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今日(6/6)の雑学大学は前田 勤さんの「ふるさとの藩」でした。前田さんはある損害保険会社の代理店の、現役の部長さんですが、目的をもった旅行を心がけ、江戸時代末期の二百七十六藩をすべて現地に赴いて調べるという実践をしました。平成八年末に、その記録を「ふるさとの藩」(朝日出版社)として出版しました。「ふるさと」をもつ人の心に訴える何かがあるのか、出席者は40人を数え、盛況でした。

 

● 私は学生時代から、旅行が好きであった。鉄道地図の、乗った所を赤く塗りつぶしたりして楽しんでいた。会社に入ってからもそれを続けていたが、あるとき旅好きの上司から、何か目的をもって旅行をしたら旅はもっと楽しくなるぞ、というアドバイスをうけ、江戸時代の藩を調べることにした。

 江戸時代の藩は二百七十六藩ある。調べる対象は藩庁のあった場所を選び、なおかつ、せっかく行くのであれば、その土地の美味しい料理を食べることを目的にした。途中からは、そっちの方が目的のようになってしまったきらいがあるが、ともかく三十年をかけて実行した。

 

最初、この結果を自費出版したが、平成八年末、資料を再検討して朝日出版から「ふるさとの藩」という名の本を刊行した。「ふるさとの藩」が書店の店頭に置かれたときは、嬉しいやら恐ろしいやら、非常に複雑な気持ちになった。

 お集まりの皆さんは、それぞれ、懐かしい ふるさと をお持ちだと思う。私は東京育ちであるから、ふるさとは無いが、先祖を辿ると加賀藩藩主前田利家一族からの分かれである。天保時代に江戸、牛込・神楽坂で町医者をやっていた。ふるさとは無いが、金沢がいわば、心のふるさとである。

 

さて、「藩とは何か」というところから、具体的な話を始めたい。

藩とは、江戸時代に大名が徳川幕府から、その土地を領有し、支配することを認められた仕組みである。例えば、十万石の大名がいたとすれば、それは徳川幕府から土地の支配を許され、年貢取り立てを依頼された存在である。

 

戦国時代の領主は、領主自らが勝ち取った土地が領地であるから、領主が当然支配し、年貢を領地から取りたてていた。江戸時代には徳川幕府が全土を支配しており、大名に領土を預けるという制度を取った。従って悪政をひいたり、支配に失敗したりすると、お家取り潰しが容易にできたのである。

江戸時代の藩は上記のように、一時期存在したが、取り潰しにあったり、譜代大名のように、あちこちに移封されたりするものが多くあるので、数は特定できない。藩の数は、二百七十六藩としたが、これは明治維新直前に存在した藩の数である。

 

では、次に藩の石高、大名の種類、格式、江戸城の詰所、江戸屋敷、府県別分類、明治時代の爵位などのお話しに進みたい。

 まず、藩の石高。

大名と旗本の違いは何か。

大名とは一万石以上の領主を指す。一万石以下は旗本という。旗本でも将軍にお目見えできるのが旗本で、それ以外は御家人である。

 江戸時代には、旗本は約五千人。御家人は約一万七千人いた。大名の家臣でも、前田家の本多家老などは五万石であったが、陪臣であるため、大名とはいわない。大名の石高は一万石から百二万二千石まである。中には一万石といっても、喜連川藩のように実質は五千石の、最小の藩もあった。

 藩の石高には表高といって、表高が一万石だが、実高五千石という場合もあるし、逆に表十万石で、実高十五万石の場合もある。表高が多いと藩財政は苦しいが、実高が多いと藩は裕福である。最大の石高の藩は加賀藩である。加賀百万石といっていたが、実際の石高は百二万二千石である。

 石高二十万石以上の藩は二十二あり、全体の8%。十万石から二十万石未満が三十一藩で11.2%。五万石から十万石未満が四十六藩、16.7%。一万石から五万石未満が百二十六藩、45.6%。一万石が五十一藩で18.5%。すなわち五万石以下の藩で、全体の約60%を占めていた。

 次に大名の種類。

 まず、親藩とは将軍の一門から発する二十二藩である。譜代とは徳川家に代々使えていたもので、百四十三藩がある。準譜代八藩。外様、すなわち信長、秀吉時代には家康と同格だったもの百三藩。家康にとって煙たい存在だった。しかし、石高は外様大名の方が圧倒的に多い。

 先の準譜代とは、出自は外様だが願い出て譜代扱いとなったものを指す。

幕府の老中とか、若年寄などの政治機構に関与するのは、全て譜代大名である。中には政治に参加することを望んで、外様から譜代にと、お願いして、譜代になるのもいたので、それを願い譜代といった。

親藩の中、徳川御三家の石高を調べると、筆頭は尾張藩六十一万九千石(支藩、高須藩三万石)。紀州藩は五十五万五千石(支藩、西条藩三万石、および、吉井藩一万石)。水戸藩三十五万石(支藩、府中藩二万石、宍戸藩一万石、守山藩一万石)である。ほか十九藩。

 格式の最も高いのは、御三家である。つぎに国持(くにもち)大名が高い。

国持二十藩とは、加賀藩、薩摩藩、仙台藩、熊本藩、福岡藩、広島藩、長州藩、佐賀藩、鳥取藩、津藩、福井藩、岡山藩、徳島藩、土佐藩、久留米藩、久保田藩、南部藩、米沢藩、松江藩、対馬藩などで、いずれも大藩である。

大名の格式、

三番目は城主である。

城主大名は百三十五家あり、その次の城主格が十八家ある。これは無城といって城とは言えない陣屋の主であるが、戦功などによって格上げになったりするものを含んでいる。秋月藩、泉藩、岩村藩、亀田藩、三田藩、三上藩など十八家。

 

 

さて、時代劇に時に見かける江戸城の「詰所」とはどんなところだったか。

まず、「大廊下」これは最上席で御三家クラスでなければ入れない。座敷に続く通路の廊下ではない。ついで大広間、溜間(たまりのま)、帝鑑間(ていかんのま)、雁間(かりのま)、菊間(きくのま)、柳間(やなぎのま)となる。

  

「大広間」これは親藩の大名。外様の上席。国持大名の中の、外様の詰所だ。

「溜間」は譜代大名の中の特別の家柄の大名、例えば井伊家、酒井家などの詰所。

「帝鑑の間、雁間」は譜代大名の上席の詰所。

「菊間」は一般の譜代大名の詰所。「柳間」は一般の外様大名の詰所。

 

江戸屋敷。

大名は、幕府から江戸詰めのための屋敷を拝領していた。現在の東大のある場所が、加賀藩の上屋敷跡であることはあまりにも有名である。赤門は、将軍家の息女、溶姫(やすひめ)が加賀藩に嫁入りしたことを記念して造られたもの。

 二百七十六藩を府県別に分類してみると、兵庫が十六。千葉が十五。茨城十三。岡山、愛知、新潟が各十一。東京、沖縄、山梨がゼロ。山梨は元禄時代に甲府藩があったが、藩主柳沢吉保が大和郡山に移ったあとは、天領として幕府直轄となった。藩の数の多い県は、ゴルフ場の多い県と一致するのも、面白い偶然である。

 ゴルフ場と藩の関係が深いのは、栃木県の烏山城カントリークラブである。荻野山中藩は神奈川県厚木市にあったが、厚木国際カントリークラブの一部である。新潟県巻町にある新潟カントリークラブは、長岡の分家、牧野家一万一千石の「三根山藩馬場跡」の石碑を、OUTの2番でナイスショットすると、すぐ横に見ることができる。

 明治時代の爵位。

明治維新のあとに、藩籍奉還をした大名に与えた称号が、公侯伯子男の爵位である。「公爵」は大名では薩摩藩の島津家と長州藩の毛利家の二家のみ。明治維新の功に報いたものと思われる。徳川宗家はあとで公爵に追加された。

 加賀藩は百万石なのに「侯爵」となった。鳥羽伏見戦争に遅れをとった失態が響いたと思われる。鍋島、細川、松平(福井)、伊達(宇和島)などが侯爵に列した。伊達家では、宇和島の分家が、一時反政府行動をとった仙台伊達家伯爵の上席になった。

 大きな大名は、「伯爵」になった。例外的に十万石以下でも、九州の大村家など五家が伯爵になった藩がある。その他のほとんどの大名は「子爵」になった。しかし、付け家老であった大名格のものは、禄高が高くても「男爵」とされた。付け家老は、管理能力を評価され、乞われて御三家の補佐役となったもので、あとに不満が残った。

 休憩中に、諏訪高島藩をふるさとにする受講生の一人との会話から、再開後は、一時百姓一揆の話となる。百姓一揆とは、支配者の悪政に反抗する百姓群の暴発をいうのであるが、歴史の中では、百姓一揆を起こさなかった藩と、変わった一揆が起きた藩があったので、それをちょっと披露したい。

 百姓一揆は、すなわち政治の失敗であることから、お家は取り潰しになる。諏訪高島藩は、百姓一揆を起こさなかった藩である。農民の信仰の中心にあった諏訪大社が、藩の中心になっていたこともあったが、初代 諏訪頼水が新田開発、湖岸開拓など、藩政確立のため民政面に力を注いだ結果である。

 庄内藩(山形県鶴岡市)の一揆は、領主を慕うあまりに起こした転封阻止を目的としたものであった。幕府は庄内藩主 酒井忠器を牧野忠雅の長岡へ、川越藩主松平斉典を庄内へ転封させるべく命じ、同時に、牧野忠雅の領地を川越領に替えることを命じた。これを「三方領地替」という。

 酒井家にとって庄内は二百年来の父祖の地であり、ここを移されるのは耐え難いことであったが、江戸に越訴(おっそ)したのは農民の代表だった。種々の背景から、結局転封は取り止めになった。越訴は厳罰に処せらるべきところを、前代未聞であると役人が感心したため、お咎めはなかった。

 

藩と大学創設者を述べると

慶応義塾大学 福沢諭吉 中津藩(大分県)奥平家の下級武士の出身

実践女子大学 下田歌子 岩村藩(岐阜県)松平家家臣の娘

津田塾大学 津田梅子 佐倉藩(千葉県)わが国初の女子アメリカ留学生

同志社大学 新島 襄 安中藩(群馬県)元治元年脱藩 国禁を犯して渡米

早稲田大学 大隈重信 佐賀藩(佐賀県)鍋島家 二百石の中級家臣

 

最後に特異な大名を紹介する

久留米藩 七代 有馬頼僮(よりゆき) 数学大名 関流和算の大家 著書あり

古河藩 土井利位(としつら) 世界初、雪の結晶「雪華図説」出版

長島藩 増山正賢(まさかた) 山水画家 雅号 雪斎

松江藩 七代 松平治郷(はるさと) 不昧公、茶人、茶道具の系統的分類

足守藩 木下利当(としまさ) 槍の名人、秀吉の妻ねねの兄から出ている

平藩 内藤義泰(よしやす) 俳人(風虎) 百人一句(中公新書)にあり

終わり

(文責 三上卓治)

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