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今日の(12/12)雑学大学は、大竹桂子さんの「女ふたりのモンゴルの旅」でした。大竹さんは毎年1回は登壇しているので、今回で20回目の講座を記録しました。モンゴルの子供たちに移動図書館を送ろうと思い立ち、こつこつとお金集めをする傍ら、今回は、その目的のための調査に赴いた9月の旅行の報告でした。

 

 

●私が、本年九月初旬にモンゴルに旅行することになったのは、一つの講義を受けたことがきっかけである。平成九年、「武蔵野スカーレット」という女性団体の役員をしていた関係で、市の催した「アジア理解講座」に役目柄、しぶしぶ出席をしたことがある。講師は成蹊大学広野良吉教授であった。

講義を聞いて私は、モンゴルに魅せられた。お話が素晴らしかったこともあるが、私自身、モンゴルについて余りにも知らなさ過ぎていたためである。自分の生活とはかけ離れた遠い国で、モンゴルの情報は少なく、見えにくく、存在にはいつも紗がかかっていた。これを機会に、モンゴルに関する日本の第一人者である広野先生のご指導を戴くことになり、私のモンゴルに対する目は、次第に開かれて行った。

広野先生から、『モンゴルの子供たちに移動図書館を贈ること』が大きな夢なんだ、と言われたことがある。それは広野先生の夢なのに、私は何時の間にか、自分の夢にしてしまった。そして、モンゴルと色々な関わりを持つことになっていった。

 

モンゴルとはどんな国であるのか。

国の広さは156万6,500平方キロメートルで、日本の約4倍である。人口は96年度の統計で235万3,300人。首都ウランバートルに全人口の4分1の約63万人が集中している。人種はモンゴル人が95%である。モンゴル語を公用語として話す。

1987年6月から経済体制改革に着手。88年度以降「改革・刷新」があらゆる分野で推進された。92年新憲法施行。社会主義という表現が消え、「モンゴル人民共和国」から「モンゴル国」に変更された。モンゴルはアジア圏なのに、70年間ソビエト支配の下にあり、ウランバートルなどはロシア色、生活にはヨーロッパ色が濃い。

広野先生は、「私は世界144ヵ国を旅しているが、モンゴリンアンほど我慢強い民族は知らない」、そして「とっても人柄が温かい」、「空気が澄んで、星もきれい、水も清らかで、川にはイトウもいる」「みんな目が良くて、千メートルも離れている羊の数を数えられる」「モンゴル人は自然とともに生きているの」といわれた。

「アジア理解講座」に参加した「むさしのスカーレット」の一同は、広野先生の講演にすっかり魅了されしまい、「一度モンゴルへ行ってみたいね」ということになった。そして、広野先生を囲む勉強会や、在日モンゴル人から話を聞いたり、お料理を教わったりしている中に、「むさしのスカーレット」の親善使節団が、98年夏、モンゴルを訪問することになったのである。

 

私はこの時期、体調を崩していて、この使節団には参加しなかった。しかし、一年後の今年9月、私に再び訪モンゴルの機会が訪れたのである。

モンゴルは本で調べてみると、1987年ソビエトが崩壊してから、政治体制も社会主義国から自由経済の国に変わっている。政治経済の急変に際しては、色々な混乱が発生した。自由経済の当然の結果、富める人と貧しい人の格差がひどくなった。正直者のモンゴル人にも、駆け引きしたり、人を出しぬいたりする者も出てきた。スリもいれば、泥棒もいるという。

街には酔っ払いも見かけるし、売春もあるという。タクシーは少ないが、白タクは多い。ウランバートルなどの都市部には、学校に行けない子供も多い。モンゴルの冬は厳しく、気温は−40℃くらいに下がる。それらの子供たちは、地域暖房のため道路の地下にスチーム管が走っているので、マンホールの蓋を開け、中で暮らしている。これはマンホールチルドレンと呼ばれている。

私がモンゴルへ行きたいと思ったのは、広野先生の志を継いで移動図書館を贈るにしても、実状はどうなのか、何処に話したらいいのか、知らないことばかりなので、まず調査をする必要があるということからであった。とは云うものの、たった一人では恐いし、心細い。どうしようか決断を迫られていたとき、たまたま知り合いの小田切幸子さんが、突然電話をしてきたのである。

彼女とは昨年、アメリカのテキサスの人をホームスティさせた際の仲間である。それほど親しい間柄でもなかったが、私がモンゴル行きを計画していることを知り、「じゃぁ、私も一緒に行きます」という。「えっ!そんな大事な話を一人で決めていいの?」とびっくりしていると、「夫は、私が行くといえば、何時でも許してくれるの」というではないか。

それでも、一晩おいて、ご主人に相談して幸子さんからは改めてOKの返事がきた。うれしかった。これでモンゴルに行ける!私にしてみれば、天使が空から舞い降りてきたような心境だった。独りだと、道中のガイド料、車代などすべて自分持ちの上、調べた限りでは治安だって、あまり良くない。ほんとに良かった。よかった。

 

さて、モンゴルへ行くことに決まっても、どう行ったらいいか分からない。そこで、幸子さんと二人で井の頭線駒場東大前から歩いて、マンションの一室にあるモンゴル大使館を訪問した。ところが、マンションで出会った女性は日本語が全然分からない。それならばと、英語堪能の幸子さんが、英語で話しかけても、これも通じない。モンゴル語しか駄目らしい。言葉が通じない国へ行くことの恐ろしさが、急に迫ってきた。

そのあとで、やっと大使館員の男性が出てきて、対応してくれた。モンゴルではナーダンの祭りで、訪問した7月10日は祝日で、業務は休みであるという。しかし、訪問の理由を話したら、詳しく説明してくれることになって、彼が暗い階段を先導して一階の部屋へ降りて行った。まだ恐ろしさが消えていなかったが、幸子さんが一緒で心強かった。そんなことも含めて、モンゴル行きの準備は少しづつ進んでいった。

 

準備の中で、問題は、お金をどうやって持って行くかであった。モンゴルの通貨はツウグリクというが、インフレが進行して1000ツゥグリクが米1ドルである。大使館員の説明でも治安はあまり良くない。かといってカードは使えないという。結局、米ドルを持参することにしたが、用心のためにインナーシャツを買って、ポケットにドルを入れたが、異常に膨らんで着心地が良くなかった。

モンゴルへは週2便、関西空港からウランバートル直行便がある。しかし、ベルギー製の中古の飛行機で、機材が不足しているので遅れる云々のアナウンスがあったりして心細かった。その後、どしゃぶりの大雨に見舞われて出発は遅れたが、どうやら欠航になることもなく、4時間後には無事ウランバートル空港に着陸した。

 

私のモンゴルの旅は、先に話したように「移動図書館」をモンゴルの子供たちに贈るについての、諸調査の目的であって、普通の観光旅行とは事情が異なる。宿泊先は、先ごろホームスティでお世話したモンゴルの医学留学生のオユナさんの宅である。ウランバートル空港にはオユナさんと叔父さんが出迎えてくれた。

オユナさんのアパートには、旭鷲山の両親も住んでいるとか。外観は立派とはいえず、階段なども明るくないが、セントラルヒーティングになっており、お湯もちゃんと出る。五階のオユナさんの部屋はとても綺麗にしてある。カラオケセット、テレビ、冷蔵庫など、文化的設備はすべて揃っている。

その生活ぶりから分かるように、オユナさん自身、医師でもあるし、お姉さんが眼科のドクターという、モンゴルにおけるエリート一族である。モンゴルというと、東洋の文化の国というイメージがあるのだが、ソビエトの支配を受けた70年の間に、かなりにヨーロッパの影響を受けている。夕食はヨーロッパ式の歓待であった。しかし、モンゴル民族食のポーズ(小さな肉まん)も美味しかった。

 

 

ここで、モンゴル訪問中に写した写真をお目にかけることにしたい。

(旦那さんの大竹隆一さんが、富士フィルム製のデジタル フォトビジョンを駆使して、大竹桂子さんの旅行中の写真をテレビに拡大して写す)

 

 

 

 

 

最初の写真は「モンゴル子供発展センター」。

所長のアズザヤさん。ゲル(移動式住居)に40人の子供を預かって、教育をしている。隣の女性は施設内で仕事をしている人。新聞は経済的事情から各家庭では取れない。見たい人はここで新聞を見ることができるようになっている。

このセンターは、ドイツと日本の協同作業で出来たのであるが、最近ドイツが引き上げてしまったので、経営的に苦しい状況という。所長のアズザヤさんは、子供たちに図書室を開こうと思っているが、出来ない。数冊の児童書が置いてあるだけだった。

私は、日本の出発にさいして友人から餞別を頂戴した。それに自分のお金を加えた200ドルを、子供たちに本を買って下さいとの言葉を添えて贈った。所長は、十月に新学期が始まるのから、それまでに本を揃えて子供たちに読ませます。有り難うございますと、とてもとても喜んでくれた。

 

同行の幸子さんがモンゴルへ行ったのは、モンゴルへは行ったことがなかったからという程度の理由であった。しかし、行動を共にしているうちに、すっかり私の趣旨に賛同してくれて、このとき沢山の衣類や、文房具を持参した。そのほとんどを、ここにプレゼントした。

次は、子供たちが勉強できるように作られたゲル。部屋に机や椅子が置かれて、庭には馬鈴薯などの畑もあった。

次の写真は、私が持参した児童用絵本。いずれも賞を戴いた優れた出版物である。日本語の解説がついているが、絵本だからどうにか判って貰えるだろう。

この本をお届したのが、ウランバートル チンゲルテイ第9幼稚園。園児の集合写真。みんな清潔で可愛い服装をしている。発展センターに衣類や文房具の大半を置いてきたので、ここには、鉛筆とわずかな本しか差し上げられなかった。園長さんは、小学校の入学準備にこの鉛筆を使いますといっていたが、大勢の子供たちに一人一本くらいしか行き渡らなかったかも知れないと思った。

子供たちの昼ご飯の、テーブルのセッテイングの写真。日本のようにお弁当スタイルではなく、茶碗、汁椀、お箸をきちんと子供たちが仕分けする。中にひときわ人懐っこい子がいた。両親と日本で生活して、最近モンゴルに帰ったらしい。写真を撮るときも、いち早く真ん中に構える。

 

翌日、バヤンゴビという砂漠へ。普通、モンゴルへ観光旅行する人は、南ゴビに向う。この場合はプロペラ式の航空機に乗るが、シーズンオフでもあって、他に客がいない。すると、二人で航空料金を負担せねばならず、そこで、車で行けるバヤンゴビとなった。

草原を車が100kmのスピードで疾走する。道はもちろん舗装道路ではなく、所どころに大きな陥没があり、車は大揺れに揺れる。私は車にすっかり酔ってしまった。

ゲルの群落。水場に集まる家畜の群れ。

羊の群れを先導する山羊。馬を駆りたてる子供たち。

バヤンゴビは草原、川、森、そして砂漠がある地帯。バヤンゴビは豊かなゴビという意味がある。その砂は、あくまでも細かく、さらさらとして美しい。

空は群青に。モンゴリアンブルーと呼んでいる。

燃えるような夕焼け。太陽が沈む。

ゲルには必ず犬がいる。見知らぬ人には吠えかかる。「犬を繋いで下さい」というのが、モンゴルの挨拶だそうな。色々な人たちが客として訪問している、ゲルの中。

ゲルの外は、綺麗な水が流れる川があり、果てしない草原があり、山がある。

 

羊の解体場面に突然出くわす。幸子さんは「ゲエッ」といって逃げ出したが、私は千載一遇のこのチャンス、最後まで見届けた。ちょうど腹腔の中から血をコップで掬い出しているところだった。モンゴルの人にとって、羊は財産であるから滅多に屠殺することはない。あとで判ったことだが、この羊は私たちの運転手が買ったものだった。きれいに洗った腸に、血は小麦粉と塩を混ぜて流し込み、ソーセージの原料となる。一匹30ドルとか。

 

 

ゲルは、柳の木を材料にして中に柱を立て、先端から八方に細い枝を渡して屋根を作る。屋根の中央には開閉式の空気抜き。雨が降ったら柱を登って蓋をする。覆いは羊の皮だが、冬はフエルト状の布地で更に覆う。出入り口は、必ず南に面している。トイレはゲルの中にはなく、ご用の際は「花を摘みに行く」という、その言葉のゆかしさ。

 

ゲルの奥さんたちの、馬の乳しぼり風景。馬の乳で作るお酒は、馬乳酒。やや

酸っぱい味がする。低アルコールだが、慣れない人が急に飲み過ぎるとお腹を壊す。

 

 

 

 

 次はウランバートル市内の観光。チベット仏教の「カンダン寺」。モンゴルの宗教はチベット仏教のほか、若い人たちはキリスト教など。

 

「カンダン寺」の伽藍は、中国風の建物である。1755年あたりからC(シン)の支配を受けてきた影響でもあろうか。門前の狛犬が愛くるしい。

ダンバダルジャーの日本人墓地。終戦直後に連行されて、亡くなった人たち。

墓碑銘には1946年―47年にかけての寒い時期に没とある。涙を禁じ得ない。

 

ウランバートルのデパート。

品物は以前に比べて増えているようだが、物価高のため一般市民はなかなか買い物ができない。なぜか、私たちの周りにモンゴル人がついてくる。郵便局へ行った時も同じ体験をした。気がついたら、私は必死でハンドバックを抱えていた。

子供図書館館長のミインジイドドルジさん。私は移動図書館を送るつもりで、草村礼子さんの独り芝居のキップを売ったり、不要品のオークションをしたり、チャリティダンスパーティをやったりして、お金を貯めている。その目的を館長さんに話したら、ちょうど同じ目的の世界会議が終わったところで、その青写真ができていると、非常に喜んでくれた。

また館長さんは帰国する前夜に、宿泊しているオユナさんの家まで挨拶にきて、私たち二人に絵をプレゼントしてくれた。モンゴル人の情の細かさを感じた夜だった。ダシトントクさんに会った。彼はモンゴルの児童文学の第一人者である。やはり、モンゴルの子供たちに本を読ませるために色々な活動をしておられ、とても魅力的な方である。

 

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帰りの空港で、広野先生にばったり会った。飛行機では、私たちはエコノミーだったが、先生は大使館員同行のファーストクラス。

「君、何してるの?」と聞かれた。これこれと説明すると、

「よかったね。よくやってくれた。これからは草の根の活動が必要なんだよ。ありがとう」

と誉めてもらった。

モンゴルの旅についてきてくれた幸子さん。私の、モンゴルの旅のまたとない相棒であった。心から感謝している。

終わり

(文責 三上卓治)

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