい物があったら言えよ」などと、得意げに言っていた。日本人のアルバイトは、アメリカ軍には好評だった。計算が速くて正確だからという、絶対の信頼があった。その見返りとでもいうか、帰りがけに管理者から大きな、買い物用の紙袋を三つ貰った。

 

「地下の売り場で、何でもいいから物を詰めて帰れ。ただし、電気をつけてはいけない」と囁かれた。私は、記憶を頼りに、暗闇の中で手当り次第に物をつかんで、紙袋に放りこむ。三つの紙袋を、やっと抱えて帰宅するのであった。しかし、セーターを入れたが、柄はわからない。男ものか女ものかも不明だ。靴を入れたがサイズがわからない。左右別々だったり・・・というしろ物だった。女もののセーターは、お袋に頼んで紺や黒に染め直した。

それでも、物がない巷では、それらの「アメリカ物」は飛ぶように売れた。

社会の混乱の時代だったが、アメリカ軍は正規に働く者として、ちゃんと給料をくれたばかりでなく、かっぱらいを奨励してくれた。私が京橋OSSで働いた1年間は、結構豊かな毎日だった。

この頃、小平事件というショッキングな事件が起きて、世相の混乱を象徴した。

 

しかし、昨今の親殺し、子殺し、夫殺しのような人倫もとる非道な殺人事件は、

あまり起きていなかったように思う。いったい日本人が持っている道徳観は、どこへ行ってしまったのか。とどのつまりはアメリカが支配した教育の問題となるのだが、戦前の先生は教師となるべく師範学校などで、専門的な訓練をつんで先生という教職についた。

 

戦後には、先生の絶対数が足りないこともあって、大学を卒業したものは誰でも小学校、中学校の教師になれた。戦後、経済復興から立ち直った日本経済は、色々な幸運に支えられて、高度成長の歴史を刻んだ。企業は高給で優れた人材を求める。本来なら先生になるべき優秀な人材は経済界に流れた。

 

また、最小の社会教育の単位である家庭も、核家族化が子どもの家庭教育のネックとなったことも、否めない事実である。戦後57年になるが、変革の激しいこの時代に、この先十年を考えると日本の先行きが心配で堪らない心境である。

以上、第二次世界大戦が終わった昭和20年代の世相を、自分の体験を中心にお話した。あとは情報を整理して、来年の今ごろに再登場いたしたい。

 

ここに、昨年に行った私の講演の、吉祥寺村立雑学大学のホームページに載った内容のコピーがある。今日のお話は、この文章に続く内容のつもりでお話申し上げた。参考までにご一読願えれば幸いである。

 

 

 

『日本国の開国から明治維新・大正時代』

日本国は、徳川家康が関ヶ原の戦(1600)に勝利し、ほぼ天下統一を果たした。1603年、天皇より「将軍宣下」を賜って日本統一的支配者となり、「徳川幕府」として、日本国の政治・経済・社会の中枢となった。以後、「将軍職を世襲制度」として二百六十五年間にわたり、日本国を鎖国制度のなかに統治した。

 嘉永六年(1853年)、アメリカのペリー来航に伴い、日本国も開国せざるをえない状況となり、国内は騒然となった。世界の先進国は東アジアを目指して植民地化政策をとっていた。おりしも、イギリス・オランダ・ポルトガル・フランスなどの諸国は産業革命以降、艦船大型化、航海術の進歩等により、武力による領土拡大と収奪を展開し、幕府は適切な対応に苦慮していた。

 この状況下にあって、幕府は王政復古のクーデーター(鳥羽・伏見の戦い)に敗れ、十五代将軍慶喜が1867年に大政奉還をした。国内の騒乱と、世界先進国の圧力の中で幕藩体制が崩壊し、近代天皇制国家が誕生した。1868年9月、天皇 睦仁(明治天皇)、治世の年号を明治と称した。

 明治は、日本資本主義形成の起点となり、政治・経済・社会・文化・教育・防衛の大変革をもたらした。先進国の国家運営の制度が幅広く行われ、かつ大胆に取り入れられた。この国情のなかで、天皇は明治3(1870)、大教宣布の詔書で、「結束して国難に対処するように示された」。旧来の習慣を排除し、国の治安・社会の安定・万民の生活・教育の平等・身分制度の策定などを確立し、日本国の独立を計るための宣言であった。                                

当時、世界列強の先進諸国によって、インド・インドネシア・フィリッピン・中国・朝鮮・南洋諸島・南米各地などは、植民地政策で「むしばまれている」情勢であった。

 日本は、明治27年―28(1894年―1895)の日清戦争で勝利を収めた。そして、清国の朝鮮国への保護・属邦・介入の阻止(日本国存立のため、朝鮮国との友好関係の保持)、また欧米諸国との不平等条約を改正することによって、対等の主権国として承認させ、日本の国力を顕示したい面があった。

 そこで講和では、朝鮮国の独立・遼東半島・台湾・膨湖諸島の割譲、通商上の契約を欧米並に条件にすることを要求した。しかし、ロシア・ドイツ・フランスは武力を背景に、日本に対して・・…遼東半島の割譲の条件の削除を勧告する(三国干渉によりロシア・ドイツ・フランスの権益を保護)の挙に出、無理やり日本を屈服させた。

 それより十年後の明治37年―38(1904-1905)、日露戦争勃発。日本と帝政ロシアの両国が、朝鮮・満州に対する権益・支配を巡って戦争になった。日本には、英米両国の支援があり、帝政ロシアの背後には仏・独両国がおり、列強の帝国主義の対立があるなか、新興国日本の大国ロシアに対する挑戦として、世界の注目を集めた。

 日本は同盟国の英国・米国から軍事費を外債として調達し、日本海海戦の勝利によって圧倒的に有利な戦況を手にした。帝政ロシアはこの敗北で、アメリカ・ルーズベルト大統領が勧告していた講和条件に基づいて、ポーツマス(アメリカ)で、日本と講和会議を持つに至った。

 このように、世界の列強・先進国が見守る中で、帝政ロシアとの戦いに勝ったために、日本国は、先進国の仲間入りした錯覚を持ったのではないだろうか。世界中も驚いたに違いない。帝政ロシアに圧迫されていた北欧三国やトルコなどは、日本の勝利に喝采した。中でもフィンランドは、日本が日露戦争に勝った記念に「トウゴー・ビール」を発売した。それはブランドとして現在も残っており、明治屋の店頭で時々見かける。

 私は紙の仕事の都合で、しばしばフィンランドを訪れているが、当初、なんで「トウゴー・ビール」なのかを知らずに、戸惑った覚えがある。取引先のフィンランドのビジネスマンは「日本は立派な国だ。ロシヤをやっつけたトウゴーは偉い将軍だ。トウゴーを尊敬している。」と云った。(第二次世界大戦が終わったあとに、今度は「ヤマモト・ビール」が出た)。

 日露戦争のあとの十年後、日本は大正三年(1914年)に勃発した第一次世界大戦に、英国の勧告もあって対独宣戦布告に踏み切った。日本軍は清国山東半島にドイツが保有する権益を奪取するため、ドイツ・東洋艦隊の根拠地青島攻略作戦を行った。また、ドイツ領になっている南洋諸島の各島々を占領した。この大戦は欧州全域で激しい戦いとなったので、欧州各国に大きな被害が出た。

 大正七年 (1918) 十一月、ドイツ軍が休戦協定に調印し、第一次世界大戦は終結した。大正九年(1920)一月、ベルサイユ講和条約が発効・国際連盟が成立した。「恒久平和」への願いが世界を動かし、42ヵ国が加盟して国際平和維持機構が成立した。同年十二月、赤道以北のドイツ領南洋諸島を日本国の委任統治として委嘱された。

明治維新に参画した多くの人材が、「日本国の将来を憂い、先進国に踏みにじられない国作り」のため、海外視察・先進国各分野の研究を精力的に行った。幅広く英知を集め、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツなど各国のよい点を取り入れ、明治政権を確立した。

 

 しかし、これら三つの戦争に勝ったのも、同盟国の「理解と支援」あってのことである認識が足りず、その後の軍縮会議では「世界の恒久平和」を目的としている前提に対して外交的判断を誤り、妥協を拒否した方向に進んだ。 そして、自己過信が先行した日本国は、右翼と陸海軍主導の国に除々になっていった。これが昭和二十年代までの、私の主観による略記である。

 これまでの話は、内閣の推移を中心に述べてきたが、略記を振りかえってみると、昭和の初期に日本が近代国としての、色々な施策を整えていたことがよく分かる。たとえば昭和元年七月に健康保険法施行令が施行されている。 八月には、日本放送協会が設立され、東京・大阪・名古屋の3放送局から放送が行われている。全国の受信者は338,000人であった。

昭和二年には、わが国も世界恐慌の波をかぶり、東京渡辺銀行はじめ中小銀行が休業する状況となったが、日銀が四億三千万円を非常貸出して事態を収拾した。昭和二年、日本初の地下鉄・上野―浅草間で開業。昭和三年四月には日本商工会議所を設立。反面、同年六月、治安維持法が改定公布。七月には内務省保安課が拡充・強化され、全県警察部に特別高等課が設置された。

                                

昭和五年十月、東京―神戸…特急つばめ…8時間55分で走る。

昭和八年五月、大阪市営地下鉄 梅田―心斎橋間開通。

昭和九年一月、日本製鉄所設立。八幡・釜石・三菱・九州・富士の五社合併による半民・半官の製鉄大合同、「鉄は国家なり」。

同年十一月、満鉄の特急「あじあ号」大連―新京間運転開始。8時間20分。

々十二月、丹那トンネル開通、東海道線が国府津―熱海―沼津経由となる。

昭和十年、国際連盟より日本の「南洋委任統治」の継続承認。

昭和十一年七月、IOC総会で次回オリンピック開催地・東京と決定(1940)オリンピック開催とは、日本が先進国の評価を世界から貰ったとの印象あり。

以上が明治・大正・昭和(11年までの)私家版年表である。明治以来の諸先輩の近代化への努力が実ったことに、感謝したい。 

                                終わり                              (文責 三上卓治)