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今週
(1/30)の雑学大学は、坂田純治さんの「映画界うらおもて・監督と俳優の名コンビ」でした。昨年9月12日に同じ題名で講座をもったのでしたが、熱演のあまり、主に日本映画の蘊蓄を話している間に時間切れとなり、洋画編は続編ということで、本日の講座開催と相成った次第でした。次に1960年代に至って、テレビの隆盛、その他のメディアの開発とは裏腹な映画産業の衰退。三番目には映画芸術の発展を阻害した五社協定とその被害をうけた映画人、俳優などに焦点をあててお話した。
その際に、ちょっと触れた不運な肉体派女優、前田道子の消息がわかったのでお知らせしたい。なんと、彼女は
42年ぶりに「地獄」という映画に出演する。話が横道にそれたが、四番目に、マッカーシ旋風。アメリカにおける赤狩りのために、前途有為な映画人が次々と被害にあった実相をお話した。
映画の名コンビといっても、専属契約で入社した会社の中で、偶然に生れる名コンビもあるが、専属契約の枠を乗り越え、お互いに引かれて名コンビになったものもある。またたとえば進藤兼人と乙羽信子、伊丹十三と宮本信子のような映画業界での組み合わせと実生活が、一体となった名コンビもある。
さて、上映の皮切りはRKO映画会社の「空中レビュー時代」。
フレッド・アステアと、ジンジャー・ロジャースはこの映画では、まだ端役だった。タイトルで見ても、下の方にいる。ところが、映画で演奏される「キャリオカ」で踊るダンスが実に見事で、喝采を浴びた。
その結果、二人は次の映画では主役級に抜擢された。ビデオは二人のコンビでは四作目の「トップ・ハット」
1935年の作品となる。油が乗り切ったコンビの意気投合したダンス。二人は踊る。躍る。しかし、アステアがこのコンビで9作を撮ったあと他の会社に移籍してしまう。アステアは相手を代えて踊りまくるが、ジンジャー・ロジャースのようには呼吸が合わない。そして
10年後、「ブロードウエイのバークレィ夫妻」という映画でコンビを復活させた。10年ぶりの名コンビ復活という話題沸騰で、映画は大当たりを取った。1949年の作だが、しかし、日本では公開されなかった。アステアとロジャースは、俳優同士のコンビで、監督と俳優の名コンビという本日の主題からは外れているが、コンビとしてはこれ以上ないという程の名コンビであることから、敢えてご紹介した。映画の歴史
100年の間には、数え切れない名コンビがあるが、独断と偏見によって選んだ名コンビを、これからご紹介していきたい。
では、監督と俳優の名コンビのトップは、質、量ともにこの二人を上げなければならない。それはご存知、ション・フォードとジョン・ウェインである。この二人は、生涯
15作の作品を作っている。ジョン・フォードは、1915年に俳優としてハリウッド入りをしたが、2年後には監督の道に進む。
男のドラマを描きつづけて来たという点では、日本の黒沢
明監督と共通しているが、フォードの作品は黒沢にはない叙情がある。センチメンタリズムというか、リリシズムというか、独特の雰囲気がある。両者を比較すると、フォードの場合、例えば音楽の扱い方がまるで違う。
黒沢は、早坂文雄などの音楽家の骨太のオリジナル曲を使うが、フォードはフォークソングなどを巧みに流して情感を漂わす。黒沢は若いときからロシア文学の愛読者であったが、フォードはフランス文学の愛読者であってえ、夫々の愛した「風土の差」も影響していると思う。
これから、上映する「駅馬車」はモーパッサンの、乗合い馬車が背景になっている「脂肪の塊り」の翻案である。「駅馬車」も当然ながら乗り合馬車で場面が展開される。また、フォードはアイルランド系の子孫である。ジョン・ウェインも同様、アイルランド系であった。
疾走する駅馬車の、テーマソングが流れる場面が映る。
「淋しい草原に私を埋めないで」という西部のフォークソングのアレンジである。駅馬車の走るスピードに合せて、リズムが急速調に展開する。同乗の南部の貴族出身の賭博師が、将校婦人にかすかな想いを寄せるシーンに流れる音楽は、叙情的にフォースターの「金髪のジェニー」。
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歳、颯爽たる主人公、ジョン・ウェインが活躍するインディアンの駅馬車襲撃場面。ション・ウェインは大学時代フットボールの選手だった。ハリウッドでは大道具係りだったが時折、B級の西部劇に役がついて出演する程度の俳優だった。ジョン・フォードが「駅馬車」を撮ることになって、一躍抜擢された。
映画の製作会社は、当初ゲーリー・クーパーとマルレーネ・デートリッヒで作る予定であった。が、ジョン・フォードが強引にジョン・ウェインを指名し、相手役にはブロード・ウエイの舞台女優クレア・トレバーを組み合わせた。映画は記録的大ヒット、ジョン・ウェインはこの一作で大スターになった。
そのことから、ジョン・ウェインはジョン・フォードの恩義に生涯を通じて報いたいと、フォードが監督する西部劇をはじめ、活劇、海洋物などで誇り高き男を演じ続けたのである。ちなみに、1969年、
62歳のときに「勇気ある追跡」という西部劇で、アカデミー主演男優賞を受賞している。
「駅馬車」に戻って、この馬の疾走する場面の撮影もまた、画期的であった。
1930年代としては、馬の疾走場面の撮影は非常に難しいことであったが、ジョンフォードは見事に克服した。移動撮影の陰には、モータリゼーションの進歩という文明の背景があったのだ。この駅馬車を撮った
1939年の10年後に、フォードはウェインを主役に騎兵隊三部作を撮っている。48年に「アパッチ砦」。49年「黄色いリボン」。50年に「リオグランデの砦」といずれも秀作であり、ご記憶の方も多いと思う。
10年経って42歳の渋味を増したジョン・ウェインをご覧戴きたい。「黄色いリボン」の上映。懐かしいメロデイ。男の観客ですら涙を呼ぶ情感の場面の数々。フォードは自らを、「左」といって憚らなかった。オクラハマの土地を追われて、カリフォルニアに移住した小作人一家。そこも人間の住める処ではなかった。「怒りの葡萄」ジョン・スタインベックの原作。
この映画で、フォードはまた、新しいコンビを組める俳優ヘンリー・フォンダと出会う。ジョン・ウェインを野生派とすれば、ヘンリ−・フォンダは知性派である。フォンダは演劇界の出身で、
1935年に映画界にデビュウした。「怒りの葡萄」のトム・ジョウードの役は、まさに名演技であった。
ヘンリー・フォンダは出演したどの映画においても、名演技を見せているが、なぜかアカデミー賞には全く縁がなかった。舞台よりの姿勢を保ち続けたことが、ハリウッド人種に煙たがれたものと思われる。また、マッカーシー旋風が吹き荒れた
7年間、ヘンリー・フォンダは頑として映画に出演しなかった。
しかし、
1981年に発表された遺作の「黄昏」という映画で、アカデミー賞を受賞した。ヘンリー・フォンダは死の病床で、その知らせを聞いたという。それでは、「怒りの葡萄」と、ジョン・フォードとコンビの名作「荒野の決闘」を続けて上映しよう。
「荒野の決闘」で、フォンダが演ずるワィアット・アープは実在の人物である。
さらに、これは「OK牧場の決闘」という実話を題材にしている。背景に流れるミュージックはフォークソング「オー、マイダーリング・クレメンタイン」。映画が発表されてから、この歌が日本の山男たちに愛され、日本語歌詞がついた「雪山讃歌」となった。
「荒野の決闘」の、酒場の場面から登場するビクター・マチュアーは昨年、ガンで亡くなった。
86歳。「サムソンとデリラ」のサムソン役を演じた肉体派俳優であった。相手役のデリラを演じたヘデイ・ラマーも、つい十日ばかり前に、やはり86歳で亡くなった。
昨年、ヒチコックの生誕100年祭が世界中で行われた。
アルフレッド・ヒチコックは二十歳でイギリス映画界に入った。
1934年、「暗殺者の家」という作品を作ってスリラー作家として映画界の地歩を築く。22年後のハリウッドでの「知り過ぎていた男」は、そのリメークである。1939年にハリウッドに招かれ、以来「レベッカ」「断崖」「汚名」と次々に傑作を発表した。ヒチコック芸術という言葉で評価されるに至った。では、ヒチコック作品のポイントは、何処にあるかというと・・・
ヒチコック映画の特徴の第一は、心理的サスペンス。これは「レベッカ」とか「断崖」などがそれに当たる。次に、一転して背中から一突きという、行動的サスペンスという技法がある。「北北西に進路を取れ」などの作品がこれに当たる。三番目がサイケデリック・ショッカーというやつで、「鳥」「サイコ」などが、その範疇にはいる。この三つがヒチコック作風の特徴である。
調べてみると、男優では今画面の「断崖」に出ているケーリー・グラントがヒチコック映画に最も多く出演している。全部で5作ある。相手役のジョン・フォンテンも、ヒチコック好みの女優だが、東京の虎ノ門生まれである。聖心女子学院に通っていた。父はイギリス人で、東京帝国大学の教授をしていた。
お姉さんに、オリビア・デ・ハビランドという女優がいた。「風と共に去りぬ」のメラニー役である。ジョン・フォンテインは、このメラニー役を姉と争ったが、敗れる。これがきっかけで、姉妹は犬猿の仲となってしまった。ところが、アカデミー賞を先に取ったのは、妹のジョン・フォンテインだった。
断崖を、超高速で疾走する自動車の、危険な場面。
ヒチコックの映画は、何事も起こらないような平和な場面が、一転スリリングな世界に展開する。静から動へ。ユーモアとサスペンスを常に背中合わせに持つ。この、ヒチコック映画を見事にこなしたのは、ケーリー・グラントと並んでジェームス・スチュアートである。ヒチコック映画の全4作に出演したが、いすれも傑作である。
「裏窓」「知り過ぎていた男」など。平和で、まったく悪気のない好人物が、突然サスペンスの渦中に巻き込まれていく。その他、「間違えられた男」のヘンリー・フォンダ。「白い恐怖」のグレゴリー・ペックなどが、ヒチコック映画で活躍している。「裏窓」と「白い恐怖」の上映。
あと、ローレンス・オリビエ。ジョセフ・コットン。モンゴメリー・クリフトなどが、ヒチコック好みの男優である。「裏窓」には、最盛期の美しさを示したグレース・ケリーが共演。「白い恐怖」には、人気絶頂のイングリッド・バーグマンが出演している。美術協力は、サルバドール・ダリである。
画面は、前回のファンの要望があった、「カサブランカ」に。ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマン。空港から脱出する場面。ゲシュタポの隊長が気づいて飛行中止を命令する。ボガートのピストルが火を噴く。「アズ・タイム・ゴーズバイ」がバックに流れる・・・・・。
この映画は、ボガートとバーグマンのコンビではあるが、本日の主題である監督と俳優のコンビとしては、あまり関係がない。講師のおまけのサービスといったところである。
しかし、この場面は何遍見ても、いいなあと思わせるものがある。
さてヒチコックに戻って、彼の特徴に触れる。ヒチコックは、人気絶頂の美人女優を使い、ドラマの展開にしたがって、そのヒロインを恐怖のドン底に突き落とすという手法を用いる。第一の特徴として、ヒチコック映画にはサディズムがある。第二番目に、ヒチコックは自作品の中にチラと顔を出す。
三番目はエピソードだが、大の「卵嫌い」である。ヒチコックはイギリスの農園に育った。農園には鶏を飼っており、朝から晩まで食事には卵がついた。そのため、ヒチコックは卵が見るのも厭になってしまった。食卓に「目玉焼き」が映る作品がある。アップになった卵の黄身に、火のついたタバコがギュッと押し付けられるシーンで、卵への鬱憤を晴らしたのか。
代表的美人女優のグレース・ケリーの「ダイヤルMを廻せ」。ファッション界からヒチコック自身がスカウトしたモデルの、テッピイ・ヘドレンの「鳥」を続けて上映。何気なく映る小道具が伏線になり、ストーリ展開に重要な意味を持つ。「鳥」には環境破壊に対する警告も含まれている、ともいわれている。
恐い話が続いたので、この辺から明るい映画の話題に転換したい。
三番目に挙げる名監督は、フランク・キャプラである。1930年から40年にかけて、ヒューマニズムを主張した映画を作製している。「ある夜の出来事」が、彼の代表作である。彼の映画の主人公は、常に善良で誠実な男でなければならない。その意味では、ジェームス・スチュアートが打ってつけである。
ジェームス・スチュアートは、1932年に名門プリンストン大学を卒業し、建築家志望であった。ところが、折りからの不況で就職先がなく、学生時代から興味を持っていた演劇の世界に入った。1935年に映画界へデビュウ。189cmの長身。好感度100%。彼は何で、あれだけの人気を集めたか。
「素晴らしき哉人生」のラストシーン。皆で「オールド・ラングザイン」の大合唱。役者も涙なみだの熱演だが、観客もこの場面ではジーンと来る。キャプラとスチュアートの名コンビの代表作である。キヤプラの映画には、悪人は一人も出てこない。みんな善人だ。スチュアートはここでも、はまり役だった。
キャプラ映画で、なくてはならないもう一人、それはゲーリー・クパーである。
ジェームス・スチュアートを「好漢」と呼ぶなら、クーパーは「善良の塊」であろう。この人ほど、アメリカで愛された俳優はいないし、彼もまたアメリカを愛した。マッカーシ旋風の折りには、何かと被疑者をかばったり、裏で失脚した映画人を援助したりした。
これだけの大スターでありながら、ゴシップや離婚騒ぎが全くない。きわめて誠実な人柄である。1948年に「摩天楼」に出演。共演したパトリシア・ニールと恋愛し、噂がたった。しかし、別れ方が鮮やかだったというので、再び人気を回復した。アメリカ男性の夢の人であったといわれている。
それでは、1936年の作「オペラハット」をご覧下さい。
新聞記者が特ダネの相手と恋に落ちるというパターンの映画だが・・・
「ある夜の出来事」「ローマの休日」「オペラハット」などがそれで、同じパターンである。「オペラハット」は、主人公クーパーに密着取材して恋に落ちる婦人記者が、ジーン・アーサーである。キャプラ映画にはお馴染みの女優で、デビューが15歳。小股の切れ上がったというか、きっぷのいい女性だった。
ハスキーボイスが魅力的で、人気があった。1953年の「シェーン」の、アラン・ラッドが密かに思慕の念を抱く農家の主婦を演じているのが、最後のスクリーンとなった。「オペラハット」に続いて、クローデット・コルベールが主演する「ある夜の出来事」。
アメリカ映画界に彗星のごとく現れた脚線美女優、マルレーネ・ディトリッヒは、名コンビのジョセフ・スタンバーグ監督とともに、7作の映画を発表している。しかし、スタンバーグの奥さんが大変な「やきもち焼き」で、1作ごとにモメるのだった。ディトリッヒが美しくなればなるほど、スタンバーグの作品のレベルが落ちたという。作品「嘆きの天使」。
ディトリッヒは、ドイツの厳格な軍人の娘として生れた。演劇を志してマックス・ラインハルトという名門の演劇学校で基礎訓練を受け、舞台から映画界に入った。稀なる美貌が脚光を浴び、招かれてハリウッドへ。当時、ドイツはヒットラーの台頭で、ディトリッヒがドイツに嫌気がさしたのかも知れない。
1937年、ヒットラーはディトリッヒにそろそろ帰って来いと命令をするが、ディトリッヒはこれを拒否する。怒ったヒットラーは、ドイツ時代の彼女の全作品を焼却してしまった。したがって、現在、ディトリッヒのドイツ時代の映画は全く残っていない。もっも、ドイツの高齢者層には、ドイツ人でありながら戦時中に連合軍を慰問して「リリー・マルレーン」を歌ったディトリッヒを快く思わない人たちも多いとか聴く。
「モロッコ」のラストシ−ン。
なお「モロッコ」は、画面に字幕(スーパー・インポーズ)が入った最初の輸入洋画である。巧みな効果音。ラッパ。太鼓。軍靴の響き。ハリウッドでも評判になった。ディトリッヒは1974年に来日したことがある。帝国ホテルでディナーショウが行われたが、料金は確か12万円だった。どうしても見たかったが、財布と相談して涙をのんで見送った覚えがある。
砂漠に向う外人部隊のあとを追うディトリッヒ。途中でハイヒールを脱ぎ捨てる場面が、インテリの間で論議を呼んだ。これから砂漠に向う女が、裸足で歩くとは考えられない。このあと、「間諜X27」。ディトリッヒ扮する間諜X27が最後に処刑されることになる。処刑の前に、迎いの将校にサーベルを抜かせる。サーベルに映る自分の身なりをただしてから、刑場に向う名場面。
心憎いばかりの演出だった。
アメリカの次は、フランス映画である。
ジャン・ギャバンといえばジュリアン・デュヴィヴィエというくらい二人のコンビは名高い。デュヴイヴィエ監督は、フランスでは国宝級の映画、1930年に撮った「にんじん」「白き処女地」などの文芸作品を手がけ、世界的に評価を勝ち取っている。1937年には、フランス映画の最高傑作「舞踏会の手帳」を発表した。ペシミズムというか、夢と幻滅を描いた作品が多い。
デヴィヴィエ監督は、ジャン・ギャバンと6作を共にしている。中でも忘れられない映画は「望郷(ペペル・モコ)」である。ギャバンはフランスが生んだ世界的なスターである。芸人夫婦の間に生れたギャバンの少年期は、不遇でセメント工、大工などの職業を渡り歩いたが、二十歳のときやっと小さなミュージックホールに出演、シャンソンを唄っていた。26歳で映画界へ。
「望郷」でも唄っているが、なかなか渋い歌声を聞かせる。当時、琥珀の舞姫といわれたジョセフィン・ベーカーの、「裸の女王」の相手役に抜擢された。これがジュリアン・デュヴィヴィエの目に留まり、以降6作の映画で名コンビを組んだ。「望郷」のほか、「我らの仲間」「地の果てを行く」・・・・・・。
「望郷」のラストシーン。遂に捕らえられたペペ・ル・モコは、港を離れる白い船を見て、警官にお願する。デッキに立つ愛人ギャビーに、別れを告げたかったのだ。愛人の姿を捉えて、「ギャビー!」と声を限りに叫ぶ。皮肉にも、そのとき別れの汽笛が鳴って、ペペルの声は消えてしまう。ギャビーは気づかずに耳を塞ぐ。ペペは隠し持ったナイフで、自ら胸を刺す・・・・・。
ジャン・ギャバンとコンビを組んだ
監督は、その他にマルセル・カルネがいる。陰影に富んだ港町を描いた「霧の波止場」、詩的リアリズムといった作品である。相手のミシエル・モルガンは18歳だった。「どん底」。ゴーリーキーの原作。監督はジャン・ルノワール。この人は印象派の巨匠・オーギュスト・ルノワールの息子である。
「どん底」は、悲惨な貧乏生活にうごめく、希望のない人たちを描いた作品なのだが、ルノワールは、明るく楽しい「どん底」に撮った。フランス人民戦線全盛の社会風潮に合わせたのだろうか。ギャバン扮する泥棒ペペールは木賃宿の娘と結ばれるハッピーエンドで終わる。デッドエンドが好きなフランス映画としては、珍しい。同宿の男爵は、重鎮ルイ・ジュウベ。
ジャン・ルノワールとジャン・ギャバンのコンビの映画に、映画百年史上ベストテン・トップ級の名作「大いなる幻影」がある。第一次世界大戦中の脱走兵の物語で、反戦と敵味方を分け隔てない人間愛の感動巨編だ。ドイツの農家。ジャン・ギャバンの好演の場面を上映。続いては、愛妻フランソワーズ・ロゼエの名演を活かしたジャック・フェデール監督の「外人部隊」のトランプ占いの名シーン。
フランス映画のラスト。ジャン・コクトオは詩、文学、戯曲、絵画、シャンソンといずれの分野でも超一級の多彩な芸術家である。映画ではトルスタンとイゾルデからの翻案に
なる「悲恋」がある。脚本を自身で書き、主役にジャン・マレーを使った。以来、コクトーとジャンマレーのコンビは、全7作に及んでいる。ジャン・マレーの美しい金髪と彫刻的美貌は、全世界の女性の胸をかきむしった。
コクトオとジャン・マレーはホモだという噂があった。真偽のほどは分からないが、コクトオが亡くなったら、ジャン・マレーの俳優としての力は、すっかり衰えてしまったのは、事実である。一昨年(
1998年)、亡くなったと報道された。「美女と野獣」の一場面。この中に出てくる恋する野獣の振り付けは、日本の歌舞伎の「鏡獅子」から、コクトオがヒントを得たといわれる。
最後にイギリス映画の話題。
アレック・ギネスは1915年に私生児として生れ、不遇な少年時代を送った。
演劇に興味を抱いたことが、かれの人生を変えた。デビット・リーン監督とのコンビで活躍する。1946年デビット・リーンがチャールズ・ディケンズ原作の「大いなる遺産」を撮ったときに本格デビューした。
1957年、デビット・リーンがハリウッド資本に投じたとき、アレック・ギネスも一緒に移った。上映している作品は「ドクトル・ジバゴ」。ギネスはジバゴの兄の役である。コミンテルンの大物になったその兄が、革命の成否を憂える場面。ジバゴと愛人ラーラとの永遠の別れ。美しい音楽が流れる。
このシンフォニーはモーリス・ジャベール作曲のドクトル・ジバゴ、オリジナルの「ラーラのテーマ」である。大編成の交響楽団に100人のバラライカ奏者の演奏が加わる。映画音楽としても白眉の名演奏である。
続いて「戦場にかえる橋」。口笛の「クワイ河マーチ」と捕虜の兵士たちの行進。
この「クワイ河のマーチ」を聞きながら、「映画界裏おもて」−監督と俳優のコンビ−の講座を終了としたい。前後二回にわたって、邦画と洋画の話題作におけるコンビのお話をしたが、如何でしたか。コンビが生れ、名作が世に発表されて感動を呼ぶ。人と人の出会い。そこで織り成す人間模様。それ自身がすでに素晴らしいドラマである。
終わり
(文責
三上卓治) [ホームページに戻る]