今日(10/3)の雑学大学20周年記念月間の講座は、西本晃二さんの「東欧・中欧の旅」でした。西本さんは元在イタリア日本文化会館館長、現、政策研究大学大学院教授、雑学大学付属図書館かげろう文庫館長でもあります。元東大文学部教授時代には、NHK3チャンネルでイタリア語講座を永年ご担当されました。
●今から20年まえ、故 和(やまと)先生や、松下圭一さん、西尾 勝さんなどと一緒に、三タダ主義の雑学大学を始めた。みんなでワイワイ騒いで、そんなに長くは持たないだろうと思っていたら、なんと20年も経ってしまったことに驚いている。それだけ、自分も歳をとったことを併せて、感無量に覚える次第だ。
はじめは丸井カルチャーセンターを借りてやっていた。その後、このトヨタ営業所に移って継続しているが、20年もの長い間続いていることに意義があると同時に、そういうことを支えている人々が必ずいることは、非常に有り難いことだと思う。
雑学大学記念誌は、十周年のとき一度出して、今度が二十周年記念誌である。実はこの中にも書いてあるが、「寅さんシリーズ」の山田洋次監督の、富山の県民生涯学習カレッジでの講演で、「吉祥寺村立雑学大学」にふれたくだりある。
平成4年の出版物であるが、取り寄せた本はこれである。
「寅さんと日本のくらし」という題名だが、その中の章「のびやかな人間を」で、三タダ制の雑学大学の在り方を紹介している。これを私に教えてくれたのは、後輩だが友人の東大教授である。彼は近代文化の研究家で、文化の一つである映画、特に「寅さん」は日本の庶民の生活をよく描いていることから、山田洋次監督を研究テーマにしている。そのことから、この出版物を知ったという経緯である。
たまたま十年記念誌に私が書いた「むさしのサッカースクール・個性化のすすめ」を山田洋次監督が引用しているのを読んで、連絡をくれたのである。雑学大学のようなことを面白いと思う人が、意外なところにいてくれるのも嬉しい限りだ。これを機会に山田洋次監督に、雑学大学の講師になって貰ったらどうだろうか。
今日の話は、今年の8月の初めから月末まで、「海外における日本語教育の調査」ということで、ルーマニアを中心に旅行をしてきたので、それを主にしている。
そのほか、オーストリー、イタリア、チェコなどを廻ってきたので、その間の、皆既日食を含め、見たり感じたことを述べたい。
武蔵野市とルーマニアは、実はご縁が深い。
ルーマニアのブラショフは日本でいうと京都のような都市である。ブラショフにジョウジョデマーという作曲家がいたが、その人を記念するジョウジョデマー管弦楽団がある。そのシンフォニーの指揮者にウイーンで勉強した曽我という日本人がいる。その曽我氏が武蔵野市の出身であることから、友好関係が始まった。
ルーマニアは音楽の天才を排出している国。先ごろ亡くなった高名な指揮者チリビダッケ、天才ヴィオリニスト・メニュウイン、ルーマニア狂詩曲の作曲家ジョルジュネスコなどを生んだ国である。そのルーマニアのジョルジョデマー管弦楽団の指揮者に曽我君が就任した縁で、土屋市長が数年来、武蔵野市に招聘して演奏会を開催したことがある。
チャウシェスク政権当時、国中が貧困にあえいでいたが、このシンフォニーも金がなくて困ったいた様子を見かねて、武蔵野市が日本製のヴィオリンを20丁ほど寄贈した。それがきっかけで武蔵野市とルーマニアは友好的な関係を持つことになり、お互いに訪問してはホームスティをしたりして親しくなった。
それから、ブラショフ市の都心部に、武蔵野市がある建物を借りてセンターを作り、そこに日本関係の本を集めたり、日本語の講座を設けたりする活動が始まった。文化庁も外国人に日本語を通して、日本をよく知ってもらいたいということで、この方面を研究するプロジェクトには力を入れている。
実をいうと、私はそのプロジェクトの委員をしている。もう一つ、イタリヤの日本文化会館時代に、ローマ第三大学で日本語の講座を作るのに手伝ったりしたことがあるので、ルーマニアとイタリアの日本語教育を視察するという名目で、今回の東欧・中欧旅行が実現したのである。
であるが、8月7日出発というスケジュールは、あまり適切ではなかった。先方はバカンスの最中で、誰もいないという期間である。とはいうものの、2、3の関係者に会って話を聞いては見たが、実際問題として日本語教育の実態はじっくり時間をかけてみないことには、判断できない。
しかし、幸運なことに8月11日にはブカレストから東方向に、皆既日食が見られるという期間、ルーマニアに滞在できることになった。太陽の軌道と月の軌道が重なり、太陽と月では大きさが違うが、月は地球に近いので、ほぼ同様の大きさで重なるという皆既日食となる訳だ。
太陽の位置と、昼の月の位置が重なるのは確かに珍しい。同行の皆さんが是非見たいというので、観察することに同意したが、我々がいる地点は99.85%の食である。日食観察は自然現象だから当たり外れがある。つまり、日食が始まっても、雨が降ってはどうにもならない。曇りだって見えない。
100%の日食が見られる地点は、現在地から100kmくらい離れた場所である。日本からも大勢の皆既日食観光の人がきていたが、その日、その時は、その場所は雨だった。自分は、大使館の好意で取ってくれたパパロッティのコンサートを見るために、ブカレストを離れられなかったのが幸いして、晴れの日食を、99.85%だったが、観察することができた。
ところで、ワールド・サッカーの時は入場券がバカ値を付けたばかりか、キップを入手出来なかった旅行社は、お客の旅行目的を果たせなかったために補償問題が発生して、数十億円の損害を被り、あるヨーロッパ支店長が首になったという話を聞いた。今度の日食ツアーはどうなったか?
目的を果たさなかったことにおいては変わりないが、日食が起こらなかったのでない。雲の上では、ちゃんと日食が始まったのだから、このケースでは補償問題が起こらない。帰りの空港で、日食ツアーでわざわざやってきたのに雲が厚くて見えなかった人たちに会ったが、非常に口惜しがっていた。
自分たちが見た日食は99.85%のだが、月の影にそろそろ太陽が欠け始めて、皆既日食になっていた時間は僅か2分30秒だった。昔、子供のころにガラスに煤を塗って太陽を見たように、ここでは黒いプラスチックを売っていたので、それで見た。太陽の輪郭にはっきりコロナが見えた。
何しろ、急に暗くなって、気温が5℃ほど下がり、犬がワオワオ吠えて、まさしく異変の有り様である。太古の昔、太陽が唯一のエネルギー源泉だったので、当然信仰の対象となっていた。その太陽が突然消えて(死んで=エジプト)しまうことは、太陽信仰を持つ人々にとって、どんなに怖いことだったろうか。
ルーマニアには、かれこれ1週間滞在した。地図で見て、ルーマニアの南はブルガリア、西はユーゴスラビア、西北はハンガリア、北東はウクライナで、東に黒海があって海岸はグルジアとなる。これだけの国名を上げたのは、まずウイーンに行き、そこから船に乗ってドナウ河を下ってブタペストからベオグラードへ南下する計画だったから。
ことろが、突如、コソボの戦争が始まって、ドナウ河に架かる橋が何本も落されて航行不能であることが判った。止むを得ず航空機使用となってしまったが、目的とするドナウ河の黒海に注ぐ手前のドナウデルタ地帯は、ペリカンやナントカ鷲とか、珍しい鳥の繁殖地として世界的に有名な観光地でもある。
そこに3,4日滞在した。物凄く暑いところで、蚊が多いから気をつけろとの友人の忠告で、日本から持参の蚊を防ぐ塗り薬などを塗っていたが、二日目から雨が降って気温が下がって寒いくらいだった。
風景は、何しろ自然のままで、沼地には葦が人間の背よりも高く生え茂り、陸地には柳やアカシヤとかが生えている広大デルタである。丘陵地帯に登ると景色が開けて、遠くの水辺にペリカンが群生するのが見える。それを双眼鏡で眺めるという観光の仕方である。
処どころに塔が立っており、本格派の人は明け方や夕方に登って観察する。緯度からいうと、北海道とあまり変わらない。鳥は夏の間はここで繁殖をして、冬になるとウクライナ方面に飛び立つ。写真も撮ったが、出来はあまりよくなかった。
デルタ地帯へ旅立ちするとき、友人のアドバイスは汚い格好で行った方がいいということだった。なるほど自然が満ち溢れているが、この辺りの水は汚い。それもその筈である。ドナウ河という河は、ヨーロッパ中を4000kmも流れて海に注ぐのだ。中国を旅した人も、揚子江の流れの汚さに、まず驚く。
比べれば、日本の河は綺麗である。流れが急で、流れる距離が短い。ヨーロッパの河、ライン河でもセーヌ河でも飛行機から眺めると、平野をあちらこちらと蛇行して流れている様がよく分かる。平たい大地をゆっくり流れるのだから、水は少しでも障害物のないところを探して進む。長い距離の間に汚れも運ぶ。
中国料理は、原則として火を通したものを食べる。フランス料理も同様である。食べ物は、煮ないと危ぶないからそうなる。水も生は飲めない。甚だしい例は、飲んだ水は湯冷ましだったが、中に入れた氷が生水の氷だったために、それに当たることがあるという。
ドナウデルタでの宿泊は、船を改造したホテルであった。夕食のメインデッシュは、なんと鯰(なまず)だった。白身の味は結構いけたが、泊まった三日間とも鯰料理だった。悪くはないが、髭をたらした顔がそのまま出てくるのは、まいった。
ドナウ河が経由する国境は、スイス、ドイツ、オーストリー、ハンガリア、ユーゴースラビア、ルーマニアと、以上七つの国を流れて4000kmだ。
ここで、ルーマニアの歴史にちょっと触れる。紀元97年から112年までローマ帝国を治めたトライアヌス皇帝のときに、ローマ帝国は最も広がったといわれる。
その時の国境がドナウ河であって、この国はローマ帝国の支配には入らなかった。国境周辺では、再三戦闘が繰り返された。その地はダキアと呼ばれる。(ローマの世界遺産、トライアヌス円柱に浅彫りされているダキアの戦い)兵士は戦いながら入植した。戦争のときは戦い、戦いのないときは家族と暮らした。
そして、次第にローマ化していった。ちょうど、元は漢を征服したが、漢の文化が高かったので漢に吸収されてしまったのとは反対に、ローマの文化が高いのでローマ化した。ルーマニアは元もと、ローマの一つの郡という意味で、ロマニアと名のっていた。その経緯から窺がえるのは言葉である。
ルーマニア語はイタリア語と非常によく似ている。自分は、イタリア語はできる(もとNHKイタリア語講座担当)ので、こちらが話すイタリア語は先方に通じる。しかし、向こうが言うことは分からないが、読むと分かる。この辺りは17世紀にオスマントルコにも征服されたこともあり、色々な言葉が入り乱れている。
ルーマニアの国の中央に山脈が走っているが、その山脈が切れる辺りにあるブラショフへ行ったときのこと、ここではドイツ語であった。オスマントルコが去ったあと、オーストリア・ハンガリア帝国時代にハプスブルグ家がこの地方を支配していた名残りである。
ところで、先に話したブラショフ市の日本センターのことだが、調べて見ると、建物の建設がはかばかしくない。現地の商社員の話では、人種が入り乱れて苦労しているせいか、人間がずるい。何か共同事業を約束しても、はじめは一所懸命やるが、そのうちに手を抜いたりして進行が滞り、お手上げになる。
「日本人は文句ばっかりいう」と、現地の人には評判がよくないが、この辺で仕事をうまくやるためには、人間同士の付きあいを深めてから取り掛からないと駄目のようだ。日本は、お金を先ず出して最初の方は日本がやって、あとはそっちでやってくれという仕方が多いが、これでは成功しない。
得になる話なら、向こうは黙っていても動くけど、文化などは短期的には何の得にもならないから、動かない。お金も必要だが、結局は人である。特にブラショフ市はブラショフ県の中にあり、県知事が選挙で代わっているので、何かと不都合になっているようだった。
日本では、民族が国のなかで同化している。また、国という行政単位もかなり古い時代から出来上がっているが、ヨーロッパあたりでは16世紀あたりから漸く国というものが出来てきている。それまではフランスでも南も北も、西も東も夫々で、言葉も習俗も人種も異なるという有り様であった。
ルーマニア中部は、同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントがあり、それが対立するほかに、ギリシャ正教があり、ルーマニア正教まである複雑さが存在する。このように言葉も習俗も宗教も異なる民族で構成される国は、交通や通信が発達すると、国という単位でなくていいという考えが出てくる。
経済の問題に置き換えると、分かりやすい。日産がルノーと合弁したし、長銀が外国資本に身売りした現在の状況は、金に国境がないことを証明したいる。金は利益を求めて動く。パソコンの部品は、今回の台中の大地震で明らかにされたが、世界中を相手に台湾から供給されていた。
16世紀から20世紀の前半辺りまでは、国くらいの単位で纏まっていることが都合がよかった。したがって、国民国家(Nation State)が力を持ったが、以降は国という枠組みがかえって邪魔になってきたといえる。現状で日本を見ると、原料を輸入して付加価値の高いものばかりを生産する。
すると、売れる先は先進国ばかりだ。買って貰おうと思えば先進国の要求を飲まなければならない。そこで市場開放しろとか、金融情報を開示しろとかの要求となる。原料輸入国からの要求も聞かなければならない。すなわち、国という枠組みは実質、無くなる。
どんな民族でも、差別なく、安全に暮らせる場所があれば、それがその民族の国となる。紀元前から異民族、多人種がひしめくルーマニア辺りでは、国とはそういう存在で、身を守るためには、こすからくもなるだろうというものだ。
わが国の諺に「江戸の仇を長崎で打つ」というのがある。これは日本という国が閉じているから、できるのである。国中の人が、必ず何処かで知り合っていて、一家族のような状態になっている。日本人同士では、必ずチェックがあり、また巡りめぐって江戸の仇も討てる環境にある。
日本人は同じ行動様式の中では、実にキチンとしているが、一旦タガが外れると、すなわち日本人が見ていないところでは、かなりひどい行動をする例を、私は数多く見ている。外国人は昔、南蛮や紅毛人とか言って、日本人と同じ人間とは思っていなかった。犬の前で裸になっても、恥ずかしくないのと同様だ。
人の目があると恥ずかしいという感覚を、外国へ出て行ったときも、日本にいるときと同じように持てて、普通の振舞いが礼儀作法にかなっていたら、さすが日本人は素晴らしいと、国際的に評価されるようになる。それが、国際化の一つの形ではないだろうか。
今、世界の情勢を見ていると、国家という枠組みの締め付けがだんだん強くなって、国民が自由に動けなくなっていると思う。例えば、スペインとフランスの国境にいるバスク人、コソボの人たち、ボスニア人、東ドイツから西ドイツにきた人たちなどが圧迫され、それらの民族は、いずれも不満を持っている。
国家として、如何にその不満の処理をしていくか、難しい問題であるが、多民族社会の経験から、爆発をさせないように苦心をしている。ルーマニアは他民族国家である上に、周りをスラブやドイツ、トルコなどの民族に押さえられて、これからどう変化していくのだろうか。
ルーマニアは産業の面では、豊富な資源をどう使うかが問題である。自分で使うほかに、資源を外国へ売ろうとしている。石油を黒海からトルコを経て地中海に運計画を持っているが、パイプラインがまだ出来ない。ロシア向けには、黒海海岸にある、能率の悪いバクーン製油所で精油したものを運び出している。日本がルーマニアの産業の、どの分野に投資できるか、課題が残されている。
ルーマニア編 終わり
「文責 三上 卓治」
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