[ホームページに戻る]

 

今日(9/13)の雑学大学は西森龍郎さんの「気楽な俳句人生」でした。西森さんは武蔵野市役所に三十数年お勤めのあと、定年を前に58歳で退職、その後、武蔵野市消費者相談室の室長を務め、65歳でリタイヤされ、今は絵画や、俳句の、趣味の世界で毎日を過ごしておられます。

 ●今日の外題は「気楽な俳句人生」であるが、「気ままな俳句人生」のつもりだった。友人で俳句をやっている人がいて、その人に奨められて、俳句をすることになった。その人の句を見たら、碌でもないものに見えたので、こんなだったら何時でも作れると思った。

 役所勤めの50歳で、胃潰瘍のため胃腸全摘出の手術をした。病院に2カ月も入院した間に、短歌を作ったり、俳句をひねったりしたのが、俳句人生の始まりだった。役所を辞めてから、俳句の結社に加わったり、俳句雑誌に投句したりするので、名前が知られるようになった。

 役所に勤めている間は、俳句をやっていることは公表していなかった。役所で俳句をやっていることが判ると、「俳句なんぞやってて、役所が勤まるか」といわれるのが落ちで、みんなからも、あまり良くは言われない。やっている人もいるが、本筋ではあまり偉くなった人はいない。今の有馬文部大臣は、東大総長で俳句の結社まで持った。あの人だけは特別だ。

 一口に俳句をやると言っても、俳句はエネルギーを使う。老後の過ごし方とか、老化防止や、生きがいのために、俳句「でも」やりなさいと、偉い人や知識人などが言っているが、「でも」で俳句は出来るものではない。

 生きがいになるくらいの俳句を作るためには、まず十年はかかる。趣味が生きがいになる程度のレベルに達するには、何でも大体十年は必要だ。上達が早い人なら、少しは人に教えられるようになる。60歳で定年になって、どうやらものになった頃には70歳になっている勘定だ。

定年後に、すぐ生きがいになるくらいの趣味を持つためには、50歳あたりから、勉強を始めることが必要となるのだ。ところが、役人の50歳といえば仕事の重要度は増し、人事昇格の面でも役付きになるか、ならないかの瀬戸際である。役人の私ですら、まともに家に帰った事はない。

俳句を始めると、句会には出なくてはならない。俳句雑誌の投稿、吟行もある・・・・。勤め人としては、相当な負担になる。俳句に限らず、絵を描くことも同じだ。展覧会に出品するために100号の油絵を4枚描いたことがある。出品前の2週間はほとんど徹夜だった。

 

その絵が、二期会の展覧会で入選してしまった。新聞の下の段に小さく名前が出たのを、目ざとくみつけた同僚がおったので、たちまち役所内に知れ渡ってしまった。上司からは「えっ。入選したって?じゃぁ今度は、役所やめて絵描きになるんだな」なんて言われてしまう。

 仕事をしながら趣味に打ち込むと、仲間や上司からからは、嫌味というか、やっかみといういうか、変な妨害が必ず出てくる。仕事が重要度を増してくる中で、一生懸命に趣味に徹すると、先生につかなくちゃならないから、時間のやりくりなど、実は大変である。

いろいろな、趣味の世界を見回わしても、俳句の場合は、80、90歳の先生はざらにいて、結社の中でも70歳の自分が、若手なんて言われている。自分が好きでやっていることに打ち込んでいる人は、長生きだ。だが、絵書きさんは、俳句よりもっと長生きしている。

絵だけは、初めから好きでないと絶対に出来ない。つまり、絵を描く天性があって上手に描けるから、絵に打ち込む。好きだから、ますます頑張る。長くやると、さらに上手くなる。言葉の芸術をやっている人は、30年やったからといって、5年やった人とそれほど大きな差はない。

 私には、俳句の師匠がいない。結社に属して幹部や事務局長までやっているが、にも拘わらず、先生は結社のなかにはいない。私の先生は「蕪村」である。と決めている。前の先生だった人はとっくに亡くなって、現在は女の人が代表であるが、これとても元同僚である。

 先生だった人は歯医者で、私の定年の話を聞いて、私も歯医者を止める歳になったから一緒にやらんかいと言われて、結社に参加したが、先生が好きで入っただけで、俳句の指導を受けたわけではない。経験して判ることだが、趣味でも稽古事でも、いい先生を選ばないと損をする。

この世界は、昔ながらの封建主義がまだ残っている。絵の世界などは、今でもすさまじい。展覧会に出品するとよく体験できる。いい先生は力のある審査員であるからだ。俳句の世界も、普通では、上にのし上がっていくのは大変だ。名前が一度出てしまうと後は楽になる。

大した俳句でなくても、大先生が詠むと、さすがにいい句です。言葉の裏には深い意味があるのだと鑑賞することになる。私たちが、仮にいい句を作っても、精々いいねくらいで済まされてしまう世界だ。そういう状態を見て、桑原武夫などが、戦後、俳句第二芸術論を唱えたのである。

蕪村は、生涯2900の俳句を作った。芭蕉の没後22年に生まれているが、俳句の系譜としては、芭蕉の流れを汲む。ともに著作を出版しているので、それらを読めば、どいう俳句を作ったかよく判る。そのあと蕪村を継承する人がいないから、蕪村は自分の先生だと決めている。

俳句は「生きがい」だという人もいるが、自分の場合、生きがいまでにならない。それ以上でもなければ、それ以下でもない、と思うがやっていいことは間違いない。やるためには、十年間はご苦労しなければならない。 俳句は、右脳を刺激するからボケ防止になるという人もいるが、その面での体験では、あまり役に立たない。

ただ、人との交流はできる。結社には千人からの会員がいるから、付き合う気があれば、幾らでも相手はいる。句会などで、自分の波長に会う人を探して声をかける。

 句会のあとで一杯やったりすると、次の句会には「よぅ」という関係になって、すぐ仲良くなれる。吟行や大会などの楽しみもある。しかし、それだけで、他に頭が良くなるとか、利益が発生するなどはことはない。やってて損はしない、とでも言えようか。

 短歌の場合、基礎教養が必要である。国文学出の先生などは、短歌の世界に向いている。教養の積み上げというか、昔のことを全部知っていないと、いい短歌は出来ない。俳句は、昔のことをよく知っていても、いい俳句にはならない。スピリットが求められる世界だからだである。

 私が俳句をやり出したのは、胃潰瘍の手術で2ヵ月の入院をした時である。退屈しのぎに、日記がわりに短歌や、俳句を作った。こんなこと言っては申しわけないが、短歌や俳句は、病院や刑務所に入っているときに作ったものが結構多い。

 俳句は特に、壁の中の湿り気から出てきた、黴のようなものを練りにねって、五、七、五の句に綴るものだ。文学でもなければ、芸術でもない。でも言葉を操ってある種の感動を表現するのだから、芸術の一部であることには間違いなく、したがって私は俳句は文芸だと思う。

 芭蕉は、51歳で亡くなっているが、京都時代に学んだ漢学の素養が深い人だった。江戸へでて、句会を催し、選をすることで生計を立てた。頭もよく、いい句を作るので、めきめき頭角を現わし、弟子も増えた。芭蕉は、34歳で立机(りっき)= 宗匠となった。

 俳句はある種の旦那芸であったから、商家の旦那衆を弟子にすることは、冥加金が多く集まる。そして、40歳のころ、水道工事の帳付けの仕事を辞めて、専門の俳人となった。芭蕉は俳句に厳しかったが、自分にも厳しかった。旅人俳句を志し、「野ざらし紀行」て句を磨いた。

39歳のとき、江戸、深川に芭蕉庵を贈られ、そこに住んでいた。野ざらし紀行は、芭蕉41歳のとき。生まれ故郷の伊賀上野を起点に、大阪、京都をはじめ、あちこちをめぐる紀行俳句である。続いて鹿島紀行。45歳になって更科紀行。46歳が代表作の「奥の細道」である。 

振り袖火事で焼け出され、一時、都留(山梨)に住むが、再建された芭蕉庵に戻る。奥の細道の旅にでるとき、庵を売り払って路銀に当てた。連歌俳諧から発句へと、俳句を独立した文芸にするために、芭蕉はどうしても奥の細道の俳句紀行をしなければ、ならなかった。

 芭蕉は、若い時に武家のような生活をしたことがある。武家の教養は漢籍である。四書五経の暗記、漢詩の素読、和漢朗詠に打ち込んだ五年間だった。京都の縁で江戸に移ってからも、禅宗の寺での修行をすることが多く、芭蕉のその頃の俳句は、漢籍教養に裏打ちされたものばかり。

 芭蕉は、ある事柄の心象を、日常の言葉や感じを表現したいのに、なぜか漢籍をもとにした言葉が現れてしまう。それを捨て去りたいための旅であった。禅の境地にそれを求めたかったが、庵に留まっていたのではそれも果たせない。体を痛めて、頭を空白にしてこそ、それができる。

 芭蕉は、その上病弱である。奥の細道には、途中で病んで動けなくなるため、長逗留になる場面が数箇所ある。黒羽、飯坂、石巻、月山などがそれだ。西行の跡を辿るのが目的の一つだったために、道も険しいのだ。疲れて、疝気を病み、下痢をしながら曾良とともに旅をした。

 そういう旅をしながら、芭蕉は俳句を作った。

平泉から、奥羽山脈を越えて山形に出る。鉈切り峠の辛い旅が、芭蕉の修行そのものである。酒田街道を北上して象潟へ向う。

そこで「象潟や雨に西施(せいし)なるねむの花」と詠んだ。

 漢語を忘れて、和語で俳句を作るための旅の、奥の細道で、なぜ西施(中国、春秋時代、越の傾国の美女)と入れたのか。それは謎である。

このあと、新潟で「荒海や佐渡に横たう天の川」と詠んだが、それ以降芭蕉の俳句には、漢籍の下地を窺わせるものはない。

 芭蕉は、各地の有力者から紹介状を貰って旅を続けたが、実情は乞食同然の旅であったといわれる。辛く、すさまじい旅であったことが、芭蕉の俳句を完成に導いた。芭蕉の俳句を語ること無しに、俳句は語れないのである。(俳諧という概念を、俳句としたのは正岡子規である)

  そろそろ最終章になった。

ここで、芭蕉と蕪村の俳句を比較して、鑑賞するのも一興ではないだろうか。もちろん、私は弟子を僭称しているくらいだから、蕪村の方が絶対いいと思う。

比較のために、同じ題材の俳句を並べたが、皆さんはどうだろう。

芭蕉:あら何ともなきやきのふは過ぎてふくと汁

蕪村:ふく汁の我活きて居る寝覚哉

芭蕉:はつゆきや幸庵にまかりある

蕪村:うずみ火や我かくれ家も雪の中

芭蕉:ほととぎす大竹藪をもる月夜

蕪村:ほととぎす平安城を筋違に

芭蕉:葱白く洗いたてたるさむさ哉

蕪村:葱買って枯木の中を帰りけり

芭蕉:荒海や佐渡に横たふ天の河

蕪村:いな妻や秋津しまねのかかり舟(沖に停泊する舟)

芭蕉:うぐひすや餅に糞する掾の先

蕪村:うぐひすや賢過ぎたる軒の梅

芭蕉:むめしろしきのふや鶴をぬすまれし

蕪村:水に散りて花なくなりぬ岸の梅

芭蕉:ひらひらとあぐる扇や雲の峰

蕪村:廿日路の背中にたつや雲の峰(廿日路とは江戸ー京都へ途中の木曽路)

芭蕉:旅に病で夢は枯野をかけ廻る(絶唱)

蕪村:しら梅に明る夜ばかりとなりにけり(絶唱)

 

私は芭蕉はやや根暗で、蕪村は根明のように思う。皆さんはどう感じるか。

ところで、最後に私の俳句を二つ三つ。

 

龍郎:千年杉添う枯藤の深情け

:紅葉に包まれ吾は壷中仙

:去り状の風に音する菊枯葉

:妻恋いのついでに鴨は餌あさる

:重たさに気付けば肩に桜散る・・・・・・・

終わり

(文責 三上卓治)

[ホームページに戻る]