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今日(5/9)の雑学大学は北川尭佳(ぎょうか)さんの講座「香道と日本文化」でした。北川さんは、日本香道協会理事、御家流師範、産経学園講師をされており、日本古来の伝統文化の継承者であります。NHK大河ドラマ「元禄繚乱」で、綱吉の奥方が香を聞く場面がありましたが、これは北川先生の指導によるもの。

 近ごろのわが国の精神文化へ回帰現象なのか、予想を大幅に上廻る38名の参加者がありました。

 古代から人間は香りと深く関わっている。古代人は自然の中から、現代人よりは遥かに香りに敏感であった。たとえば、樹木の香り、草花の香り、落ち葉の香りとかを尊んでいた。四千年以上まえからインドやエジプトでは、香油を体に塗りつけるとか、室内に香を満たして今で云うアロマセラピーの効果をもたらすとか、あるいはミイラの防腐剤として使用していた。

 香木は中国に伝わり、仏教とともにわが国に伝わった。西の方に、伝わった香は香水となった。香木の原産地はインド、ベトナム、スマトラ、マレーシ等のジャングルで、伽羅(キャラ)、羅国(ラコク)、真南蛮(マナバン)、真那伽(マナカ)、佐曽羅(サソラ)、寸聞多羅(スモタラ)の六種で六国(リッコク)という。

 これらの香木に、五味(ゴミ)といって、辛、甘、苦、酸、鹹(カン)の五つの味を当てはめている。香木は長い世紀、土中に埋木して、朽木化した樹の樹脂で、よい香は沈香といって水に沈む。白檀系の香は、現在でも繁殖している樹木である。

 西洋も東洋も、最初は儀式に用いられた。

香は大脳に作用をして、覚醒とか悟りを開くとかに有効であることが判り、僧たちが修業のために用いた。やがて、それは帝(ミカド)、皇后、皇太子、王女、貴族など、生活にまた、芸道として根づいていった。

香木が伝わる前の古代日本では、植物の匂いが好まれ、春は梅、夏は橘、秋は菊、しきみの匂いなどが尊ばれた。枕に菊枕(網篭のなかに菊の花を詰める。心が落ち着く)などが用いられた。これは歳時記にも秋の季語として残っている。草花の匂いのほか、山の匂い、海の匂いなど、生活の中の匂いを大切にした。

 飛鳥時代。六世紀、香木は仏教伝来とともに、わが国に伝わった。仏教だけではなく、陶磁器、文字、製紙技術、とともに香木なども同時に伝わった。

香木についてはこんな伝説がある。遥か南の国から流れついた流木を、島民が火にくべたら、えも云われぬいい香りがした。 これは、ただならぬことと、その流木を時の帝に献上したと言われている。

 奈良時代。753年、 鑑真和上が来日した。仏教儀式の一つとして「薫物(タキモノ)の工法を僧たちに伝授した。

鑑真和上は、香に様々な薬を混ぜて、合わせ香の技術を残した。鑑真が来日して3年後に聖武天皇が没する。光明皇后が帝を悼み、都合三度の法要を東大寺でいとなみ、帝の遺品を正倉院に納めた。香木「蘭奢待(らんじゃたい)=国宝」も納められているが、何時納められたかは明らかでない。

 

平安時代。十一世紀頃になると、貴族の間では、次第に香の楽しみ方が盛んになっていった。源氏物語などは、全編に香が匂うがごとく恋物語が繰り広げられる。光源氏の行動は闇の中においても、女房たちにそれと知られるのは、すべて香のためである。王朝文化の最盛期である。仏前への「供香(キョウゴウ)」の他、「空薫物(ソラダキモノ)」「翫香(ガンコウ)」「掛け香」「置香(オキコウ)」「匂い袋」などが拡まった。

 源氏物語「梅が枝」の巻では、「大殿のあたりいい知れぬ匂い満ちて、人の御ここちいと艶なり」とある。大殿とは光源氏の君。艶とは 上品に心地よき様、である。

この頃は、香木をたくのではなく、何種類もの香木を砕いて粉にし、蜂蜜あますらや、麝香(ジャコウ)など動物性の香を混ぜて、三日から一ヶ月ぐらい樹木の根元に埋めるなどして、自ら独特の練香(ネリコウ)を作った。

 「練香」は秘法で、調合の内容は誰にも明かさない。

しかし、六種(むぐさ)の薫物(たきもの)」はこの時代の代表的な薫香である。例えば春なら・・梅花。夏なら・・荷葉(カヨウ。蓮のこと)。秋は・・菊。侍従。冬は・・・黒方(クロボウ)、落葉。という風に季節感を演出しながら、自分の匂いの特色を工夫した。

この「薫物合せ」の中から、香の種類を聞き分けるという芸が上流社会に流行し、これが香道の原型となった。「聞く」というのは嗅ぐの意味で、聞香(モンコウ)とは香りを聞くことである。

 十二世紀、鎌倉時代になって武士の力が台頭し、公卿社会が衰微してくると、香の聞き方も変わってくる。香は遊びではなく、「武」の精神統一を図るために用いられるようになる。香も「練香」よりも、香木そのものの香りを珍重した。源頼朝も香木を集めて、精神修養に使ったと云われている。

 室町時代。1338年、足利尊氏、京都幕府を開く。

三代将軍義満は明との貿易を盛んにし、香木の他に様々の美術品を輸入し、北山文花を確立した。佐々木道誉などの婆裟羅(ばさら)大名達によって、香合わせ、歌合せ、貝合わせなどの合せ物が盛んに行われ、彼等は社交の花形となった。婆裟羅とは室町時代の言葉で、伊達とか派手とかいう意味である。

八代将軍義政は、1489年、銀閣寺を建立。義満は能阿弥、相阿弥、芸阿弥、とともに東山文化を大成した。香、花、茶の体系化と発展に理解を示す文化人であった。三條西実隆に命じ、門弟の志野宗信とともに「日本香道」の基礎を造らせた。

安土桃山から江戸時代にかけては、茶道と香道は武家の教養として、欠かせない存在となるほど、盛んになった。この時代の主流となったのは、「組香」である。合せ香は、香の調合から独自性を演出するものだが、組香は和歌、漢詩などと組み合わせて、詩歌の心を表現するものである。現在行われている組香の基礎が、この頃に出来上がった。この頃から香は下部へ、遊女達にまで拡まっていった。

  信長、秀吉、家康などの武家大名社会に香が浸透していった。戦国武将たちが意外にも教養人であったことを示している。特に江戸時代には、茶人、香人でない大名はいないくらいに盛んになった。利休、織部、幽斎、光悦などの文化人は、また香人でもあった。

 香木の輸入も盛んに行われた。「一木四銘」といって一本の伽羅の名木を巡って葛藤があった末、宮中では・・・藤袴(後水尾天皇の勅銘香)、前田家では・・・初音、細川家では・・・白菊、伊達家では・・・柴舟と銘名されて、今日まで大切に保存されている。

しかし、明治維新になり、仏教とともに香道も衰退の道をたどった。

 太平洋戦争中は、あらゆる芸道が凋落したが、香道もその例に洩れず衰微した。しかし、戦争終結後、世の中が落ち着くともに、日本独自の文化が再認識されるなかで、香道も三條西家二十一代目の宗家尭山と、その息尭雲による復興を果たし、今当代を迎え次第に隆盛に向いつつある。

 香は、小さな香木から匂い立つ薫りが、様々な幻想の世界をイメージし、心安らぎ、自分の美の世界を創り出すのもであるが、古くから伝えられる「香の十徳」を紹介すると

 感格鬼神 清浄心身 (感性を研ぎすまし 心身を清浄にす)

能除汚穢 能覚睡眠 (よく汚れを除き よく眠りを覚ます)

静中成友 塵裏偸閉 (静けさの中に友を作り 忙中閑を偸しむ)

多而不厭 寡而為足 (多くとも厭わず 少なくとも十分に足る)

久蔵不朽 常用無障 (保存して朽ちず 常用して障りなし)

 

この意味は、香は大脳に作用し、自律神経やホルモン分泌に働きかけ、健康に良い。心を鎮め 気持ちの安定感を得て、完成を豊かにするということである。

 ここから、いよいよ組香「菖蒲香(あやめこう)」の実技に入る。

尭佳先生の門人、六名の和服姿の女性(あえてニョショウと呼びたい方々)が講演中に香炉などの仕度を整え、38名の参加者の前に古帛(コブクサ)というこぶりの二つ折りのふくさと、和風コースター、ゆかしげな和紙の手記録紙(答案紙)をくばり始める。

 

その間に北川尭佳先生が、いま行われる組香の菖蒲香の太平記による由来を語る・・・。

源頼政、宮中を荒らしまわる鵺(ぬえ)を退治した褒美に何を望むかと、崇徳上皇に問われて、そのころ宮中随一の美女と噂の「菖蒲」なる女性を妻に欲しいと答えた。

 

「菖蒲」なる美女は実際にいたのだが、上皇それならばと、宮中の女官十人に同じ衣装を着せて、源頼政の面前に勢揃いさせ、さぁ どれが 菖蒲か選べ。

「五月雨に 浜辺の真菰(まこも) 水こえて いづれ菖蒲と ひきぞ わづらう」

と、驚きながらも自分の心を歌に託した。上皇も頼政の歌に感じ入って、まことの「菖蒲」を頼政に娶わせた。

その故事にちなんで、本日は「五月雨」「真菰」「菖蒲」の各香を聞き分ける・・・・。

香の点前(香元という)は若い女性。たおやかな手さばきで、香炉に香木の小片を載せては、香炉を静かに持ち上げ、縁を掌でふさぎ、僅かに親指と差し指の間から洩れる香を聞いて、正客に廻す、という点前を始める。

最初に試香(こころみこう)「五月雨」が廻される。作法通りに聞き、この匂いを記憶する。次に「真菰」。同じく記憶する。

「菖蒲」の香は試みがない。本番中に前の二つ以外の香りがあれば、それは「菖蒲」である。

 尭佳先生は参加者全員の名前(姓でなく)を聞いて、大判の奉書に記録する。

連衆(れんじゅう、客の事)は、廻ってきた香炉の香を聞き、それが「何」かを先程の手記録紙に毛筆で書く。

三つの香を聞き分けたら、「匂いの君」という下附(したづけ)がつけられるとか・・・・・。

香炉がお正客、大田学長代行から順に廻される。

一同、全くの初体験の戸惑いと、かすかな興奮を示しながら、見様みまねの作法で香を聞く。三つの香は、香炉の中では同じような小片であり、すこし異った匂いがするようでもあり、参加者は判らぬと首をひねるばかり。しかし、答えを集めると正解者は十人ほどいた。

 正解は「五月雨」「真菰」「菖蒲」の順であった。

参加者を六つのグループに分けられて、各グループの代表の「匂いの君」の香記録という表彰状が尭佳先生から授与された。晴れがましく、名前を呼ばれて出で行ったのは、なんと全員女性であった。

 

●香道の話を聞きながら、我々の祖先は宮廷人であれ、武将であれ、なんという教養人であったことか、このような素晴らしい文化が、日本の歴史のなかに生き続けているのかと、感動すら覚えたことでありました。

終わり

(文責 三上卓治)

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