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今日の雑学大学は吉田源司さんの「私の介護体験」でした。吉田源司さんは、当学でしばしば犬のお話をされております才媛、吉田悦子さんのお父上であります。今年64才、自営業でお茶の販売会社を経営していますが、半生を顧みて実にいい人に巡り会い、両親の生きざまに教えを受け、自分の人生のあり方にそれを生かすことがで

きた。とくに94才まで長命を保った母親の、大腿骨骨折手術を通じて得られた、介護する側と、される人の心のありようの問題を、熱っぽく語りかけるのでした。

 

●自分は少年のころ、外耳炎にかかったことがある。戦時中だからやむを得ない事情ともいえるが、医者が耳の後ろに親指大の穴を開けての治療の途中で疎開してしまった。その後遺症から右耳の聴力を失った。

 たしかに、右耳が聞こえないと不自由である。左耳だけだと、音の方角が分からない。しかし、右耳が聞こえないことを、家族以外に話したことはない。社会に出てからは、話す人の唇を読むことを覚えてハンディを克服することができた。

 ただ、回りの雑踏から聞こえる音に反応するのは依然、苦手だったので、そんな時は回りの人の表情を見てから対応した。だが、どうしても一瞬、タイミングが遅れるので、同僚からは変なヤツと思われていたらしい。

 両耳が聞こえない人もいるなかで、片方だけでも聞こえることは有り難いと思う。障害者に対する理解は、そのお陰で人様より深いものがある。また、障害を克服することでマイナスをプラスに転じて、繊維会社の営業で積極的に活動することができた。

 今日は「私の介護体験」というテーマである。自分は両親と非常にいいコミニュケーションが取れるかたちで、見送ることができて幸せだったと思う。昨今の介護問題は、保険や労力や社会的機構のことが先立って論議が進んでいる。 昨今のすさんだ世の中では、介護の論議の先に必要な「心」の部分に修正を加えなければ、介護の本筋を掴むことができないのではないか。自分の親との関わりを聴いて戴きながら、人生のありようの参考にして貰えたら有り難い。

                                    

 

吉田源司さんは昭和10年5月生まれの62才(64才は誤り)である。若く見えるので、つい最近まで36才と云っていた。父は明治25年、母は26年の生まれである。兄が5人、姉が4人の10人兄弟。千葉県銚子に生まれた。

 母が45才の時に誕生した末っ子であったが、たまたま5人の兄が全員亡くなってしまったので、源司さんが家を継ぐことになった。親は明治の人らしく、嫁いだ娘の世話になる気は毛頭なかったらしく、子供のころからお前が跡取りだといわれていた。

 源司さんが小学校4年のとき、軍属としてラバウルで働いていた父が船で帰ってきた。45隻の船団が横須賀の港に着いたのは、父の乗った船たった一艘だけだったという。銚子の家に帰って来たのは昭和20年3月。6月に銚子の家は空襲で丸焼けとなった。

 父はすでに60才になっていた。家族や血縁10人の住む場所を探して、転々としながら、親は大変な苦労をしていたのだ。手に職があったので、醤油の樽を作る仕事で生計を立てていた。その時点でひとり残っていた兄の戦死公報がはいった。南方洋上にて戦死とあったが、少し前の手紙は奉天(満州)よりとあった。母は兄の戦死を信じなかった。シベリアに抑留されているかも知れないと、新聞に出る舞鶴に上陸した引き揚げ者の名簿を、毎日調べていた姿が、今でも瞼に浮かぶ。

  吉田さんの生い立ちの中で、中学の先生や、就職先の繊維会社の社長などから思いがけない励ましを受けたことは忘れられない。大阪で、東京からの出店で初めてデパートの大丸と取引が出来たのも、その励ましのお陰だったと思う。

お袋が嫁さんを探してきたのは、ちょうどその頃である。母の小学校の先生のお墨付き。素直で、賢くて、明朗闊達のふれこみであった。一緒になって見たら、そうでもなかったが、自分には、よく尽くしてくれた。  顧みて、自分は実にいい人達にめぐり会っていることを感じる。親がいい縁を持ち、自分が、そのいい縁の部分を受け継いでいる。子は親の背中を見て育つ。知らずしらずのうちに、そうなっていることを感じるのである。

 お袋は、近くに大きな火事などがあると、自分の着る物も大して無いくせに、蒲団を持って駆けつけるような人だ。町でも評判になって、感謝状を町長から貰ったりしているほか、子供にも人気があって、運動会や学芸会に呼ばれたりしていたようだ。

 33才のとき、会社の社長がそろそろ親と一緒に住んだらどやと云って、船橋に家を作ってくれた。父はその時、78才である。新居に両親を披露したら、お袋が、親父がお前に用があるという。 滅多ににないことだが、座敷で互いに畏まって相対した。親父が重い口を開いた。

「一緒に住みてぇんだ・・・・」

 吉田さんは、もともと そのつもりであったから、喜んで同居することにした。 そこから、両親と一緒の生活が始まった。しかし、それから一年も経たないうちに親父が亡くなった。すっかり安心したからであろうか。老衰気味の父親の介護は、そのころは元気だった母がした。

 私の介護体験は、そのときの母の様子を見たときから始まった。         

                       

 同居してからの父は、脚が弱っていた。歩きたがらないから、脚はさらに弱っていく。医者に診せると、これは老衰だからしょうがないという。お年ですから・・・で片づけられてしまう。そして、父は日に日に弱っていく。

 

 そんなある日、嫁いだ姉の家の婆さんが、胃ガンの手術で明日をも知れないというので、潮来の先の麻生という町まで見舞いに行った。会社が終わってから、夜も遅く、当然、泊まりのケースであったが、なにか胸騒ぎがして終列車で帰った。

 成田からタクシーに乗り継ぎ、真夜中に着いて玄関の戸を開けるとハッとした。玄関は履き物で、足の踏み場もない。父が危篤!の知らせに集まった人達の下駄や靴だったのだ。

 明け方の4時ころだった。親父の脈をとってみた。大きな波が、うねりになって続いたかと思うと、一瞬、脈がとまった。それが父の臨終だった。何がなんでも帰ろうとする気持ちから、親の最後を看取るという経験を、天が与えてくれたのだろうか。

 母は、その後元気に長生きをした。しかし、90才のとき、別の姉が嫁いでいる銚子の家で大腿骨の骨折をした。義兄は、おれんちで骨折したのは、おれの責任だ、完治するまで預かるといってきかなかった。義兄はレントゲン写真を持って、必死になってあちこちの病院を訪ね回る。ところが、どこの病院でも同じ答えが返ってくる。

「90才を過ぎると手術をしても無駄です。これは終末へのパターンです」 「どこでも同じ答えだ。それなら、実の息子の元で・・・・」と、義兄も腹をきめて、車の中に何枚も蒲団を敷いた上に母を寝かせ、源司さんの家まで送り届けてきた。車を何台も連ねて、十数人の人が付き添って。

 こんどは、源司さんがレントゲン写真を持って、病院巡りだ。私立、公立、市立など8カ所の病院は全部同じ答えであった。ただ、西船橋の整形外科の応対が少し違っていた。三井記念病院の整形外科の部長をしている、私の先輩なら、なんとかしてくれるかも知れない・・・・・。                                                           

 整形外科の三井先生が紹介された医師である。吉田さんは、今までの各病院の紋切り型の断り文句が頭に浮かんだ。最初に、親戚の会社の社長から聞いた、断られない態勢を作ってから、先生に挨拶に行こう。

 その態勢とは。

まず、差額ベッド特別室料金1日45、000円を契約して入院する。すると明日からでも健康診断が受けられる。3日〜5日間のドック入院から診療へという非常手段である。思いきったことをしたものであるが、源司さんは親を助けたい一心で必死だった。

「老齢の人の大腿骨骨折は、手術できないので寝たきりとなる。老化が進行して内蔵が弱り、6カ月くらいで肺炎から心不全に至る」をどうしても避けねばならない。金がいくらかかっても、場合によっては家を売り払っても、母の命を救うのだ。

三井記念病院では、非常に困難ではあるが、大腿骨骨折の手術治療を了承してくれた。源司さんは、看病の付き添いが必要となることを考えて、会社も辞めた。

 三井記念病院でも、90才の人の大腿骨手術は初めてであった。だが、手術は大成功だった。以来この病院では、大腿骨手術を年齢に関係なく、行うようにしたという。母は手術後リハビリに勤め、1カ月半で退院し、あと3年半を自分の脚で歩行した。

 その後も、母は進んでリハビリを続けていた。退院して6カ月経ったころ、母が骨折した銚子の義兄の家の息子(すなわち母の孫)の結婚式には、源司さんが母を背負って出席した。元気に回復した母の様子に、みんなが本当に心から喜んでくれた。

 「なせば成る」のだと、しみじみ源司さんは思う。半生を振り返って、厳しい面を持ちながら、心は非常に優しい人たちに恵まれてきた。知らず知らずに影響を受け、自分もそのように行動してきた。「なせば成る」行動をして、結果については、感謝した。

 母には、「生きる」意欲があった。介護する側に、優しい心が必要なのは当然であるが、介護される側にも「生きる」意欲がなければならない。「生きる」姿勢に、介護する人の手が、自然に伸びるものではないだろうか・・・・・・。

母は、手術後3年8カ月を元気で過ごし、94才の長寿を全うした。

                                    終わり

(文責 三上卓治)

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