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今日(7/18)の雑学大学は西森龍郎さんの「やさしい俳句の話」でした。西森さんは永年、武蔵野市役所に勤務されたあと、武蔵野市消費者センターで室長を務められました。在任中から趣味として俳句を選び、とくに蕪村は生涯を通じて研究を続けておられます。
●もともと、俳句という文芸は芭蕉から始まった。芭蕉の前には連歌(レンガ)という文芸があり、これは和歌の方から発している。これらは座の文学で、集まった同人のうち、誰かが五七五を皮切りに立句(タテク)を出し、それに次の人が七七をつける。その次の人が五七五をつけて続ける。七七が続く。
そうやって、三十六句を作り歌選を待つ。この場合、続ける句はすべて、前の句に繋がりのある内容でなければならない。立句に続く句の内容には順番があって、最初は立句に応じたもの、次は恋、それから花、月などと順序が決まっている。
それを座の同人が勝手にやっていたのでは収拾がつかなくなるので、捌き人が句を整理する。それが、むかし宗匠といわれた人である。連歌の内容の順番が狂ったり、句が出ない人がいたりすると、適当に他に廻したりしながら、いい連歌を作るための指揮をするのである。
連歌が仕上がると、書き手がそれを紙に書いたものを見て、皆で鑑賞したり、批評したりして楽しむ。終わって、酒などを飲みながら歓談するという優雅な集まりであった。参加する人たちは、おもに豪商のあるじや、豪農など金持ちが多かった。
こういう人たちは、元々集まり多い社会の人たちで、商談成立のあと宴会をしたり、能見物したり、遊女遊びに繰り出したりする機会も多いのだが、折角主立った連中が集まるのに、飲み食いだけでは芸がない。皆でもっと高尚な趣味を持とうと、連歌を作る会を山崎宗鑑(そうかん)が作ったのが始まりである。
時代は、信長が世に出るか出ないかの頃、応仁の乱が終わった辺りである。旦那衆の遊びでやっている時代は、まだ良かった。連歌がだんだん盛んになってくると、勝れた作品に賞品を出すようになった。それが次第に参加者の会費から、賞金を出すように変わっていった。
旦那集には、お付きの人たちがいる。その人たちも連歌に加わるようになって、連歌の集まりが増え、賞金の額も大きくなり、最後にはバクチのごとき様相を呈した。すると、賞金稼ぎのような人物も現れ、江戸時代には幕府が取り締り令を出したこともあったが、隠れてする集まりでは、効果がなかったという。
松永貞徳(1570年)が、発句(ホック=立句)の五七五を分離して、独立句として、俳諧とすることを始めた。この頃になると、武士などの参加も次第に増えてくる。連歌を作るためには、万葉集や和漢朗詠集や漢詩の教養も、土台として必要となる。しかし、参加者が増えて底辺が広がると、質の低下は避けられない。
俳諧の世界は、教養人だけでなく、市井の一般人も含めて参加する人の数が増えたが、句としては言葉をもて遊ぶがごとき、例えば貞門派のように川柳まがいの句が流行した。それを憂えた西山宗林は談林派をつくって修正を図った。
貞門派も談林派も江戸と大阪が中心であったが、次第に全国に拡まった。
あとで、詳しく触れるが、芭蕉が奥の細道で全国行脚ができたのは、このような経緯で各地方に弟子がおり、師の芭蕉の来駕を待ち望んでいたからである。地方の旦那衆が商売で江戸に出てきて、俳諧なる洒落た遊びのあることを知り、勉強して、その地に帰ってから旦那衆が先生になって俳諧の会を開いた。
芭蕉の、江戸の弟子の旦那衆には、商売の相手が各地にいる。芭蕉が江戸を発つに当たっては、地方の商売相手への旦那衆の添え状があったらしい。そこで数日俳諧を教えて、次の土地にはここの旦那の添え状が・・・という風に、芭蕉は路銀も持たずに、俳諧の旅を続けることができた。
千住を出て数日後、黒羽に着いた芭蕉は、そこに十日間も滞在している。黒羽の旦那衆は、江戸の芭蕉先生がくるということで、参加者を募る。多分三十人くらいは集まったことだろう。句会は五、六人でするのが一番面白い。人数を分けると五日はかかる。観光を入れて一日おきにすると、十日はかかる。
さて、芭蕉は伊賀上野の豪家の出である。二十歳のころに京都で俳諧の修業をしたが、二十八歳のとき江戸に来ている。このとき既に支持者(芭蕉庵を提供)がついていたが、上水工事の事務方の手伝いをして生計を立てていた。俳諧の弟子も次第に増えて、五、六年後の三十四歳には立机(リッキ)した。
句会では、宗匠と書き手のみが机に坐る。立机というのは、師が許し、弟子も認める存在として、句会の宗匠の立場で初めて机の前に坐ることをいう。宗匠になると、弟子たちに月並みの句会の日時を通知したり、臨時の句会を開いて新規に弟子を募集したりすることができる。
蕪村が宗匠になったのは五十五歳であったから、芭蕉の三十四歳の立机はかなり早かったと言わねばならない。そのころは、先程述べたように、貞門派も談林派も、俳諧は言葉遊びの様相を呈して、駄洒落が横行した時期である。賞金も増えて、三笠付(ミカサヅケ)といってバクチ風の性格になっていた。
芭蕉は、江戸の俳諧に見切りをつけ、貞門派でも談林派でもない自分の俳諧をやろうと決意した。今までは、連歌の発句の五七五と付け句の七七だったのを、五七五だけを独立させ、俳諧は五七五でやるのだという宣言をしたのである。其角、去来などの弟子も芭蕉の考え方に共鳴した。
芭蕉は、自ら文を書かなかった、といわれる。古来、偉いと言われる人は、キリストをはじめ、ソクラテス、東洋では孔子など、みずから書くことはなく、すべて弟子や周りの者が記録している。芭蕉の場合も、俳諧も文章も、弟子が記録したから今も残っているのである。
芭蕉は元禄二年に奥の細道に旅立った。芭蕉の俳句は奥の細道に出発する前と、帰って来てからでは、作風が全く違っている。芭蕉は基礎教養が漢籍の四書五経や、和漢朗詠集とか万葉集、源氏物語、枕草紙などが土台になっている。当時の文芸の表現は、いまと比べたら、比較にならないほど言葉が少ない。
したがって、文芸をする必要からは、どうしても多様な表現力をもつ漢籍あたりから、言葉をひいて来なければならなかった。
「梅白しきのふや鶴を盗まれし」という芭蕉の句がある。梅が白くて、昨日、鶴を盗まれたちは、はっきりいって意味不明である。
中国の当時の漢詩にしても山水画にしても、すべて人間はどうあるべきかを、目的にしていた。林和生という知者が田舎の広い土地に、庵を建てて隠棲した。梅林を作って、鶴が飛んでくるのを賞でて、わが子のように可愛がっていた。芭蕉が京都の三井秋風宅に招かれたとき、広大な庭に、立派な梅林があるのを見て読んだ句である。
ああ、なんと広い庭に、美しい梅林だろう。きっとこの庭に似合う鶴がいたに違いないのに、きっと昨日盗まれたのでしょうね。という意味の挨拶句である。俳句の宗匠は、このような社交のわざも、生活の上からも必要であった。
このような句を、贈る方も、受ける方も、共通の教養を持っていたのである。
俳句が広がって、底辺が広がるにつれ、質が低くなることは、前にも触れたが、その俳句環境で頭角を現わしたのは、小林一茶である。一茶は巧みに言葉を操り、面白さと着想に富む句を作ったので、人気があった。一茶は二万句を残した。百句ほど秀越な句はあるが、いかし、大半は駄句であると思う。
芭蕉は「梅白し」の一年あとに「古池やかわづ飛込水の音」を作り、さらに一年あとに「よくみれば斎花さく垣ねかな」。その翌年の元禄元年に「ほろほろと山吹ちるか滝の音」を作った。いずれも漢詩和歌の素養から発した句である。
芭蕉の目標は西行であった。 西行は、鳥羽上皇に使える北面の武士であったが、無常を感じて僧籍に入り、庵を建てて和歌三昧の生涯を送った。行雲流水、各地を風まかせに旅をして、歌を詠んだ。芭蕉の奥の細道で作った句は、西行法師が陸奥を廻って詠んだ和歌に、重ねられるものが多い。
西行は、述懐歌にすぐれ、新古今和歌集に九十四首も採録された歌人である。生涯を旅に捧げ、私欲を脱し、感性を研ぎ澄ました和歌を残した。芭蕉も奥の細道に向った旅は、これまでの教養の全てを捨て去り、何も無いところからの再出発を志したものである。
事実、奥の細道で作った句の中で、漢籍の教養を垣間見ることができるのは、「象潟や雨に西施がねぶの花」だけである。{西施(せいし)とは中国春秋時代の美女、呉王夫差は、西施の色に溺れて国を傾けるに至ったという}
芭蕉の心には、松島は笑うがごとく、象潟は泣くがごとく映った。雨に煙る潟のあまりの美しさに、芭蕉は漢語を用いる最後の句を作った。西施は傾国の美女であったが、病んでいた胸をよく手で押さえた。その風情がまた情緒に満ちていたので、真似をする女が増えたという(顰に倣う=ひそみにならう)。
芭蕉は、この一句で漢籍を脱した。それ以降は、わび、さびに徹して俳諧の道を歩んでいる。不易流行、高帰俗を心の支えにした。高い志を俗な言葉で表現すべしとした。しかし、わび、さびという言葉は、すでに茶の湯の世界で千利休が創造している。芭蕉は、それに加えて「かるみ」という言葉を創った。
「かるみ」の反語は「おもみ」である。俳諧は、あくまでも「かるみ」でなければならない。芭蕉は奥の細道から大垣に至るまでに、そのように心境を表わして、俳諧の世界を確立したのである。
元禄二年、奥の細道の記録は、ほとんど曽良が書いたものである。その旅行記を整理して、あとで芭蕉が書き直したものであるから、半分以上はフィクションであると言われている。旅行記の中に、四ヵ所疝気が起きたという記述がある。神経性の大腸炎であったと思われる。
そして、瀉(しゃ=下痢)が止まらず、大阪で五十一歳の生涯を閉じた。芭蕉の骨は、近江の義仲寺に葬られた。何故か、芭蕉は木曽義仲が好きで、義仲の墓の隣に墓を作ってくれと、弟子たちに遺言をしていたのである。
蕪村は、芭蕉の没後二十二年経って生まれた。俳句年齢でいうなら、五十年くらいの差がある。芭蕉が西行を慕ったのと同じように、俳諧において蕪村は芭蕉を目標にした。
しかしながら、出来上がった蕪村の俳句は、みな陽気である。
「春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉」「菜の花や月は東に日は西に」
「大和路の宮もわら屋もつばめ哉」「春風や堤長うして家遠し」など。
これらは、春の句であるが、実にのどかで分かり易い。秋の句は、さらに芭蕉とは違った明るさがあって、なぜか、女性に好かれる。蕪村は、体が丈夫で、元気な人であった。芭蕉は五十一歳で死んだが、蕪村は六十九歳まで生きた。
蕪村は俳人であると共に、絵描きであった。
絵描きは一般に長生きである。何故か?というと、それは好きなことをしているからである。絵を描くことが嫌いな人は、絶対に絵描きになれない。好きで好きでたまらない人だけが絵描きになれる。
俳句を作る人は、途中中断して、数年後に再開する例はいくらでもある。しかし、絵描きに中断ということは滅多に無く、死ぬまで描き続ける。俳人蕪村、実は、わが国、南画の第一人者であった。
明治維新の直後、米人の美術商ペノ・ロッサが日本の古美術を只同然の価格で買い漁った。その結果、東洋の主なる古美術品はボストン美術館に、ほとんど揃っていると云われる。その中に、南画のコレクションが沢山含まれているのだが、南画というのは、実は難解な絵である。
奇岩怪石、峨々たる山が迫る麓に、仙人風情の人物が天空を仰ぐといった独特の墨絵である。遠近法を無視した絵画は、逆に東洋の深遠な感覚と映り、欧米人にはある種の衝撃を与えた。蕪村はまた、梅の花を好んで描いた。京都の角屋という遊郭で描いた梅の絵は重要文化財である。ほか、国宝になった絵もある。
蕪村の絵は、五百数点残っている。ただし、方々に散逸して存在しているのだ。人生の過ごし方は、葛飾北斎のありようによく似て、あまり上手ではなかった。三十九歳のとき、江戸から故郷の京都に帰った。四十一歳までの三年間は、海の絵を描きたくなって、丹後の与謝(よさ)の海辺で過ごした。
海の絵を描いているうちに、二十歳も年の離れた娘を見染めた。京都に家を買ったので、妻に迎えたいとの手紙で、娘が京都の家にやってくると、家とは六畳二間の裏長屋であった。米びつは空で、炊くお米も無いほどの貧乏だった。娘は実家から魚を送って貰い、干魚にして家計を支えたという。
金が入ると、それはすぐ蕪村の絵の具や紙になった。
そんな絵描きの蕪村であったが、だれよりも芭蕉を慕い、どの弟子よりも芭蕉を理解した。芭蕉と同じ俳句を作ることを心がけた。しかし、蕪村は漢語を用いることには、あまり拘らなかった。使いたい言葉を用いて句を作った。
芭蕉は漢籍を脱して、俗語による誇り高い句をつくるといったが、蕪村は逆に去俗論を唱えた。芭蕉は俗に帰れといい、蕪村は芭蕉の精神を継いで句を作ると言っていながら、俗を使って俗を去るという。一見、正反対のことを言っているようだが、よく研究すると最後の帰結は同じである。
蕪村は尊敬する芭蕉の、奥の細道の図鑑、全十二巻を五十二歳のとき、二年間をかけて書いている。芭蕉の足取りを辿りながら、所々に挿し絵を入れて、達筆の文である。これは越後美術館と山形美術館に分かれてある。それと上野の国立博物館にある筈だが、これは質問しても正しく答えてくれない・・・・・・・。
今日の外題は「やさしい俳句の話」であるが、その割に難しい話になってしまった。ここで漸く「やさしい俳句の話」をしよう。
俳句の季語は何故必要なのか。五七五でなければならないか。これを俳句の「有季定形」という。
俳句は十七文字の短詩である。徹底した省略形の暗号と思えばよい。その暗号を解く鍵がないと、暗号は解読できない。その鍵が季語である。逆にいうと俳句は四季がないと成立しないのである。詩というものは、朗詠を原則にしている。五七五は朗詠する際の、最も響きのいい調子である。であるから、俳句は五七五でなければならない。
・・・・・・・・・ 終わり
(文責 三上 卓治)
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