[ホームページに戻る]

 

今日(5/16)の雑学大学は小池牧子さんの講座「吉祥寺を語る・昭和30年ごろ」でした。小池さんは、武蔵野市の婦人情報誌「まなこ」の編集長をながく勤められ、現在はヒューマン・ネットワークの仕事に関わって活躍中です。昨年11月武蔵野市が出版した「学童保育ここに始まる」という出版物の編集に携わり、昭和30年ごろの武蔵野市を顧る機会を得ました。「学童保育」を切り口に吉祥寺という住環境を、考えて見たいという講演でした。

 

●「学童保育ここに始まる」は武蔵野市児童課から発刊された本である。

武蔵野市役所編というタイトルがついている。発売元は市内の花伝社という出版社で、全国ネットで売られている。昨年11月にこの本を発刊したことについては、三つの理由がある。

 

その一つは、昨年4月、児童福祉法が改正になって、やっと「学童保育」が制度化されたことである。二つ目。武蔵野市西久保のある市民の自宅に、35年前に「学童保育」が市民の手で行われていた記録が発見された。この記録は、正式に出版物として、歴史の上に残すに値するものであること。

 

第三。現在、子供の生活環境が、大変窮屈なものになってきている。遊びの習慣、子供の世界などがだんだん無くなっている。「少年」が、いま注目される存在になってきているが、子供が子供らしさを取り戻すための、新しい方向性を考える題材が、35年前の「学童保育」の歴史の検証である。

 

以上三つの理由からであるが、「学童保育」の面では緊急性があり、必然性がある発行であったと思う。(「 学童保育ここに始まる」の回覧)なぜ、この本が出版できたかというと、偶然の機会にある日誌が発見されたからである。

 

現在の、武蔵野第五小学校の学童保育の施設「子供クラブ」は市内西久保コミセンの地下室にある。その地下室の天袋にある段ボールの箱から、一冊の保育日誌が現れた。それは代々の指導員が、度重なる引越しに際しても捨てずに、大切に保管した日誌であった。

 

紙がすっかり黄ばんで、ぼろぼろになりかけのノートであった。それは昭和38年6月7日から始まって39年2月29日まで、保育に当たった人のメモが、一日も欠かさず書かれたものだ。鉛筆書きの、消え入りそうに弱々しい筆跡で、決して字も上手とは言えない簡単なメモ書きである。

 

その日を担当したお母さん達が、次の担当者に引き継ぎをした内容のメモであった。そのノートの一頁一頁には「ともだちの家」の、35年前の保育の毎日、出来事、喜びや興奮などが記録されていた。子供たちは、お母さんたちの心配をよそに、元気一杯に遊び廻っていた様子が偲ばれるのである。

 

子供たちは、ずいぶん遠くまで遊びにいったり、なかなか帰って来なかったり、交通整理のお巡りさんを真似て、道路中央で危ない目にあったりしたことが、記録されている。書いたのは。毎日、二人づつ当番になって、保育にあたったPTAのお母さんたちである。

 

 武蔵野市では、武蔵野市百年史を編集中である。保育日誌を発見した童児課では、この日誌は百年史の学童保育の一ページを飾るものではないかと、早速その記録の編集委員会をつくった。その委員会は、1996年春、35年前にこの運動に関わった人たちを中心に形成された。

 

6人の、現在も元気でいる、中学校の先生や民生委員、「子供クラブ」の指導員だった人、元市役所の人などである。編集委員は当時のことを、ああだった、こうだったと思い出しながら、2年間に渉って書き綴ったものが98年に纏まった。

 

それを読んだ土屋市長が、これは一武蔵野市の歴史にとどめる問題ではなく、日本の学童保育全体に関わる内容だから、一般書籍流通に乗せるべきものではないかとの意見を出し、内容を全面的に書き直すことになった。そこから、自分がこの本の編集に携わることになった。

 

記録をもとに、ドキュメントに纏めるという仕事は児童課の職員をふくめて5人のスタッフで進行させた。最初の手掛かりは、当時の児童を探そうということである。名簿の住所からは、とっくに変わっているに違いない、現在43歳から45歳になっている人を探す作業である。

 

結果として、三人の児童が見つかった。

電話による追跡、職場訪問、自宅訪問などを繰り返し、転職や引越しによる無駄骨も多かったが、三人のもと児童に会うことができた。色々質問しても、忘れたとか、思い出せないという答えが多かった。何しろ35年前の話である。

しかし、その黄ばんだ日誌のなかにある、誰だれが暗くなっても帰って来ないので、皆で心配したとか、誰だれがカエルを掴まえてきて大騒ぎしたとかの記事を目の前にすると、おぼろげにも思い出してくれた。しかし、お話を伺っても三人だけの話なので、それ以上の発展はなく、到底本になりそうもない。

 

そこで、考えたのは、35年前の武蔵野市西久保とはどういうところだった

のか?。また、昭和38年とはどいう時代だったか?ということである。地域を横軸にし、時代を縦軸に、あらゆる材料を揃えてみようとなった。商店街に「フォト榎本」「ヘヤーサロン横山」という店が38年から頑張っている。

 

「お菓子の大塚」も健在だ。豆腐やの「巳の屋」もいる。これらのふるい店を訪ねて、35年前の西久保はどんな街だったのか取材した。

縦軸となる、時代を通じての西久保は、戦前は中島飛行機製作所として特殊な地域であった。工場の周りには工員宿舎があり、周辺は下請け工場があった。

 

それらの情報を、聞けるだけ聞いて、集めた結果、西久保という地域は、武蔵野市のなかでも、特殊な下町的雰囲気の街であることが、判ったのである。

それに、当時の児童であった三人の話を織り交ぜ、保育日記をバラバラに解体してPART、改めて作り直したのが、回覧中の「本」である。

 

しかし、記事は出来たものの何かが足りないのである、

そうだ、ドキュメントとして不可欠な写真がないのだ。何んとかしなければならないと心配していたら、元指導員の一人で現在は埼玉県に済んでいる人が、集合写真などを持っていることが判った。

 

しかし、建物の写真はない。必死になって探したら、「子供クラブ」の建物の所有者だったWさんが建物の写真を持っていることが判った。Wさんは1997年に亡なっていたが、奥さんは健在だったので、二人の担当者が家まで赴きアルバムを拝見させて戴いた。

 

物置の中にあったアルバムに、写真があった。空き家だったその方の家の事務所で、スイカを美味しそうに食べている子供たちの数枚の写真があった。求めていたズバリのものだ。出向いた市役所の課長は小踊りせんばかりに帰ってきていった。きっと渡辺さんの霊が見つけさせて呉れたんだ。

 丁度お盆の頃のことだった。

小さい写真だったが、35年まえに、こんな家のこの部屋で、こんな風に子供たちが過ごしてことが具体的に、この写真で判る。そしてそのWさん家は、それから2、3カ月後に相続の関係で、解体されて跡形もなくなった。

 

さらにWさんの家の八畳間の写真。ここでは青小協の懇談会が夜遅くまで行われた。「子供クラブ」の運営の様子が3点セットの写真によってよく判る。

こうして、「学童保育ここに始まる」「武蔵野市のともだちの家」がやっと完成した。 発刊した本の序文で、土屋市長はいう。

 

「このともだちの家」は、武蔵野市が全国に先駆けて実施したと思っていたが、調べてみると他の区や、他の市にも同様ケースのものがあり、先駆的事例はあちこちにあることが判った。「カギッ子」対策は、夫々の地区で様々な形で取られていたのである。

 

昭和30年代とは、高度経済成長!人口の都市集中。それに伴った東京砂漠。子供を取り巻く環境の悪化。その結果、学童を守る組織が、あちらこちらで作られた時代であったと理解することができる。昭和30年代とは右肩上りの成長が始まり、バブルがはじけるまでの経済成長の最初の階段だった。

 

母親が働きに出るために子供はカギッ子となり、あるいは小学校の1、2年生が街を糸のきれた凧のようにうろついたりする状態を、地域の皆が、よそ事ではなく、見過ごしが出来なかったということを、この事実は物語っている。地域の人の強力なリーダーシップと、人脈のネットワークの成果であった。

 

保育日誌からうかがえる「ともだちの家」とは、どうだったのだろう。

集まったお母さんたちは、「ともだちの家」の運営資金を、古新聞の街ぐるみの回収などをして捻出した。どのお母さんも、よその子供のために親身になっていた。

 

子供たちも、改造して綺麗になった「ともだちの家」に学校から帰ってくると、「ただ今」という。そこには、おばさんが二人待っていて、「おかえり」と迎える。1年生からお兄ちゃん、お姉ちゃん格の6年生までの、年齢がまちまちの子供の世界があった。

たまたま隣には、滋賀県の学生寮「湖国寮」があった。その大学生のお兄さんたちが、寮の玄関前の広場で遊んでくれたり、土曜日の午後は5中の生徒がお手伝いにきてくれたり、いろいろな人たちが子供たちを守ったのである。

「湖国寮」を訪ねてみた。当時のまんま、今も残っていた。

 

日誌にはこう書かれていた、

「今日は湖国寮の寮祭があるので、提灯に灯をともして、とても綺麗になりました。子供たちは招待されているので、また来るのだといって、喜んで4時40分頃帰りました。昭和38年11月22日」

 

西久保には大学の寮が、日大の俊英寮など三つもある。日誌をみると、その寮の大学生たちが、子供たちの面倒をよく見てくれている。

38年6月7日。「ともだちの家」がスタートした。

新聞各紙がこのことを大きく取り上げている。

 

「お母さんが六十人集まって奉仕」

「主婦や学生が保母を買って出る」の大見出しなどがある。

地域のお母さんや学生などが、一日二人のローテーションを組んだ。

保育のプロは一人もいないが、百五十人が「ともだちの家」活動に参加した。

 

預かって貰う子供の数は十人であったが、それに対して集まった百五十人のお母さんはたちはいう。「私たちこそ感謝したい。自分の子供の面倒だけを見ていると、視野が狭くなるが、他人の子供を世話したお陰で、自分の子供を客観的に見られるようになった」

 

「学校の教育も、先生に任せておいていたんじゃ しょうがないのだ。保育を体験してこそ、先生の苦労も分かるし、子供のこともよく判る」

奉仕者が体験を通して学んで、成長していったという手応えがあったからこそ、このような地域活動が成功したのである。

 

私は、百五十人の奉仕者の名前を巻末に記録した。

昭和39年2月29日、「ともだちの家」は閉園した。閉園の理由は武蔵野市が、「ともだちの家」を発展的に継承することになったからである。そして、5小の「こどもクラブ」として、新しいスタートを切った。しかし・・・

 

教育委員会は放課後の子供については、責任外である。

保育園は教育員会の所管ではない。

学校の敷地内に「こどもクラブ」を置くことは、先生の責任が発生する。

子供のいたずらまで、先生は責任が負えない。

 

以上のような問題から「こどもクラブ」は、5小のなかで、あちらこちらに移動させられた。あるときには職員室のなか、あるときは、校庭に建てたプレハブへ。しかし、校庭は学校施設である。放課後、高学年が運動しているなかに、こどもクラブの子供が走り廻ると邪魔になる。

 

という理由で、学校の施設を使っては困る。そこで、学校の通りを越えた向かい側に、プレハブを建てて引っ越し。5小の「こどもクラブ」は、まるでジプシーのようにさ迷い歩いた。最後に、西久保コミセンが出来たとき、1室を「学童クラブ」として使うことで収まった。

 

ところが、コミセン側からクレームがついた。コミセンは全市民のための施設であるから、コミセンの中を子供が走り回るのは困る・・・・。

などのことから、今はコミセンの中で、「学童クラブ」は半地下室に移り、入り口も別に分けて使用している。

 

「こどもクラブ」が、昭和39年3月から市の事業として「学童クラブ」としてスタートしたあと、西久保の「こどもクラブ」跡地は地域の中学生の勉強部屋にして、湖国寮や俊英寮の大学生が補習する場所になった。また、集団就職で上京した青年たちの、青年学級の教室としても使われた。

 

小さなスペースであったが、PTAの会議の場になったり、青年女子の生け花や茶の湯の、教養を身につける場として有効に利用された。これらのエピソードは、本文中、武蔵野下町物語として紹介されている。

 

「ともだちの家」は、たった9ヶ月の間の活動である。

武蔵野の片隅の地域の、ほんのわずかな期間の話に過ぎないことが、なぜ一冊の本にならなければ ならなかったのか?

それは、編集者として、「地域とは何か」という問いかけであった。

 

「地域とは」、お互いに顔が分かって、会えば挨拶を交わし、困ったことがあれば助け合いをすることが出来る範囲の場所である。昭和38年の西久保地域は、住宅も今より大幅に少なく、地域は畑や森に囲まれて、草が背丈よりも高く生い茂っている水道道路が近くにあった。

 

そして玉川上水、水辺の縁には桑の美が成っていた。小金井公園あたりまでは、カブトムシを採りに歩いて行ったものだ、という記憶が当時の少年たちに残る。公園には粘土細工を教えてくれるおじさんがいた。街にはチンドン屋が、下手なクラリネットの音色とともに練り歩く。

 

アパートに住む人などは、給料日前はお味噌を隣に借りにゆくような日常をしていた。隣近所が仲良く、助け合って生活をしていた武蔵野の下町であった。「特殊な地域」だからといって済まされない、肌と肌が触れ合う暖かい何かが、そこに流れている。

 

世の中変わったではなく、つい最近の昭和38年頃の、武蔵野の一角にあった生活を検証して、市民生活に暖かみを取り戻すことは、今からでも遅くはないと思うのだが、どうであろうか・・・・・・。

終わり

(文責 三上卓治)

 [ホームページに戻る]